狙撃の名手と気高い貴婦人

Rachel

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5. 貴婦人の証言

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 この話には会話の中で性暴力(未遂)の描写がでてきます。苦手な方はご注意ください。








 誘拐騒動から二日後。第三部隊の隊員たちは、警備など任務以外の訓練は今日も休みとなっていた。

 隊舎は朝からある噂でもちきりだったーー「トット准尉は勝手に発砲し農夫に怪我を負わせたため規律違反で処分対象になっている」という内容だ。ほかにも“准尉”の地位が剥奪だとか、軍隊追放とか、銃殺刑などというおまけもついていたが、彼が今牢に入れられているということはほんとうらしかった。昨日一日本部で緊急会議が行われたのだが、未だに処分について決定されていないのだ。

 食堂で噂を聞きつけたデニスは、朝食もそこそこに隊舎を走り回ってディーボルト中尉を探していた。彼が本部に出向く前に、イグナーツにどのような処罰がくだるのか、少しでも軽くならないかとかけ合おうと思ったのである。「撃たれた相手は負傷しただけで死んでないでしょう」とか「あのとき馬を貸しちまった俺が悪いんです」というくらいしか言い訳が思いつかなかったが、デニスはとにかくどうにかしたかった。
 食堂の方から引き返して隊舎の受付前を通りかかったところで、探していた人物の姿が見えた。

「うわああディーボルト中尉いっ!」

 デニスは思わず駆け寄ったが、中尉の隣にランクル少佐がいることに気づいた。

「ラ、ランクル少佐……っ」

「これはロルム軍曹、朝から元気ですね」

 ランクル少佐がこちらに向かって薄い笑みを浮かべて言ったのに、デニスは後ずさりした。
 彼はこの上官が苦手だった。自分より10歳上のディーボルト中尉は快活で人好きのする親しみやすい上官であるのだが、ランクル少佐の方は年齢不詳、物静かでいつもにこにこしており、心の内がわかりにくい人物だ。イグナーツは「そうか? むしろわかりやすい方だと思うけどな」と否定していたが、デニスは全く理解できなかった。今も怒っているのか笑っているのかさっぱりだ。
 デニスは緊張しながらもピッと敬礼をしてから言った。

「そ、その、イグナーツは……ト、トット准尉はどうなるのでしょうか!? もう処分は決まったのでしょうか! もとを正せば俺が勝手に馬を貸してしまったのが原因です!」

 ディーボルト中尉は、ランクル少佐と顔を見合わせてから苦く笑った。

「まあ心配だよな……今はまだ決まってない。別に隊舎から許可なく出たとか、俺が使う予定だった馬に乗って現場に行っちまったとかそういうことはどうでもいいんだ」

「えっ、それじゃ」

「問題になってるのは、あのときあいつが農夫を撃ったことだ。武器を持っていたとはいえ、相手はただの農夫。先に包囲してた第一部隊も指示を待って動かなかったからなーー命令に背いたということで立派な規律違反だ。ただ、トット准尉も今まで従軍してきたなかで勝手をするような奴じゃなかったから、発砲したのは何か理由があるんじゃないかって話になってる」

「理由……そ、そうですよ! あいつが何にもなしに撃つなんて考えられません! あいつは、あいつは!」

「わかってるわかってる。俺たちもそう思ってるから」

 ディーボルト中尉が落ち着かせようとデニスの肩をぽんぽんと叩く。
 ランクル少佐が言った。

「残念ながら軍の会議ではトット准尉が名誉を手に入れるために先んじて農夫を殺そうとしたという話が優勢になっています。バルツァー中将などは規律違反の見せしめとして、またクラッセン侯爵を油断させるために銃殺刑にしてはどうかなどと提案していて……正直困っています」

「じゅ、うさつ……!? ひどい、そ、そんな……!」

 デニスが青い顔をしたのに、ランクル少佐は皮肉げにわずかに口を歪めて「脳無しにもほどがあるでしょう」と言った。

「第一にトット准尉が農夫たちを本気で殺すつもりであったなら、あの距離で相手の脳天を外すことなど彼の腕ではあり得ないことです」

 言われてみればそうだ、とデニスは思った。撃たれた農夫たちはいずれも軽傷と聞いている。
 少佐は続けた。

「私はトット准尉が農夫たちの動きを止めようとしたのではとみています。彼らが何をしていたのかはわかりませんが、何かきっかけがあったはず。何かが起こっていたのに違いありません。ですから私たちは、これから件の令嬢に話を聞きにいこうと思うのです」

