狙撃の名手と気高い貴婦人

Rachel

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1. 貴婦人の涙

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「まあご覧になって、“ラミア”の子だわ」

 聞こえた言葉にイグナーツはぴくりと反応した。
 またか。自分のことを言われたのかと思った彼は、声が聞こえた方をおそるおそる振り返った。

 話しているのは、すぐ後ろにいる二人の若い令嬢たちのようだった。花柄の流行りのドレスに身を包んでいる。
 しかし、彼女たちの視線はこちらではなく遠くの女に注がれていた。俺のことじゃないらしい。イグナーツはそのことに少なからず安堵したが、声を潜めることなく続けられる令嬢たちの会話に顔をしかめた。

「あらほんとね、よくまあ社交界に顔を出せたこと」

「きれいに見せてはいるけど、所詮“ラミア”の子ね。下品な仕草でお里が知れるわ」

 彼女たちの言う“ラミア”とはつまり蛇女のこと、この国における高級娼婦の蔑称であった。もともとは古き神話のなかで男を誘惑し性狂いにする女の怪物の名前である。最近では高級娼婦を指す言葉として市井に浸透していた。

 令嬢たちの話題の的になっている“ラミア”の子は、離れたところで慎ましい黒のドレスに身を包み、壁際に立っていた。

「ふふ、あの古ぼけたドレス。お古かしら」

「近づいたら変な匂いがしそう。品のなさが移るわ、いやね」

 あんな風に大人しそうな様子の少女でも、ここではその生まれのせいで針のむしろになる。
 イグナーツは手袋をした拳をぐっと握りしめ、顔を歪ませた。

 イグナーツがここまで感情移入してしまうのは、彼の母親も高級娼婦だったからだ。
 彼は幼い頃より周りから“ラミア”の子と散々言われ、いつもばかにされてきた。職場で言われるのはもう慣れていたが、まさかこういう洗練された場所でも耳にするとは思わなかった。
 とにかく気分が悪くなる。イグナーツは会話を聞かなかったことにして、その場から離れようとした。
 
 そのときだった。

「お控えなさい」

 すぐ近くで怒りを含んだ女性の声がした。
 イグナーツが目を向けると、若い婦人が先程の二人の娘たちのすぐ後ろに立っていた。
 声の主はこの令嬢らしい。きっちり結い上げられた栗色の髪やドレスには大粒の真珠がいくつも散りばめられている。恐ろしく高価なものだろう。権力のある大貴族の娘に違いないとイグナーツは思った。
 その圧倒的な威圧感に、こそこそ言っていた二人の娘たちは固まったように動かなくなった。心なしか青ざめている。
 厳しい表情をして立っている貴婦人は言った。

「そのような大きな声で人を蔑む言葉を言うべきではありません。親がどんな人物だろうと、子どもに何の関係がありますの? そもそも職業を笑いの種にするなどもってのほかです。動物に喩えることこそ品がないわ。このような場所に招待されている身で……恥を知りなさい」

