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5 ある朝の出来事 ~ヒーローになりたかった男 ①
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人の顔を覚えるのは得意だった。
それでもじろじろ見ることはなく、なんとなく『気になる』という違和感を感じるように動く。
何て言ったらかっこいいが・・・・。
今は大きなインテリジェンスビルの警備をしている。
就職したのは大手の警備会社だった。
当然のように肉体派の武道経験ありの者が進むことの多い道でもある。
それでも警備会社を第一志望にしていた自分はラッキーな方だ。
面接も頑張った気がするし、一生懸命アピールもしたし、実際体を鍛えるくらいのことは今でもしている。
そして春からこのビルの勤務となった。
三個目の配属先である。
ホッとするのは相手は普通の会社員、だと言うこと。
飲食店などの入ってる商業用ビルでもないので始業終業の時間が区切りがついて、全員がパスで通っていくのでセキュリティーも安心。
実はすごくうれしい。
このままずっとここでいい!!そう思うくらい落ち着いた日々だ。
一カ月半、実に静かに仕事が出来ていると思う。
今日も夜勤を静かに終えて、朝の最終見回りの時間だった。
早めに出勤する人はチラチラとエレベーターに吸い込まれていく。
『朝活』という言葉がはやり、早めにラッシュを避けて出社して、自分の時間を使うという会社員が増えている。
そんな人波の中に、立ち止まり明らかに焦っている人を見つける。
本人は必死だろうが、よくある事だ。
あの様子だと初めてだろう。若そうな子でもある。新人かもしれない。
早めに声をかけてあげた。
「おはようございます。もしかしてパスをお忘れですか?」
焦って興奮気味の顔色がさらに真っ赤になった。
「あ、・・・・はい。ないんです。」
「珍しくないです。お忘れでしたらあちらで手続きをしてもらえれば大丈夫です。ご案内いたします。」
先に歩くと諦めたらしいその子が付いてきた。
少しは安心してもらえただろうか?
「すみません、お手数かけます。」
小さな声が後ろからする。
「大丈夫です。さっきも言いましたが珍しくはないですし、顔パスにしたいくらいの常連さんもいますから。」
笑顔で答える。
業者用の入り口がある。
そこに自分たちのいる警備室もある。
「ちょっとこちらでお待ちください。」
窓口の前に立ってもらい、自分はパスをかざして中に入る。
「会社名とお名前をフルネームでいただけますか?」
用紙を渡す。
記入してもらいそれを受け取りパソコンに打ち込むと社員証と同じ顔写真が出てくる。
「『柴田操さん』ですね。」
名前と顔が一致してることを確認することが出来るのだ。
「紛失ですと仮カードを発行しまして、あとは社内の事務の方に手続きをしていただくんですが、どうですか?社内か、自宅にあると分かってるんでしたら今日だけなので特に問題ないんですが。」
「あります。昨日のコートに、多分あります。うっかり、いつもはバッグにしまうんですが・・・。」
「じゃあ、良かったです。これを一日使用してください。後は帰りに忘れずに返却ください。」
「ありがとうございます。」
安心した笑顔でお礼とお辞儀をして、ロビーに戻って行った。
混まない時間で良かった。
もう一度事務所から出て見回りの続きをする。
画面を消す瞬間に、もう一度名前と会社名を見た。
『柴田操さん』
可愛らしい雰囲気だったけど、写真は緊張気味で。
絶対本物の方が可愛いと思ったりして。
画面を消して、仕事に戻った。
事務所にはもう一人いる。
見えないが後ろに部屋がもう一つあり、そこでずっとカメラのチェックをしているはずだ。
又無人になるが用がある人はベルを押せば奥から出て来てくれる。
一応一声かけて留守にすることを伝える。
ロビーを一回りして、非常口にでて、問題ないことを確認して事務所に戻った。
これで日報を書いて、当直業務終了となる。
静かな夜が終わった。
仮眠もできるが、終わった後、そのまま出かけようと言う気にはならない。
まずは部屋に戻りシャワーを浴びて少し寝てからだ。
それでも今日は本当にコートがいらないくらいの陽気だった。
まぶしい日差しに、夜勤明けの目が辛い。