「え……クラッセン侯爵令嬢に?」

 ランクル少佐は「ええ」と頷いた。

「あなたもご存知の通り、彼女が警戒すべき侯爵のご息女であることは百も承知です。しかし背に腹は代えられませんからね」

 デニスはゆるゆると頷いた。そうだ、もしクラッセン侯爵令嬢がイグナーツの話していた通りの人物なら、力になってくれる可能性がある。あいつが牢に入っていると聞けば少しは同情してくれるかも。
 デニスは「彼女に」と言った。

「彼女に伝えてください。あいつは、あなたのことをほんとうに大事に思っていると」

 ランクル少佐はそれを聞くと、少し顔をやわらげた。そしていつもの造り笑いが嘘のように深い笑みを浮かべると「承知しました」と言った。初めて見た上官のその笑顔に、デニスは驚きの声を上げるのを必死で耐えた。


**********


「お嬢様にとりつぎますので、お座りになってお待ちください」

 ランクル少佐とディーボルト中尉はクラッセン侯爵邸の広い客間の真ん中の椅子に腰を下ろした。調べの通り屋敷にいるの使用人たちと令嬢だけで、クラッセン侯爵は外出中のようだった。
 ディーボルト中尉はぐるりと周りを見回した。ここ客間の調度品は主に輸入品で、贅を尽くしたものばかりだ。出されたお茶の茶器も金で縁取られている。

「これはすごい……きっと強奪した物があちこちにありますよ。リッツ大佐が来なくてよかったですね」

 ディーボルト中尉の言葉に、ランクル少佐は頷いた。

「文字通り巣窟ですからね。彼がここへ来たら、まっすぐ書斎に向かって扉を破ることは目に見えています。あなたが同伴を志願してくれて助かりました」

「一応彼女とは面識がありますので。まあ、夜会で踊った男をいちいち覚えていないかもしれませんが」

 そのとき扉がコンコンと叩かれたので、二人は立ち上がった。
 入ってきたのはクラッセン侯爵令嬢その人だった。笑顔ではなかったが、背はピンと伸びていて礼儀正しくお辞儀をした。

