狙撃の名手と気高い貴婦人

Rachel

文字の大きさ
上 下
17 / 20

17. 本部にて

しおりを挟む



 翌日の朝、イグナーツはディーボルト中尉やほかの隊員たち、また、デニスを含め駐屯地配属が決まった隊員たちも馬に乗ってゲルント駐屯地を出発した。
 駐屯地所属の隊員たちは、それぞれの隊舎にある私物を引き取った翌日に本部で点呼をとって出発するらしかった。デニスは「帝都に戻ってそのまましがみついてたら、駐屯地行くの免除してくれるかな」などと言っていたが、点呼をとるなら難しいだろうなとイグナーツは思った。

 一向は荒野を抜け、森を通り、村から町へと越えていき、昼過ぎにやっと帝都に到着した。

 エンゲルマン大佐の指示通りに帝国軍の中央本部に向かう前に、デニスが酒場に寄りたいと言い出すかと思いイグナーツは様子をうかがったが、昨夜のうちにたくさん飲んだためか友人は何も言わなかった。

 中央本部に着くと、隊員たちは皆財務部へ向かった。給料の受け取りである。



「イグナーツ・トット准尉、あなたの給与です。確認したらこの書類にサインを」

 ずっしりと重そうな布袋に、イグナーツは目を見張らせた。こんなにもらうのは初めてだ。駐屯地でエンゲルマン大佐に金額を言われたが、高すぎて数字は忘れてしまった。
 イグナーツは緊張しながら中をちらりと覗いてみる。キラリと光る金貨が見えた。イグナーツは顔を引き攣らせて思わず袋の口を絞った。
 確認するったって、こんなところでこんなにたくさんのお金を数えられるわけがない。というか数えていたら1日終わってしまう。
 しかし目の前にいる財務官がじっとこちらを見ているため、しぶしぶ袋を開けて少しでも数えるふりをしなければならなかった。
 冷や汗をかきながらも、イグナーツは書類にサインをすると布袋を肩掛け鞄に入れる。肩に重みがかかるのを感じながら、やっとの思いで財務部を後にした。

 廊下に出ると、デニスが窓の近くでイグナーツを待っていた。

「あれデニス、ディーボルト中尉は?」

 デニスは親指を背後にやりながら言った。

「シュルツ少将に呼ばれて行っちまった。なんかまだやることあるみてえだったけど、すぐ戻るってさ」

 シュルツ少将。あの襲撃の晩、深い矢傷がもとでしばらく意識を失っていたと聞いていたが最近になって全快したらしい。イグナーツは少しほっとして「そうか」と頷いた。

「この後イグナーツもエリス亭に行くだろ? ディーボルト中尉が一杯奢ってくれるって話だ」

 その話やっぱりまだ生きてたのか。イグナーツは苦笑いを浮かべてから言った。

「いや、まだ昼間だし俺はやめとくよ、隊舎に戻って確認したいこともあるから」

「なんだよ、確認してえことって。別になんにも…………あ、そうか!」

 デニスはにんまりと笑みを浮かべて友人を見た。

「あのお嬢さんだな? 早速彼女と会ってよろしくやろうってか! ひひひ」

 デニスの笑い方にイグナーツは顔をしかめた。

「お前もほんと隅におけねえなあ! ちょっと前までご婦人への手紙の書き方もわからねえってほざいてたのによ。まあ、初夜を十年待たせるよりはいいか」

「……もうお前とは口を聞かないことにする」

 イグナーツが無表情でそう言い、たち去ろうすると、デニスは慌てたように「嘘嘘! 悪かったって、二度と下世話なことは言わねえから許して、お願い!」と友人の肩に猿のようにしがみついた。

「っていうかさ! 彼女はわざわざ駐屯地まで会いに来てくれてたじゃねえか、そんなに急がなくてもそのうち会えるだろ。お前だって半日以上ずっと馬走らせて疲れてんだし、今日はもう休めよ」

 軽口から一転したデニスの言葉は、自分を気遣ってくれているようだったので、イグナーツは怒りを鎮めて息を吐いた。

「……どうしても彼女と話さなきゃならないことがあるんだ。できるだけ早いうちに」

 イグナーツの焦りを感じさせる言い方に、デニスは「え、そうなの」と言ってから少し真面目な顔になった。

「なーんか甘い話じゃなさそうだな。でも彼女との関係、別に悪い方には転がってねえんだろ?」

「それは……」

 イグナーツは下を向いていたが、少し考えてから「ちょっと聞くけどさ、デニスは」と友人の方を見た。

「なんかすごいことしてもらったら、見返りとかって考えた方がいいと思うか」

「は?」

「その、さ……俺と比べて、あの人は元貴族令嬢だろ。やってくれることがほんとにすごくてさ。俺、到底返せそうにないんだ。身分が違うんだからあたりまえなんだけどさ、それなのに俺なんかが一緒にいていいのかな」

