狙撃の名手と気高い貴婦人

Rachel

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18. 軍部の噂

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 中央本部では本日も会議が行われ、事務局では忙しなく人々が動いていたが、この中庭だけはデニスの言うように落ち着いた場所であった。
 とは言っても、貴族の庭園のような色とりどりの花々が咲いているような豪華な造りではなく、木々やベンチが置いてあるだけで、雑草がむしられていることでやっと庭と呼べるほどの簡素な空間であった。ただ、真ん中に生えているサンザシの木には白い花が咲いていた。
 午後の日差しに包まれて鳥のさえずりのみが響いているこの中庭は、今のイグナーツとビアンカ嬢にはうってつけの場所であった。

 イグナーツはビアンカ嬢とともにベンチに座った。座ってからイグナーツは、しまったと思った。
 彼女ともう少し距離をあけて座ればよかった。こちらは駐屯地帰りで半日馬を走らせてきている。絶対匂うに違いない。
 しかし、ビアンカ嬢はそんなことは露ほども気にしていないようだった。

「イグナーツ様からの手紙は、今朝届きましたの」

 ビアンカ嬢が目の前に生えているサンザシの木を見ながら言った。

「速達で、しかも大事な話があるとのことでしたが……私、大体見当はついていますの」

 イグナーツは彼女の方を見た。ビアンカ嬢は「言い訳に聞こえるかもしれませんが」と言った。

「少なくとも食堂のボイラーが壊れているなんて、早いうちにどうにかしなければならなかったことですわ」

「え?」

「ユルゲン様は笑って済ませていましたが、帝国の軍隊の食堂がそんな状態だなんていけませんわ。隊員さんたちの大事な身体の健康を保つために、やはりそういった設備はどこの部隊であってもきちんとしていなければなりません。軍事費として武器の調達も必要かもしれませんが、やはり……」

「ちょ、ちょっとまってください」

 イグナーツは慌てたように遮って言った。

「食堂のボイラー? あの第三部隊の壊れてるやつですか? まさかあれを直してくれたんですか!?」

 イグナーツの問いに、ビアンカ嬢はくるっと隣の青年の方を向くと「え?」と目を丸くさせた。

「そ、そのことではなかったのですか? で、では、人命救助の新しい勲章の件かしら」

「は……? え、な、何の話ですか、く、勲章?」

 ビアンカ嬢は焦ったようにはっと口を抑えた。

「これも違うのですか? そ、それでは……ええっと、もしや規律違反に関する罰則の……」

 ビアンカ嬢は言いかけたが、イグナーツのぽかんとした表情を読んでこれも違ったのだと悟り、口を閉ざしてしまった。彼女は少し沈黙した後、ぎこちなく首を正面のサンザシの木の方に戻すと、ゆっくり空を見上げた。

「……いいお天気ですこと。さて、イグナーツ様の大事なお話とは一体何のことかしら」

「ビアンカさん、今とぼけるのはさすがに無理がありますよ」

 イグナーツに言われて、ビアンカ嬢は「だって……ごめんなさい」と顔を赤くさせて俯いた。

「別に隠すつもりはなかったんですの。ただ、イグナーツ様の見えないところでお役に立ちたかったのです。私が依頼したとわかってしまっては、謙虚なイグナーツ様が遠慮されてしまうでしょう。でも、ユルゲン様にはきちんと相談させていただきましたのよ」

 リッツ大佐か。あの人なら、俺にはいちいち知らせる必要はないと考えそうだ。
 イグナーツは「それで」と言った。

「ビアンカさん、俺の知らないところで何をなさっていたんですか? 全部話してください、でないと結婚はできません」

「そんなっ! は、話します、話しますわ!」

 ビアンカ嬢が泣きそうな声を出して、イグナーツの手をぎゅっと握った。

「わ、私がお願いしたのは第三部隊の隊舎のボイラー修理と、規律に違反したときの罰則を皇帝にも公表することと、隊員が一刻を争う事態のとき勇敢に人命を救った時には勲章を授与するようにということ……」

