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「あの…今度はどういったご用件ですか先生…」

 場の雰囲気を少しでもマイルドにしようと、砂糖の如く柔らかな口調で参入する。さっき自ら苦い存在だと自負したが、それは冗談だ。

「全くぅ~若い女の人にそんな言葉使っちゃ駄目よ錦織ちゃん。…それはそうと夜崎くん。君にも同じような事が言えるから注意してよ。後々面倒言われちゃうのは私なんだから」

 綾崎先生は困り果てた口調で言った。一ミリも怖くないお叱り。

「まあ…放送の件は途中で切られたので無事故も同然ですよ。にしても何故、綾崎先生が面倒言われるのでしょうか?」

 俺は当然の疑問を綾崎先生に投げかける。

 綾崎先生は可愛げなため息をぽしょりと漏らすと、まだ気づいてないのかという面持ちで答えた。

「それは私、綾崎智紗が君たち特別候補生の担当教師だからだよ」

 ほーん。

 別段、驚くことはなかった。ただいじくり倒すだけに先生が生徒に構ってくれるはずがなく、何らかの義務が先生には付きまとっているのだろうと、以前から感じてはいた。

 美人な先生が担当に着くのは幸運な事だと思う。しかしながら、面倒ごとをふっかけられるのは御免である。俺は平然を装いながら、戦略的撤退を試みた。

「それは朗報。願ったり叶ったりです。それじゃあ、僕はこの後用事があるので失礼します」

 先生が次の事項を告げるのを待たずに、俺はさっさ歩き出す。すると、背面越しに綾崎先生の茶化した声が降りかかる。

「あれ~いいのかなぁ?せっかく特別候補生の優遇制度として『お食事どこでも無料券』をあげようと思ったのになぁ~。うーん残念っ」

 ”無料”というワードを聞いて、現状平民である俺は身体をピタリッと停止させてしまった。

 お食事無料券だと?そんな子供騙しに引っかかる年齢ではない。

 興味半分首を巡らすと、綾崎先生がそのお食事券とやらを複数枚ひらひらさせていた。

「…」

 ふーむ。思えば小学生時代お小遣いゼロ円。現在、お小遣い千円の俺にとって決して悪くない話か…。いや、待て待て無料ほど上手い話はない。多分裏が…ある…。

 内心とは裏腹に俺は道を引き返していた。

「…まあ、別に必要ないんですけど、無料という事なら有難く頂かないこともないですよ」

 正直に貰えば良いものの、高貴じみた謎のプライドがそれを許さなかった。この発言が余計だったかは分からないが、追加で条件が課せられた。

「但し月に三枚配布で、使用する場合は必ず二人以上の人数で入らなければならないという条件付きです。そして枚数は錦織さんと共有型ということもお忘れなく」

 条件が厳しい上に、今のところ友達がいないので実質俺は一枚も使えない。

「何で私まで巻き込まれなくてはならないんですか」

 錦織は怪訝そうな表情を浮かべる。

 一人ならまだしも二人以上にならないと意味をなさないなんて、使えたもんじゃない。この話は無しだ。

「実質僕には一枚も使えない…後々、請求が来られても困るからやめておきます」

「券事態は完全無料だよー。もっと言うと豊洲なんて今じゃ富裕層が暮らす街だからね~。学生が入れる店なんて限られてくるでしょう?加えて、この券は場所指定がないから、高級料理店まで入れる利点つき」

 どっかの悪質広告サイトにでも飛びそうなぐらいのメリットだが、さて…どうするか。

 俺がウーンと唸っていると、先程一言だけ発っした錦織が意外な事を言い出す。

「枚数共有しなければならない所が少々気持ち悪いですが、月に三枚はかなり多いと思います。では有難く受け取らせて頂きます」

 手のひら返しされたかのような、唐突すぎる錦織の発言。

「ちょっと待てっ、こんな上手い話、怪しいとは思わないのか?」

 先走る状況に必死で抵抗したが、それも無駄なようで…、

「大丈夫ですよ。安心して下さい。私が全部使ってあげますから」

 錦織は淀みない笑顔を見せながら、優しい口調で言う。

 この強欲女が…。まあ、いいだろう。貰い物は貰うだけ得をする。俺も必死で人捕まえて消費してやるからなその券。

「最後に一つ。夜崎くんも錦織さんもお昼まだでしょ?なんなら二人で今日早速行ってきちゃいなよ~」

 うりうり~といじってくる綾崎先生はなんともノリのいい学生のようである。錦織は間髪入れずに答えた。

「嫌です」

 知ってた。それを受けた先生は、

「夜崎くん。これから学校内を散策するつもりだったんでしょ?なんならそれも合わせて二人で行動することっ」

 知ってた。こうなればこうする作戦か。というか何で散策しようとしてた事ばれてんの?

 錦織も流石にこれは相手が悪いと察したのか、「はぁ…」というため息をついて最後の質問をかける。

「拒否したら…無料券の権限すら抹消されるのですよね?」

「流石、錦織さん。よくご存じで」

 なんだこの闇取引みたいな会話は。拒否したらもしかして抹消するどころか、綾崎智紗を囲う会に連行されるんじゃないの?

 一頻りの会話はここで途切れ、綾崎先生と別れた。空虚なエレベーターホールには女子生徒と男子生徒が一人ずつの二人っきり。実に気まずい…。

「はぁ…。これじゃ、ラッキーなのかアンラッキーなのか微妙なところですね」

 ため息混じりに俺が敬語で呟くと錦織は、

「そうですね…。特に貴方が介入している時点でアンラッキーです」

 瞼を伏せながらそう断言する錦織。不満気味に俺も会話を続ける。

「あのですね…」

「冗談です。では早く参りましょう。日が暮れたら嫌ですし」

 またしても素早い切り返しを魅せる錦織。

 流暢に会話が続かないのは何故だろうか。まるで二面性でもあるかのような感情の使い方。

 俺はこの子の事をよく知らないし、これから関わっていくかも分からなかった。
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