 俯きながらそう言ったイグナーツに、デニスは眉をしかめて「お前はほんと馬鹿だなあ」とため息をついた。

「忘れちまったのかよ、お前は一回彼女を暴漢から助けてるんだぜ? そんなのと比べたら何しようと比較にもなんねえだろ」

「あれは、別に」

「別に、なんだよ。っていうかさ」

 デニスは頭をかいて続けた。

「そもそも好きな相手には何したって、し足りないもんなんじゃねえの。お前だって彼女のために自分が罰を受けるってのを承知で規律破ったんだ、よっぽどすごいって思うけどな。まああれだ……お前はお前らしく彼女のことを思いやってるし、お嬢さんもお嬢さんらしく思いやってるってことだ。あんま気負うなよ」

 デニスの言葉に、イグナーツ眉尻を下げて「そうかなあ」と呟くように言った。

「俺はただあたりまえのことをやっただけだし、俺ばっかり得してる気がして、彼女が無理してたら申し訳なくって……」

「よくわかっているではないか」

 突然廊下に知らない声が響いて、イグナーツとデニスは驚いてそちらの方を振り向いた。

 廊下の先には軍人が立っていた。軍帽の下からは金髪が覗いており、青い目がこちらを小馬鹿にしたように見ている。
 イグナーツは誰だろうと目を細めたが、知らない顔だった。軍服にはいくつも勲章がついているようだ。佇まいから、位の高い将校であることはなんとなくわかった。何よりすらりと背の高い大きな男だ。
 彼はこちらに歩いてくるとイグナーツを見下ろすようにして言った。

「あのご令嬢が平民のお前と結婚したところで得することなど何一つない。会話も価値観も何一つお前とは合わない」

「おい、あんたに何が……!」

 横からデニスが思わず声を上げようとしたが、男が鋭い眼光でギロッと睨んで黙らせてしまった。
 男はイグナーツの方を向いて続けた。

「まさかお前のようなしょうもない奴がご令嬢のお情けの求婚をまともに受けるとは思わなかった。自分が何者か考えたことがないのか? 銃を撃つしか脳がないのに、元貴族の彼女を幸せにできるとでも思っているのか」

 責め立てるような言い方に、イグナーツはぎゅっと唇を噛み締めた。握った拳が震えている。何か、何か言い返さなくては。そう思うだけで、口は開かない。
 イグナーツはこんな風になってしまう自分が情けなかった。
 男は続けた。

「そもそもラミアの子であるお前がクラッセン侯爵家のご令嬢と結婚などばかげている。あの人がどれだけ高貴な方なのか、皆がわかっていることだぞ。社交辞令で言った言葉だが、彼女はもう引けなくなっているのだ、お前から断りを申し出なければ彼女が気の毒ではないか。ラミアの子はラミアの子らしく……」

「よろしいかしら」

 将校の話は、突然割り入ってきた婦人の声で遮られた。
 デニスが振り返って「あっ」と小さな声を上げる。イグナーツは声からすぐに誰が来たのかはわかったが、彼女の方をまっすぐに見ることができなかった。

 現れた女性ーービアンカ・リッツ嬢は氷のような表情を浮かべていた。
 ものすごく怒っているのは、初対面であるデニスにもわかった。彼は初めて間近で見る件の婦人に、“こんなに怖そうな人なのか”と目を見開いた。
 それは将校の男も同じだったようで、尊大だった顔が一瞬にして真っ青になっていた。

 ビアンカ嬢は例のごとく背筋をピンと立てたまま軍人たちの方に歩み寄り、冷めた声で言った。

「話を遮って申し訳ございません、でもあまりにひどい侮辱でしたので聞いていられなかったんですの。帝国軍隊の中央本部で耳にするなどとは思いませんでしたわ。ラミアなどと原始的な言い方をまだお使いになっているなんて、ここは古典劇の舞台なのでしょうか。軍人よりも役者が向いているのではありません?」

 古典劇の舞台だって。
 あからさまな皮肉に、軍人の男は顔面をひくっと歪ませ、デニスとはびくりと肩を強ばらせた。
 イグナーツは目を閉じた。ビアンカ嬢がこちらに歩いてくるのが気配でわかる。
 ビアンカ嬢は続けた。

「なぜか私の気持ちを代弁しているかのような言い方でしたが、私とイグナーツ・トット准尉の結婚を、あなたにばかげているなどと言われる筋合いはございません。なにより……」