 イグナーツは聞きながら目を細めた。全部俺に関わりのあることだ。というかこれはランクル少佐も噛んでるな。あの人昨夜は知らないふりをしていたけど、勲章の話なんか絶対あの人が言い出したことだ。

「それから? まだあるでしょう」

 イグナーツが先を促すと、ビアンカ嬢はしゅんと肩をまるめて小さな声で続けた。

「そ、その……レントの町の近くにあるティーボ橋の修繕と町の整備を、皇族にお願いしました。今のところはこれで全部ですわ」

 今のところ。まだこれからやろうと思っていることがあったらしい。
 イグナーツは隣に座るビアンカ嬢の横顔を見つめた。彼女は気まずそうに俯き、つい先ほどの堂々とした態度とは打って変わって身体を小さく縮めている。

「どうして、ですか」

 イグナーツは息を吐いて言った。

「あなたにはそこまでする力がある。新しい勲章や軍の規則に意見することも、皇族に交通整備を呼びかけることだってできるーーそれなら俺の気持ちなんかねじ伏せることだってできるのに。結婚だって、俺が“しません”なんて言ってもあなたが“する”と言ったら決行できる。それなのにあなたはいつも俺の気持ちを一番に優先するんだ」

 するとビアンカ嬢は、顔をすっとあげてこちらを見た。眉尻を下げ、どこか悲しげな表情をしていた。

「私は……私の力は、あなたのような方のために使いたかったのです」

 ビアンカ嬢は目を細めて続けた。

「侯爵家に生まれますと、幼い頃から嫌でも権力のもち方、使い方というものを学ばされました。生き残るためには必要なことでしたが……私、そんな世界はもうたくさんでしたの。でも生まれは変えられませんから、どうせ権力を使うのなら身も心も素敵な方のためにと心に決めていたのです」

 身も心も素敵って……俺のどこがだ。

「お、俺にはそんな価値ないですよ、ただの平民の軍人ですから」

 イグナーツは理解できないと眉を寄せたが、ビアンカ嬢は笑みを浮かべて「いいえ」と首を振った。

「イグナーツ様をおいて、ほかにはいません。自己評価をもう少しお上げになってください。あなたのお役に立てることができたら、私がこれまで重ねてきた貴族としてのばかみたいなことも無駄ではなかったと思えますのよ」

 “ばかみたいな”と言った時、ビアンカ嬢の憂いを帯びた瞳が揺れるのが目に映り、イグナーツは動揺した。突然泣き出してしまうかと思ったのだ。
 貴族としてやってきたことがばかみたいだなんて、そんなことあるんだろうか。
 下層の人間として生きてきた彼には想像すらできなかった。だがこの表情から、ビアンカ嬢がこれまで相当苦しんできたのだということはわかる。

 ビアンカ嬢は「それに」と続けた。

「イグナーツ様のお気持ちを力でねじ伏せるなんてこと、私にはとても。とてもできませんわ。だって私は……」

 ビアンカ嬢は「愛しているんですもの」と呟くように言った。

「イグナーツ様を心からお慕いしています……貴族らしからぬ発言とお思いでしょうが、でもほんとうなんですの。ほかに理由などごさいませんわ。あなたのような方、私は初めてでした。深くお慕いしているからこそ、まっすぐでお優しいイグナーツ様のお心を、何をもってしても大事にしたいと……」

と、そのときイグナーツがぱっと片手をあげたので、ビアンカ嬢は話を止めた。

「すいません」

 イグナーツは赤い顔で手のひらだけ彼女に見せて言った。

「こっちから尋ねておいて申し訳ないんですが、き、聞いてられなくて……俺、ほんと馬鹿ですね、そんな風に思ってくれているのに、問い詰めるようなことをしてほんと、その、すいません」

 辿々しく謝罪するイグナーツに、ビアンカはほっとしたように微笑んだ。

「いいえ、私もいろいろと勝手をしてしまいましたから。結婚して一緒に住むようになったらきちんと相談するようにいたしますね。明日にでも結婚したいくらいですが」

「あ、明日は、さすがにちょっと……」と言いながら、イグナーツは一緒に住むことに関してふと思い出した。そうだ、その前に確認したいことがあったんだ!