スーツにサングラスをかけて、電車に乗って帰った。
いつも通りのパターンだ。
昼過ぎに起きだして、タイマーセットしていた洗濯物を干して、食事をする。
当直明けで、明日は休みだ。
特に何をする予定もない日はジムに行って汗を流す。
顔見知りの人も多い。
同じような職業か、暇なおじいさんか、たまにプロの格闘家の卵やアスリートもいたりする。
軽く目礼したり、ドリンク休憩の時に少し話をしたり。
「仕事はお休みですか?」
「はい。夜勤でした。」
「お疲れ様です。天気もいいですし、何か楽しい事がありそうな季節ですよね?」
「そうですね。いい季節ですよね。」
時々話してるおじいさんだ。
体力を落とさないようにと真面目に通ってる人で、最初から話しかけられていた。
細い体は引き締まり、筋肉はあるが、やはり厚みのある体にはならない。
それは年齢相応のという身体だ。
「いいですよね、若いって。」
そう言われて腕を叩かれた。
いつものことだ。
特に楽しい予定は具体的に思いつかないんだが、あまり深く聞かれることもないのでいつも同調してる。
結局若さを褒められて終わりになるのだ。
確かに同じ会社の先輩でも、夜勤は体力的にこたえると言う。
多分一人暮らしの自分は勝手に食事をして勝手に寝れる。
他の人の予定とかを考えることなく、何にも邪魔されることなく睡眠がとれるからだ。
家族がいるとそうはいかない。
用事を頼まれたり、誰かの気配がある家で寝れなかったり、いろいろ。
そんな事もあるのだろう。
一人黙々とランニングをする。
テレビがついていても、見ることはない。
ただただ無心で走る。
特に何を考えてるわけでもない。
大体一定の距離と時間を走ると、そろそろかなと思う。
モニターを見ると大体目標とする時間だったり距離だったりするのだ。
それでもなんとなく今日は集中できなかった。
理由は分かってるけど、あえて考えずに流すようにしていた。
ちょっと珍しい事だった。
それでもいつもくらいの時間を過ごして、汗を流し、着替えて退館する。
「お疲れさまでした。」
入り口でロッカーキーと会員証を交換して外に出る。
やっぱりまぶしい。
サングラスを手にしてかける。
部屋で汗を吸い込んだ洗濯物をバケツにあけてつけおく。
夜洗濯するまで、放っておくと匂いがするから。
出かけるつもりだったけど、一度ソファに座ると、そんな気も失せる。
朝の場面が、もう何度目か分からないくらい繰り返し思い出される。
つい覚えてしまった名前、じっと見てしまった社員証の硬い表情の写真、比べるように思い出す動く彼女の表情と、声。
可愛かったと思った。
ただそれだけのつもりだけど、ついつい脳内再生が止まらない。
この後また会うことがあっても、何とする。
いきなり声をかけたらビックリされるか、警戒されるか。
せめて同じエレベーターを使う社員とかだったら。
自分たちはほぼ制服しか印象に残らない。
それが目印の様だから、わざわざ顔まで覚えてくれることはない。
さすがに社員証忘れの常連さんは別だが、それはたいてい男の人だ。
酔っぱらってのうっかり入れ間違いか、とんでもない紛失か。
そんなちょっとだけ落ち着かなかった春の日の朝から、数ヶ月が過ぎた。
ごくまれにビルの中で見かけたことはあった。
いつも一人だった。
あんまり楽しそうでもなく、笑顔もない。
それがこのところ二回くらい同じ人の隣にいるところを見かけた。
その人の方が目立つだろう。
美人だった、多分誰もがそう言うくらいの美人。
好みさえも飛び越える、分かりやすい美人だった。
その人といる時はだいぶん表情も明るい。
ちょっとだけ、勝手に安心したりして。
友達がいることに、それが女性だったことに。
今日は夜勤の次の日の休み。珍しく週末に当たった日だった。
一人でふらりと映画を見に出かけた。
アクションもののシリーズで必ず見ていた。
スッキリとした気分でフラフラとして、食事を兼ねてオフィスビルの地下のカフェレストランにいた。
多分ほとんどのお客が上で働く会社員なんだろう。
少しずれた昼時間には席はだいぶん空いていて。
休日でも働いてるサラリーマンは結構いる。
案内された席に座り、持ってきた雑誌を開いて見ていた。
全く気が付かなかった。
気にもしなかった。
隣にどんな人が座っていたか。
店員さんが近寄ってきて、自分の分だと思って顔をあげたが、隣の人の分だった。
