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19. 優しい軍人に出会うまで
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この話は、ビアンカがイグナーツに出会うまでの回想になります。
本編の続きは次話になります。
クラッセン侯爵家の一人娘として生まれたビアンカは、自分の未来に絶望していた。
ものごころついたときから、ビアンカは自分が父親に愛されていないということを自覚していた。幼い時分には屋敷内で父の姿をときどき見かける程度で、子にとってはとても遠い存在であった。
母親は誰にでも常に厳格な人で、ビアンカは彼女から一度もにこりと笑いかけられたことがなかった。
そもそも母とは一緒に住んでいなかった。持参金とともに帝都に家を持っていたらしく、彼女が夫と娘の住む侯爵領の屋敷に来るのは年に数度であった。どうしてと尋ねても答えてくれるような人物ではなかった。
ビアンカから見た母親の印象としては、恐ろしいほどに礼儀作法に厳しかったということだった。挨拶のために母の部屋を訪れた時、扉のノックをし忘れようものなら、容赦なく鞭で叩かれた。
それゆえか10歳で母親が亡くなったとき、涙は一切出なかった。
ビアンカに優しさや思いやりを教えてくれたのは、屋敷の乳母やメイドたちであった。
両親が留守で屋敷にぽつんと放置されていた幼いビアンカは、彼らの同情を引いた。使用人としての線引きはあったが、愛情深く接してくれた。ビアンカの人間としての情緒は彼らのおかげで育まれたのである。
彼らと共にいる時間の方が長いため、ビアンカは貴族的な豪華さより質素であることを好む性格となった。その一方で、一流のものを選ばなければ母親から鞭打たれたので、ビアンカは幼いうちから時と場合というものを読むようになった。
乳姉妹だったエルネスタは、身分を気にせずにビアンカの良き友人となってくれた。
ビアンカは一つ歳上の彼女に教えてもらうことばかりであったが、時が経つにつれてビアンカの知識量が増えてきた。父親のクラッセン侯爵が、帝都で一番と評判の家庭教師を娘につけたということが大きな理由だ。
エルネスタは、この家庭教師の存在をとても羨ましがっていた。彼女がどうしても授業の話を聞きたいと言うので、ひやひやしながらテーブルの下にもぐりこませたこともしばしばあった。家庭教師の話は確かにおもしろく、言語や歴史、地理、哲学、修辞学まで教えてくれた。
それくらいの時分は、ビアンカもまだ楽しかった。
乳母が死んだ時、エルネスタが屋敷を出て高級娼婦を目指すと言いだした。
ビアンカは止めようとしたが、エルネスタは鼻で笑うようにして言った。
「やめてよ、娼婦の何が悪いの? あたしは一生メイドでいたくはないし、妻として生きることも嫌なの。それでいて、今まで以上の知識を身につけたいの。あたし、生まれは庶民だから貴族にも皇帝にはなれないけど、この国の陰のトップに成り上がりたいのよ。見ていて、きっと名を馳せてみせるから」
自分の目標が見えている友人は、ビアンカにはとても眩しく映った。
「それに屋敷を出てもあたしたちはずっと友達よ。あたしは娼館で手に入れた情報を教えるし、ビアンカはもうじきデビューする社交界で聞いた噂を教えて。何かあったときは頼ってちょうだい」
エルネスタはそう言うと、晴れやかな笑顔で屋敷を出ていってしまった。
その後、ビアンカは14歳で社交界デビューを果たした。
きらびやかな舞踏会では品定めするような視線が飛び交い、美しく着飾ったビアンカも大勢の人々から注目された。
教師に言われた通りにふるまい、ダンスも完璧に踊ってみせると、少し達成感が感じられた。父親にも母親にも褒められたことがなかったので、人々からの賞賛が誇らしく思えた。
ところがビアンカは、この舞踏会の片隅で信じられない噂を耳にした。
自分を指導してくれたあの家庭教師は、実は他家の子どもを教えていたところを父クラッセン侯爵が横取りするように連れ去って娘にあてがった、というものだった。
「娘はあんなに純真な顔をしているけど、父親が悪事を働いて最低なことをしているなんて全然知らないのでしょうね。一体どれだけのものを奪ってきたことか」
そんな言葉が耳を掠めた。
悪事を働く? ビアンカにとっては寝耳に水だった。
いいえ、父はそんな人じゃないとビアンカは言い切れなかった。そもそも自分は同じ屋敷に住む父親について何一つ知らないのだ。
不安になったビアンカは、帰ってからすぐに屋敷の使用人たちに頼んで情報を集めた。
彼らは他家の使用人たちと交流することでたくさんの話をビアンカのもとに持ってきてくれたが、それらの内容はすべて彼女にとって衝撃だった。
まず男爵家や子爵家などの貴族を六家も罠に嵌めて社交界から追い出していた。
帝都で事業を構えているいくつかの商家には卑劣な手で借金を背負わせ、椅子や壺などの調度品を借金のカタとして奪っており、それは外国から取り寄せられた輸入品や競争馬、そしてビアンカの家庭教師にまで及んだ。輸入品の中には帝国で違法とされている物もあった。
さらに侯爵領内では不当な税の支払いを強いていた。集めた地税も横領しており、屋敷には幾度も嘆願書が届けられているとのことだった。
なぜそのようなことがまかり通っているのだろうか。明らかに犯罪なのだからすでに捕らえられていてもおかしくない。
ビアンカはそう思ったが、教えてくれた使用人は、それらはすべて噂であって証拠が何もないのだと言った。
「あるとすれば、このお屋敷の寝室か書斎でしょうが、我々には入ることはできませんし、残しているのかどうかも定かではありません」
たしかに、父は寝室や書斎には常に鍵をかけている。応接間ではときどき人と会っていたようだが、数人の男たちであることしかわからなかった。
ビアンカは自分の知らなかった恐ろしい事実に眩暈がした。
この屋敷のものすべてが、人から奪ったものなのではないかとすら思えてくる。いやその可能性は高い。
もしや母はそれをわかっていて、別居していたのではないか。いいや、あれほど曲がったことが嫌いだった厳格な母が、父のような横暴を見逃すはずはない。
そういえば幼かったために気にとめなかったが、母の死因はなんだったのだろう。まさか父によって……?