「あ、あの! おききしたいことがあって……と、問い詰めるわけじゃないんですが、その、え、えとティーボ橋の修繕を依頼したとおっしゃっていましたよね? り、理由とかっていうのはお伺いできますか」

 ビアンカ嬢はきょとんとした表情で頷いた。

「ええ。もちろんイグナーツ様がゲルント駐屯地での配属が決まったときにレントの町から通いやすいようにと考えたためですわ。アッダ村でもよかったのですが、あちらでは農作業をしなければならないのかしらと思うと、私にはレントの町の方が暮らし向きが合っていると思ったのです」

 やっぱり。イグナーツは言った。

「俺、帝都に戻るって言いましたよね。帝都にはリッツ夫人やお知り合いもいるでしょうし、結婚して暮らすのであればこっちの方がいいに決まってますよ」

しかし、これにはビアンカ嬢もツンとしたような顔になって答えた。

「イグナーツ様なら絶対にそうおっしゃるだろうと思いましたわ。私のことを優先して、ご自分のお心は蔑ろになさるだろうって。ほんとうは駐屯地配属を望んでらっしゃるでしょうに」

「べ、別に俺は……」

「はじめに申し上げますが、私、帝都に未練はいっさいございませんの。たしかにリッツ夫人が近くにいれば心強いですが、結婚してしまえばリッツ夫妻とは同じ屋根の下では暮らさないのですから、どこに住もうとあまり変わりはないでしょう。友人といえばエルネスタくらいで、彼女とは頻繁に手紙のやりとりをしています。ですから申し訳ありませんが、帝都では家探しをしていません」

 ビアンカ嬢は続けた。

「私、ランクル少佐の人柄を熟知しているわけではありませんが、イグナーツ様にはあのような方が近くにいた方が良いと思うのです。彼はイグナーツ様にとって強い味方になってくださる。それはこの前の誘拐事件のときに確信しました。もちろんずっと彼を頼りにするわけには参りませんが、今あの方と離れるのは得策ではありませんわ」

 イグナーツはぐっと唇を噛み締めた。

 ビアンカ嬢の言うことは的を得ている。平民で遠慮がちなイグナーツは、准尉という地位をもっていても軍部から蔑まれ、ぞんざいな扱いを受けることが多い。ランクル少佐が直属の上司であったことで、彼に救われることは多かったのだ。
 何より今回の出動を機に、イグナーツは平和を願うランクル少佐の元にいたいと強く思っていた。

 ビアンカ嬢は「それに」と続けた。

「イグナーツ様と仲の良いご友人の配属先もあちらとお聞きしました。それならなおのことイグナーツ様もあちらの配属の方が良いでしょう。ご友人も喜ぶはずですわ」

「でもあの、ビアンカさんの希望を全然聞いていないし……」

「あら、そんなことはありませんのよ。住む家のことは私が好きなようにと言ってくださったではありませんか。考えたのですけど、配属先はまた変更になる可能性もありますから、レントの町では借家に住もうと思っておりますの。それならあまり高くつきませんし、人の多い町ですからメイドや料理人も雇えますでしょう? 場所も人も、もう目処をつけているのです。こればっかりはイグナーツ様がどれだけ反対しても雇わせていただきますからご容赦ください」

 メイドや料理人。そうか、そういう人たちを雇うのが普通なのか。どういう生活になるのだろうか。ビアンカ嬢が立派な家の主人としてきびきびと切り盛りしているところを想像して、イグナーツはほうっと息を吐いた。

 ビアンカ嬢は続けた。

「イグナーツ様はあまり大きくないお家をとの要望でしたので、二階までのものにしました。住んでみて、もしイグナーツ様に思うことがありましたら、ほかにも候補がありますのでぜひおっしゃっていたただければと思います」