さすがにさっき注文したばかりだ。
また雑誌に視線を戻そうとしたら、隣でスプーンを落として軽く声がした。
自分の方に転がったそれを拾って、手にしたまま顔をあげたら、ビックリした。
「あっ。柴田操さん・・・。」
素晴らしい自分の記憶力。
すんなりと名前が出てきたんだから。
同じように社員パス忘れの人はいても、それなりに可愛いとか綺麗な人も多くても、だれ一人覚えてないのに。同じ手順で対応してるのに。
いきなり名前を呼ばれて彼女もビックリしていた。
「あ、すみません。会社の入ってるビルでお会いしてます。名前もその時に。すみません、ビックリして。」
「いえ。」
そう言って真っ赤になってる彼女。
スプーンを落としたことでもそうなのに、知り合いに見られたと言うのも恥ずかしいのか。
知り合いというほどのものでもないんだが。
「スプーン、新しいのもらって来ます。」
勝手にそう言って、歩き出した。
もはや返事も待たず。
新しいものと交換してもらい、彼女に渡す。
「ありがとうございます。あ・・・の・・・お名前が、すみません。」
「いえ、当然です。自分が偶然知ってるだけです。これでも仕事柄得意なんです、名前と顔を覚えるのは。」
それは正直に自慢できることだ。
ただあれだけで覚えた人はそう居ないが、そこは内緒で。
名前は知らないが、あの友達の美人だって覚えてるし。
「安達 正樹です。今日は休みで映画を見てたんです。・・・あの、もちろん偶然です。さっきまで気が付かなかったんですから。」
「安達さん。すみません、私は人の顔も名前も覚えるのが苦手で。本当に失礼しました。」
「いえ、覚えてもらえてたら、それもビックリです。一度、話しただけですから。」
彼女が考える顔をしながら、顔を見られた。
気が付かないだろう。
見られるのも恥ずかしいので、店員さんが来たのを確認するように視線を外した。
彼女と注文したものは一緒だったがスプーンは落とさずに。
食べ始めながら、隣同士で話をして。
思ったより普通に会話が出来たことが嬉しい。
この後、少し誘ってみたいが、ダメだろうか?
お茶を、なんて、ドリンク付きのランチを頼んでるから駄目だし、どこかいい所はないだろうか?
ちょっと歩けば大きな公園がある。
一緒に・・・断られるだろうか?
ここは正直に、こんなチャンス滅多にない。
食事をしながら、話をしながら、そんな事を考えていて、はっきり言って味なんてほとんど分かってない。
彼女が食べる姿を見ていたので自分が何を食べていたかは分かってる。
ほぼ同時に食事を終えた。
自分としてはずいぶんゆっくりしたペースだった。
食後のドリンクをゆっくり飲んで。
どうだろうか?
随分打ち解けてもらえた気がするのだが。
お店はすっかり空いてきて、今両隣がいない。
「あの・・・この後良かったら、特に用事がなかったら、お付き合いいただけませんか?」
そう切り出した。
半分くらいの確率かと思っていた。
彼氏がいるのかはわからない。
結婚はしてないだろう。
用事があるかもしれない。
いきなりだと警戒されるかもしれない。
少し考える顔が暗い気がして。がっかりしたけど、すぐに取り消した。
「すみません。名前もよく知らなかった相手からの図々しい誘いでした。ご迷惑かけるつもりはないですので、すみませんでした。」
「あ、いえ、その・・・・・大丈夫です。」
そう返事してくれても、真っ赤になるより、ちょっと顔がこわばってる気もするけど。
何だか無理強いしてるような。素直に喜べない。
「とりあえず駅の方向までご一緒しませんか。・・・・・・そこでもう一度誘います。」
「はい。」
そう答えられて、うつむかれた。そうそう思う通りにはいかない。
もし今日がダメそうなら。連絡先だけ渡して、良かったらまたといってもいい。
ただその場合次がある確率は半分半分より下がるだろう。
こういうことがスマートに出来る奴がうらやましい。
性格と経験と才能だろうが、今まで自分にそれを感じたことはない。
経験も人並み・・・以下くらいかも。
仕事を始めて、休みが合わずに別れてからない。
夜勤があるシフト勤務だと難しい。
一年以上付き合った彼女だったのに・・・・。
ドリンクを無駄にカラカラとストローで混せながら、そんな事を思い出していた。
まだ貴重な時間は終わってない。
またわからない・・・・じゃないか。