否定できない可能性に、ビアンカは背すじがぞくっとした。
情報を得ても、父の悪事を暴くことはビアンカにはできなかった。もし下手に動いたとして失敗すれば、と考えてしまう。父が娘の存在を消すことなど造作もないことだ。
ビアンカにできることといえば、社交界での噂を集めることくらいだった。
ところが、ある舞踏会でとんでもない話を聞きつけた。
クラッセン侯爵が、娘を老人公爵の後妻におくことを考えているというのである。しかもその老人は幼い少女好きというおひれつきだった。
ビアンカは焦った。
このままでは父親にいい道具とされてしまう。どうにかして回避しなければ。父親の関心を引けば、思いとどまってくれるかもしれない。そのためにはどうしたら良いのか。
考えたビアンカは、クラッセン侯爵家という位の高さを利用して、この国の皇女に近づくことに決めた。帝国に君臨する皇族の覚えがめでたくなれば、父が考えを改めるかもしれないと考えたのである。
少しでも社交界を自分の味方につけよう。私自身に良い噂がたって有名になれば、父も軽はずみなことはしないはずだ。
結果的にビアンカは、身につけた知識やふるまいをいかして皇女ヘルミーネの関心を引くことに成功した。
元々皇女はさっぱりとした性格で、美辞麗句が飛び交う社交界からは一歩退いていた。ビアンカは皇女に合わせた態度で彼女に近づき、見事“友人”の座を手に入れることができたのである。
友人となった皇女はやや天然なところもあるが情に厚く、また博識で聡明、するどい観察眼を持っており、正しい情報をビアンカに教えてくれた。
皇女の友人という地位を手に入れたビアンカは、一瞬にして社交界で注目と羨望の眼差しを浴びる人物となった。
誰にどのように見られているか、常に意識しながらふるまい、威厳のあるクラッセン侯爵令嬢の像を作り上げることに成功したのである。
打算や駆け引きが渦巻く社交界において、ビアンカには瞬く間に人々が群がった。媚を売り、近づこうとする者たちが後を絶たなかった。少なくとも、この世界におけるクラッセン侯爵令嬢としての利用価値は高まったはずである。
これで父親の考えを思いとどめることができるだろうか、とビアンカは期待した。
ある朝のことだ。
突然侯爵邸の食堂で父親に「ビアンカ」と呼び止められ、ビアンカはどきりとした。
名前を呼ばれたのは初めてではないだろうか。
「なんでしょうか、お父様」
ビアンカは緊張を顔に出すことなく優雅にお辞儀してみせた。母親の葬式でも言葉を交わさなかったというのに、何事だろうか。
クラッセン侯爵は無表情で言った。
「お前、結婚相手を自分で決めるつもりではないだろうな?」
頭を下げたままそれを聞いたビアンカは目を見張ったが、静かな声で答えた。
「まさか。お父様のご意向に逆らうつもりは毛頭ございませんわ」
その返答に侯爵はしばらく黙っていたが、ふんと鼻を鳴らした。
「皇族に取り入る分には良いが、社交界で目立ちすぎるのはやめろ。侯爵家の評判を落とすようなことをしたら、即刻老人に嫁がせるからな」
「……肝に銘じます」
この時はこれだけだった。
初めての父親との会話で、ビアンカは自分が老人の妻にならずにすんだのを知ることができたが、加えて自分の将来があの男に握られているのだということもわかった。結局、父にとって都合の良いようになることには変わりないのだ。
親子の近づいた距離は、父親から娘への暴力に発展した。少しでも機嫌が悪いと、使用人に手が上げられ、それを庇ったビアンカにも矛先が向けられた。
怒りのまま容赦なく頬を張られ、ビアンカは悔し涙をのんだ。
こんな最低な男に、私は一生服従しなければならないのか。いくら社交界で高い地位を築いても、父親の傘下からは逃れられない。決められた嫁ぎ先にも介入してくるのだろう。
運命に抗うべく侯爵令嬢として頑張ってきた今までの何もかもが虚しく思えた。
いっそのこと、この地位を投げ出してしまえたのなら。侯爵家が不評を買うようなことをしてやりたい。そうすれば少しは父親への嫌がらせになるだろうか。ふらりと考えたが、そんなことをすれば老人の後妻への道が待っている。
自分の築いた地位、権力、知識、すべてが父親の利益に繋がるなんて、絶対に嫌だ。あの男とは違う、もっと崇高な志を持つ人のために使えたなら……せめて自分の結婚相手がそういう人でありますようにと、ビアンカは祈ることしかできなかった。
ビアンカが社交界で地位を築いてから数年後、あるとき突然クラッセン侯爵が軍人に対して過剰に怯えるようになった。
今まで軍部の人間には尊大な態度をとるばかりだったのに、急にどうしたのだろうか。
ビアンカが父親のことをヘルミーネ皇女にこっそり相談すると、皇女は「クラッセンはなかなかに手強いぞ」と言った。
「父上もあの男を捕らえられないと、それは悔しそうにしておられるんだ。汚れ仕事は末端にやらせるからな、尻尾を決して出さないのだ。それでも軍部を警戒するということは、思わぬ漏れがあったのかーー今回のレート戦が関係しているのかもしれないな」
レート戦ーー南西に位置する隣国との紛争だ。戦の話は、社交界ではなかなか得られない。
「この手の話はお前の古い友人の方が詳しいかもしれない。社交界よりよほど客の出入りが多いからな。才女の紅花なら何かわかるだろう」
