改悛者の恋

Rachel

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第九章 実った努力

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 最近の社交界は、ある噂で持ちきりだった。
 "グラン・ラグレーンは、伯爵の出した条件まで商会の規模を拡大すれば、伯爵令嬢エリーゼとの結婚を許されるらしい"。
 夜会でそうなのかと人々が問えば、グラン本人が顔を赤らめて「光栄なことにそういう話をいただいております」と正直に答えるので、社交界は一層湧いた。商いに懸命に奔走するそのグランの姿に、いつしか妬む者は減り、応援する人間が増えてきたのである。
 また、話をきいたダカン侯爵やずっと購入を続けてくれているシュトラール伯爵やダリュー男爵達もグランに協力的になってくれた。そのため新たな顧客の紹介も受け、王都や遠方からも注文が来るようにさえなったのだ。その上仕事に慣れてきた部下達のこなせる仕事量も増えたので、数ヶ月も経たないうちに商会は以前の二倍に、もうひと月後には三倍の大きさになっていた。
 社交界では、グランは初めの方こそ刺さるような冷たい視線を感じていたが、そのうちに顧客達など大勢の人に囲まれるようになった。それは彼自身が掴み取った貴族の者たちからの信頼の証だった。
 グランが世間に受け入れられるにつれ、彼の周りには客でない人間も集まるようになった。

「ラグレーン様!」

「ごきげんよう、ラグレーン様!」

 夜会でグランが一人になった途端にわらわらと寄ってくるのは、銀行家や資産家の娘達だ。商会を大きくしたことで名が知れ渡った未婚の彼に取り入ろうとしているようだが、グランの対応は冷たかった。
 相手が客ではないことがわかると、返事さえしようとしなかった。それでも商人として立派になっていくグランに、令嬢達はいつでも群がった。
 
 しかし、目標を達成した日からふた月が過ぎても、ドルセット伯爵家からはなんの音沙汰もなかった。先月事務所に来たアンドレに決済を渡した時、彼に「いよいよですね。こちらの準備が整ってからまた来ます」と言われ舞い上がっていたのだが、結局伯爵子息どころか使いの連絡さえいまだ来ていない。そういえば以前は三日に一度は届いていた手紙も、ここのところずっと途絶えている。

 そんな矢先、ダカン侯爵の屋敷で舞踏会が開かれた。得意先からの招待にグランももちろん応じた。
 宮殿ほどの規模ではないものの、飾り立てられた侯爵家の屋敷は豪華絢爛、招待客も大勢いて、ホールにはすでに踊り始めている人たちもいた。
 屋敷の主人は彼の友人たちに囲まれているようだったが、なにやら神妙な顔つきをしていた。
 ダカン侯爵は、グランの姿を見とめると手招きした。

「こんばんは、侯爵。今夜はご招待いただき……」

「そんなことはいいんだ、それよりもきいたかい、ラグレーン君」

 ダカン侯爵が挨拶の途中で口を挟んだ。グランがきょとんと顔を上げて「なにを」と問いかけようとすると、侯爵が予想だにしなかったことを言った。

「破産したんだ、ドルセット伯爵家が」

 グランは耳を疑った。

「なんですって……?」

 侯爵は苦い顔を浮かべた。

「私も最近ご子息を見かけないからどうしたものかと気になってね。調べてみたら、どうにも土地代では追いつかなくなったようで、とうとう破産したらしい。今はもうあの屋敷から北の辺境地に居を移したようだよ」

