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エピソード1 杏
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「……杏? 大丈夫か?」
朝陽の呼びかけに、私はハッと意識が現実に戻ってくる。
目の前にいる朝陽は、細身のグレーのスーツを着ていた。
髪もセットしてあった。
私は立ったまま、どれくらい意識を飛ばしていたのだろうか?
「あ、うん。平気」
「じゃ、行くから」
5年前、毎日聞いていたのと同じトーンで、朝陽が言う。
『行くから』
別れる日も、朝陽は言ってたね。
いつもと変わらない口調で。
また夜には帰ってくるような口ぶりで。
でも帰ってこなかった。
朝陽はそのまま、イタリアに行ってしまった。
私は玄関に向かう朝陽の背中をおって、歩き出す。
朝陽が靴に足を入れていると、私はスッと手を伸ばして上着の裾を掴んだ。
朝陽、なんで……ここに?
私はどうしたら……。
「杏? どうした?」
「あ……」
振り返って不思議そうな顔をしている朝陽に、私はどう問いかければいいかわからなくなった。
朝陽の胸ポケットから電話の着信が聞こえてきた。
「悪い。エージェントからだ。行ってくる」
朝陽が、ポンポンと私の頭を優しく撫でると家を出ていった。
パタンと静かに扉が閉まると、私は洗面台の鏡で自分の顔を確認しにいった。
「やば……酷い顔だ」とむくんでいる頬に手をあてた。
目は充血してる。
顔はむくんで腫れぼったい。
きちんと化粧を落として寝てないから、眉は変に消えてるし。
マスカラが落ちて、目の下が黒くなってる。
5年ぶりに朝陽に会ったのに。
恰好悪すぎる。
鏡を見つめたまま、視線を下にして私は目を丸くした。
首、鎖骨、胸にキスマークが無数についている。
え? ええ?
これは……。
朝陽と……ってことだよね。
5年ぶりに同窓会で再会して、記憶を失った私は、朝陽と何をしたの?
「……思い出せない」
私は寝室も戻ると、枕元に置いてあるiPhoneを手に取った。
友人の凛のアドレスを引き出すと、電話をかけた。
「私は一体、何をしたか知ってる?」
凛が出るなり、口を開く。
『わかるわけないじゃん』
凛が冷たく答えた。
だよね。
自分がわからないのに、他人がわかるはずない。
「記憶がまったく無いの。どうしよう。家に、朝陽がいて。『夕食には帰ってくるから』って。『帰ってくる』ってどういうこと? ここが家ってこと? ああ、まあ……朝陽が買ったマンションだけど。別れるとき、俺が出ていくからお前が使えって言ってくれたけど。どういうことだと思う?私はどうしたらいい?」
『杏、落ち着いて。その質問、私は答えられないから。藤宮朝陽に聞いて』
「ああ、そっか。そうだよね」
昨日、話してたのかも。
私が記憶がないだけで。
朝陽がきちんと私に説明してたかもしれない。
『でもさ。あいつ、彼女いたよね?』
「あ……」と私は呟いて、床に置いてある仕事用の鞄に手を伸ばした。
鞄の中に入っている週刊誌を引っ張り出すと、ペラペラとページをめくった。
白黒の写真に、朝陽と女子アナの水樹咲奈のツーショットがうつっていた。
『白昼堂々デート』という見出しに、私の肩が重たくなった。
そうだった。
朝陽には、恋人がいたんだった。
イタリアのサッカーチームに移籍した朝陽のもとに、水樹咲奈が度々、訪れているとワイドショーで騒がれていた。
水樹が何度か取材で朝陽と会っているうちに、恋人同士になったとかって。
「そう、だよねえ。夜、朝陽に聞いている」
もともとこのマンションは朝陽が購入したものだ。
私が住んでるけど。
所有権は朝陽だから。
日本に戻ってきたんなら、朝陽が住んでもおかしくない。
むしろ、私が出ていくべきなのかも。
朝陽と別れた女が、高級マンションに住んでるほうがおかしい。
凛との電話を切ると、私はその場に座り込んだ。
ああ、私が新しい住処を見つけなきゃなんだ。