 そう言われた二人は青かった顔を次の瞬間には真っ赤にさせて「し、しし、失礼しました」と言うとそそくさとどこかへ行ってしまった。

 イグナーツは二人をやり込めてしまった女性に、思わず目を見張った。

 すごい。なんだ、この人。堂々とした言い方で胸がすっとした。まるで裁判中に自分の弁護人が憎い相手を言い負かしてくれたような気分だ。これが本物の貴族のご令嬢か。

 二人の娘たちが去った後も、イグナーツはじろじろと見ないように意識しながら、テーブルを二つ挟んだ向こう側に移動し気配を消して彼女の様子をうかがった。
 中傷の的になっていた向こうに佇む件の黒服の少女と、この堂々とした令嬢は友人同士なのかと思ったが、見ている限りはそうでもないらしい。少女の方は、こちらの悶着など知る由もないようで、貴公子に声をかけられてダンスに興じ始めた。
 令嬢の方は、あいかわらず凛とした表情を崩すことなく、しばらくそのままイグナーツからやや離れたところに背を向けて立っている。時折高貴そうな着飾った人々に何度か挨拶されており、やはり彼女は身分の高い令嬢なのだとわかった。
 かっこいいなあとイグナーツは純粋に思った。先程のこともあるが、この舞踏会という場所で、彼女はどのようにふるまうべきか完璧に理解しているようだった。背筋を伸ばし、わずかに薄い笑みを浮かべ、受け答えをする。絵に描いたような貴婦人を前にして、舞踏会の雰囲気に不慣れなイグナーツはぼうっと見惚れてしまっていた。

 そのうちにイグナーツの見知った顔の男が彼女の前に現れた。

 あれ、ディーボルト中尉じゃないか。ハンサムな金髪碧眼の将校が手を差し出しているのを見て、イグナーツは彼が件の令嬢をダンスに誘っているのだと理解した。
 彼女は少し迷ったようだが、小さくお辞儀をするとディーボルト中尉の手を取った。二人はホールの真ん中へ行き、ダンスする人々の中に混ざった。
 イグナーツ自身はダンスを知らなかったが、二人の動きはいかにも優雅で、周りで見ている者たちがほうっとため息を吐いているのが彼にもわかった。
 踊りながら二人は何か言葉を交わしているようだった。途中でディーボルト中尉が冗談を言っているのか、令嬢がふっと笑みを浮かべることがあり、イグナーツはすっかり彼女から目が離せなくなっていた。

 しかしダンスを終えると、令嬢は人混みのなかに紛れて見えなくなってしまった。イグナーツは目を皿のようにして彼女を探したが、代わりにディーボルト中尉がこちらの視線に気づいて近寄ってきた。彼は珍しいものを見たような顔をして言った。

「トット准尉じゃないか! へえ、お前とこんなところで会うとは思いもしなかったな」

「ディーボルト中尉はまったく違和感がありませんね。同じ軍服を着ているのにどこかの令嬢みたいにきらきら輝いて見えます」

 イグナーツがぼそりと言うと、中尉は「お褒めにあずかり光栄だ」と、かしこまったようにというよりはふざけた調子で手をくるくると回しながら胸の前で礼をとった。この人はいつもこうである。

「……まさかとは思いますが、そんな風に上官たちに挨拶したわけじゃないですよね?」

「ばか言え、そんなことすりゃその場で俺は蜂の巣だ」

 さすがにそれは言い過ぎだが、その辺りの良識がある人でよかったとイグナーツは思った。

「さっき中尉が踊っていたご令嬢は……」

 イグナーツは言いかけてやめた。誰なんですか、なんて聞いたら世間知らずだと笑われるかもしれない。
 しかしディーボルト中尉は部下の問いを察して「ああ」と真面目そうな表情になって声を落とした。

「彼女はクラッセン侯爵のご令嬢だ。二、三伺いたいことがあってな、接触させてもらった。父親に加担してるのか探りたくてな」

 ああーーそういうことか。イグナーツはすっと目を細めた。

 クラッセン侯爵。イグナーツもその名前をよく知っていた。
 クラッセン侯爵は古い時代からの名門で、この帝都でも上位を争う大金持ちだ。そして最近軍部ではとくに注目されていたーー地税を横領し、領民たちを不当に裁いているとの疑いがかけられているのである。彼が悪事に手を染めているのは確かだが、決定的な証拠が不十分で未だ泳がせているらしい。その辺りまでの情報は、この案件に関わっていないイグナーツも知っていた。そのクラッセン侯爵の娘が、あの気高い令嬢だったのか。
 イグナーツは彼女の姿を思い浮かべた。確かに、クラッセン侯爵家の娘ともなれば、あれほど上等なドレスを着ていてもおかしくない。あの徳の高い発言もふるまいも、きっと最高の家庭教師がつけられていたのだろうということが伺える。
 しかしあの人がーーあんな気高く堂々と正論を言う人が、父親の悪事に加担しているのだろうか。