「お待たせいたしました、ビアンカ・ロートバルト・フォン・クラッセンです」

「お時間を取らせてしまい申し訳ありません、私は第一部隊、第三部隊兼任所属のランクル少佐と申します」

 ランクル少佐がいつもの薄い笑みを浮かべて名乗ると、クラッセン侯爵令嬢は頷いた。

「ええ、あの村にいて私を助けてくださった方でしょう。覚えておりますわ」

 ランクル少佐は「恐縮です」と言ってから隣に座る男を指した。

「それからこちらはディーボルト中尉です」

「こんにちは、クラッセン侯爵令嬢」

 彼を前にすると、令嬢は一瞬警戒したような表情になったが、すぐに薄い笑みを浮かべた。

「夜会でダンスに誘ってくださった方ですわね、たしかおもしろい話をしてくださった」

 ディーボルト中尉は嬉しそうに笑い声を上げた。

「おや、覚えておいでとは光栄です。あんなくだらない話をしてしまったので、記憶から抹殺されたかと思いました」

「もちろん忘れませんわ。私ダンスしているのに笑ってしまって、ステップを間違えましたもの……どうぞお座りになって」

 令嬢の言葉に従い、軍人二人は豪華な椅子に座った。彼女と一緒に入ってきたメイドは、新しいお茶をセットし終えると小さくお辞儀をして出ていった。

「ご用をお伺いしてもよろしいでしょうか。あいにく父は不在ですの」

 座りながらクラッセン侯爵令嬢が言うと、ランクル少佐は「存じております」と頷いた。

「私たちはあなたにお会いしたくて参りました。どうか力を貸していただきたい」

 クラッセン侯爵令嬢は険しい顔になった。

「どうでしょう……今回の騒動でご存知の通り、私は父に見放されております。私にできることはないと、前にも申し上げたつもりでしたが」

 令嬢は夜会で探りを入れたディーボルト中尉の方を見た。中尉は慌てて「あ、いやその話ではないんですよ、ビアンカ嬢」と首を振った。

「今回来たのは誘拐事件に関することです。あなたの証言がほしいんですよ」

 ディーボルト中尉の言葉に、クラッセン侯爵令嬢は「あら」と目を瞬かせた。

「まあそれは……大変失礼いたしました。私てっきり……でも、あの日の出来事はひと通りお話ししたつもりでしたが」

「すべてお話いただきたいのです。こちらも切羽詰まっておりましてね」

 ランクル少佐は笑みを浮かべたまま眉尻を下げて言った。

「事情をお話ししましょう……あの日、あなたが食糧庫の三階に囚われていたとき、銃が二度発砲され、二人撃たれたのをご存知ですか」

 令嬢は「ええ、もちろん。二人とも目の前で倒れましたから」と答えると、ランクル少佐は「結構」と続けた。

「その弾を撃った男はイグナーツ・トット准尉という人物でしてね、なかなか優れた狙撃手なのですよ。食糧庫から少し離れたところに林がありましたでしょう。その木に登って狙ったようです」

「まあ彼が……そうでしたか」

 令嬢の顔が少しほっとしたような、やわらいだ表情になったのに、ディーボルト中尉はおやと思った。
 ランクル少佐はさらに続けた。

「しかし彼があの場で撃ったのは規律違反でした。昨日から今日にかけて、トット准尉にどのような処分がくだるか会議で検討中です」

「えっ……で、でも、その、撃たれた人たちは私を誘拐した男たちですのに」

「ええ、確かに貴族令嬢の誘拐という罪には問われます。しかしその前に、私たち軍に属する者の銃は戦時中の敵国に対するものであって、国の民に向けるものではない。敵国の場合も上から命令がくだって初めて発砲して良いことになっています。ですから、指示もなく勝手に発砲することは、相手が残忍極まりない殺人鬼でない限り、ひどく重い罪になるのです」

 令嬢の顔が少し陰った。

「ひどく重い罪とは……どのような?」

「そうですね、これまでの前例から考えますと、鞭打ちの後に辺境地への左遷。これは良い方で、悪い時は銃殺ということも……」

「そんな……っ!」

 クラッセン侯爵令嬢は明らかに動揺したように震えた手を口に押し当てて俯いた。
 ディーボルト中尉は心中で「おやおやおや」と繰り返した。知り合い程度ではこんなに動揺しないんじゃないか?
 ランクル少佐は、しばらく沈黙して彼女の方を見ていたが、ふいに「ですが私としても腑に落ちない点がありましてね」と再び話し始めた。

「トット准尉は、これまで何度も従軍してきましたが、今まで勝手に発砲するなどということはなかったのですよ。命令に背くとどうなるのか十分にわかっている。わかっていて発砲したのであれば、何か彼に引き金を引かせるような出来事があったとしか考えられません」

 令嬢ははっと拳を握り、ランクル少佐の方を見た。彼は真剣な表情を浮かべていた。

「ですから、あなたにはあそこで何があったのか、包み隠さずお話ししていただきたいのです。言いづらいこともあるかもしれません。思い出したくないこともきっとあるでしょう……ですが彼のためにどうかご協力いただきたい」

 少佐がすっと頭を下げたのに、ぼんやりしていたディーボルト中尉も慌てて彼に従った。
 ビアンカ嬢は少し沈黙した後で「か、彼は」と言った。

「イグナーツ・トット様の方からは……その、な、何を見たのか聞かなかったのですか」

「問いただそうとしたんですがね、答えてくれなかったのです。“彼女の名誉のために言えない”、だそうですよ」

 クラッセン侯爵令嬢はそれを聞くと目を丸くさせ、顔を両手で覆った。そのまま「私、のため……なんてこと……」とくぐもった声でつぶやいた。
 そんな彼女に、ランクル少佐はわずかに目を細めたが、変わらぬ声質のまま言った。

「彼は今牢に入っています。処分はあなたの証言で大きく左右されます。どうか力を貸してください」

 クラッセン侯爵令嬢はハンカチを取り出して鼻を抑えていた。いろいろと考えているのか、葛藤しているような表情を浮かべている。ディーボルト中尉はちらりと隣に座る上官を見た。彼はいつになく真剣な顔で令嬢を見ていた。
 数分の間沈黙が流れたが、やがて令嬢が「わかりました」と口を開いた。

「彼のーーイグナーツ・トット様の処分が軽くなるのであれば、喜んでお話しさせていただきますーー昨日の午前中、私は自室で刺繍をしておりました。すると突然農夫たちが六、七人ほど入ってきました。彼らは武器を持っており、使用人たちを脅しつけると私を縛り、屋敷を出ました。私は怖くて声も出ませんでした。彼らはそのまま私を連れてロアンド村の食糧庫の三階に向かいました。後になって、農夫たちの会話を聞きまして、すべて父の不正のせいであると気づきました。私を捕らえても父はきっと変わらないと言いましたが無駄でした」