ヘルミーネ皇女が言ったのはエルネスタのことだ。
ビアンカとエルネスタの交流は途切れることなく続いていた。
乳母の娘だった彼女は、自分が豪語したようにいまや高級娼婦にまでのぼりつめていた。持ち前の知恵とビアンカとともに学んだ博識さで“才女”と謳われるようになったのである。
先の戦について何か知っているかと尋ねると、エルネスタは少し考えてから答えた。
「レート戦じゃレジナンド中将が戦死したって聞いたわ。あいつは結構汚職にまみれた男だったはず。彼にクラッセン侯爵も関わっていたんなら、今の現状に慌ててもおかしくないわね」
そう言われて、ビアンカはかつて屋敷内に軍服を着ていた男も出入りしていたことを思い出した。しかし、それはずいぶんと昔のことで、ここ数年は見かけなくなっていた。
だがおそらくエルネスタの推測は正しい。きっと父親が悪事を働いても大きな顔をしていられたのは、その将校との癒着があったからに違いない。
彼が死に、軍部での不始末が明らかになりつつあるのだろう。それで軍人を警戒するようになったのだ。
しかし皇女が述べたように、父親は証拠をきれいに消しているようで、やはり捕らえられるまでには至らなかった。
それどころか父の横暴ぶりはますますひどくなっていった。それに歯向かいつつも従わざるを得ない状況のビアンカは、もう限界に来ていた。
そんなときに、ビアンカは帝都の宮殿で開かれた舞踏会で、優しい軍人に出くわすのである。
初めて彼と会ったとき、こんな気弱な将校もいるのかとやや驚いた。
軍人といえば、社交界ではやたら身体が大きく脳まで筋肉でできたような男か、貴族のようにしたたかに媚を売って成り上がってきた狡猾な人間ばかり見かけてきた。
このとき会った青年は、今まで会ったことのないような部類だと思った。
ハンカチを渡しただけでそれ以上気の利いた台詞も言わない彼は、明らかに社交界に不慣れで、緊張したように言葉をいちいちどもらせていた。
辺りが暗い中、月明かりに反射して彼の軍服にちらほらと勲章がついているのがわかったが、それよりもビアンカの目が止まったのは彼の履いている靴だった。舞踏会に来たとは思えないほどあちこちに傷がついている。履き古したものらしいが、もしかしたらこちらを油断させるための演技かもしれない。
彼はイグナーツ・トットと名乗った。初めて聞く名前に、一体何者だろうとビアンカが探るような視線を送っていた。男は気まずそうにしていたが、そのうちに弁明するように軍部の事情ーークラッセン侯爵に目をつけているという話をぺらぺらと話し始めたではないか。
そんなことを私に話してもよかったのかしら。私があの恐ろしい男と結託しているのだとしたら、大失態ではないの。
しかしビアンカは、青年と話せば話すほどに相手の思惑が読めずわからなくなった。あげくの果てに、彼は「あなたはご自分のために生きるべきだ」「お好きなことをなさったらいい」などと言ったのである。
好きなことですって? あの父親の傘下にいたのに、その後を牢以外でどう生きろと言うのとビアンカは鼻で笑おうとしたが、青年の目はひどく真剣だった。本気でそう思っているようで、ビアンカは戸惑いを隠せなかった。
そうこうするうちに、その軍人は暗闇の中に姿を消してしまった。
その後は侍女がすぐに来てくれた。彼が呼んでくれたらしい。
「お嬢様、大丈夫ですか? あの若い将校の方はどなただったのでしょう、旦那様との知り合いだったのでしょうか」
「……わからないわ。舞踏会の警備兵ではなかったみたい。招待されているなら何かの地位には付いているはずだけど」
ビアンカは帰路で馬車に揺られながら考えた。
あの青年は、舞踏会場でビアンカが女性たちを叱った様子を見ていたと言った。
あのときは婦人たちが高級娼婦という職を笑い物にしていたので、ビアンカは腹が立ったのだ。もちろん苛立ちを隠しながら正論で叱責した。
あの姿を見ていたというのなら、舞踏会場からはずれた場所で泣いていたときとの差異に、さぞ驚いたことだろう。それも父親に頬を張られたという、不名誉でみじめな姿を見せてしまったのだ。
軍人なら正義感が強いかもしれない。貴族ではないから面目などという考えには至らず、父親が娘に暴力をふるっていることを公にしてしまうことも考えられる。きっとすぐさま軍部で噂になるに違いない。そうなれば私が社交界で築いた誇りも地位も名誉も、すべて失われる。
ビアンカは悔しくて拳をぎゅっと握りしめたが、息を吐いて思い直した。
これは時間の問題だったのだ。自分はあの罪人の娘であることには変わりない。どちらにせよあの男が生きているうちは、私の人生は彼に左右されるのだ。社交界に出入りできなくなることだって、結局は起こり得ることだ。
ビアンカは、もう自分の人生がどうでもよくなっていた。
ところが、それから数日経っても、ビアンカを揶揄するような噂は全く上がってこなかった。父親に虐待されているという不名誉な話もなく、社交界での貴族たちの接し方も、依然として変わりばえしない。
あの人、誰にも言わなかったのかしら。軍部としてクラッセン侯爵に対して警戒しているとは言え、世間的に大きなスキャンダルになれば任務においても有利ではないのか。
