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 その表情は憂いに似た儚さを放っていて、普段の雰囲気とは似ても似つかない。
「まあ、そうですね。俺としても意外でした」
 俯きがちにそう答えた。
 俺は間違った事をしたと思ってはいない。クラスに蟠る悪を断罪し、救いの手を差し伸べる事が出来たはずなのだ。それは単に特別候補生としての義務感では無く、自身の意思として。
「クラスの担任にこの問題を報告してはいたんです。でもね、先生。この学校の対応は杜撰過ぎましたよ」
 対する綾崎先生はさもありなんといった感じで、瞼を閉じながら紅茶を一口飲んだ。テーブルから硬質な音が響いたと思えば、先生は目配せして続きを促す。
「俺が見た所、クラス横の空き教室に虐めの当人である女子生徒三人を呼び出して、注意しただけと見受けました。恐らく事の重大さを全く見抜けていなかったのでしょう」
「ちゃんと見ているねー。夜崎くんは」
 先生の声音は挑戦的にも聞こえて、表情は蠱惑的なものへと変わる。
「夜崎くん自身もとっくに感じているだろうけど、この学校どころか、私立学校の対応って大体そんな感じなのよね」
 俺はニヒルな笑みを浮かべ、
「要は"会社"って事ですよね」
「そ。だからほんの小さな問題も学校の評判、評価に関わる一大事。多分、今回の件も煙に巻かれるんじゃないかしら」
 その様子は何処か楽しげにも見えて、少々不気味だ。
「その事実を知っていながら、見過ごす大人というのはどうなんです?」
「しょうがないじゃないー。私に権限ないもの」
 綾崎先生は伸びをしながら戯けて見せたが、ふと表情がまた生真面目なものへと変わると、
「だからこそ、特別候補生の出番なんだよ」
「それはどういう…」
 大の大人が解決出来ない問題を高校生小坊主が解決出来るとでもいうのか。逆も然りとも言えるんだろうが、いくら何でも投げやりすぎやしないか?
 俺は言葉の意図を視線で問う。
「特別候補生っていう枠組み自体、かれこれ五年程前から設けているんだけどね。大したアクションが起きないどころか、候補生自身が退学になる事例だって起きた事もあったのよ。だから、来年をもって制度を廃止しようと思っていたの」
 特別候補生が退学になる事例というのはつまり"直接手を出した"ものだろう。
「そんな時、君みたいな問題児が突然降ってきて、入学早々アクションを起こした」
 綾崎先生は小さく俺を指差しながら、微笑した。
 呼応するように、俺も陰湿な笑いを浮かべて答えた。
「問題児では無く、異端児です」
「それ。そういう所だよ。君がやった弱者を救う方法は過激でリスクがない訳でも無かった。誰も死体に見せかけた人形を置くなんて思いつかないよ。でも、夜崎くんは確かに行動を起こした。それも他人の利益の為に」
 やはり綾崎先生はどうも見抜けない。甘ったるくて柔らかい印象を持つのに、その本心はまるで濃霧の様に見通せない。
 居心地悪く感じて、俺は紅茶を一杯やった。
 紅茶というのは豊かな香りを伴って心身を和らげる筈だが、今は苦味だけが喉の奥に張り付いている。
「さっきから夜崎夜崎って、俺一人でやった訳ではありませんよ。錦織と…そして如月さん自身が協力してくれた結果です」
「結果としてはそうみたいよね。でも、あの二人について今は関係ない」
 話の矛先が見えてこないのと同時に、あの瞳は間違いなく俺を試している。
「とにもかくにも、君は早過ぎた」
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