 ディーボルト中尉はうんうんと頷いた。ここまでは軍においても報告に上がったことだ。
 令嬢は続けた。

「食糧庫の三階には、いたるところに木箱がありました。おそらく秋にりんごを収穫するときに使うものです……私はその上に座れと命じられました。二人の黒い髭を生やした男たちが常に私を見張っておりました。彼らがリーダーのようでした。金髪の若い人が連絡係のようで、下の階で見張っている人たちの話を知らせにときどき三階に上がってきました。それで外の様子を知らせているようでした。結局半日ほどずっとそのままでしたがーー急にその若い人が慌てたように階段を上がってきて、軍隊の方々の報告を聞いたと言いました」

 ランクル少佐はこのとき少し目を細めた。

「報告を聞いた……隊員の声が聞こえたのですね」

 クラッセン侯爵令嬢は「ええ、おそらく」と頷いた。

「その連絡係の人によれば、私の父はとくに今回の件には感心がなく、好きにやらせておけと言ったらしいとのことでした。私は“ああやっぱり”と思いましたが、男たちはひどく怒り出して……怒鳴ったり、木箱を蹴とばし始めました。とても乱暴で、蹴られた木箱はばらばらになって……私、恐ろしくてそこで固まってしまいました」

 ディーボルト中尉は、令嬢の手が震えているのが目に入った。よほど怖かったのだろう。彼女はもう片方の手でぎゅっと手を抑えると続けた。

「彼らのうちの一人が“このままじゃ気が済まない、なにか侯爵を困らせる方法はないか、ここを燃やすのはどうだ”と言いました。それでもう一人が“食糧庫を燃やしたんじゃ、自分たちが苦しくなるだけだ”と答えた後、二人は急に私の方を見ました。そして最初の人が“一人娘を傷物にすれば少しは堪えるだろうな”と言って……二人は顔を見合わせて……こちらに近づいてくると、わ、私の肩を……つ、掴みまし、た」

 クラッセン侯爵令嬢が声まで震え出したので、ディーボルト中尉は思わず立ち上がった。

「ビアンカ嬢、一度休憩しませんか。侍女かどなたかをお呼びしてきますよ。温かいお茶をもう一度淹れ直してもらった方が……」

 しかし令嬢は「い、いいえ、いいえ」と下を向くと鼻を拭いて首を振った。

「わ、私は大丈夫です、誰も呼ばないで……聞き、苦しくて申し訳ありませ、ん」

「しかし……」

 ディーボルト中尉が心配そうな声を出したのに、ランクル少佐は「中尉」と呼びかけた。

「私たちは今、特別にお話を窺っているのです。安易に人は呼べませんよ……ビアンカ嬢、ゆっくりでかまいませんからね」

 クラッセン侯爵令嬢は「ええ、ありがとうございます」と言うと、一度大きく深呼吸をした。そして再びいつもの令嬢らしい表情を浮かべた。

「ディーボルト中尉も、どうぞお座りになってください。もう、もう大丈夫ですから」

 ディーボルト中尉が眉尻を下げながら「わかりました」と言って従った。
 令嬢は再び膝の上で拳を握ると話の続きを始めた。

「男たちが近づいてきて、私の肩を掴みましたので、“やめて”と力を込めて抵抗しようとしました。でも彼らはとても強い力で抑えていたので私はちっとも動くことができず、恐ろしさから喉が押しつぶされたように悲鳴も出ませんでした……一人が私の身体を木箱の上に、お、押し倒して……もう一人が私の、ドレスの裾を、ま、捲ったときでした。突然ダンという大きな音がして……見上げると、私に覆いかぶさっていた人がうめき声をあげて床に倒れました。どうしたのかと思ったとき、またダンという音がして、今度は裾を捲っていた人が倒れました。私は突然の出来事に驚いて何が起こったのかわかりませんでした。二人とも銃で撃たれたのだとわかったのは、軍の方々が三階まで上がってきてからでした。その後は皆さんに保護していただきました……お、お話していなかったことは、以上ですわ。もし、もしも、その人たちが撃たれていなかったら、私は……」