まさか父親と結託しているのだろうか。
不安に思ったビアンカは、再びエルネスタに相談することにした。
舞踏会の晩の出来事を話し、「彼はイグナーツ・トットと名乗ったの、何か知っているかしら」と尋ねると、旧友は意外そうな顔をした。
イグナーツ・トットの母親は、エルネスタの勤める娼館の高級娼婦だったらしい。エルネスタは彼の生い立ちを事細かに教えてくれた。
「母親はユリアさんというのだけど、とってもきれいな方で、町でもすごく人気があったのよ。でも浪費家でね、すごい借金を抱えたまま死んじゃったの。だからそれを背負ったあいつはそれなりに苦労してんのよ、小さい時から何するにしても無知で馬鹿なやつなんだけどね」
そうは言いつつも、どこか弟を語るような口調だった。
エルネスタは言った。
「あいつがクラッセン侯爵と手を組むなんて、そんな風に難しく頭を使うことは絶対無理よ。律儀に毎月少しずつ借金の返済に努めてるから、真面目なのは認める。けど、戦場で活躍してるんならもっと図々しく地位を要求すればいいのにって思うわ。欲がないのよ」
「でも……真面目な人間なら、軍での任務を優先するはずよね。私が父に殴られて泣いていたっていう噂を流せばすぐにスキャンダルになって捕らえる口実ができるというのに、どうしてそうしなかったのかしら」
ビアンカの問いに、エルネスタは肩をすくめた。
「なんで噂を流さなかったって……あいつは友達がいないから単に噂を流す相手がいなかっただけってこともあるでしょうけどね。まああんたに気を遣って、誰にも言っちゃいけないって思ったのかも。だってそのときに会場に戻って言いふらすこともできたんだからーーあ、違うわ、わかった。慣れない社交界で彷徨ってた時に暗闇で泣いてた貴婦人を見つけたもんだから、どうしたらいいかわからなくてパニックになったんだわ。絶対そう。結局あいつがやったことと言えば、近所の女の子にするように、ハンカチを渡してそばにいたってだけじゃないの。まあ侍女を呼んだことには及第点をやってもいいけど」
言われてみればそうだ。彼は誰にも言わず、私が泣き止むまでずっと隣にいてくれたんだったわとビアンカは思い返した。
社交界での私の正反対な姿についても指摘してこなかった。こちらの機嫌をうかがってはいたが媚を売るわけでもなく、ただ真正直に話してくれた。
もしも貴族であったら、社交界で高い地位を築いている私の弱味を握られていたかもしれない。もしも他の軍人であったら、父親の暴力が表沙汰になって私の面目は失われていたかもしれない。もしも暴漢のような人間であったら、別の結果があったに違いない。暗闇で女が一人泣いていたのだ、あの夜のうちに自分の身に何かあったとしてもおかしくなかった。
突然ビアンカは、そのイグナーツ・トットという人物が特別な存在に思えた。あそこにいたのが彼だったからこそ、今自分は無事でいるのだ。
ビアンカは、あの夜のことを思い返した。
軍服を着た男たちから探るような視線を感じていて、彼もその一人だと思った。関わりたくないというような態度をとったつもりだったが、彼は私のことを案じてくれていた。
エルネスタの話では、彼は母親が高級娼婦だからという理由で嘲笑されてきたという。借金も代わりに背負っているとは、人の苦労など見た目ではわからないものだ。
きっと、親のために大変な思いをしている姿を自分と重ねたのかもしれない。もしそうなら、あのとき真剣な目をして、“自分のために生きろ”と言ってくれたのは、彼の本心からだったのだ。
ビアンカは、彼に対しては誠実に接しなければならない気がした。あの人は人の心に寄り添うことができる人間だ。真心で接してくれたのだから、真心で返さなければならない。
これまで社交界で交流してきた貴族たちは打算だけで動くような者たちであったが、彼らに対するものと同じ表面的なものではだめだと思った。
あのときそっけない失礼な態度をとってしまったことをお詫びするべきだし、きちんとお礼を書かなければ。ハンカチも返さないと。
彼が貸してくれたあのハンカチは、刺繍の練習台にしてしまっていた。不名誉な噂で社交界に出入りできなくなれば、もう舞踏会には行かない、彼に会うこともないと思ったからだ。なんとかして言い訳を考えなければ……新しい物も同封した方がいいかもしれない。
ビアンカの心の中で、長いこと止まっていた何かが動き出したのはこの時だった。
次話は本編に戻ります。最終話となります。
本編の続きは次話になります。
クラッセン侯爵家の一人娘として生まれたビアンカは、自分の未来に絶望していた。
ものごころついたときから、ビアンカは自分が父親に愛されていないということを自覚していた。幼い時分には屋敷内で父の姿をときどき見かける程度で、子にとってはとても遠い存在であった。
母親は誰にでも常に厳格な人で、ビアンカは彼女から一度もにこりと笑いかけられたことがなかった。
そもそも母とは一緒に住んでいなかった。持参金とともに帝都に家を持っていたらしく、彼女が夫と娘の住む侯爵領の屋敷に来るのは年に数度であった。どうしてと尋ねても答えてくれるような人物ではなかった。