「彼女と踊って……新しい情報は得られましたか」

 イグナーツの問いにディーボルト中尉は「いや」と肩をすくめた。

「ドレスは最近買ったのかとか、屋敷で晩餐会は頻繁に開かれるのかとか、侯爵家の出費のことから聞いてみたんだが、うまくかわされた……というか、彼女はあまり浪費家ではないらしい。あのドレス、元は母親のものを針子に仕立て直してもらったんだそうだ。それに父親とは不仲のようで、奴に関連する話題はことごとく避けられた」

 あれ、そんな話をしていたのか?

「ですが……彼女は笑っているように見えましたが」

 イグナーツが思わずそう言うと、ディーボルト中尉はははっと笑い声をあげた。

「さすが、狙撃の名手は目がいいな。そうだ、彼女があんまり話題に乗ってこないから、今夜の夜会を欠席したリッツ大佐のことを話したんだよ。ほら、あの人あんなに気合を入れてたのに、昼飯に悪い肉を食って腹を壊しただろ。気の毒に、ずっと隊舎の厠にこもりきりなんですって言ったら、やっと笑ってくれた」

 ダンス中に、しかもあの侯爵令嬢にそんな話を? イグナーツが上官にじとっとした視線を向けると、中尉は「なんだよ」と両手を広げた。

「おかげであの誇り高いつんとしたご婦人の笑顔を舞踏会場で披露することができたんだぞ。大佐も浮かばれるさ」

「浮かばれるって……大佐は死んでいませんし、そんな話を夜会でしたら、また貴族の軍人に対する嫌悪が増しますよ」

「はは、まあそいつは今に始まったことじゃないからな」

 貴族たちは社交界に出入りする軍人たちのことを、爵位もないのにと煙たがっている。ときには眉を顰められ、人殺しと呟かれることもあった。
 たしかに貴族出身でない者たちは作法を知らないし、戦で幾人もの命を奪ったことによって勲章を得ている。軍人は貴族からみれば下品であり、野蛮な殺人鬼として映る。
 だからこそイグナーツは上流の人々の集まる華やかな舞踏会などといったところは、軍人には場違いだと思っていた。とくに平民上がりの自分にとっては夜会は居心地が悪い。できるだけ出席したくなかった。
 しかし、戦地でそれなりの功績を積んだことにより准尉という地位を得た今では、そういった類の招待を受けた時は上官の目もあるので出席しなければならなくなる。それでもイグナーツは、毎回まめに夜会のときに任務を入れて欠席にしていたのだが、今夜は運悪く非番になってしまったのだ。
 ディーボルト中尉が言った。

「それでトット准尉。お前は踊っていかないのか? めったに来ないんだから一曲だけでも行ってこいよ」

「嫌ですよ、そもそも踊り方を知りませんから。俺は中尉と違って良い育ちってわけじゃないんです」

 ディーボルト中尉は五男とは言え伯爵家出身である。イグナーツは皮肉を込めて言ったが、ディーボルト中尉は「良い育ちって、俺は11で入隊してるんだぞ、作法なんかも結局お前とそう変わらんだろ」とからからと笑った。

「だがなトット准尉、今は踊り方を知らないと言えば済むかもしれんが、どうせいずれ必要になってくる。帝都の舞踏会では女性の申し出は受けなきゃ失礼なんだ。皇族の方からダンスを申し込まれてみろ、断ったら首をくくることになるぞ。冗談抜きでな」

