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第九章:青と深淵
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しおりを挟む「波折さん! こんにちは!」
ちょうどご飯が完成するころに、夕紀は帰ってきた。夕紀は波折をみるなりぱあっと顔を輝かせてにこにこと笑う。まさか兄が彼に失恋しているなんて夢にも思わないだろう。アイドルに憧れる少女そのものの夕紀の顔を見ていると、やっぱり波折は自分からは遠い存在なのかな、なんて思う。
昼食の時間は和やかに過ぎていった。ほとんどが夕紀と波折の会話によってその時間は埋められていたのだが。沙良は二人の会話に相槌を打つことがほとんどだった。……正直なところ、会話なんてしたいと思っていなかった。あそこまで鑓水の影をみせつけられた後だと、もう波折を見ているだけでも苦しかったから。
「美味しかったです、波折さん! 波折さんが一緒にすんでくれたらなぁ……!」
「それはさすがにだめだよ」
「えー! 残念ー!」
無邪気な夕紀の顔をみているとちくちくと心が痛む。夕紀は波折をあくまで憧れの対象としてしかみていない。……羨ましいと思った。自分も、波折に恋心なんて抱かないでただ憧れていただけなら……夕紀みたいに笑っていられたのに。
「そうだ、あのね、私、波折さんのためにつくったものがあるんです」
食事を終えるなり夕紀が席を立ち上がる。そのままキッチンへ行ってしまった夕紀の背中を、沙良はぼんやりと眺める。そういえば帰宅してきたとき、なにか持っていたなぁ……と思い出す。もしかしたら、友人の家でなにかつくっていたのだろうか。
夕紀は冷蔵庫から紙袋を取り出して、波折のもとへ持ってくる。そして、なかから何かを取り出して波折に差し出した。
「これ……今日波折さんが来るって言うから、友達の家でつくったんです! お口に合えば嬉しいんですけど……」
「――ッ」
それを見た瞬間、波折と沙良は顔を強ばらせた。夕紀が手に持っているのは、可愛らしく包装された――ガトーショコラだったのだ。一人用のサイズにカットしてあるそれを、とりあえず波折は受け取る。夕紀は笑顔で「お兄ちゃんの分も一応あるよ!」といって同じものを沙良にも渡してきた。
(ま、ま、まじかー夕紀ー! なんでよりによってチョコレートケーキ!)
「食べて食べて」とにこにこしながら言ってくる夕紀。邪気のない笑顔がたちが悪い。波折は笑顔で夕紀にお礼を言いながらも、冷や汗をかいていた。
「ま、まって、夕紀、実は波折先輩、チョコレートがにが」
「ありがとう、いただきます」
「ファッ!?」
夕紀には悪いがこれは止めるしかない、と沙良がフォローに入ろうとしたが――波折はさらっとそう言って包み紙をあけた。沙良が目を見開いて波折の方を見つめれば……波折の顔はわずかに引きつっていて、全く余裕がなさそうだ。夕紀のためにガトーショコラを食べるらしい。
きらきらとした目で夕紀が波折を見つめる。夕紀にはそんなつもりはないだろうが、その期待の眼差しはもはや脅迫に近い。波折はゆっくりとガトーショコラを口に運んでいき……ほんの少し、かじる。
「……美味しいですか!?」
「うん、美味しい。夕紀ちゃんがつくったんだよね、すごいね」
「よ、よかったあ……! はい、麻莉亜ちゃんにも手伝ってもらったんですけど、一生懸命つくりました!」
波折がひとくち、ひとくちとどんどんそれを食べてゆく。沙良はひやひやとしながらその様子を見つめていた。ちら、と夕紀に見つめられたため、沙良も一緒に食べてみる。外側のほうはふわ、としていて内側にいくにつれてしっとりとしてゆく感触、濃厚なチョコレートの味――店に並ぶケーキに負けないくらいに美味しい。夕紀、すごいぞ! と言ってあげたいところだが、残念ながら今このガトーショコラには恐怖しか覚えない。上の空で「美味しいよ」と言ってはあげたが、沙良の意識は完全に波折に向いていた。
かすかに、波折の息があがっている。このガトーショコラの味はなかなかに濃い。大量のチョコレートをつかったと思われるそれを食べて、波折が平気なはずがない。沙良は見守ることしかできなくて、波折の背中を軽く掴みながら心のなかで「がんばれ」と応援してやる。みごとなポーカーフェイスを気取りながら夕紀と会話をしている波折を、心底尊敬した。
「ごちそうさま、ありがとう、本当に美味しかったよ」
しばらくした後に、なんとか波折は完食した。ちらりとその表情を伺えば――かなり、キツそうだった。夕紀はとくに不思議に思っていないようだが、波折の容態に注意を払っていた沙良にとってはその様子は一目瞭然だ。
「夕紀! ありがと、またつくってよ! 夕紀のつくった違うお菓子も食べてみたいかな!」
「うん!」
もう波折の限界だ――それを悟った沙良は、夕紀にお礼を言うと、波折を引っ張って自分の部屋まで走っていった。
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