「北の辺境……い、いやそんな、まさか。あの伯爵家ですよ……、王の覚えもめでたいことで有名な名門ドルセット家が破産だなんて、そんなことあるはずがない」

 グランが戸惑いを隠せずにそう言ったが、その場にいた貴族たちも暗い顔をして下を向いたり、グランに気の毒そうな表情を向けたりしていた。
 グランは首を振った。

「ありえない……今でこそ連絡や繋がりは最小限ですが、私が担当している商会の出資者はドルセット伯爵家です。少なくとも利益は伯爵家に行くようになっている」

「それを引っ越し費用に当てたんじゃないかな……。ラグレーン君、いくら名高い貴族とはいえ、時代の流れには逆らえないものなのだよ。それが貴族。仕方のないことなんだ」

 侯爵の隣にいたシュトラール伯爵がそう言ったが、グランは受入れられずに下を向いた。

「そんな、嘘だ……信じられない……」

 そのまましばらく沈黙が流れたが、やがてダカン侯爵が口を開いた。

「しかしなんにせよ……君は事実上独立した商人になったわけだ」

 侯爵は笑みさえ浮かべてグランの肩に手を置いた。

「君の後ろ盾に伯爵家がいなくても、私はこれからも君の得意先として紅茶を買わせてもらうよ」

 それをきいたグランはぐっと眉を寄せた。なにを……彼はなにを言っているのだろうか。
 侯爵の隣にいたシュトラール伯爵も頷いた。

「私もだ。君の商会の方はどんどん拡大しているから、将来も明るい。君は安心して商売を続けて――」

「安心して、ですって……?」

 グランはシュトラール伯爵の言葉を遮って顔を上げた。目はギラギラと怒りが満ちている。それを見た貴族たちは、初めて見る彼の恐ろしい様子に思わず後ずさりした。
 グランは怒りに任せて声を張り上げた。

「安心できるわけがないでしょう、ドルセット伯爵家が破産したというのに、そのまま黙って見過ごせと!? あなたたち貴族はほんとうになにを考えているんですか? 彼らのためになにかしようとは思わないんですか? 全く、人としてどうかと思いますよ」

「ラグレーン君、ちょ、ちょっと待ちたまえ……少し落ち着いて……」

「ばかばかしい。彼らがいないのに、なにが紅茶商会だというんです? 商会は"私の"ではない、ドルセット一家の商会です。北の辺境地と言いましたね、私はそこへ行かせていただきます。申し訳ありませんが、今後は部下がここへ参りますので悪しからず」

 そう言って身を翻すと、呆然としている貴族達を尻目に、グランはホールの出入り口へ向かった。

「あっ、ラグレーン様!」

「お待ちになって!」

 資産家の令嬢達がきゃあきゃあと集まってくる。いつもは返事をしないままのグランだったが、今日は特別に怒りに満ちていたため、両脇にやって来た彼女達に怒鳴り声を上げた。

「俺に近寄るなっ! 目ざわりだ!」

 令嬢達はその鬼のような恐ろしさに「ひっ」と声を上げて散り散りになっていく。グランは怒りをあらわにしたまま、どすどすと足を踏み鳴らすように屋敷の出口へ向かっていった。
 その時である。

「目ざわりだなんて、ずいぶん失礼な言い方じゃない」

 賑やかな舞踏会の喧騒の中から、透き通るような懐かしい声がグランの耳に降ってきた。
 思わず声のした方をぐるっと振り返ると、ホールの階段をのぼった上の階に、グランのずっと思い焦がれていた女性が、手すりに手を置いて笑みを浮かべていた。

「エリーゼ……?」

 彼女は嬉しそうに頷くと、こちらに手を振って「グラン!」と呼んだ。

「エリーゼ……エリーゼ!」

 グランは目を見開いて彼女だとみとめると、弾かれたように走り出した。エリーゼもドレスの裾をつまんで嬉しそうに階段を駆け下りていく。
 ちょうどエリーゼが階段を降りたところに駆けつけたグランは、有無を言わさず彼女の身体を両腕で抱き込んだ。

「エリーゼ……ほんとうにエリーゼなんだな?!」

「会いたかったわ、グラン……!」

 しばらくの間、確かめるように抱擁を交わしていたが、やがてグランはゆっくりと身体を離すと、彼女の頬に手を当てた。

「だが……家は大丈夫なのか? どうやってここへ来た?」

 エリーゼはくすりと笑って眉尻を下げて言った。

「ごめんなさい、グラン。全部、全部嘘なのよ」

「え……嘘?」

 グランがぽかんとした表情を浮かべてそうきき返すと、後ろの方から紳士たちの笑い声が聞こえた。
 振り返ると、先ほどまでグランと話していたダカン侯爵やシュトラール伯爵をはじめとする貴族たちが笑いながらこちらへやってきた。
 ダカン侯爵が愉快そうに言った。

「君の言う通り、ドルセット伯爵家が潰れるなんてありえないことだよ。土地をあれだけ持っているのに売らずに破産なんて考えられない」

「それにしても、君があんなに怒るとは……。私があんな風に怒られたのは父の説教以来だよ」

 シュトラール伯爵もおどけて言った。グランは訳がわからないというように目を瞬かせた。

「た、大変失礼致しました……で、ですが、なぜそんな嘘を……」

「私が頼んだのですよ」

 今度はエリーゼのいた階段の方から降りてくる人物が言った。グランはその姿に目を見開き、がくりと首を下げた。

「あなたでしたか……」

 グランの力を失った様子に笑みを浮かべて下りてきたのは、ドルセット伯爵子息アンドレだった。後ろでは彼の父、伯爵のベルナールが不貞腐れたような顔をしている。
 アンドレは、げんなりしたグランの様子に笑いながら言った。