 イグナーツは眉をしかめた。幾度も戦の中を生き抜いてきたのにそんなことで死ぬことになるのか? なんてところなんだ、舞踏会は。

「それが嫌なら練習するこった……え、おい、どこ行く?」

 身を翻したイグナーツに、ディーボルト中尉が慌てて問いかける。

「帰ります。ランクル少佐に挨拶はすませたからもう良いでしょう? 俺は貴族じゃない、軍人です。ダンスなんか頼まれたって嫌ですよ」

 そう言ってホールを足早に去っていく部下の背中を見ながら、中尉は「頑なな奴だ」と肩をすくめた。



 何と言われようと、無理なものは無理だ。さっさとこんなところからおさらばしよう。イグナーツはしかめ面をしてずんずんと歩き、にぎやかなホールを後にする。広い廊下に出ると、出口はどちらだったかと左右を見回した。
 奥が暗くなっている左側の方と違い、右側は明るく、人の話し声が聞こえる。おそらくあちらが出口に通じるロビーだ。
 そちらの方に向かって足を踏み出そうとしたとき、反対側の暗い廊下の先から「馬鹿者っ!」と言う怒鳴り声とともに、バシッとなにかを叩いた音がした。

 な、なんだ……? 
 城外は任務についている隊員たちが見回っているが、ダンスホール周辺には警備の配置はされてない。暴漢か何かが侵入したのかと思い、イグナーツは反射的に息と気配を殺して、そちらの方へ歩み寄った。
 声のした先は暗かったが、廊下の奥は小さな広間になっていた。窓には大きなガラスが張られており、月明かりが差し込んで明るかった。
 物陰からこっそり窺うと、一人の大柄な男がぎらぎらした服を着て仁王立ちしていた。そのすぐ足元の床には若い女が座り込んでいるのが見える。

 なんだ、ただの痴話喧嘩か。
 殺しではなかったとほっとしたが、座り込んでいる女の顔が月明かりでちらりと見えた時、イグナーツはあっと声を上げそうになった。
 そこにいるのは、先程ホールの真ん中でディーボルト中尉と踊っていたあの気高いクラッセン侯爵令嬢だった。
 令嬢は左頬を片手で抑えている。この男にぶたれたのだと理解すると、イグナーツは急に胸がざわつくのを覚えた。
 男は怒りに身を任せたような口調で言った。

「やっと誰かとダンスをする気になったかと思ったら、あろうことか軍人と踊るとは何事だ! 貴族以外とは踊るなとあれほど言っただろう、この恥さらしが」

 怒鳴り声をあげられても、令嬢は怯むことなくキッとした表情で男を見上げた。

「無礼な発言を平気で言ってのける失礼な貴族よりよっぽどましですわ。軍人のどこがご不満なのですか。この国を守ってくださっている立派な方々ではありませんか」

「ふん、所詮銃や剣で暴れているだけの品のない連中だろう。人を殺して地位を手に入れるなど、あまりの野蛮さと文明の低さにこの帝都が嘆かわしくなる。あんなとってつけたような勲章をこれみよがしにジャラジャラと飾り立てる奴らなど、近づくことすら躊躇われるわ。さっきもやたら話しかけてきていただろう、一体何をきかれたんだ!」

 令嬢は「あら」とわざとらしく言った。

「お父様はやけに軍部の方を気にしますのね。なにか彼らに知られたら困ることでもあるのですか」

 イグナーツは、そこにいる人物がクラッセン侯爵本人であることを確信した。こいつが彼女の父親であり、軍の本部が警戒中の男だな。
 侯爵は娘の言葉に一瞬ぐっと詰まったようであったが、すぐに「あ、あるわけがなかろう!」と返した。

「爵位を持たない者と関わるなと言っているのだ! いいか、お前を年寄り公爵の後妻にしてやってもよかったところを断念して、こうして舞踏会に連れてきてやっているのだぞ……あと一度でも軍人と踊ってみろ、今度は棒で顔を殴ってやるから覚悟しておけ。今夜はもうその面を見せるな。さっさと帰ってしまえ」