テレビの中にいる水樹咲奈を眺めている。私の手には、不動産屋からもらってきたアパートの資料があった。
引っ越すなら、仕事場から近いところでいいやって思って。近場のアパートをいくつか出してもらった。
けど、魅力的に感じる場所はなかった。ここが居心地が良すぎるから、かな。
朝陽との思い出がたくさんあって、離れたくない。思い出が苦しくなるときもあるけれど、私にしたら朝陽と過ごした日々が全てだったから。
離れたくない。
別れてもまだ、朝陽が好きって。おかしいね。もう、5年も過ぎてるのに。
昼のワイドショーに水樹奈々が立っている。25歳の人気女子アナ。若くて可愛い。
テーブルにある積み上げられた雑誌をちらりと見やった。
2年前に、初めて朝陽と水樹がスクープされた。イタリアの夜の街で、二人で歩く写真が大きくのっていて。
目にしたときは、夜な夜な泣いたなあ。
別れてから3年が過ぎてたのに、まだ好きなんだって自覚して。苦しかった。
あの時の自分を思い出すと、胸の奥がツキンと痛んだ。
昨日、発売された雑誌に『白昼堂々デート』の記事が掲載されてた。
日本に帰ってきた朝陽と水樹とのツーショット。
『杏、別れよう。俺はイタリアに行く』
まっすぐな目が忘れられない。
意志の強い朝陽の瞳が大好き。
決断力のある朝陽だから、私が嫌がったところで朝陽の気持ちは揺らがない。
何を言っても朝陽は私と別れてイタリアに行く。わかってたから、受け入れた。
「あ……そっか。ここ、朝陽の家だから。朝陽が帰ってくるんだ」
わかりきった答えに、今頃気づいた。
朝陽が買ったから、とか。所有物が、とか。何を難しく考えてたんだろ。
日本にいたときは、ここが朝陽の家だった。ここを出ていってそのままイタリアに行った。
朝陽にとって、このマンションが帰る場所なんだ。
私が居ようが居まいが、朝陽の家だ。
朝陽は優しいから。出ていかなくていいって、言ってくれただけ。
付き合っているときは、同棲。
今は、ルームシェア……か。
朝陽には付き合っている恋人がいるなら、私はルームシェアしてたらいけないんだ。
テレビにうつる水樹に焦点を合わせて、鎖骨に手をあてた。
鏡にうつったキスマークを思い出す。
「これも、酔った勢いだね。知らない仲じゃないし」
私は自嘲の笑みを浮かべて、息苦しくなった。
朝陽の呼びかけに、私はハッと意識が現実に戻ってくる。
目の前にいる朝陽は、細身のグレーのスーツを着ていた。
髪もセットしてあった。
私は立ったまま、どれくらい意識を飛ばしていたのだろうか?
「あ、うん。平気」
「じゃ、行くから」
5年前、毎日聞いていたのと同じトーンで、朝陽が言う。
『行くから』
別れる日も、朝陽は言ってたね。
いつもと変わらない口調で。
また夜には帰ってくるような口ぶりで。
でも帰ってこなかった。
朝陽はそのまま、イタリアに行ってしまった。
私は玄関に向かう朝陽の背中をおって、歩き出す。
朝陽が靴に足を入れていると、私はスッと手を伸ばして上着の裾を掴んだ。
朝陽、なんで……ここに?
私はどうしたら……。
「杏? どうした?」
「あ……」
振り返って不思議そうな顔をしている朝陽に、私はどう問いかければいいかわからなくなった。
朝陽の胸ポケットから電話の着信が聞こえてきた。
「悪い。エージェントからだ。行ってくる」
朝陽が、ポンポンと私の頭を優しく撫でると家を出ていった。
パタンと静かに扉が閉まると、私は洗面台の鏡で自分の顔を確認しにいった。
「やば……酷い顔だ」とむくんでいる頬に手をあてた。
目は充血してる。
顔はむくんで腫れぼったい。
きちんと化粧を落として寝てないから、眉は変に消えてるし。
マスカラが落ちて、目の下が黒くなってる。
5年ぶりに朝陽に会ったのに。
恰好悪すぎる。
鏡を見つめたまま、視線を下にして私は目を丸くした。
首、鎖骨、胸にキスマークが無数についている。
え? ええ?
これは……。
朝陽と……ってことだよね。
5年ぶりに同窓会で再会して、記憶を失った私は、朝陽と何をしたの?