 あ、そうか、俺も住むのか。イグナーツは想像したビアンカ嬢の横に自分の姿を思い浮かべて赤面した。しかもメイドと料理人に見守られる状態らしい。一体どんな暮らしになるのだろうか。
 隊舎では料理人として食堂にゲルダさんがいるが、野営のときは自炊であるし、掃除洗濯などはいつも当番制である。なんでもやってくれるゲルダさんって感じかな、とイグナーツはなんとなく思った。

 ビアンカ嬢は「ですから、イグナーツ様」と言った。

「あとはイグナーツ様が本部にゲルント駐屯地配属の希望を出すだけなのです。新しいお家には明日にでも行けるようにしてありますから。どうかご検討ください。お願いいたします」

 ビアンカ嬢が先ほど“明日”と言ったのは、たとえ話ではなかったようだ。
 ほんとうにそんな日が来るのかと急に現実味が増してきて、イグナーツはなんだか急に照れくさくなった。「ええと」を五回繰り返してからイグナーツは次のように言った。

「ほ、ほんとうに、ビアンカさんがお嫌でないのであれば……ほんとうに大丈夫なら、ゲルント駐屯地への配属を希望させていただきます。ありがとうございます、ビアンカさん」

 イグナーツはぺこりと頭を下げてから言った。

「その、これから俺にできることがあれば、なんでも言ってください。そ、その、俺、ほんと兵士としてしか生きてこなかったので、何したらいいのかわからなくて……じゅ、準備が必要なことがあったら教えてください。上官からは十日間の休暇をもらったので、そのうちにできることであれば……」

 家の管理の勉強はした方がいいかもしれない。どこか修理しなきゃならないところがあったらそれは俺が引き受けよう。レントに行く時の馬車の手配と荷物運びも必要か。
 イグナーツはそんな風に考えていたが、ビアンカ嬢は「そうですね、準備……は、実はもうほとんど整っているのですが」と言った後でふと思いついたように顔を上げて言った。

「もしよろしければ、イグナーツ様にダンスの練習のお相手をお願いいただきたいですわ」

「え、ダ、ダンス……!?」

「はい。いつかダンスホールでイグナーツ様と踊れたらどんなに素敵かしらと思っていますの。室内でもお庭でもよろしいので、ぜひ」

 ビアンカ嬢がにこやかに言った言葉で、イグナーツはダンスの誘いを断ってしまったあの舞踏会の夜のことを思い出した。
 そうだった、俺はあのとき彼女にとても失礼なことをしたのだ。あれからどうにかしなければと思ってはいたが、出動があってすっかり忘れてしまっていた。
 踊るなんて自分が生涯生きているうちには絶対にやらない事だと思っていたが、ビアンカ嬢のためなら踊れるようになりたい。そう思ったイグナーツは少し照れながら頷いた。

「がんばり、ます、その……俺、ほんとうに、いろいろと経験がないので、ご指導お願いします」

 すると、ビアンカ嬢が嬉しそうに満面の笑みを浮かべて頬にキスをしてきたので、イグナーツは真っ赤になって「ひゃっ」と声を上げた。

 それと同時に「わわっ!」と、イグナーツでもビアンカ嬢でもない声が中庭に響いた。二人は驚いて顔を見合わせた。

 すぐに静寂がおりたが、イグナーツは先ほどの声に聞き覚えがあった。
 いつのまに来ていたんだ、あいつ。
 
 イグナーツは眉をしかめて「デニスッ!」と声を張り上げる。

 するとかぼそい声で「ほーい」と返事が聞こえてきて、そのすぐ後に別の声で「ばっかお前、返事する奴があるか!」と焦った叱責が聞こえた。
 これもイグナーツが知っている声だ。まったく!
 イグナーツは息を吐くとビアンカ嬢に「すいません、ビアンカさん」と声をかけてから彼女の隣を離れ、ベンチから立ち上がった。声がしたのは中庭の入り口の柱の方だ。