 クラッセン侯爵はそう言い捨てると、カツカツと靴音を響かせながら、柱の陰に隠れていたイグナーツの前を通り過ぎてダンスホールの方に行ってしまった。

 急に沈黙が降りる。しんと鎮まりかえり、さっきまでここで反響していた男の怒鳴り声が嘘のようだ。ホールで演奏されている音楽が遠く感じた。

 ふいに、暗い広間から「うっ、ふっ……」という泣き声と鼻をすする音が聞こえてきたことに、イグナーツはぐっと唇を噛み締めた。きっと彼女のものだろう。必死に堪えていたに違いない。
 イグナーツは暗闇からその姿をそっと眺めた。
 令嬢は肩を震わせ、床に手をついて涙を流していた。ダンスホールで背筋をぴんと伸ばし、誇り高い表情で堂々とふるまっていたあの姿からは全く連想できなかった。こうして見ると、ただの女の子じゃないかとイグナーツは思った。
 しかし、若い娘が泣いているところに出会したことがなかった彼はどうしたらいいのかわからず、少しの間その場に立ち尽くしていた。
 侯爵は彼女に帰れと言っていたっけ。令嬢は一人で帰るんだろうか。いや待てよ、貴族の令嬢は皆控え室にお付きの侍女がいるんだったな。侍女を呼んでくるべきじゃないか?
 イグナーツはそこまで思い至ったが、彼の足はその場を離れようとはしなかった。クラッセン侯爵令嬢のこの意外な姿を、ほかの誰にも見せたくないとイグナーツは思ったのだ。それに、こんな暗闇で誰にも見られないように声を押し殺して泣いているということは、彼女自身も人に見られたくないに違いないと心の中で言い訳をする。かと言って、このまま傍観するだけにとどめるわけにもいかなかった。
 イグナーツは散々迷った後に、意を決して広間の隅に座り込む令嬢の方にすすすっと近づいた。
 震えそうになる手を心中で叱咤しながら、軍部の規律でいつも常備しておくよう言われていた木綿のハンカチを上着のポケットから取り出した。

「こここ、これ……よ、よかったら」

 不意に現れた軍服姿の男に、令嬢は泣きながら顔を上げて少し身体をびくりとさせた。しかしすぐに「ありがとう、ご、ざいます」と鼻を詰まらせながら言うと、躊躇うことなく差し出されたハンカチを受け取った。
 そのまま彼女はハンカチを顔に押し当てて泣いた。イグナーツはそれ以上どうしていいかわからなかったから、座り込む彼女の前でただただ突っ立っていた。
 こんなところを誰かに見られたら、俺が泣かせたって思われるんじゃないかとイグナーツは不安に思ったが、幸い誰かが通りかかることはなかった。入り口のロビーからも遠い暗いこの場所には誰も近づかなかった。
 イグナーツは広間の床に広がっているたっぷりとした彼女のドレスの裾に目をやった。縫いつけられた宝石が月明かりに反射してきらきらと輝いている。こんなに上等なドレスを着ていても、あんな父親の元にいたんじゃ苦労が多いんだろうな。そのまま彼女の泣き声を聞くだけの時間が過ぎた。

 しばらくするうちに、クラッセン侯爵令嬢は落ち着いてきたようだった。
 涙は止まったようで、鼻をすすり息を整えている。イグナーツはほっと息を吐いた。よかった、このままだったらどうしようかと思った。
 彼女は床に座り込んで下を向いたままだったが、やがてすぐ目の前にある、あちこちに傷がついたイグナーツの靴を見ながら言った。

「ご親切にありがとうございました。お見苦しいところをお見せしてしまいました。私、ひどい顔をしているでしょう」

「い、いえ、とと、とんでもない」

 化粧が落ちても美しいですよなど気の利いたことを言えるはずもなかった。イグナーツはせめてもう少しきれいな靴を履いて来ればよかったと少し後悔しながら言った。

「そ、その……大丈夫ですか、親子の間にお邪魔した方がよかったのかわからず……」

 イグナーツは自分の父親は最低な男であると思っているが、彼女の父親も輪をかけてひどいと思った。
 クラッセン侯爵令嬢は「いつものことですの」と無表情のまま言った。

「頬も張られてばかりいるからすっかり丈夫になりましたのよ。今夜も懲りずに反発しましたから、父も腹が立ったのでしょう……あら、ごめんなさい、私こんなところに座ったままでしたわね。大変失礼しました」

