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エピソード2 萌
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「武井くん、食べないとエネルギーにならないから」
私は校舎の裏で項垂れて座り込んでいる武井くんに軽食の差し入れを持ってきた。
陸上部のエース 武井陽太くん。同級生で、最後の大会に向けて、練習を頑張ってる。
夏休みに入ってすぐに、陸上部は学校での合宿をしている。
私は料理部で、合宿での料理のお手伝いをしていた。
梅干しのおにぎりとスポーツドリンクを持って、私は武井くんに渡しにきた。
大会前で、武井くんはピリピリしてるってみんなが話してた。2年の冬に怪我した膝が痛みだしてるようで、思うように記録が出せてないようだ。
ピリピリした武井くんには、みんなが近寄りたくないみたい。
「武井くん」と私が声をかけると、ゆっくりと頭をあげた武井くんが「誰?」と冷たく言い放った。
だよね、と私は苦笑した。
私は武井くんをよく知ってる。
一年生のときから、武井くんに片思いしてるから。
ずっと見てきた。
武井くんは私を知らない。
私は学校内で目をひくような人間じゃないから。
大人しくて、目立たなくて。気づかれない。
クラスも同じになったことないし。
「3Cの春川です。料理部の有志でお手伝いに」
「ああ。メシね。いらねえ」
「でも」
「そういう気分じゃねえの。マジで。あっち行ってくんねえ?」
武井くんが私を睨んでくる。
怖い。でも……。食べてもらいたい。
食べてエネルギーを入れれば、すこしは記録だって変わるはず。
「食べたほうがいいと思う」
「いらねえんだよ!」
武井くんが、差し出したおにぎりとペットボトルを勢いよく振り払った。
おにぎりは地面に落ちて、ペットボトルはごろごろと転がった。
「食べないと元気になれないから。いい結果も出ないから」
「うざいんだよ、そういうの。いらねえ」
「武井くんに何と言われようとも、食べてもらいたいの!」
「なんだよ、それ」
武井くんは立ち上がると、じりじりと私を壁へと無言で追い詰めていく。
壁にドンっと背中がつくと、武井くんの顔が間近に迫った。
「俺が食べるためには何でもすると?」
「元気になってもらいたから」
「へえ。こういうこともいいわけ?」
武井くんががしっと私の胸を強く掴んできた。
「……ぃ」と声を漏らすと、私は目を閉じた。
「俺、マジで。イラついてんだよ。春川がヤラせてくれんなら、おにぎり、食べてやってもいいぜ」
武井くんの唇が重ねってきた。
荒々しくて、私は涙がこぼれた。
怖い。どうして。
私はただ、武井くんが元気になってほしいだけなのに。
風のように走ってほしいだけ。
これで武井くんのイライラが落ち着くなら……。私は我慢できる。
「……馬鹿じゃねえの」と武井くんが言って、舌打ちをした。
「え?」
「おにぎり一つに、体を差し出してんじゃねえよ」
「食べてほしいから。武井くん、頑張ってるから」
「頑張ってねえよ。こういうのは頑張ってるうちに入らねえ。結果が出ないからって、人に八つ当たりしてる時点でダメだろ」
武井くんが私から離れると、地面に落ちているおにぎりとペットボトルを拾った。
「春川、悪かった。怖い思いさせて。それと、おにぎり、サンキュ」
私に振り返らずに、武井くんが歩き出した。
私が校庭に戻ると、武井くんはすでに短距離の記録をとりはじめてた。
「萌、あいつに何したの?」
「え? なにも。おにぎりを持っていっただけ」
陸上部のマネをしている凛が、私に近づいて問いかけてきた。
「うそ。何かあったでしょ? あいつ、そう簡単に立ち直るヤツじゃないんだよ。2,3時間は一人で精神統一してくるのに」
『おお、いいタイムじゃん』という声が聞こえてきた。
武井くんがコーチに肩を叩かれて、嬉しそうに口を緩めているのが見えた。
「私は何もしてないよ」
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
私は朝の街を速足で突き進んでいく。
わき目も降らず、駅に向かって歩いた。
まわりなんて見ている余裕ない。
どうしよう。
私、浮気した。
初めて。旦那以外の人とエッチを。
昨日は同窓会だった。
旦那が家にいるし、主婦だし。遅くまで遊んじゃいけないって思って、一次会で終わりにしたはずだったのに。
『春川、帰んの?』
『旦那、待ってるから』
『そっか。俺も仕事早いから、一緒に駅に行こう』
高校のときに片思いしていた武井くんに話しかけられた。
嬉しかった。駅まで話して、話したりなくて。
武井くんの誘いのまま、駅前のバーで一緒に呑んだ。
酔った勢いもあって、高校のときに片思いしていたことを伝えた。
伝えなければ良かった?