ビアンカから見た母親の印象としては、恐ろしいほどに礼儀作法に厳しかったということだった。挨拶のために母の部屋を訪れた時、扉のノックをし忘れようものなら、容赦なく鞭で叩かれた。
それゆえか10歳で母親が亡くなったとき、涙は一切出なかった。
ビアンカに優しさや思いやりを教えてくれたのは、屋敷の乳母やメイドたちであった。
両親が留守で屋敷にぽつんと放置されていた幼いビアンカは、彼らの同情を引いた。使用人としての線引きはあったが、愛情深く接してくれた。ビアンカの人間としての情緒は彼らのおかげで育まれたのである。
彼らと共にいる時間の方が長いため、ビアンカは貴族的な豪華さより質素であることを好む性格となった。その一方で、一流のものを選ばなければ母親から鞭打たれたので、ビアンカは幼いうちから時と場合というものを読むようになった。
乳姉妹だったエルネスタは、身分を気にせずにビアンカの良き友人となってくれた。
ビアンカは一つ歳上の彼女に教えてもらうことばかりであったが、時が経つにつれてビアンカの知識量が増えてきた。父親のクラッセン侯爵が、帝都で一番と評判の家庭教師を娘につけたということが大きな理由だ。
エルネスタは、この家庭教師の存在をとても羨ましがっていた。彼女がどうしても授業の話を聞きたいと言うので、ひやひやしながらテーブルの下にもぐりこませたこともしばしばあった。家庭教師の話は確かにおもしろく、言語や歴史、地理、哲学、修辞学まで教えてくれた。
それくらいの時分は、ビアンカもまだ楽しかった。
乳母が死んだ時、エルネスタが屋敷を出て高級娼婦を目指すと言いだした。
ビアンカは止めようとしたが、エルネスタは鼻で笑うようにして言った。
「やめてよ、娼婦の何が悪いの? あたしは一生メイドでいたくはないし、妻として生きることも嫌なの。それでいて、今まで以上の知識を身につけたいの。あたし、生まれは庶民だから貴族にも皇帝にはなれないけど、この国の陰のトップに成り上がりたいのよ。見ていて、きっと名を馳せてみせるから」
自分の目標が見えている友人は、ビアンカにはとても眩しく映った。
「それに屋敷を出てもあたしたちはずっと友達よ。あたしは娼館で手に入れた情報を教えるし、ビアンカはもうじきデビューする社交界で聞いた噂を教えて。何かあったときは頼ってちょうだい」
エルネスタはそう言うと、晴れやかな笑顔で屋敷を出ていってしまった。
その後、ビアンカは14歳で社交界デビューを果たした。
きらびやかな舞踏会では品定めするような視線が飛び交い、美しく着飾ったビアンカも大勢の人々から注目された。
教師に言われた通りにふるまい、ダンスも完璧に踊ってみせると、少し達成感が感じられた。父親にも母親にも褒められたことがなかったので、人々からの賞賛が誇らしく思えた。
ところがビアンカは、この舞踏会の片隅で信じられない噂を耳にした。
自分を指導してくれたあの家庭教師は、実は他家の子どもを教えていたところを父クラッセン侯爵が横取りするように連れ去って娘にあてがった、というものだった。
「娘はあんなに純真な顔をしているけど、父親が悪事を働いて最低なことをしているなんて全然知らないのでしょうね。一体どれだけのものを奪ってきたことか」
そんな言葉が耳を掠めた。
悪事を働く? ビアンカにとっては寝耳に水だった。
いいえ、父はそんな人じゃないとビアンカは言い切れなかった。そもそも自分は同じ屋敷に住む父親について何一つ知らないのだ。
不安になったビアンカは、帰ってからすぐに屋敷の使用人たちに頼んで情報を集めた。
彼らは他家の使用人たちと交流することでたくさんの話をビアンカのもとに持ってきてくれたが、それらの内容はすべて彼女にとって衝撃だった。
まず男爵家や子爵家などの貴族を六家も罠に嵌めて社交界から追い出していた。
帝都で事業を構えているいくつかの商家には卑劣な手で借金を背負わせ、椅子や壺などの調度品を借金のカタとして奪っており、それは外国から取り寄せられた輸入品や競争馬、そしてビアンカの家庭教師にまで及んだ。輸入品の中には帝国で違法とされている物もあった。
さらに侯爵領内では不当な税の支払いを強いていた。集めた地税も横領しており、屋敷には幾度も嘆願書が届けられているとのことだった。
なぜそのようなことがまかり通っているのだろうか。明らかに犯罪なのだからすでに捕らえられていてもおかしくない。
ビアンカはそう思ったが、教えてくれた使用人は、それらはすべて噂であって証拠が何もないのだと言った。
「あるとすれば、このお屋敷の寝室か書斎でしょうが、我々には入ることはできませんし、残しているのかどうかも定かではありません」
たしかに、父は寝室や書斎には常に鍵をかけている。応接間ではときどき人と会っていたようだが、数人の男たちであることしかわからなかった。
ビアンカは自分の知らなかった恐ろしい事実に眩暈がした。
この屋敷のものすべてが、人から奪ったものなのではないかとすら思えてくる。いやその可能性は高い。
もしや母はそれをわかっていて、別居していたのではないか。いいや、あれほど曲がったことが嫌いだった厳格な母が、父のような横暴を見逃すはずはない。
そういえば幼かったために気にとめなかったが、母の死因はなんだったのだろう。まさか父によって……?