 令嬢は慌てて立ちあがろうとしてふらついたので、イグナーツは咄嗟に彼女の腕を取って支えた。急に近くなってふわりと花の香りが匂ったのに、イグナーツは心臓が飛び出しそうになった。
 しかし、令嬢の方は照れたりする素振りを見せず、ただ「ありがとうございます」と言ってすぐに離れた。
 妙に避けられている気がするなとイグナーツは感じたが、貴族の女性はこんなものかと思い直した。

「申し訳ありませんが、検討違いです」

 突然令嬢が言ったのに、イグナーツは「へっ?」と驚きの声を漏らした。
 彼女は突き放すような調子で続けた。

「私は父から信用されていないので、父の企みについては何もお話できません。書斎を見れば何かわかるかもしれませんが、いつも鍵がかかっているので私が証拠を見つけ出すことも難しいでしょう」

 イグナーツはぽかんとした。もしかして、さっきのディーボルト中尉みたいに俺が侯爵の悪事について探るために彼女に近づいたと思われているのか?

「ち、ちが……! お、俺はそんなつもりじゃ……ただ、帰ろうとして……ろ、廊下を歩いていたら怒鳴り声がしたから……」

 イグナーツは慌ててそう言葉を紡いだが、クラッセン侯爵令嬢に鋭い目を向けられたので、言葉を途切らせてしまった。こんな言い訳、通じるか?
 相手はこの社交界に出入りする侯爵令嬢、駆け引きや打算のあるなかを切り抜けてきたのだ。先程のイグナーツの登場の仕方では、親子の会話を盗み聞きをしていたと思われても仕方ない。
 令嬢からの冷たい視線を受けて、イグナーツは無意識に身体を縮こめながら言った。

「そ、その……軍部であなたのお父上が怪しまれているのは確かです」

 ほんとうは軍の人間以外に漏らしてはならないのですが、とイグナーツは続けた。

「別の隊の上官たちは、その、クラッセン侯爵の所業を明らかにしようと動いていますが、俺の所属はその任務から外れています。俺は……あなたのお名前も上官から聞いてさっき知りました、ほんとうです。探るとか、そういうつもりじゃなかったんです」

 警戒していた様子の令嬢は、イグナーツが一生懸命弁解しているのを聞いて、だんだんと固い表情を崩していった。

「あら……そう、でしたの……ごめんなさい」

 令嬢は恥じ入るように下を向いた。

「なんだかホールにいたときから軍の方々に見られている気がしましたの。自意識過剰になっていたのね」

「そ、それは……」

 イグナーツも間違いなく彼女を見ていた。彼女が目を引く存在だったからだ。“ラミア”と噂する女たちを叱責したあの気高い姿に見惚れていたのは事実である。
 令嬢はイグナーツが口ごもったのを気にすることなく、少し距離を縮めて言った。

「あなた様のお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか。ハンカチを後日お返しいたしますからーーご存知でしょうが、私はビアンカ・ロートバルト・フォン・クラッセンです」

「お、俺は」とイグナーツは言った。

「イグナーツ・トットといいます……ハ、ハンカチはその、その辺で燃やすなり捨てるなりしてくださってかまいませんから」

 イグナーツは大真面目にそう言ったが、令嬢は「まあ……ふふ、燃やすだなんて」と、このとき初めて小さく笑った。

「そんなことするはずありませんわ。きちんと洗わせていただきますから、イグナーツ・トット様。ご親切は忘れません」

 令嬢がこちらに向けた微笑みに、イグナーツは心臓が掴まれたかのような感覚に陥り、顔がカッと熱を持ったのを感じた。明かりがなくてほんとうによかった。
 イグナーツは「そそ、その」と切り出した。