言わなければ、朝帰りにはならなかった?
わからない。
酔った勢いでの過ち。
たった一回。
そう、たった一回だけだから。
私は自分に言い聞かせる。正当化したい。
過ちじゃない。大丈夫、って思いたい。
武井くんとの時間は、すごく幸せだった。
楽しかった。
心が苦しいよ。
好きな気持ちを心の奥にしまい込んでただけだった。
もう会えないから。釣り合わないから。
だから好きな気持ちを隠して、旦那と大学生のときに付き合った。
武井くんは陸上部のエースだった。格好良くて、頭も良くて。学校中の人気者だった。
親友の杏の彼氏も人気者で、陰で女子たちが順位をよくつけてたくらい。
武井くんの隣を歩く女子は、いつも綺麗で聡明な人たちばかり。
私は頭は悪いし、顔だって。
だから遠くでしか、見れなかった。
陸上の部活をしている武井くんを校舎からこっそり、と。
29歳になった武井くんはさらに恰好よくなってた。
同窓会のときも、やっぱり高校の時と同じで。遠くで見つめてただけ。
声なんて恐れ多くてかけられなかった。
それが帰り道で。
嬉しかったよ。幸せだったよ。
だからかな。反動が大きい。
罪悪感で、胸がどうにかなりそうだった。
私は校舎の裏で項垂れて座り込んでいる武井くんに軽食の差し入れを持ってきた。
陸上部のエース 武井陽太くん。同級生で、最後の大会に向けて、練習を頑張ってる。
夏休みに入ってすぐに、陸上部は学校での合宿をしている。
私は料理部で、合宿での料理のお手伝いをしていた。
梅干しのおにぎりとスポーツドリンクを持って、私は武井くんに渡しにきた。
大会前で、武井くんはピリピリしてるってみんなが話してた。2年の冬に怪我した膝が痛みだしてるようで、思うように記録が出せてないようだ。
ピリピリした武井くんには、みんなが近寄りたくないみたい。
「武井くん」と私が声をかけると、ゆっくりと頭をあげた武井くんが「誰?」と冷たく言い放った。
だよね、と私は苦笑した。
私は武井くんをよく知ってる。
一年生のときから、武井くんに片思いしてるから。
ずっと見てきた。
武井くんは私を知らない。
私は学校内で目をひくような人間じゃないから。
大人しくて、目立たなくて。気づかれない。
クラスも同じになったことないし。
「3Cの春川です。料理部の有志でお手伝いに」
「ああ。メシね。いらねえ」
「でも」
「そういう気分じゃねえの。マジで。あっち行ってくんねえ?」
武井くんが私を睨んでくる。
怖い。でも……。食べてもらいたい。
食べてエネルギーを入れれば、すこしは記録だって変わるはず。
「食べたほうがいいと思う」
「いらねえんだよ!」
武井くんが、差し出したおにぎりとペットボトルを勢いよく振り払った。
おにぎりは地面に落ちて、ペットボトルはごろごろと転がった。
「食べないと元気になれないから。いい結果も出ないから」
「うざいんだよ、そういうの。いらねえ」
「武井くんに何と言われようとも、食べてもらいたいの!」
「なんだよ、それ」
武井くんは立ち上がると、じりじりと私を壁へと無言で追い詰めていく。
壁にドンっと背中がつくと、武井くんの顔が間近に迫った。
「俺が食べるためには何でもすると?」
「元気になってもらいたから」
「へえ。こういうこともいいわけ?」
武井くんががしっと私の胸を強く掴んできた。
「……ぃ」と声を漏らすと、私は目を閉じた。
「俺、マジで。イラついてんだよ。春川がヤラせてくれんなら、おにぎり、食べてやってもいいぜ」