「デニス、隠れてないで出てこい! ディーボルト中尉、あなたもですよ!」

 イグナーツの怒りの声が響き、わずかな沈黙が流れた後に、柱の影から二人がぴょこっと出てきた。
 陽の光に照らされた中庭に姿を現したのは、イグナーツが名前を呼んだ通り、デニスとディーボルト中尉だった。

「わ、悪かったな、お二人さん。盗み聞きするつもりはなかったんだ……」

 ディーボルト中尉は気まずそうに頭に手をやったが、デニスはイグナーツの怒りに満ちた顔を見て慌てたように言った。

「ま、まてよ! 俺たちだけじゃねえんだって、だってほら、そこの窓んとこにはランクル少佐がいるんだぜ!」

 えっ!? イグナーツは驚いて、デニスが指でさしたすぐ後ろの窓の方を見た。
 一階の中庭を囲む廊下の窓枠には誰もいないーーと思いきや、ふっと人影が現れた。
 ランクル少佐である。なんでここに!? 

「しょ、少佐? ゲルント駐屯地にいるはずでは……!?」

「申し訳ありません」

 ランクル少佐はすまなそうに眉間を押さえながら言った。

「ここへは用事があって来たんです……お二人の邪魔をするつもりも、お二人のプライバシーを侵すつもりもなかったと言わせていただいても無意味であることはわかっていますが……ほんとうに申し訳ない」

 その言い方はとても真摯なものであったが、イグナーツは驚きを隠せなかった。しかし、イグナーツが上官に言葉を返す前に、今度はやや上の方から「そこの三人だけじゃねえぜ!」と声が降ってきた。

 イグナーツは見上げて、ぎょっとした。
 なんと二階の廊下のいくつもある窓から、大勢の隊員たちがじろじろとこちらを見下ろしているではないか。
 もしかしてさっきまでの会話を全部聞かれていたのだろうか。嘘だろ、そんなの恥ずかしすぎる。

 二階の窓際にいるうちの一人がこちらにわざとらしく敬礼してきた。イグナーツも見知った顔であっと声を漏らした。
 あれはゲルント駐屯地奪還の出動の前に話をした青年ーー第五部隊のノイベルトとかいう男だ。確か大勢の隊員たちに囲まれているような奴だった気がする。

 彼はにっと笑みを浮かべながら言った。

「本部にいる暇な連中を連れてこいって命令がくだったからよ、かき集めてきたんだ。あんたも幸せだねえ、トット准尉」

 命令がくだったって? 俺とビアンカさんの会話を盗み聞きしろと?

「い、一体、誰がそんな……」

「俺だ」

 野太い声が近くからして、イグナーツは振り返った。デニスとディーボルト中尉が出てきた柱とは反対の方からその声の主が現れた。

「リッツ大佐……」

 あんたか。イグナーツはよろよろと力が抜けたように後ずさった。ビアンカ嬢が「あ、イ、イグナーツ様、しっかり」と立ち上がって背中を支えてくれる。
 ユルゲン・リッツ大佐は得意げな笑みを浮かべて「まあ聞け」とこちらに歩み寄ってきた。

「軍部で変な噂があるって耳にしてな。うちの娘ーービアンカが、気を遣って無理矢理トット准尉と結婚しようとしてるってやつだ。甚だおかしいから、どうにかしねえとなって思ってたんだ。そしたらちょうどさっきロルム軍曹とすれ違って、ここでお前たち二人が話をしてるって聞いてな、この際現状を知ってもらった方がいいと思ったわけだーーどうだわかったか、お前ら!」

 リッツ大佐が上を見上げて声を張り上げると、ノイベルトが調子良く言った。

「イエッサー! 軍部随一の狙撃の名手イグナーツ・トット准尉が、気高い貴婦人ビアンカ・リッツ嬢にものすごく愛されてるって噂を流します! ここには第一部隊から第六部隊までの奴がいるんで、明日にはみんなに知れ渡ってるようにします!」