それでもじろじろ見ることはなく、なんとなく『気になる』という違和感を感じるように動く。
何て言ったらかっこいいが・・・・。
今は大きなインテリジェンスビルの警備をしている。
就職したのは大手の警備会社だった。
当然のように肉体派の武道経験ありの者が進むことの多い道でもある。
それでも警備会社を第一志望にしていた自分はラッキーな方だ。
面接も頑張った気がするし、一生懸命アピールもしたし、実際体を鍛えるくらいのことは今でもしている。
そして春からこのビルの勤務となった。
三個目の配属先である。
ホッとするのは相手は普通の会社員、だと言うこと。
飲食店などの入ってる商業用ビルでもないので始業終業の時間が区切りがついて、全員がパスで通っていくのでセキュリティーも安心。
実はすごくうれしい。
このままずっとここでいい!!そう思うくらい落ち着いた日々だ。
一カ月半、実に静かに仕事が出来ていると思う。
今日も夜勤を静かに終えて、朝の最終見回りの時間だった。
早めに出勤する人はチラチラとエレベーターに吸い込まれていく。
『朝活』という言葉がはやり、早めにラッシュを避けて出社して、自分の時間を使うという会社員が増えている。
そんな人波の中に、立ち止まり明らかに焦っている人を見つける。
本人は必死だろうが、よくある事だ。
あの様子だと初めてだろう。若そうな子でもある。新人かもしれない。
早めに声をかけてあげた。
「おはようございます。もしかしてパスをお忘れですか?」
焦って興奮気味の顔色がさらに真っ赤になった。
「あ、・・・・はい。ないんです。」
「珍しくないです。お忘れでしたらあちらで手続きをしてもらえれば大丈夫です。ご案内いたします。」
先に歩くと諦めたらしいその子が付いてきた。
少しは安心してもらえただろうか?
「すみません、お手数かけます。」
小さな声が後ろからする。
「大丈夫です。さっきも言いましたが珍しくはないですし、顔パスにしたいくらいの常連さんもいますから。」
笑顔で答える。
業者用の入り口がある。
そこに自分たちのいる警備室もある。
「ちょっとこちらでお待ちください。」
窓口の前に立ってもらい、自分はパスをかざして中に入る。
「会社名とお名前をフルネームでいただけますか?」
用紙を渡す。
記入してもらいそれを受け取りパソコンに打ち込むと社員証と同じ顔写真が出てくる。
「『柴田操さん』ですね。」
名前と顔が一致してることを確認することが出来るのだ。
「紛失ですと仮カードを発行しまして、あとは社内の事務の方に手続きをしていただくんですが、どうですか?社内か、自宅にあると分かってるんでしたら今日だけなので特に問題ないんですが。」
「あります。昨日のコートに、多分あります。うっかり、いつもはバッグにしまうんですが・・・。」
「じゃあ、良かったです。これを一日使用してください。後は帰りに忘れずに返却ください。」
「ありがとうございます。」
安心した笑顔でお礼とお辞儀をして、ロビーに戻って行った。
混まない時間で良かった。
もう一度事務所から出て見回りの続きをする。
画面を消す瞬間に、もう一度名前と会社名を見た。
『柴田操さん』
可愛らしい雰囲気だったけど、写真は緊張気味で。
絶対本物の方が可愛いと思ったりして。
画面を消して、仕事に戻った。
事務所にはもう一人いる。
見えないが後ろに部屋がもう一つあり、そこでずっとカメラのチェックをしているはずだ。
又無人になるが用がある人はベルを押せば奥から出て来てくれる。
一応一声かけて留守にすることを伝える。
ロビーを一回りして、非常口にでて、問題ないことを確認して事務所に戻った。
これで日報を書いて、当直業務終了となる。
静かな夜が終わった。
仮眠もできるが、終わった後、そのまま出かけようと言う気にはならない。
まずは部屋に戻りシャワーを浴びて少し寝てからだ。
それでも今日は本当にコートがいらないくらいの陽気だった。
まぶしい日差しに、夜勤明けの目が辛い。
スーツにサングラスをかけて、電車に乗って帰った。
いつも通りのパターンだ。
昼過ぎに起きだして、タイマーセットしていた洗濯物を干して、食事をする。
当直明けで、明日は休みだ。
特に何をする予定もない日はジムに行って汗を流す。
顔見知りの人も多い。
同じような職業か、暇なおじいさんか、たまにプロの格闘家の卵やアスリートもいたりする。