「……思い出せない」
私は寝室も戻ると、枕元に置いてあるiPhoneを手に取った。
友人の凛のアドレスを引き出すと、電話をかけた。
「私は一体、何をしたか知ってる?」
凛が出るなり、口を開く。
『わかるわけないじゃん』
凛が冷たく答えた。
だよね。
自分がわからないのに、他人がわかるはずない。
「記憶がまったく無いの。どうしよう。家に、朝陽がいて。『夕食には帰ってくるから』って。『帰ってくる』ってどういうこと? ここが家ってこと? ああ、まあ……朝陽が買ったマンションだけど。別れるとき、俺が出ていくからお前が使えって言ってくれたけど。どういうことだと思う?私はどうしたらいい?」
『杏、落ち着いて。その質問、私は答えられないから。藤宮朝陽に聞いて』
「ああ、そっか。そうだよね」
昨日、話してたのかも。
私が記憶がないだけで。
朝陽がきちんと私に説明してたかもしれない。
『でもさ。あいつ、彼女いたよね?』
「あ……」と私は呟いて、床に置いてある仕事用の鞄に手を伸ばした。
鞄の中に入っている週刊誌を引っ張り出すと、ペラペラとページをめくった。
白黒の写真に、朝陽と女子アナの水樹咲奈のツーショットがうつっていた。
『白昼堂々デート』という見出しに、私の肩が重たくなった。
そうだった。
朝陽には、恋人がいたんだった。
イタリアのサッカーチームに移籍した朝陽のもとに、水樹咲奈が度々、訪れているとワイドショーで騒がれていた。
水樹が何度か取材で朝陽と会っているうちに、恋人同士になったとかって。
「そう、だよねえ。夜、朝陽に聞いている」
もともとこのマンションは朝陽が購入したものだ。
私が住んでるけど。
所有権は朝陽だから。
日本に戻ってきたんなら、朝陽が住んでもおかしくない。
むしろ、私が出ていくべきなのかも。
朝陽と別れた女が、高級マンションに住んでるほうがおかしい。
凛との電話を切ると、私はその場に座り込んだ。
ああ、私が新しい住処を見つけなきゃなんだ。
テレビの中にいる水樹咲奈を眺めている。私の手には、不動産屋からもらってきたアパートの資料があった。
引っ越すなら、仕事場から近いところでいいやって思って。近場のアパートをいくつか出してもらった。
けど、魅力的に感じる場所はなかった。ここが居心地が良すぎるから、かな。
朝陽との思い出がたくさんあって、離れたくない。思い出が苦しくなるときもあるけれど、私にしたら朝陽と過ごした日々が全てだったから。
離れたくない。
別れてもまだ、朝陽が好きって。おかしいね。もう、5年も過ぎてるのに。
昼のワイドショーに水樹奈々が立っている。25歳の人気女子アナ。若くて可愛い。
テーブルにある積み上げられた雑誌をちらりと見やった。
2年前に、初めて朝陽と水樹がスクープされた。イタリアの夜の街で、二人で歩く写真が大きくのっていて。
目にしたときは、夜な夜な泣いたなあ。
別れてから3年が過ぎてたのに、まだ好きなんだって自覚して。苦しかった。
あの時の自分を思い出すと、胸の奥がツキンと痛んだ。
昨日、発売された雑誌に『白昼堂々デート』の記事が掲載されてた。
日本に帰ってきた朝陽と水樹とのツーショット。
『杏、別れよう。俺はイタリアに行く』
まっすぐな目が忘れられない。
意志の強い朝陽の瞳が大好き。
決断力のある朝陽だから、私が嫌がったところで朝陽の気持ちは揺らがない。
何を言っても朝陽は私と別れてイタリアに行く。わかってたから、受け入れた。
「あ……そっか。ここ、朝陽の家だから。朝陽が帰ってくるんだ」
わかりきった答えに、今頃気づいた。
朝陽が買ったから、とか。所有物が、とか。何を難しく考えてたんだろ。
日本にいたときは、ここが朝陽の家だった。ここを出ていってそのままイタリアに行った。
朝陽にとって、このマンションが帰る場所なんだ。
私が居ようが居まいが、朝陽の家だ。
朝陽は優しいから。出ていかなくていいって、言ってくれただけ。
付き合っているときは、同棲。
今は、ルームシェア……か。
朝陽には付き合っている恋人がいるなら、私はルームシェアしてたらいけないんだ。
テレビにうつる水樹に焦点を合わせて、鎖骨に手をあてた。
鏡にうつったキスマークを思い出す。
「これも、酔った勢いだね。知らない仲じゃないし」
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