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第5章 束の間の休息(5日目)

5ー2 生来の才能

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 お母さんにわかってほしかった。
『アディティ。あなたは頑張って立派な人になるかもしれないけど、その時隣には立派な夫がいるのよ』
 勉学に励んだ後の未来にも料理の腕は必要だというのだ。

 三人姉妹の長女で小学生の頃から当たり前に料理を分担してきた。
 だがいくらやっても上手くならない。最近では下の妹にすら抜かれ始めた。
 アディティには料理の才能がなかった。


 母は勉強への逃げで真面目に取り組んでいないと思ったらしい。くどくどと何度も説教し、台所で何度も事細かに教えてくれた。全く上達しなかった。
 去年状況が変わった。
 おばが遊びに来て一緒に台所に入った後で、母にアディティは一生懸命やっているとかばってくれたらしい。いとこのお姉さんたちや妹たちと作業する中ひとりだけレベル違いなのも見て、やっと悟ってくれた。

 お母さんがわかってくれたら楽になる。
 思っていたアディティの想像を絶する方向に事はすっ飛んだ。
『ごめんね。ちゃんと生んであげられなくて』 
 アディティがお腹にいた時寺院で猿を追い払った。それでハヌマーン様の罰を受けたのでは? と泣いて謝った。
 おばの赤ん坊ーいとこのお姉さんだーがいたのだから猿を遠ざけるのは当然だ。だが母は腹に頭か心臓を産み忘れてきたかのように嘆き、彼女自身を責め、決死の勢いでハヌマーン寺院に参拝するようになった。
 料理が苦手というのはそこまでのことなのか。
(わたしは人間として駄目なんだろうか)


 一昨日、スティーブンを責めるルチアーノがチャパティを焼くのが苦手な女子を話題に出した。おそらく自分のことだ。
『これはちょっと……』
 と他の女子から食堂に出すのは控えて女子用のかごに分けられるのは、ほとんどが自分のものだった。
 ルチアーノの顔も見たくないと思った。
 だが、次に台所に入る時あえて教えてくれと頼んだ。意外にも、彼の教え方は実験のようでわかりやすかった。母がいかに美味しくなるかを重視しているのとは違い正確さや再現性を優先しているように思った。

 変な話だが、逆に、
(お母さんと一緒だ)
 そう感じた。
 施設育ちのルチアーノが焼いたチャパティの枚数は自分とは比べ物にならないだろう。わずかな機会を、彼は実験の如く行為と結果を観察して技量を上げたのだ。面倒を見てくれたというお姉さんたちの幸福を願って。
 施設支持者に美味しく食べてもらおうというのとは違うが、大切な人の幸せのためだ。
 ナイナも似ている。
 彼女はー元々可愛いのにーなおお洒落の技量を上げることに熱心だが、勉強の内容には興味がない。
 幾何の問題が解けた喜びに浸ったり、化学式や構造式から物質の性質を読み取り、真空を回る素粒子から全ての物質が立ち昇る神秘、神様の奇跡的な創造を思い幸せな気持ちになることもないだろう。
 ナラヤンのように聖仙リシたちの遺したものを学び、人間と世界を理解していく喜びを隠せずあふれさせることもない。
 ナイナの婚約者は先日かなりいい大学を卒業した。
 彼女は「私の神様」に釣り合う大学に行けるよう必死で勉学に励んでいる。興味のないものに努力を注ぐのは、自分が毎日長時間料理に励むようなものだ。
 婚約者への愛情でそれが出来るナイナには尊敬以外の何もない。

(シュルティ……)
 アディティが薬剤師になりたいと思ったのは化学が好きで、それを使って病気の人、苦しんでいる人を助けられるからだ。
 もう一つ。世の中の変化は激しく大人になった時どの仕事が駄目になっているのかわからないが薬を必要としない社会は当分来ない。食いっぱぐれないのも理由だ。
(わたしは、わたしのことばかり考えている)

