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――二年後。

『弓弦、兄を越えちゃいけません。一番は、兄さんに譲りなさい』

 夜の闇が僕の心に、影を落とす。

「月がキレイな夜は嫌いだ」

 障子の隙間から見える明るい月を見て、僕は呟いた。畳が冷たくて気持ちいい。寝ころんだまま、数センチだけ見える夜空から視線を外した。

 女物の内掛けを全裸で羽織って、横になるのが離れで過ごす僕の恰好だ。

「くすっ。また一本、増えちゃったな」

 まだ血がじんわりと滲む手首を見て、笑い声をあげた。真新しい手首の傷を見て、感じる痛みが生きる苦しみから解放してくれる。

 離れの畳には、僕の自傷した際の血の染みが赤黒く残っている。

 今夜は一つじゃ足りない。

 近くに転がっている剃刀の柄を掴むと、新しい傷の下に刃をあてた。

 ギシッと縁側に誰かが腰かける音がして、視線をあげれば月に照らされた男の影が一つ、できていた。

「……また来たの?」
「家元の指示なので」

「君は従順だね。父さんの命令ってだけで、ここまでする?」
「家元のお言葉はこの家では絶対です」

 父さんと兄さんの従順な犬である秀一は、僕を始終見張っている。父さんが兄さん以外で、華の実力を唯一認めた男だ。噂では兄さんよりも、生けている最中を魅せる力は上じゃないかと言われている。

「夜は嫌いなんだ。お前が薬を取り上げるから……夜をスキップできなくなった」
「分量を間違えて、昏睡状態になったんです。不法に手に入れたお薬は渡せません」

「……ほんと、真面目」

 フッと鼻で僕は笑って、剃刀の刃を横に動かそうとすると障子の隙間から手が出てきて、手首を掴まれた。

「お部屋にあったものは全て処分したのに」
「妹の化粧ポーチから拝借した。どこに隠しても、お前が全部見つけて捨ててしまうから」

「百合様の……それは迂闊でした」

 手に握っている剃刀を僕の手から奪った秀一が、新しい傷を目にして悔しそうに顔をゆがめた。

 また、兄さんに怒られちゃうね。

 兄の信頼を得て、お目付け役に抜擢してもらったのに……。僕の身体に傷が増えたなんて知られたら、君は兄さんからどんなお仕置きをされるんだろうか?

「……もう帰っていいよ」
「帰れません」

「もう最後の刃物を奪われたから、僕はもう何もできない。ただこうして、月を眺めていつか訪れる睡魔に目を閉じるだけだ」
「なら、眠りにつくまでお傍にいます」

「……帰って、よ」

「今夜は和真様がご帰宅なさる日です。こんな静かな夜は、声も響きます。聞きたくない音から耳を塞ぐ手が必要でしょう」
「……お前が薬を返してくれれば、聞かなくて済むのに」



 夜更けすぎ、甘い声が静かな闇から微かに聞こえてきた。
 僕の聞きたくない音がすると、スッと障子が開いて、僕の耳を優しく塞いでくれる。
 大好きなあいつと同じ匂いがする秀一の体温を感じながら、僕は声を押し殺して涙を流した。



――僕はいつになったら……この恋の呪縛から解き放たれるのだろう?

 兄さんのために、一番大事な人までも差し出したのに。僕の心はずっと……暗闇の中で何かに縛られたままだ。
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