昔の恋を忘れましょう

ひなた翠

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エピソード1 杏

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 私は、萌がどっちを選んだか……あえて聞かなかった。
 聞きたかったけど、聞いちゃいけないって気がした。

 同じ道を選ぶと知ったら、私は萌ときっと甘えあってしまうって思ったから。

 萌がどっちを選んでも、私は応援するよ。

 萌と別れると、私はマンションに戻った。室内は静かだ。
 朝陽はまだ眠っているみたい。

 私はテーブルに鍵とiPhoneとお財布を置くと、ソファに深く座った。

 不安が心を襲う。

 朝陽と曖昧な関係でいい、と言い切った。でも怖い。怖いものは怖い。

「杏、どこに行ってたの?」
 ソファの後ろから、ぎゅっと朝陽が抱きしめてきた。

「萌が、来て。カフェでお茶してきた」
 朝陽の筋肉質な腕に触れて、私は答えた。

「春川かあ。って、今は名前が違うんだっけか? 同窓会で会ったけど、そういえば話さなかったなあ。元気そうだったか?」
「元気だったよ。私も同窓会であまり話せなかったから。カフェで話せて良かった。武井とは話した?」
「武井? ああ、陸上部の。あいつかあ。話したよ。なんで?」

 朝陽が首筋にキスを落としてきた。

「萌の片思いしてた相手だったから。さっきカフェで話題に出たの。同窓会で、話せなかったから。どんな風になってたのかな?って思って」
「別に。普通のおっさんになってた。一流の商社マンってやつだな。営業をやってるって」
「そうなんだ」

「武井が気になるのか?」
 朝陽の声が低くなった。私の胸に、朝陽の手が動いた。

「萌が気になってただけ」
「春川は、大学の先輩と結婚したんだろ?」
「そ」と返事をしながら、私の脳裏には朝陽が出ていった日の光景が浮かんだ。

 萌の結婚式の招待状が届いてた。二人で出席できると思ってた。

 朝陽が、別れ際に萌の結婚式には出られないって言ってたの思い出す。
 萌の次は、きっと私が式をあげる番だと勝手に思い込んでた私には、萌の結婚式は辛かったな。

「ちょ……朝陽!? やだよ」
 朝陽の手が私の弱いところを責めてきた。

「明日からしばらくここに帰れないんだ。いいだろ?」
「え?」

 帰れないってどういうこと?
 もしかして、水樹咲奈のところに?

「地方のチームも見てみようって思ってる。選手としてやっていける最後のチャンスだと思うから。最高チームでプレーしたいんだ」
「最後って」
「俺の選手生命はもう……長くないってこと」

 朝陽が寂しそうに笑った。

「朝陽、それってツライんじゃない? どうして……」
 話してくれないの?って言いたくて、言葉を止めた。

 言えるわけ、ないか。別れた女に。
 朝陽のツラいドロドロした感情は、見せるわけない。

 水樹咲奈になら、話しているかもしれないけど。

「5年もイタリアでサッカーできただけで、幸せなんだ」と朝陽が作った笑顔を見せると、私から離れた。
 シャワー浴びてくるって朝陽が私に背を向けて言い放つと、浴室に向かった。

「朝陽、作り笑顔なんていらない。見たくない」
 離れていく朝陽に、私は言葉を投げた。

「ごめん、杏」と朝陽が力ない声だった。
 パタンと浴室へとドアが閉まった。

 やっぱり、朝陽の一番がいい。
 朝陽の悩みや苦しみを知りたい。
 
 抱えている不安を分かち合いたいよ。
 元カノって立場が苦しい。



 朝、起きるともう、朝陽は居なくなってた。スーツケースとスポーツバックも無くて。
 洋服もごっそり消えてた。

 しばらく帰ってこない。
 いや、もうずっと帰ってこないのかもしれないって不安になる。

「彼女と移籍チーム探しって……。水樹咲奈、公私混同すぎ」

『水樹咲奈』という名前に反応して、私は顔をあげた。
 パソコンとのにらめっこを止めて、前の席にいる部下の女子たちに視線を送った。

「あ……すみません」と部下の鈴木さんがぺこっと頭をさげた。
「移籍チーム探し?」
「ああ、サッカーの藤宮朝陽選手です。イタリアでの契約が切れて日本に戻ってきてるんです」
 鈴木さんがパソコンの画面を私に見せてきた。

 ネットニュースを見せてくる。

 写真には朝陽と水樹咲奈が並んでいた。二人とも笑顔で。

「新たな活動場所は日本に戻ってから決めますって、言ってたんだよねえ。水樹咲奈って前から美人を鼻にかけててムカついてたけど。さらに最近、やばいよ。恋人だからって、独占取材しまくって。なんか嫌な感じなんですよ」
 鈴木さんの隣の席の酒井さんが、うんうんと頷きながら口を挟んできた。

「そう、なんだ」
 美人なのは間違いない。
 朝陽と並ぶと、美男美女同士で絵になる。

 女子アナっていいな。
 私も朝陽と並んで歩きたい。

 朝陽は恋人と一緒に、新しいチーム探しか。
 私は、いつも通りの生活。
 仕事して、家に帰る。

 朝陽は……。
 胸の奥が痛くなる。キューっと締め付けられて、呼吸の仕方がわからなくなりそうだ。


『久々の二人の時間。美味しいディナー、最高』
 仕事を終えてマンションに帰ってくると、ツイッターで水樹咲奈のつぶやきを見た。
 朝陽が家を出て行ってから、二週間が過ぎた。私に、朝陽から連絡は一切ない。

 ワイドショーやネットニュース、水樹のツィッターで、朝陽の様子を見るだけ。

 写真の端に、朝陽の横顔が少しだけ映っていた。
 全体は見せずに、誰かわかる程度の写真。

 私はiPhoneを足元に投げると、がくっと頭を垂らした。
 
 久々の二人の時間……という言葉に胸が痛い。

 苦しいよ。

 iPhoneが鳴る。
 液晶を見ると、朝陽から電話だった。

 え? あれ?
 水樹咲奈と一緒に食事しているのでは?

「もしもし?」
『明日には帰るよ』
「え?」

 私は、いきなり用件から話し出す朝陽に驚いた。
 朝陽の電話から聞こえてくる音は静かだった。

『見るべきチームは全て見たから。あとは俺次第』
「あ……食事中じゃないの?」
『は? いや。今はホテルの部屋にいるけど』

 あれ?
 水樹咲奈のツイッターはさっき更新されてたのに。

 どういうこと?
 今、一緒にいるんじゃないの?

『杏? どうした?』
「え? ああ……水樹咲奈が」
 うっかり名前を出して、私は慌てて言葉を止めた。

『水樹? ああ、女子アナの? あいつがどうした?』
「え? 一緒にいるんじゃ……」
『なんで?』
「ええ?」
 付き合ってるんでしょ?

『なんで?』って、なんで?
 私は聞き返したいよ。

「なんで……かな?」と私の声が震えた。
『杏、俺には意味がわからないんだけど』
「私……も?」
『はあ? まあ、いいや。これからエージェントと打ち合わせしてくるから。遅くとも明日の昼過ぎにはそっちにつく予定』

 朝陽との電話のあと、私はもう一度、水樹咲奈のツィッターを確認した。

 どういうこと?
 水樹咲奈のツィッターでは、久々に朝陽と二人きりの時間を楽しんでる、って雰囲気だよ?

 でも電話の朝陽は、これからエージェントと打ち合わせって。

 わからない。


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