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第一章

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「ううん、……」



 落ち着かない。

 契はシャワーを浴びて、言われたとおりに自室で氷高を待っていた。期待半分、不安半分。どきどきしているのには変わりない。「待っています」感を出すのが恥ずかしくて、とりあえずベッドでごろごろとしているふりをしているが……時計の秒針が動く音に敏感になるほどに、緊張している。

 本当に、これから自分はオトナになってしまうのだろうか。ちょっと怖くなってきたから、やっぱり実践的なことはやらないほうがいいな。今から女の人にいやらしいことをやるなんて想像がつかないし、そんな気力がない。こんなにも緊張しているなかで触れたこともない他人を抱くなんて、きっと無理だ。

 だから、そういうことじゃなくて氷高に知識をもらう程度でいい。「そういう道具」の使い方とか、それくらいを教えてもらえれれば十分だ。

 とにかく契は、これから自分の身に起こるであろうことが、億劫で仕方なかった。いっそなかったことにしてくれないかな……なんて、そんなことを思っていた。



「――失礼します、契さま」

「あっ……! はっ、は、入れ!」



 氷高の声。

 ぎょっとしながらも、契は平静を装いながら返事をする。どきどきとしながら彼が中に入ってくる様子を凝視していれば――入ってきたのは、氷高だけ。女の人を連れている、というわけでもなかった。



「ひ、氷高ひとり?」

「ええ、そうです。私が契さまにお教えしようかと」

「ああ、そうか。うん、そう」



――よ、よ、よかったあ~!

 これから女の人とあれやそれややるわけじゃない。それが判明すれば、契は心から安心してばったりとベッドの上に大の字になった。

 氷高ひとりで教えてくれるなら、大丈夫。ちょっと恥ずかしいような気がするけれど、氷高なら怖くない。

 これから、氷高は何を教えてくれるのだろう。どきどきとしながら契はちらりと氷高を見つめた。



「……氷高?」



 見つめた、先には。

 氷高がネクタイを僅かに緩めていた。何をしているのだろう、机上で教えてくれるだけなのになぜそんなことをしているのだろう。不思議に思ってぽかんと契が氷高を見つめていると。



「もう、準備万端というわけですね、契さま。さすがです」

「……へ?」

「そんなふうにして、ベッドの上で無防備にして。その心意気は素敵ですが、もう少ししおらしいほうがいいかもしれません」

「……何言って、……えっ、ちょっと」



 にこ、と氷高が笑って、ベッドに手をかけてきた。そして――仰向けになる契の両脇に手をついて、見下ろしてきたのである。



「……な、なにしてるの?」

「私が直接お教えしようと」

「……え、ちょ、」



 この状況。その言葉。

 契のなかに、ひとつの疑惑が思い浮かんだ。

 氷高は、どうやって自分に「そういうこと」を教えてくれるのか。シャワーを浴びた後、ふたりきりで、直接教える、とは。まさか。まさか――

 す、と契は頭を落ち着けて。そして、ゆっくりと氷高を押し返し、体を起こす。慌ててはいけない。冷静に――そう自分に言い聞かせて。



「え、ちょっと待って、もしかして、俺と氷高でする、ってこと?」

「ええ、そうです。教科書をみて学ぶより、映像をみて学ぶより、そちらのほうが上達も早いかと」

「へっ――いやいやいやいや待て、ちょっと待って、おかしい、おかしいって。俺たち、男同士!」

「大丈夫です、男同士でもセックスをすることはできます」

「セッ――いや、俺別に氷高相手に興奮したりしないから! あのね、たっ……勃たないからな!? 勃たないからできないぞ!?」

「ご安心を。私は勃ちます」

「ファッ!?」



――何言ってるんだこいつ!

 冷静に……そんな自分への暗示はすぐに吹っ飛んだ。契は思い切り氷高を突き飛ばして、逃げるようにしてベッドの端っこに飛び退く。



「ばっ……バカいうな、おまえが勃ってどうすんだよ! そもそも俺は、自分より身長の高い男のことなんて抱けないし抱きたくないから!」

「私が契さまを抱くんですよ?」

「余計におかしい! 俺だぞ! この、俺! 鳴宮家の長男! 学校中の女の子にモテモテの俺! なんでそんな俺が、抱かれなくちゃいけないんだ!」

「契さま、落ち着いて。私の下心からこんなことを言っているのではありません。契さまのためを思って言っているんです」

「えっ」



 抱かれるのは自分、自分が女の子みたいにされる、それを想像した契は、ぎゃんぎゃんと騒いで氷高を非難する。

 しかし、氷高はいつものように真面目な顔をして。契の警戒心を煽らないようにそっと近づいて、優しく手を重ねて囁いた。



「抱かれる側の気持ちを知っていれば、自分が抱く側に立ったとき、適切な判断ができるはずです」

「……お、おお、」

「では――そうだとして……誰が貴方を抱くと言うのですか。貴方の素肌に触れることを赦されたのは、この私・氷高のみです。他の者にそんな資格など、絶対にありやしない」



 ……いや、その理屈はどうなんだ?

 氷高の言っている言葉はどう考えてもおかしい……それは、契にも理解ができた。しかし。冗談など絶対に言わない彼が、そんなふうに真面目に言ってくると――彼は本気で自分のことを思って言ってくれているんだな、と思ってしまう。

 それから。氷高の言うとおりだ。この鳴宮 契に触れていいのは、氷高のみ。幼少の頃から側にいてくれて、全てを理解してくれた彼だけ。今、知っている人間全てを頭の中に浮かべても、セックスをしてみたいと思えるような人間は誰一人として思い浮かばなかった。自分のような完璧人間にふさわしい者など、存在しない。強いてあげるなら――そう、氷高だけ。セックスをしたいかしたくないかということは置いておいて、契のなかで自分と同じランクにいる人間といえば氷高だけだった。

 氷高は、とにかく頭がいい。もしも鳴宮家に関わっていなければ、今頃トップの大学に入って活躍しているに違いない、そのくらい優秀な人間。それから、顔もいい。テレビに出てくる俳優をみても、契はかっこいいと思ったことがない。氷高よりも、下にしか思えなかったからだ。そう――契にとって、氷高は自分の知り得る人間のなかで一番の存在。唯一、自分の隣に立ってもいいと認められる人間。



「――いや、でもだからって、シちゃうもんなの? この俺が、女の子にされちゃうの?」

「違いますよ。私が貴方を女にするのではなく。貴方が私を男にするんです」

「え、」



 氷高の言葉にどうしてもうなずけない、そんな契の心を揺さぶったのは。自分が、氷高を男にできるのだという、優越感。きっと誰もが憧れる、そんな彼を――自分だけが男にできる。氷高に、自分だけが抱かれることができる――そんな優越感。

 本当に? 本当に、シちゃうの?

 どくん、どくん、と心臓が激しく高鳴っている。しかしその高鳴りは、緊張でもなく、恐怖でもなく――高揚感。
 
 契は氷高のネクタイを引っ張り、引き寄せる。そして、はっとした表情をした氷高に向かってにたりと笑ってやると、言い放った。



「光栄に思え、氷高。特別に、俺を抱く許可を与える」
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