「まあ、説明させてください。ラグレーン殿が目標を達成した時、私は父に、約束の時ですよと言ったのです。しかし父は往生際が悪く、あなたがドルセット伯爵家に対する誠意を証明したとは言えないと、私にそう言ったのですよ」

「伯爵家に対する誠意、ですか……」

 アンドレはさもおもしろそうに頷いた。

「ええ。加えてエリーゼが、あなたが令嬢たちの間で人気があるということを聞きつけて、泣きつかれましてね。それで結局、伯爵家が破産した場合、あなたが我々を見捨てるかどうかを確かめるべく、ここにいらっしゃる皆さんにひと芝居打ってもらったというわけです」

 グランは心底ほっとしたようだが、次に大きなため息を吐いた。

「心臓が止まるかと思いましたよ……。次は別のやり方で誠意を証明したいものですが」

「上の階から父と妹と三人でじっくりと観察させていただきましたが……それで、父上? ご満足いただけましたか?」

 アンドレの問いに、その場にいた全員がドルセット伯爵ベルナールに注目した。皆が期待を込めた目で伯爵を見つめている。
 ベルナールは顔をしかめたままだったが、やがて口を歪ませて言った。

「……わかったわかった、私の負けだ。二人の仲を認めよう。ただし、ちゃんと段階は踏むんだ。まずは婚約だからな」

 その言葉にわあっと皆が湧いた。グランはエリーゼと顔を見合わせて嬉しそうに微笑み合うと、ベルナールに「ありがとうございます!」「ありがとうお父様!」とお礼を述べた。

「おめでとう、ラグレーン君!」

「とうとうやったなあ」

「今夜は祝杯を上げるぞ!」

「新しいワインを開けよう、グラスと瓶を持ってきてやる」

 その場にいた侯爵達も口々に祝いの言葉を述べ、それに対してグランは顔を赤らめて嬉しそうに「ありがとうございます」とお礼を言った。
 
 祝いの杯が楽しまれている中、幸せそうな二人を眺めながらアンドレは父に言った。

「しかし、父上。ラグレーン殿は予想以上にまっすぐでしたね。私は、彼がもっと良心と富への欲の間で揺れるかと思っておりました」

ベルナールはふんと鼻を鳴らした。

「あの男は良心や欲望を基準にしているわけじゃない、エリーゼが全ての軸なのだ。そんな至上主義者も少し心配になるが……まあ、エリーゼの選んだ男だからな。あれも平民になる覚悟はあるらしい。貴族という身分に未練はないなどと言っておった。まあ元々貴族令嬢らしいことはほとんどしとらんが」

 父の肯定的な言葉に、アンドレはいたずらっぽい笑みを浮かべた。

「そうですね……ところで、先ほど段階を踏んでまずは婚約からとおっしゃっていましたが、エリーゼもそろそろ独り身を卒業させなければならない年頃ですよ。結婚の日取りも目途をつけておかないと、父上だっていつまでそうしていられるか……」

 ベルナールは、息子の労わりの言葉に憤慨し始めた。

「私がいつまでなんだと言うんだ? 私はまだまだ死なん! お前にも爵位はまだ継がせんぞ!」

「そんな固いことおっしゃらずに、いい加減私にも仕事をさせてくださいよ、でないと私の結婚がいつまで経っても……」

 アンドレはそっぽを向いてしまった父に小さくため息を吐いて、幸せそうな二人に視線を移した。
 社交界を嫌い、屋敷に引きこもる生活をしていた妹が、大勢の人に囲まれている。傍らには彼女を大切に思ってくれる男がいて、互いに穏やかな微笑みを向けている。
 まあ、これでひとまずは一件落着ということになるか。アンドレは二人に祝福の念を込めた。



 
 久しぶりに再会を果たしたグランとエリーゼは、貴族の紳士たちから祝いの杯を受けていたが、やがてホールの喧騒から離れると、静かなバルコニーで語り合った。
 最後に会ったのは数ヶ月ほど前だったので、互いに懐かしさと、より一層の愛おしさを感じていた。