否定できない可能性に、ビアンカは背すじがぞくっとした。
情報を得ても、父の悪事を暴くことはビアンカにはできなかった。もし下手に動いたとして失敗すれば、と考えてしまう。父が娘の存在を消すことなど造作もないことだ。
ビアンカにできることといえば、社交界での噂を集めることくらいだった。
ところが、ある舞踏会でとんでもない話を聞きつけた。
クラッセン侯爵が、娘を老人公爵の後妻におくことを考えているというのである。しかもその老人は幼い少女好きというおひれつきだった。
ビアンカは焦った。
このままでは父親にいい道具とされてしまう。どうにかして回避しなければ。父親の関心を引けば、思いとどまってくれるかもしれない。そのためにはどうしたら良いのか。
考えたビアンカは、クラッセン侯爵家という位の高さを利用して、この国の皇女に近づくことに決めた。帝国に君臨する皇族の覚えがめでたくなれば、父が考えを改めるかもしれないと考えたのである。
少しでも社交界を自分の味方につけよう。私自身に良い噂がたって有名になれば、父も軽はずみなことはしないはずだ。
結果的にビアンカは、身につけた知識やふるまいをいかして皇女ヘルミーネの関心を引くことに成功した。
元々皇女はさっぱりとした性格で、美辞麗句が飛び交う社交界からは一歩退いていた。ビアンカは皇女に合わせた態度で彼女に近づき、見事“友人”の座を手に入れることができたのである。
友人となった皇女はやや天然なところもあるが情に厚く、また博識で聡明、するどい観察眼を持っており、正しい情報をビアンカに教えてくれた。
皇女の友人という地位を手に入れたビアンカは、一瞬にして社交界で注目と羨望の眼差しを浴びる人物となった。
誰にどのように見られているか、常に意識しながらふるまい、威厳のあるクラッセン侯爵令嬢の像を作り上げることに成功したのである。
打算や駆け引きが渦巻く社交界において、ビアンカには瞬く間に人々が群がった。媚を売り、近づこうとする者たちが後を絶たなかった。少なくとも、この世界におけるクラッセン侯爵令嬢としての利用価値は高まったはずである。
これで父親の考えを思いとどめることができるだろうか、とビアンカは期待した。
ある朝のことだ。
突然侯爵邸の食堂で父親に「ビアンカ」と呼び止められ、ビアンカはどきりとした。
名前を呼ばれたのは初めてではないだろうか。
「なんでしょうか、お父様」
ビアンカは緊張を顔に出すことなく優雅にお辞儀してみせた。母親の葬式でも言葉を交わさなかったというのに、何事だろうか。
クラッセン侯爵は無表情で言った。
「お前、結婚相手を自分で決めるつもりではないだろうな?」
頭を下げたままそれを聞いたビアンカは目を見張ったが、静かな声で答えた。
「まさか。お父様のご意向に逆らうつもりは毛頭ございませんわ」
その返答に侯爵はしばらく黙っていたが、ふんと鼻を鳴らした。
「皇族に取り入る分には良いが、社交界で目立ちすぎるのはやめろ。侯爵家の評判を落とすようなことをしたら、即刻老人に嫁がせるからな」
「……肝に銘じます」
この時はこれだけだった。
初めての父親との会話で、ビアンカは自分が老人の妻にならずにすんだのを知ることができたが、加えて自分の将来があの男に握られているのだということもわかった。結局、父にとって都合の良いようになることには変わりないのだ。
親子の近づいた距離は、父親から娘への暴力に発展した。少しでも機嫌が悪いと、使用人に手が上げられ、それを庇ったビアンカにも矛先が向けられた。
怒りのまま容赦なく頬を張られ、ビアンカは悔し涙をのんだ。
こんな最低な男に、私は一生服従しなければならないのか。いくら社交界で高い地位を築いても、父親の傘下からは逃れられない。決められた嫁ぎ先にも介入してくるのだろう。
運命に抗うべく侯爵令嬢として頑張ってきた今までの何もかもが虚しく思えた。
いっそのこと、この地位を投げ出してしまえたのなら。侯爵家が不評を買うようなことをしてやりたい。そうすれば少しは父親への嫌がらせになるだろうか。ふらりと考えたが、そんなことをすれば老人の後妻への道が待っている。
自分の築いた地位、権力、知識、すべてが父親の利益に繋がるなんて、絶対に嫌だ。あの男とは違う、もっと崇高な志を持つ人のために使えたなら……せめて自分の結婚相手がそういう人でありますようにと、ビアンカは祈ることしかできなかった。
ビアンカが社交界で地位を築いてから数年後、あるとき突然クラッセン侯爵が軍人に対して過剰に怯えるようになった。
今まで軍部の人間には尊大な態度をとるばかりだったのに、急にどうしたのだろうか。
ビアンカが父親のことをヘルミーネ皇女にこっそり相談すると、皇女は「クラッセンはなかなかに手強いぞ」と言った。
「父上もあの男を捕らえられないと、それは悔しそうにしておられるんだ。汚れ仕事は末端にやらせるからな、尻尾を決して出さないのだ。それでも軍部を警戒するということは、思わぬ漏れがあったのかーー今回のレート戦が関係しているのかもしれないな」