 令嬢は青い顔をしたまま言葉を打ち切ってしまうと、すっかり冷めているお茶をぐっと飲み干した。
 ディーボルト中尉は目を細めた。そんなことが起きていたのか。撃たれた農夫たちは何も言わないので、こちらは知るよしもなかった。
 隊員たちによれば、三階に上がったときの令嬢は腕を縛られているだけで足は拘束されておらず、自由に動ける様子だったとしか報告されていなかった。第一部隊は観察力の特訓が必要だな、とディーボルト中尉は心の中に書き留めた。
 ランクル少佐は少しの間令嬢を見ていたが、突然肩が膝につくくらいにぐっと頭を下げた。

「申し訳ありませんでした、ビアンカ嬢。まずは今回の嫌な記憶を思い出させてしまったことを深くお詫びいたします」

「とんでもありません、ほんとうは早く話すべきだったのですから。それに話してしまった方がすっきりしますもの」

 侯爵令嬢は気丈にもそう言ったが、ランクル少佐は「あなたの勇気に感謝いたします……ですが」と続けた。

「お詫びすることはまだあります。あなたがそんな目に合っていたとは思いもせず、私はただ食糧庫の外で何もせずに突っ立っていただけだった……私は自分が恥ずかしい。若いご婦人が中にいるのですから、もっとあらゆる可能性を考えて警戒すべきでした。それに今回のお話ですが、思うに隊員の報告が大声でなければ農夫たちの耳に入ることはなかったかもしれません。彼らが腹を立ててあなたに手を出そうと思わなかったかもしれないのです。完全にこちらの落ち度でした」

 令嬢は「いいえ」と目を細めて苦く笑った。

「いいえ……もとを正せば、すべては農夫たちをここまで追い詰めた父が悪いのです。わかっておりました、いつかこうなるのではと」

 ディーボルト中尉は、令嬢の悲しそうな顔が、どこか今牢に入れられている男と重なって見えた。
 頭を下げたままのランクル少佐に、クラッセン侯爵令嬢が言った。

「ランクル少佐、どうかお顔を上げて……そうだわ、今回のお話が報告されましたら、イグナーツ・トット様の処分は軽くなりますでしょうか。どうか教えてください」

 ランクル少佐は言われた通り顔を上げると、少し柔らかい笑みを浮かべて言った。

「ええ、処分どころか英雄にしたいくらいですよ。彼はきちんとあなたという臣民を守っていたのですからねーー彼のご友人が言っていました、トット准尉はあなたのことをとても大切に思っている、と。誘拐されたときいてすぐに馬を飛ばしてやってきたそうですよ。気が気じゃなかったのでしょうね」

 クラッセン侯爵令嬢は「そ、そうですの」と言って照れを隠すようにそっぽを向いた。その様子にディーボルト中尉は「え? やっぱりそういう仲だったのですか?」と声を漏らしそうになったが、堪えてその場は目を丸くさせるだけにとどめた。どうもあの夜会でダンスを誘ったときとはずいぶん様子が違っているな。あのときはツンとしていてにこりともせず、貴族以外とは関わりたくないとでも言わんばかりの印象だった。いや、むしろそれが侯爵家の人間として当然だったのだろう。あの狙撃手、一体何をしたんだ。

ディーボルト中尉がいろいろと考えている横で、ランクル少佐が「それからここだけの話ですが」と小さい声で令嬢に言った。

「今回の騒動を機に、お父上の悪事の証拠を一部掴みました。おそらく近いうちに芋づる式に他の証拠も明らかになります……準備が必要だと思いますが、どうか慎重に動いてくださいね」

「準備、ですか?」

「ええ。使用人のこと、心配なさっていたのでしょう。トット准尉が言っていましたよ」

 クラッセン侯爵令嬢は、ランクル少佐の言葉に少し考えを巡らせてから「あ!」と思い出したように声を上げた。

「確かに言いましたわ……ではランクル少佐は私のことをお疑いになっていないのですね」

「ええ、今回の件で確信しました。でもそれ以前に、あなたのことを気にかけるようにするとトット准尉と約束していましたから」

 令嬢は「まあ」と胸に手を当てた。それから少し空になった茶器を見つめていたが、「あの」と遠慮がちに言った。

「お願いがございますの……イグナーツ・トット様にお手紙をお渡ししてくださいませんか。これから書きますので、少しお待ちいただくことになりますけれど、もしよろしければ」

 ディーボルト中尉は目を丸くさせ、ランクル少佐は笑みを深めて頷いた。

「もちろんですとも、待ちましょう」





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