 ビアンカ嬢はイグナーツを庇うようにして男の目の前まで来ると、わざとらしく怪訝そうに言った。

「私のことを知ったような口ぶりですが、私たち、話すのは初めてですわね。あなた、どこのどなたですの?」

 デニスがひゅっと息をのんだのがイグナーツの耳にも聞こえた。
 軍人の男は顔を赤くさせてばつが悪そうに「な、名乗るほどの者では……その、失礼いたしました」と目を泳がせながら言うと、そそくさとどこかへ行ってしまった。
 イグナーツは顔を上げて、その後ろ姿を見送った。つい先ほどまで将校の彼があんなに大きく見えたのに、今ではその背中がとても小さく見える。

 デニスは「やれやれ」と肩をすくめた。

「名乗るほどの者ではって……去り方だけはかっこつけてんな。結局誰だったんだ、あいつ」

 するとビアンカ嬢が「ゲッツィー大佐の三男、コンラート様ですわ」と答えた。

「えっお嬢さん、ご存じだったんですか!?」

 デニスはぎょっとした表情を浮かべると、「一応存じております」とビアンカ嬢は頷いた。

「軍部での地位は存じ上げませんが、伯父に当たる方が男爵の地位についています。私に求婚の手紙を寄越してきたうちの一人ですの。でも面識はありませんし、私が知らないと言った方があのような方には効果があると思ったのです。今回のことはきっと求婚をお断りした腹いせですから」

 デニスは「効果ありすぎっすよ、ちびるかと思った」と小さく呟いたが、ビアンカ嬢はそれには耳を貸さずくるりと後ろを振り向いた。そして先ほどとは打って変わったような表情を浮かべて彼の前で跪くと、泣きそうな声で「イグナーツ様!」と頭を下げた。

「どうかお許しを。私のせいで嫌な思いをさせてしまいました。ほんとうに申し訳ございません。あんな方の話は真に受けないでくださいまし。どうか結婚をやめるなんて言わないで……お願いです。でなければ私、死んでしまいます」

 まるで乞うような言い方に、横から見ていたデニスは目をぱちくりさせた。さっきの男に対する態度との差がすごい。元貴族の令嬢、怖い。

 しかしイグナーツの方は戸惑ったような声で言った。

「そ、んな、俺は大丈夫です、というか、あ、あの、顔を上げて……た、立ってください」

 イグナーツが慌ててそう言ったのに、ビアンカ嬢は立ち上がったが、顔を伏せながら「もう二度とあのようなことがないようにいたしますわね」と言った。

「そもそも、こうして前触れもなく突然訪問してしまって申し訳なく思っております。イグナーツ様もご不満に思っていらっしゃることでしょう」

 イグナーツは「不満だなんて」と首を振った。

「ええとその、むしろ来てくださってありがたいというか、話さなきゃならないことが……あ、で、でもあの、さっきは庇ってくれてありがとうございました。俺、その……全然言い返せなくて、ほんと、情けなくて、不甲斐ないばかりです」

 イグナーツが呟くように言うと、ビアンカ嬢は勢いよく顔を上げて「なにをおっしゃるの!」と叫ぶように言った。

「あんな失礼極まりない方に、イグナーツ様がお返事なさる必要などありませんのよ。ああした輩の相手はどうぞ私にお任せくださいまし。それよりも……」

 ビアンカ嬢は目を細めて言った。

「イグナーツ様が無事に任務を終えられて、心から嬉しく思います。お忙しいところに押しかけてしまって申し訳ありません。ひと目お会いできればと思い、こうして参りましたの。その……」

 ビアンカ嬢は一瞬だけデニスの方を見たが、すぐにイグナーツの方に視線を戻して言った。

「この後のイグナーツ様のご予定をお伺いできますでしょうか。ご友人とお出かけする前に、少しだけでもお話ができればと……」

「……あーーはいはいはいはい、そうだそうだ、そうだった!」

 令嬢の視線を受けてデニスが大きく声を上げた。

「イグナーツはこれから暇すぎてなんにも予定ねえんだけど、俺はディーボルト中尉に手伝えって言われてたんだったなー! 危ねえ危ねえ、忘れるとこだったぜ。それにエリス亭の席も俺が予約しにいかねえと! えーと、たぶんここの中庭なら人通りも少ねえから落ち着いて話せるんじゃねえかな! んじゃ、そういうわけでまたな、イグナーツ。お嬢さん、御前を失礼いたしますよ」

 急にべらべらと喋り出したかと思うと、デニスは調子よく片目を瞑り、手をひらひらとさせながら廊下を去っていった。
 なんだ、今の取ってつけたような理由。イグナーツは「わざとらしい奴ですみません」と気まずそうに友人を見送ったが、ビアンカ嬢は「良い方ですわね」とふっと笑みを浮かべた。

「それではイグナーツ様、ご友人がお薦めしてくださった中庭に連れていってくださいますか」

 ビアンカ嬢がごく自然に腕を絡めてきたのに、イグナーツはどきっとしながら「は、はは、はい」と答えた。






しおりを挟む

処理中です...