レート戦ーー南西に位置する隣国との紛争だ。戦の話は、社交界ではなかなか得られない。
「この手の話はお前の古い友人の方が詳しいかもしれない。社交界よりよほど客の出入りが多いからな。才女の紅花なら何かわかるだろう」
ヘルミーネ皇女が言ったのはエルネスタのことだ。
ビアンカとエルネスタの交流は途切れることなく続いていた。
乳母の娘だった彼女は、自分が豪語したようにいまや高級娼婦にまでのぼりつめていた。持ち前の知恵とビアンカとともに学んだ博識さで“才女”と謳われるようになったのである。
先の戦について何か知っているかと尋ねると、エルネスタは少し考えてから答えた。
「レート戦じゃレジナンド中将が戦死したって聞いたわ。あいつは結構汚職にまみれた男だったはず。彼にクラッセン侯爵も関わっていたんなら、今の現状に慌ててもおかしくないわね」
そう言われて、ビアンカはかつて屋敷内に軍服を着ていた男も出入りしていたことを思い出した。しかし、それはずいぶんと昔のことで、ここ数年は見かけなくなっていた。
だがおそらくエルネスタの推測は正しい。きっと父親が悪事を働いても大きな顔をしていられたのは、その将校との癒着があったからに違いない。
彼が死に、軍部での不始末が明らかになりつつあるのだろう。それで軍人を警戒するようになったのだ。
しかし皇女が述べたように、父親は証拠をきれいに消しているようで、やはり捕らえられるまでには至らなかった。
それどころか父の横暴ぶりはますますひどくなっていった。それに歯向かいつつも従わざるを得ない状況のビアンカは、もう限界に来ていた。
そんなときに、ビアンカは帝都の宮殿で開かれた舞踏会で、優しい軍人に出くわすのである。
初めて彼と会ったとき、こんな気弱な将校もいるのかとやや驚いた。
軍人といえば、社交界ではやたら身体が大きく脳まで筋肉でできたような男か、貴族のようにしたたかに媚を売って成り上がってきた狡猾な人間ばかり見かけてきた。
このとき会った青年は、今まで会ったことのないような部類だと思った。
ハンカチを渡しただけでそれ以上気の利いた台詞も言わない彼は、明らかに社交界に不慣れで、緊張したように言葉をいちいちどもらせていた。
辺りが暗い中、月明かりに反射して彼の軍服にちらほらと勲章がついているのがわかったが、それよりもビアンカの目が止まったのは彼の履いている靴だった。舞踏会に来たとは思えないほどあちこちに傷がついている。履き古したものらしいが、もしかしたらこちらを油断させるための演技かもしれない。
彼はイグナーツ・トットと名乗った。初めて聞く名前に、一体何者だろうとビアンカが探るような視線を送っていた。男は気まずそうにしていたが、そのうちに弁明するように軍部の事情ーークラッセン侯爵に目をつけているという話をぺらぺらと話し始めたではないか。
そんなことを私に話してもよかったのかしら。私があの恐ろしい男と結託しているのだとしたら、大失態ではないの。
しかしビアンカは、青年と話せば話すほどに相手の思惑が読めずわからなくなった。あげくの果てに、彼は「あなたはご自分のために生きるべきだ」「お好きなことをなさったらいい」などと言ったのである。
好きなことですって? あの父親の傘下にいたのに、その後を牢以外でどう生きろと言うのとビアンカは鼻で笑おうとしたが、青年の目はひどく真剣だった。本気でそう思っているようで、ビアンカは戸惑いを隠せなかった。
そうこうするうちに、その軍人は暗闇の中に姿を消してしまった。
その後は侍女がすぐに来てくれた。彼が呼んでくれたらしい。
「お嬢様、大丈夫ですか? あの若い将校の方はどなただったのでしょう、旦那様との知り合いだったのでしょうか」
「……わからないわ。舞踏会の警備兵ではなかったみたい。招待されているなら何かの地位には付いているはずだけど」
ビアンカは帰路で馬車に揺られながら考えた。
あの青年は、舞踏会場でビアンカが女性たちを叱った様子を見ていたと言った。
あのときは婦人たちが高級娼婦という職を笑い物にしていたので、ビアンカは腹が立ったのだ。もちろん苛立ちを隠しながら正論で叱責した。
あの姿を見ていたというのなら、舞踏会場からはずれた場所で泣いていたときとの差異に、さぞ驚いたことだろう。それも父親に頬を張られたという、不名誉でみじめな姿を見せてしまったのだ。
軍人なら正義感が強いかもしれない。貴族ではないから面目などという考えには至らず、父親が娘に暴力をふるっていることを公にしてしまうことも考えられる。きっとすぐさま軍部で噂になるに違いない。そうなれば私が社交界で築いた誇りも地位も名誉も、すべて失われる。
ビアンカは悔しくて拳をぎゅっと握りしめたが、息を吐いて思い直した。
これは時間の問題だったのだ。自分はあの罪人の娘であることには変わりない。どちらにせよあの男が生きているうちは、私の人生は彼に左右されるのだ。社交界に出入りできなくなることだって、結局は起こり得ることだ。