 
 シャキーラが昨日から肉に下味をつけて置いていたのは知っていた。
 翌朝自分が死んでいたらどうするんだろうと思った。味付きのチキンは玉ねぎとトマトベースで煮込めば普通に美味しいカレーになるだろうー自分が手を出さなければーし困りはしない。だから黙って見ていたが。
「ニハーリーマサラには足りないスパイスがあったし、ヨーグルトもちょっと向いてないタイプ」
 台所でシャキーラは言い訳めいてつぶやいた。
 出てきたニハーリーは胸にしみる優しいおいしさで、とろけた軟骨を頬張りながら体全体が生き返るようにアディティは感じた。
 それは、校外学習バスに乗った三十八人のクラスメートのうちもう半分以上が殺されてしまっても、生きて鼓動を鳴らす自分の命に水を注ぎ育てるようでもあった。
(……)


『体調崩している人たちもいるみたいだから。栄養のあるものを作りたいって思うの』
 シャキーラはこれも言った。ちなみに今夜はビリヤニを振る舞うらしい。
(バレてたのかな。他は誰だろう)
 実は昨日から風邪気味だ。咳こそあまり出ないが頭痛がして体全体がだるい。広間や食堂と出歩く気もしない。
 アディティは不調を隠している。
 この状況下、風邪で弱っている人間など格好の獲物だ。
 鎧で身を隠すように生き延びることだけに必死になっていた自分に対し、シャキーラは思いやりを持って回りを見て、日をまたいで手間のかかるニハーリーとクルチャを提供した。

 それでも。
(気分悪いし。少し台所行くの止めようかな)
 昨日ヴィノードはほとんど自分たちが作った料理を食べなかった。レトルトや瓶詰めで済ませていたがバーラムがそれは辛いと悲鳴をあげていたはずだ。
 自分が抜けたら彼はノンベジ食堂の料理を食べられるだろうか。
 料理が下手だから忌避されているのか、人間の料理だから拒否しているのか。どちらが人間として辛いだろう。


 ある朝、父がたまたま方向が同じだと自分のリクシャーに乗せてくれた。
『お父さん。わたしの料理どう思う?』
 お母さんのご飯みたいにおいしくはないでしょ。尋ねる自分に、
『微妙、かな』
 まずくはないぞと運転席から父はつけ加えた。
 そうだ! だ!
 アディティは自分の料理にぴったりの言葉をやっと見つけた。
 食べられなくはないし、まずいとも言えない。だがおいしくならない。
 シャキーラのように、母のようにその日の体調や気候に合わせて調整するレベルには全くいきつかない。
『でも食べられる。何も心配するこっちゃない』
『でもわたし、お母さんの料理大好きなの!』
 だって美味しいだもん。叫んだ声が風に飛び、ドゥパタもなびく。
『将来わたしに子どもが出来て、学校から帰ってお腹が空いて出てくるのがわたしのお料理? そんなのかわいそうだよ!』
 想像するほどみじめで下唇を噛む。
『……おれが母さんの料理が好きなのは、大事な人の料理だからでもあるぞ。お前を大切に思ってくれる人ならきっとお前の飯が好きになる』
(それ。可哀想ってこと?)
 リクシャーの後部座席から眺める道路の光景も閉じ込められている今では懐かしく思える。


 マリアもシャキーラも部屋に戻って来ない。ずっと閉じこもっているのも逆に目立つ。この状況では何を理由に非難され票を集めないとも限らない。
 アディティは背を伸ばし、シャキシャキと歩いて中央棟へ向かった。
 ソファーにはナラヤンとアッバースが並んで座っていた。
「私思いついたんだけど」
 テーブル上のルール類を確認する。
「聖者の祝福も武士の守りもなくて人狼が誰にも手を掛けなかった理由」
 配役表を示す。
「人狼は象を襲撃しようとした」



<注>
・ニハーリーマサラ ニハーリー用のミックススパイス。
 一般にマサラ、ミックススパイスは空炒りしたホールスパイスやパウダースパイスを合わせて作る。料理によっては市販品もある。
・リクシャー オート三輪。タクシーのように使われる庶民の足。
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