 リッツ大佐は「よしよし」と頷いた。

「ついでに今後トット准尉の陰口を叩いたら命の補償はないとおひれをつけておけ! 以上、解散!」

 二階にいた隊員たちは大佐にピピッと敬礼をするとそのままがやがやと散っていったようだった。
 ちょっと待て。今ものすごくまずい状況なんじゃないか? え、噂を流すって? イグナーツは理解が追いつかず、顔を歪めて突っ立っていた。
 リッツ大佐は「そんな顔するな」とイグナーツの頭をわしゃわしゃと乱した。

「荒療治だが効果はあるはずだ。ロルム軍曹から聞いたが、実際さっき男爵の甥のコンラートに嫌味を言われたんだろう。事実でもねえ事で横からぶうぶう言われるなんて癪じゃねえか」

「だ、だからと言って……!」

 リッツ大佐は「俺はな、トット准尉」と、やや真面目そうな顔で言った。

「ずっと前から、お前が歳下からも歳上からもなめられてんのが気に食わなかったんだ。狙撃に関しては一目置かれてんのに、結局生まれでばかにする奴らが大勢いる。そういう連中をぎゃふんと言わせたかったってわけだ。確かに悪いとは思ったが、後々効果は出るはずぞ」

「確かにそのお気持ちには大いに共感できますが、ユルゲン様」

 ビアンカ嬢が言った。

「事前に教えてくださればよかったのです。盗み見られたというのは気分の良いものではありませんもの。それにもっとうまく演出することだってできましたのに」

 ビアンカ嬢は呆れたような、少し不満そうな表情を浮かべているが、恥ずかしそうにはしていない。さすがは社交界の花、人から注目されるのに慣れているのだ。
 リッツ大佐とビアンカ嬢がそんな会話をしている横で、イグナーツは呆然としていた。
 気弱な青年は、呆れるとか怒るとか、そういう次元ではなかった。先ほどの令嬢との会話を皆に聞かれていたということがもうだめだった。
 自分を中傷から守るためにそういう状況を作ってくれたとは言え、もう本部を歩けない、本部どころか軍部のどこにも行ける気がしなかった。

「も、もうだめだ、俺、じょ、除隊します……」

「え、早まらないでください、トット准尉!」

 小さな声でイグナーツが決断を下そうとしたが、いつのまにかすぐ近くに来ていたランクル少佐が慌てた声で言った。
 イグナーツは上官を前にしても、羞恥のあまり顔を上げることができないままで首を振った。

「も、もう引退して軍から離れます、ここにはいられない、お世話になりました」

「お願いですからどうか落ち着いて……イグナーツ・トット准尉、顔を上げてください」

 急に名前を呼ばれ、イグナーツは反射的に顔を上げた。上官は諭すような顔をしていた。
 ああこれは、戦場で切羽詰まった状況から打開するために作戦を伝える時のような、何度も見た顔だ。こういうときの彼の作戦はいつも的確だったことも覚えている。

 少佐は言った。

「今回のことは私も止めることができず、申し訳ありませんでした。もう二度とあなたのプライバシーを犯すことがないよう、全力を尽くすと約束させてください」

 少佐は真摯な態度で続けた。

「今回の噂ですが、ゲルント駐屯地にまではさすがに及ばないでしょう。第三部隊の隊員たち皆の耳に入るのはおそらく明日の朝以降。できるだけ早く隊舎の荷物をまとめてレントの町に移ってください。今日のうちなら隊舎でも人目はまだ気にならないはずです。明日我々と一緒にここを発つのです、私もお手伝いしますから」

「……ほ、ほんとに? そう、考えていいんでしょうか」

「そのはずです。異動が少し早まっただけと考えてください。それにここでの噂もいずれ消えますよ。ひとまず事務所本部に申請に行きましょう」

 確かにそう言われればそうかもしれない。ランクル少佐が言うなら間違いない。あれ、でもまてよ。今日のうちに荷物をまとめて明日にはレントの町に行くということじゃないか。明日!?