ビアンカは、もう自分の人生がどうでもよくなっていた。
ところが、それから数日経っても、ビアンカを揶揄するような噂は全く上がってこなかった。父親に虐待されているという不名誉な話もなく、社交界での貴族たちの接し方も、依然として変わりばえしない。
あの人、誰にも言わなかったのかしら。軍部としてクラッセン侯爵に対して警戒しているとは言え、世間的に大きなスキャンダルになれば任務においても有利ではないのか。
まさか父親と結託しているのだろうか。
不安に思ったビアンカは、再びエルネスタに相談することにした。
舞踏会の晩の出来事を話し、「彼はイグナーツ・トットと名乗ったの、何か知っているかしら」と尋ねると、旧友は意外そうな顔をした。
イグナーツ・トットの母親は、エルネスタの勤める娼館の高級娼婦だったらしい。エルネスタは彼の生い立ちを事細かに教えてくれた。
「母親はユリアさんというのだけど、とってもきれいな方で、町でもすごく人気があったのよ。でも浪費家でね、すごい借金を抱えたまま死んじゃったの。だからそれを背負ったあいつはそれなりに苦労してんのよ、小さい時から何するにしても無知で馬鹿なやつなんだけどね」
そうは言いつつも、どこか弟を語るような口調だった。
エルネスタは言った。
「あいつがクラッセン侯爵と手を組むなんて、そんな風に難しく頭を使うことは絶対無理よ。律儀に毎月少しずつ借金の返済に努めてるから、真面目なのは認める。けど、戦場で活躍してるんならもっと図々しく地位を要求すればいいのにって思うわ。欲がないのよ」
「でも……真面目な人間なら、軍での任務を優先するはずよね。私が父に殴られて泣いていたっていう噂を流せばすぐにスキャンダルになって捕らえる口実ができるというのに、どうしてそうしなかったのかしら」
ビアンカの問いに、エルネスタは肩をすくめた。
「なんで噂を流さなかったって……あいつは友達がいないから単に噂を流す相手がいなかっただけってこともあるでしょうけどね。まああんたに気を遣って、誰にも言っちゃいけないって思ったのかも。だってそのときに会場に戻って言いふらすこともできたんだからーーあ、違うわ、わかった。慣れない社交界で彷徨ってた時に暗闇で泣いてた貴婦人を見つけたもんだから、どうしたらいいかわからなくてパニックになったんだわ。絶対そう。結局あいつがやったことと言えば、近所の女の子にするように、ハンカチを渡してそばにいたってだけじゃないの。まあ侍女を呼んだことには及第点をやってもいいけど」
言われてみればそうだ。彼は誰にも言わず、私が泣き止むまでずっと隣にいてくれたんだったわとビアンカは思い返した。
社交界での私の正反対な姿についても指摘してこなかった。こちらの機嫌をうかがってはいたが媚を売るわけでもなく、ただ真正直に話してくれた。
もしも貴族であったら、社交界で高い地位を築いている私の弱味を握られていたかもしれない。もしも他の軍人であったら、父親の暴力が表沙汰になって私の面目は失われていたかもしれない。もしも暴漢のような人間であったら、別の結果があったに違いない。暗闇で女が一人泣いていたのだ、あの夜のうちに自分の身に何かあったとしてもおかしくなかった。
突然ビアンカは、そのイグナーツ・トットという人物が特別な存在に思えた。あそこにいたのが彼だったからこそ、今自分は無事でいるのだ。
ビアンカは、あの夜のことを思い返した。
軍服を着た男たちから探るような視線を感じていて、彼もその一人だと思った。関わりたくないというような態度をとったつもりだったが、彼は私のことを案じてくれていた。
エルネスタの話では、彼は母親が高級娼婦だからという理由で嘲笑されてきたという。借金も代わりに背負っているとは、人の苦労など見た目ではわからないものだ。
きっと、親のために大変な思いをしている姿を自分と重ねたのかもしれない。もしそうなら、あのとき真剣な目をして、“自分のために生きろ”と言ってくれたのは、彼の本心からだったのだ。
ビアンカは、彼に対しては誠実に接しなければならない気がした。あの人は人の心に寄り添うことができる人間だ。真心で接してくれたのだから、真心で返さなければならない。
これまで社交界で交流してきた貴族たちは打算だけで動くような者たちであったが、彼らに対するものと同じ表面的なものではだめだと思った。
あのときそっけない失礼な態度をとってしまったことをお詫びするべきだし、きちんとお礼を書かなければ。ハンカチも返さないと。
彼が貸してくれたあのハンカチは、刺繍の練習台にしてしまっていた。不名誉な噂で社交界に出入りできなくなれば、もう舞踏会には行かない、彼に会うこともないと思ったからだ。なんとかして言い訳を考えなければ……新しい物も同封した方がいいかもしれない。
ビアンカの心の中で、長いこと止まっていた何かが動き出したのはこの時だった。
次話は本編に戻ります。最終話となります。
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