武井くんの唇が重ねってきた。
荒々しくて、私は涙がこぼれた。
怖い。どうして。
私はただ、武井くんが元気になってほしいだけなのに。
風のように走ってほしいだけ。
これで武井くんのイライラが落ち着くなら……。私は我慢できる。
「……馬鹿じゃねえの」と武井くんが言って、舌打ちをした。
「え?」
「おにぎり一つに、体を差し出してんじゃねえよ」
「食べてほしいから。武井くん、頑張ってるから」
「頑張ってねえよ。こういうのは頑張ってるうちに入らねえ。結果が出ないからって、人に八つ当たりしてる時点でダメだろ」
武井くんが私から離れると、地面に落ちているおにぎりとペットボトルを拾った。
「春川、悪かった。怖い思いさせて。それと、おにぎり、サンキュ」
私に振り返らずに、武井くんが歩き出した。
私が校庭に戻ると、武井くんはすでに短距離の記録をとりはじめてた。
「萌、あいつに何したの?」
「え? なにも。おにぎりを持っていっただけ」
陸上部のマネをしている凛が、私に近づいて問いかけてきた。
「うそ。何かあったでしょ? あいつ、そう簡単に立ち直るヤツじゃないんだよ。2,3時間は一人で精神統一してくるのに」
『おお、いいタイムじゃん』という声が聞こえてきた。
武井くんがコーチに肩を叩かれて、嬉しそうに口を緩めているのが見えた。
「私は何もしてないよ」
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
私は朝の街を速足で突き進んでいく。
わき目も降らず、駅に向かって歩いた。
まわりなんて見ている余裕ない。
どうしよう。
私、浮気した。
初めて。旦那以外の人とエッチを。
昨日は同窓会だった。
旦那が家にいるし、主婦だし。遅くまで遊んじゃいけないって思って、一次会で終わりにしたはずだったのに。
『春川、帰んの?』
『旦那、待ってるから』
『そっか。俺も仕事早いから、一緒に駅に行こう』
高校のときに片思いしていた武井くんに話しかけられた。
嬉しかった。駅まで話して、話したりなくて。
武井くんの誘いのまま、駅前のバーで一緒に呑んだ。
酔った勢いもあって、高校のときに片思いしていたことを伝えた。
伝えなければ良かった?
言わなければ、朝帰りにはならなかった?
わからない。
酔った勢いでの過ち。
たった一回。
そう、たった一回だけだから。
私は自分に言い聞かせる。正当化したい。
過ちじゃない。大丈夫、って思いたい。
武井くんとの時間は、すごく幸せだった。
楽しかった。
心が苦しいよ。
好きな気持ちを心の奥にしまい込んでただけだった。
もう会えないから。釣り合わないから。
だから好きな気持ちを隠して、旦那と大学生のときに付き合った。
武井くんは陸上部のエースだった。格好良くて、頭も良くて。学校中の人気者だった。
親友の杏の彼氏も人気者で、陰で女子たちが順位をよくつけてたくらい。
武井くんの隣を歩く女子は、いつも綺麗で聡明な人たちばかり。
私は頭は悪いし、顔だって。
だから遠くでしか、見れなかった。
陸上の部活をしている武井くんを校舎からこっそり、と。
29歳になった武井くんはさらに恰好よくなってた。
同窓会のときも、やっぱり高校の時と同じで。遠くで見つめてただけ。
声なんて恐れ多くてかけられなかった。
それが帰り道で。
嬉しかったよ。幸せだったよ。
だからかな。反動が大きい。
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