昔の恋を忘れましょう

ひなた翠

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エピソード1 杏

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 仕事を終えて家に帰ってくると、玄関には朝陽の靴があった。

 あ、帰ってきてる。
 昨日の電話の通り、帰ってきてた。

 朝陽との電話を終えてから、頭がモヤモヤしてた。夜もあまり眠れなくて。
 朝陽は水樹咲奈と付き合ってる……んだよね?

「ただいま」と恐る恐る声を出し、室内に入っていく。
 が、朝陽は室内にはいなかった。

 居間に朝陽の荷物が置いてあるだけだった。

 朝陽はベランダに出て、沈んでいく夕日を見つめているようだった。
 私は窓を開けると、「ただいま」と声をかけた。

「おかえり」
「外見てるの?」
 私はベランダにあるサンダルに足を引っかけた。

「時間があったから、考えごとしてた」
 朝陽が外を見つめたまま、話す。

 私は朝陽の隣に立つと、横顔をじっと見つめた。
 精悍でたくましい顔つき。

 高校生のころの雰囲気を残しつつ、大人の顔もしてる。

 考え事、か。

「いい眺めだよね、ここ。ビールとから揚げを持ってきて、夜景をみながら飲むと最高だよ」
「オヤジだな」
「うるさい」

 朝陽がくくくっと肩を震わせて笑った。私が「もう」と肩を叩くと、朝陽の表情に緊張の色が見えた。

 朝陽がオレンジ色の空を眺めたまま、唇を濡らした。

「迷ってる。本当はイタリアで最後にしようって思ってた」
「え?」
「選手生活。イタリアで思う存分、自分を試してきて、終わりにしようって決意してあっちにいったんだ。日本に戻って、杏がもしまだ結婚してなかったら、この家に戻ろうって。もし選手を続けるとしても、家から通えるところで、って。なのに、今は迷ってる」

「朝陽、何を言って……」
 
 私が結婚してなかったら?
 だって朝陽は、水樹咲奈と付き合ってるんだから、私の結婚の有無は関係ないはずでしょ?

 夕日に背を向けた朝陽が、ベランダの塀に寄り掛かって、髪をくしゃっとかき乱した。

「選手として最後のチームかもしれないって思うと、やっぱり……妥協したくないって気持ちがあるんだ」
「朝陽の思うようにやればいいんだよ。思い切り好きなこと、して」
「杏なら、そう言うと思った」と朝陽が笑って、「でももう、杏に我慢もさせたくないんだ」と続けた。

「我慢?」
「同窓会で再会してから、俺は杏の笑顔を見てない。作り笑顔ばっかりだ」
「あ……それは水樹咲奈と……」

 またも口を滑らせて、女子アナの名前を出してしまった。
 慌てて口を押えると、言葉を飲み込んだ。

 朝陽が眉間に皺を寄せると、首をかしげて私を見てきた。

「昨日もその名前を聞いたけど?」
「ああ、うん。二番目でいいって思ったのに。苦しくて」
「二番目?」
「朝陽にとって、私は二番でいいから抱いて欲しいって思ったの」

「は? なに、二番って?」
 朝陽がわけがわからないと言わんばかりの表情で、私の腕を掴んできた。

「朝陽は水樹咲奈と付き合ってるんでしょ?」
「……え? はあ!?」と朝陽が目を大きく開けた。

「付き……合って、ない?」
 途切れ途切れに私は問いかけると、「なんで?」を逆に質問された。

 私はベランダから居間に戻ると、テーブルの上に置いてある雑誌を数冊手に取った。

「これ」と言って、雑誌に載ってる朝陽と水樹の記事を見せた。

「『白昼堂々デート』……してねえし! なんだ、これ」
「これ以外にも」と朝陽がイタリアに行ってる間に出ていた記事も見せた。

「『深夜デート』してねえし。そもそも水樹っていう女子アナと二人きりになったことがない」
「え?」

 今度は私が驚く番だ。
 二人きりで会ったことない?

 え? 昨日のツイートは?

「じゃあ、朝陽。これは?」と私が、iPhoneを見せた。
 昨日の水樹咲奈のツィッターを画面にだして。

 朝陽が画面を見ると、「ああ?」と片眉をあげた。

「昨日の夕食かあ。エージェントとチームの関係者と記者数名が同席してた……あ? 杏、これ見て、昨日の電話がおかしかったのか?」
「え? ああ、うん。まあ」
「女子アナと俺が一緒にいると?」
 こくんと頷いた。

「マジかよ。それで、二番目って? 一番が女子アナで、二番目が杏だと?」
「結婚間近って報道もあったし」

「なんだそれ? だからかあ。同窓会でやたらと、女子アナの名前が出るとは思ったが。意味わかんねえから、適当にスルーしてたら」
 朝陽が額をペチンと叩いた。

 サンダルを脱いで、室内で入ってくると、ソファに座った。

「朝陽、SNSとかって見ないもんね」
「ああ。興味ない」

 私はベランダの窓を閉めると、朝陽の隣に腰かけた。

「杏の作り笑顔の原因はコレか」と雑誌を指でさした。
 私は「うん」と返事をした。

「俺、言っとくけど。器用な男じゃないからな? 二人の女を転がせる暇もパワーもねえよ」
「ボールを転がすので精一杯?」
「そういうこと! ボールを転がすために、すべてを捨てたんだ。杏との未来も、帰る場所も絶ってイタリアに行った」

 朝陽が私の手を握ってきた。
 
「『待ってろ』とは言えなかった。俺の我が侭だからな。それに、帰る場所があるっていう甘えが出るのも怖かった。全力でぶつかりたかった」
「5年前、そう言って欲しかったな」
「言ったら、ついてきただろ? ついてこなくても、待ってただろ? ほかに恋愛できたかもしれないのに」
「実際、ほかに恋愛できなかった。5年間、誰にも興味もてなかった」

 朝陽がフッと笑って、私の頭にキスを落とす。

 私は、朝陽に顔を向けると唇にキスをした。
 苦しくない。幸せに満ちた気持ちで。



「じゃ、行くから」と朝陽がスーツケースの取っ手を掴んだ。
 朝陽の左の薬指には、新しいシルバーの指輪が輝いてる。

「いってらっしゃい」と私は手を振る。私の左手にも、朝陽と同じシルバーの指輪が輝いていた。

 朝陽は、答えをだした。最後の選手生活を、地方で過ごすって決めた。
 私たちはしばらく離れて暮らす。週末だけ、私が朝陽のところにいく予定。

 3か月後には、仕事を退職して私は朝陽の元にいく。それまでは私たちは遠距離恋愛だ。

 白いシャツを着た朝陽の背中を私は、笑顔で見送った。
 ゆっくりと家の扉が閉まると、私は左手を見つめた。

 これからも、私は大好きな朝陽の背中を見送っていいんだ。
 ずっと、私は朝陽の背中を見つめて生きていきたい。

「ありがとう、大好きだよ、朝陽」と私は呟くと、シルバーの指輪にキスをした。

―エピソード1 杏 終わり―
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