「君に、ずっと聞きたいことがあった」

 グランは真剣な表情でエリーゼの方を向いた。

「その……君は伯爵令嬢で、とても魅力的だから、引く手数多なはずだ。公爵家からも縁談があったときいた。それなのにどうして、どうしてこんな俺みたいな……」

「あなたを選んだのかって?」

 エリーゼは微笑んで言葉を引き継いだ。グランは眉を寄せて頷いた。

「あの花売り娘や、エミール、ジャスマン、ダカン侯爵にも訊かれたんだ、俺は、その……特別顔がいいわけでもないし、ましてや牢獄にいたことも……」

「……ひとめぼれって言っても説得力はなさそうね」

「は? ひ、ひとめぼれ? この顔に?」

 グランは、エリーゼの正気を疑った。エリーゼは困ったように微笑んだ。

「ごめんなさい、顔ではないのよ。でもほんとうに直感的に思ったの、ああこの人はなんてまっすぐな人なのかしらって」

「まっすぐ? 俺が?」

 グランが顔を思い切りしかめているのにエリーゼは吹き出し、笑いながら頷いた。

「ええ。ほら、最初に会った日、あなたは復讐をしようと一心不乱だったでしょう? あの時は全力で止めたけど、あのなにがなんでも果たしてみせるっていう強い心情が……とても素敵だと思ったの」

 グランは奇怪なものを見るような目でエリーゼを見た。

「血迷ったな」

「そうね、確かに変かもしれない。でも商いの話をしている時もそうよ。目標に向かって突き進む時のあなたは誰よりも光っていたわ、あの宮殿の舞踏会の時は特にね」

 グランはますますわけがわからなくなった。あの時は確か仕事の話に熱中してしまって、エリーゼをないがしろにしてしまったのだ。

「考えれば考えるほど、俺は最低な男でしかないじゃないか……」

 ずんと暗い顔になったグランに、エリーゼは笑顔で首を振った。

「違うのよ。ううんと、そうね……言葉にし難いのだけど、要はあなたのその自分の心に正直に生きている姿が素敵だと思ったの。それを隠そうともしていない正直な心も」

「それは……褒めているのか?」

「あたりまえじゃない! 人はなかなかそういう風に生きていけないものだもの。……あなたはとっても魅力的よ。私が選ぶんだから間違いないわ。次に誰かに私があなたを選んだ理由をきかれたら、胸を張ってひとめぼれされたって答えるといいわ」

 グランはそう言われ、頭をかきながら曖昧に頷いた。エリーゼはふふふと笑った。

「でも嬉しかった。ドルセット伯爵家が破産して北の辺境地に住んでいるって聞いた時、あなたはすぐにそこへ行くと言ってくれたわね」

「そりゃあもちろん。俺がなんのために働いているかと言えば、君のためだからな。話が嘘でほんとうによかった……」

 グランはエリーゼの頬に手を当てて、もう一度安心のため息を吐いた。エリーゼは嬉しそうにその手に自分の手を重ねた。

「前に私、自分が好きなように行動してるだけで、あなたになにかを求めてるわけじゃないって言ったわね。でもあなたに愛される素晴らしさを知ったら、そんなことが言えなくなってしまったわ」

 グランは小さく笑った。

「俺だって、感情に左右される人生なんて前は考えられなかった。だが……なかなかいいものだと思ったんだ、富や地位を追いかけるよりも、君を追いかける方が――君を信じる方が。それ以上に君は俺を信じてくれているだろう」

 エリーゼは肩をすくめた。

「だって、あなたの考えていることはだいたいわかってしまうんだもの。商人としては失格なのよ」

「一応成功を収めているつもりなんだが。やはり貴族は侮れないな、全て見透かされてしまう」

「いいえ、貴族じゃないわ、平民よ。だって私はあなたの妻になるんですもの!」

 エリーゼは笑みを浮かべて言ったが、グランはぎゅっと眉を寄せた。そうだ。彼女は本来貴族であり、貴族に嫁ぐはずだったのだ。しかし同時に彼女がそれほど自分との将来を望んでくれているということに嬉しさを隠せなかった。
 グランは堪えきれない思いをいっぱいにして彼女の目を見つめた。

「エリーゼ、ほんとうに……ほんとうに俺でいいのか? 後で後悔しないな?」

「もう、グランったら」

 エリーゼは呆れたように言った。

「私の決心は岩よりも固いわよ。その代わり、あなたがどんなに嫌がってもついていくんだから。振り払おうと思っても絶対に無理よ」

「……そうだった、しがみつく力は人一倍強いからな。覚悟しておくさ」

 グランは初めて会ったあの夜の事を思い出して明るい笑い声をあげ、愛しい女性をもう一度優しく抱きしめたのだった。
 
 


 
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