軽く目礼したり、ドリンク休憩の時に少し話をしたり。
「仕事はお休みですか?」
「はい。夜勤でした。」
「お疲れ様です。天気もいいですし、何か楽しい事がありそうな季節ですよね?」
「そうですね。いい季節ですよね。」
時々話してるおじいさんだ。
体力を落とさないようにと真面目に通ってる人で、最初から話しかけられていた。
細い体は引き締まり、筋肉はあるが、やはり厚みのある体にはならない。
それは年齢相応のという身体だ。
「いいですよね、若いって。」
そう言われて腕を叩かれた。
いつものことだ。
特に楽しい予定は具体的に思いつかないんだが、あまり深く聞かれることもないのでいつも同調してる。
結局若さを褒められて終わりになるのだ。
確かに同じ会社の先輩でも、夜勤は体力的にこたえると言う。
多分一人暮らしの自分は勝手に食事をして勝手に寝れる。
他の人の予定とかを考えることなく、何にも邪魔されることなく睡眠がとれるからだ。
家族がいるとそうはいかない。
用事を頼まれたり、誰かの気配がある家で寝れなかったり、いろいろ。
そんな事もあるのだろう。
一人黙々とランニングをする。
テレビがついていても、見ることはない。
ただただ無心で走る。
特に何を考えてるわけでもない。
大体一定の距離と時間を走ると、そろそろかなと思う。
モニターを見ると大体目標とする時間だったり距離だったりするのだ。
それでもなんとなく今日は集中できなかった。
理由は分かってるけど、あえて考えずに流すようにしていた。
ちょっと珍しい事だった。
それでもいつもくらいの時間を過ごして、汗を流し、着替えて退館する。
「お疲れさまでした。」
入り口でロッカーキーと会員証を交換して外に出る。
やっぱりまぶしい。
サングラスを手にしてかける。
部屋で汗を吸い込んだ洗濯物をバケツにあけてつけおく。
夜洗濯するまで、放っておくと匂いがするから。
出かけるつもりだったけど、一度ソファに座ると、そんな気も失せる。
朝の場面が、もう何度目か分からないくらい繰り返し思い出される。
つい覚えてしまった名前、じっと見てしまった社員証の硬い表情の写真、比べるように思い出す動く彼女の表情と、声。
可愛かったと思った。
ただそれだけのつもりだけど、ついつい脳内再生が止まらない。
この後また会うことがあっても、何とする。
いきなり声をかけたらビックリされるか、警戒されるか。
せめて同じエレベーターを使う社員とかだったら。
自分たちはほぼ制服しか印象に残らない。
それが目印の様だから、わざわざ顔まで覚えてくれることはない。
さすがに社員証忘れの常連さんは別だが、それはたいてい男の人だ。
酔っぱらってのうっかり入れ間違いか、とんでもない紛失か。
そんなちょっとだけ落ち着かなかった春の日の朝から、数ヶ月が過ぎた。
ごくまれにビルの中で見かけたことはあった。
いつも一人だった。
あんまり楽しそうでもなく、笑顔もない。
それがこのところ二回くらい同じ人の隣にいるところを見かけた。
その人の方が目立つだろう。
美人だった、多分誰もがそう言うくらいの美人。
好みさえも飛び越える、分かりやすい美人だった。
その人といる時はだいぶん表情も明るい。
ちょっとだけ、勝手に安心したりして。
友達がいることに、それが女性だったことに。
今日は夜勤の次の日の休み。珍しく週末に当たった日だった。
一人でふらりと映画を見に出かけた。
アクションもののシリーズで必ず見ていた。
スッキリとした気分でフラフラとして、食事を兼ねてオフィスビルの地下のカフェレストランにいた。
多分ほとんどのお客が上で働く会社員なんだろう。
少しずれた昼時間には席はだいぶん空いていて。
休日でも働いてるサラリーマンは結構いる。
案内された席に座り、持ってきた雑誌を開いて見ていた。
全く気が付かなかった。
気にもしなかった。
隣にどんな人が座っていたか。
店員さんが近寄ってきて、自分の分だと思って顔をあげたが、隣の人の分だった。
さすがにさっき注文したばかりだ。
また雑誌に視線を戻そうとしたら、隣でスプーンを落として軽く声がした。
自分の方に転がったそれを拾って、手にしたまま顔をあげたら、ビックリした。
「あっ。柴田操さん・・・。」
素晴らしい自分の記憶力。
すんなりと名前が出てきたんだから。