「ぐ、軍部の者の失礼を謝ります……ディーボルト中尉がダンスに誘わなければ、あなたはお父上にぶたれずに済んだ」

「あら、あれはあの方のせいではないわ。私が生意気な口をきいたから父は腹を立てましたの」

 侯爵令嬢は言った。

「それにあの方のおかげで父が軍部を避けていることがよくわかりました。父は何か法に触れることをしていて、軍の方にも目をつけられている。彼らが私に接触してくるということは、もう時間の問題ということだわ。そうでございましょう?」

 イグナーツは何も言えなかった。目の前にいる令嬢は諦めたような表情をしていた。自分の父親がもうすぐ拘束されるかもしれないというのに、それを受け入れているように見えた。彼の人柄をわかっているからだろう。
 令嬢は目を細めて遠くを見つめて言った。

「いずれ私も父と同じく牢に入るのでしょうね。唯一の子どもですもの。屋敷をでなければならないのでしょうか。そうなら使用人たちはできるだけ今のうちに解雇してあげなければ……ああ、でもそうすれば父が勘づいてしまいますね」

 令嬢の言葉にイグナーツは慌てて首を振った。

「あ、あなたがこの件に関与していないのなら、牢に入ることはありませんよ……あなたはご自分の人生を歩み直せます」

 令嬢は目を丸くさせて、何を言っているのかという目でイグナーツを見た。

「私の人生は父ありきですわ。頼れる親戚もいませんから、私も一緒に捕えられるか、修道院かとわかっております。大丈夫、あんな父親ですから覚悟はしておりましたの。貴族の娘というものは貴族に嫁ぐために育てられますから、今更どうすることもできませんのよ。貴族は体面を気にしますから、罪人の子を娶ることはないでしょうし」

 イグナーツはぐっと拳を握った。ここにも親のせいで大変な目に合う状況に出くわしている子がいる。「そんなことはありません」とイグナーツは思わず熱を込めて言った。

「親がどんな人物だろうと子には関係ないって、あなたはさっきご婦人方におっしゃっていたでしょう。貴族でなくともあなたには生きる道があるはずだ。お好きなことをなさったらいい。ご自分のために生きるべきだ。俺だって……」

イグナーツが言いかけたとき、クラッセン侯爵令嬢は「ちょっとまって」と口を挟んだ。

「ご婦人方にって……それではあなた、先程のホールでのこと、見てらしたの?」

 あっ。イグナーツはぐっと口を歪めた。
 まずい、言ってしまった。さっきホールで軍から視線を感じていたと言われて、否定したばかりだったのに。これじゃ嘘をつきましたと言っているようなものじゃないか。

「…………申し訳ありません」

 少し沈黙した後、イグナーツは頭を下げるしかなかった。クラッセン侯爵令嬢はなんとも言えない表情でじっとこちらを見つめている。これ以上話していてもぼろしか出ない。潮時である。
 イグナーツは彼女と目を合わせることができないままぼそぼそと言った。

「とにかく、お父上のことに関与していないのであれば、あなたに罪はない。上官たちもそれがわからない人たちではありません。ほかの生き方もあるんですから希望を捨てないでください……その、侍女を呼んで参ります」

 顔を見せるのも気まずかった。令嬢の視線を感じながらイグナーツは後ずさって、侍女たちのいる控え室へと向かった。
 脚に力が入らないような気がしたが、それでもまっすぐ歩けたのは日々の訓練のおかげかもしれない。
 控え室の扉を叩いてクラッセン侯爵令嬢の侍女を呼んだ。すぐに出てきた侍女に、彼女の主人のいる例の暗い広間の場所を伝えると、イグナーツは出口に向かい、ようやく帰路についた。





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