 デニスが「やったあイグナーツ!」と楽しそうに飛び上がった。

「明日は一人寂しく駐屯地に帰らなきゃならねえって思ってたけど、お前も一緒かよ! へへへっ、お嬢さんに大感謝だ」

 そう言われて、ビアンカ嬢は「恐れ入ります」と小さくお辞儀してから隣のイグナーツに微笑んだ。

「やはり早めに準備しておいてよかったですわ。明日にはとうとう夫婦になれるのですね」

「え…………はっ!?」

 イグナーツは素っ頓狂な声を上げた。

「い、いやいやいや、ですから、明日いきなり夫婦になるのはさすがに無理です……というかビアンカさんは荷物が多いでしょう、明日じゃなくてもゆっくり来てくだされば」

「あら、ゆっくりなどしていられませんわ。イグナーツ様が住むというのに、家を切り盛りする私がいなくてはご不便をおかけしてしまいますもの。到着しましたら新しいお家にご案内しますから楽しみにしていてくださいまし。もちろん正式に結婚するまでは夫婦とは言えませんが……よろしいでしょう、ユルゲン様」

 リッツ大佐が「もちろんだ」と頷いた。

「俺は行けんが、馬車はゲルント駐屯地に向かう隊員たちに警備させよう。それならトット准尉も臆することなくビアンカに同行できるだろう」

 イグナーツは話がトントンと進んでいくのにごくりと唾を飲んだ。ぐだぐだと言っている暇はなさそうだ。これはもう覚悟を決めるしかない。というか大佐が無駄に気遣かってくれるところが怖い。

 大佐は言った。

「まああれだ、結婚式の日が決まったら連絡をくれ。そのときは何を放り出してでも飛んでいく。本部の連中もできる限り引きずっていくぞ、将校たちが出席すればトット准尉をばかにするやつも減るだろうからな」

 なんですかそれ、やめてください。教会で軍服姿の男たちがズラリと並ぶのを思い浮かべたイグナーツは顔を引き攣らせた。
 しかしビアンカ嬢がふふっと笑って「まあ嬉しい。イグナーツ様の素敵な姿を皆さんに見ていただけますのね」と言うので、青年は恥ずかしくなって下を向くと頭をかいた。

「ではイグナーツ様、私は早速準備をして参りますので屋敷に戻ります。また明日お会いしましょう」

「え、あっそうで、はは、は、はい……そ、その、お気をつけて、また明日」

 下を向いたまま目を合わせようとしなくなったイグナーツを、ビアンカ嬢はじっと見つめていたが、ふいに背伸びをしてもう一度イグナーツの頬にキスを落とした。

「ごきげんよう、私の愛しい旦那様」

 ビアンカ嬢はそう言うと身を翻し、いつのまにか柱の近くに佇んでいたリッツ夫人らしき女性のところへ駆け寄っていき、彼女とともに中庭を去っていった。
 

「おいおい、なんだよめちゃくちゃ愛されてるじゃねえか、イグナーツ! ほんと、隅に置けねえなお前も!」

 デニスがそう言いながらイグナーツに軽く体当たりすると、イグナーツは簡単にこてんと地面に倒れてしまった。
 すぐに近くにいたディーボルト中尉が「え、大丈夫か」と駆け寄る。

「しっかりしろ、トット准尉…………お、おいおい、こいつ気失ってるぞ」

 その言葉に、デニスはさっと顔を青くさせた。

「えっ、う、嘘! そんな、イグナーツ?! い、い息もしてねえっ! だ、誰か医療班を、助けをっ! し、司祭を呼ばないと!」

「息はしていますから落ち着いてください、ロルム軍曹。彼は少し驚いただけですよ。ほら、もう目を覚ましました」

 ランクル少佐が通常通りの笑顔で諌めたおかげで騒ぎにならずに済んだが、イグナーツは恥ずかしさのあまりに意識を失ったままでよかったのにと思った。
 “愛しい旦那様”だなんて言われたら、俺の弱小心臓が保つわけがない。明日ビアンカさんにあったら名前で呼んでくれとお願いしようとイグナーツは心に決めた。






次回は、ビアンカ視点になります。










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