同じように社員パス忘れの人はいても、それなりに可愛いとか綺麗な人も多くても、だれ一人覚えてないのに。同じ手順で対応してるのに。
いきなり名前を呼ばれて彼女もビックリしていた。
「あ、すみません。会社の入ってるビルでお会いしてます。名前もその時に。すみません、ビックリして。」
「いえ。」
そう言って真っ赤になってる彼女。
スプーンを落としたことでもそうなのに、知り合いに見られたと言うのも恥ずかしいのか。
知り合いというほどのものでもないんだが。
「スプーン、新しいのもらって来ます。」
勝手にそう言って、歩き出した。
もはや返事も待たず。
新しいものと交換してもらい、彼女に渡す。
「ありがとうございます。あ・・・の・・・お名前が、すみません。」
「いえ、当然です。自分が偶然知ってるだけです。これでも仕事柄得意なんです、名前と顔を覚えるのは。」
それは正直に自慢できることだ。
ただあれだけで覚えた人はそう居ないが、そこは内緒で。
名前は知らないが、あの友達の美人だって覚えてるし。
「安達 正樹です。今日は休みで映画を見てたんです。・・・あの、もちろん偶然です。さっきまで気が付かなかったんですから。」
「安達さん。すみません、私は人の顔も名前も覚えるのが苦手で。本当に失礼しました。」
「いえ、覚えてもらえてたら、それもビックリです。一度、話しただけですから。」
彼女が考える顔をしながら、顔を見られた。
気が付かないだろう。
見られるのも恥ずかしいので、店員さんが来たのを確認するように視線を外した。
彼女と注文したものは一緒だったがスプーンは落とさずに。
食べ始めながら、隣同士で話をして。
思ったより普通に会話が出来たことが嬉しい。
この後、少し誘ってみたいが、ダメだろうか?
お茶を、なんて、ドリンク付きのランチを頼んでるから駄目だし、どこかいい所はないだろうか?
ちょっと歩けば大きな公園がある。
一緒に・・・断られるだろうか?
ここは正直に、こんなチャンス滅多にない。
食事をしながら、話をしながら、そんな事を考えていて、はっきり言って味なんてほとんど分かってない。
彼女が食べる姿を見ていたので自分が何を食べていたかは分かってる。
ほぼ同時に食事を終えた。
自分としてはずいぶんゆっくりしたペースだった。
食後のドリンクをゆっくり飲んで。
どうだろうか?
随分打ち解けてもらえた気がするのだが。
お店はすっかり空いてきて、今両隣がいない。
「あの・・・この後良かったら、特に用事がなかったら、お付き合いいただけませんか?」
そう切り出した。
半分くらいの確率かと思っていた。
彼氏がいるのかはわからない。
結婚はしてないだろう。
用事があるかもしれない。
いきなりだと警戒されるかもしれない。
少し考える顔が暗い気がして。がっかりしたけど、すぐに取り消した。
「すみません。名前もよく知らなかった相手からの図々しい誘いでした。ご迷惑かけるつもりはないですので、すみませんでした。」
「あ、いえ、その・・・・・大丈夫です。」
そう返事してくれても、真っ赤になるより、ちょっと顔がこわばってる気もするけど。
何だか無理強いしてるような。素直に喜べない。
「とりあえず駅の方向までご一緒しませんか。・・・・・・そこでもう一度誘います。」
「はい。」
そう答えられて、うつむかれた。そうそう思う通りにはいかない。
もし今日がダメそうなら。連絡先だけ渡して、良かったらまたといってもいい。
ただその場合次がある確率は半分半分より下がるだろう。
こういうことがスマートに出来る奴がうらやましい。
性格と経験と才能だろうが、今まで自分にそれを感じたことはない。
経験も人並み・・・以下くらいかも。
仕事を始めて、休みが合わずに別れてからない。
夜勤があるシフト勤務だと難しい。
一年以上付き合った彼女だったのに・・・・。
ドリンクを無駄にカラカラとストローで混せながら、そんな事を思い出していた。
まだ貴重な時間は終わってない。
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残念に思いながらも、やはり夢でしかなかったのだとあきらめる優紀だったが、そんなとき、玲伊から呼び出しを受けて……
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