改悛者の恋

Rachel

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第七章 覚悟

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 それから一ヶ月も経たないうちに、とうとうドルセット伯爵ベルナールが北の領地から帰ってきた。
 ベルナールは噂をききつけたのか、帰宅早々客間へアンドレとエリーゼを呼びつけて怒鳴り声を上げた。

「一体どういうことだっ!」

 アンドレとエリーゼの肩は揃ってびくっと上がった。父は相当頭にきているようだ。いつものことだが、とアンドレは心で付け加えた。
 ベルナールは続けた。

「エリーゼと罪人の男が恋仲だと!? 噂が流れるにもしてもここまでばかにされたものは初めてだ! アンドレ、お前はなにをしていた!」

「お言葉ですが、父上、私は……」

「お兄様のせいではありません」

 アンドレの言葉を遮ってエリーゼは凛とした声で言った。

「噂の原因になるような事をしたのは私です。そして嘘ではありません。私は……」

 エリーゼは父を見据えて答えた。

「私は彼を――その罪人だった彼を愛しているのです」

「……!?」

 ベルナールはあまりの驚きに目を見開いて一瞬言葉をなくした。

「お前が、その男を……!? な、なにを……そんなことが……そんなことが許されるとでも思っているのか!?」

「許しを乞うつもりはありません。どれだけお父様が軽蔑しようと、私は自分の意見を変えるつもりはないわ」

「なんだと、エリーゼッ!」

「父上、まあ落ち着いてください」

 父親が勢いあまって立ち上がるのをアンドレはゆっくりとなだめるが、伯爵は伸ばされた息子の手を振り払った。

「これが落ち着いていられるか! 私の娘が……貴族の娘が罪人の男と恋仲なぞ許せるわけがなかろう!?」

 アンドレは落ち着いた声で言った。

「父上は、その罪人の男が何者かご存知なのですか」

「もちろん知っている。周辺諸国で有名だったあの銀行家ラグレーンだろう? 不正の山積みで牢獄にいたという……」

アンドレは頷いた。

「そうですね、その通りです……ところで父上。北の地でも私の所有している商会が成功している話はしましたね? 少しずつ我々伯爵家の貯金が増えつつあり、将来的にも安定が見込めるという状況になったという話は覚えておいでですか?」

 ベルナールは息子の話に眉をひそめた。

「突然なにを言い出すのだ?」

「とにかく商いのおかげで、土地を売る必要も、エリーゼの政略結婚も懸念する必要はなくなったのでしたね?」

「事実上はそうだが、それとこれとは……」

「大いに関係しているのですよ、父上」

 アンドレは涼やかな笑みを浮かべていた。

「その商会の経営を任せている人物こそ、罪人の男ラグレーンその人なのです」

 ベルナールはぽかんと口を開けた。アンドレは笑みを絶やすことなく続ける。

「彼は、我々伯爵家に大いに貢献してくれている、欠かせない人物なのです」

「アンドレ、貴様……!」

「ええ父上、お察しの通りです。私はエリーゼが彼と親しい関係にある事を承知で……いいえ、親しい関係にあるからこそ、ラグレーン殿に商会の経営を託したのです」

 父親が歯ぎしりしている横で、エリーゼはその言葉に目を見開いた。

「お兄様、そうだったの?」

「彼がお前にふさわしいと父上に認められるには、それが一番良いと考えたんだよ」

 アンドレは妹ににっこり微笑みかけると、父親の方へ向き直った。

「それに父上。彼は我々が手を貸すだけの人物であることは確かですよ。ラグレーン殿は商いの才がある男です。現に利益は確実に増えている……もちろん不正などなしで。世間に冷たさは残っているが、一部の貴族達から信頼を勝ち得ています。その数はどんどん広がっている。あれは彼の努力の結晶だ」

「黙れっ! 商会を辞めさせないことは譲ってやるが、エリーゼの相手なんぞには絶対に認めないからな! 世間ではない、この私が許さん!」

「お父様、そんな……!」

 ベルナールは娘に鋭い眼光を向けた。

「エリーゼ、私はお前に結婚する気がないと思っていたから強要はしなかった。母親を知らずに育ったお前の意向には、できるだけ添いたいと思っていたからだ。だがこの家の名誉を貶めるというのなら、私にも考えがある」

 ベルナールはそう言うと、ドンドンと足を踏み鳴らして応接間から出ていってしまった。
 エリーゼは父の言葉にぞっとした。父は一体なにをする気なのだろう。
 部屋に残されたエリーゼとアンドレは不安そうな顔を見合わせた。

 
 翌日からエリーゼは父親から外出禁止を言い渡された。元々屋敷に引きこもってばかりいた彼女にとっては苦痛ではなかったが、父が食事の時も口を開こうとしないので、なにを考えているのか気になって仕方がなかった。
 幾日か経ったある日、エリーゼの部屋をアンドレが訪れた。

「明日、父上はラグレーン殿と会うらしい。私もエリーゼもその場に同席することはだめだと言われた……隣の部屋で、父上とラグレーン殿の会話を聞けと」

 エリーゼは眉をひそめた。

「なあに、それ……。お父様はグランになにを言うつもりかしら」

「わからない。まさか呼びつけて罵倒することはないと思わないが」

 お願い、お父様。どうか彼を傷つけるような事は言わないで。エリーゼはただひたすらに祈るばかりだった。



 
 
「あれ、ラグレーンさん、今日の午後空きがあるんですか?」

 エミール・アルノーが今日の予定表を見ながら言った。
 事務所の大きな机で決済表を見ていたグランは、はっと顔を上げて時計を見た。そろそろ準備をしなければならない。
 グランは書類の端をトントンと合わせながら頷いた。

「ああ、ドルセット伯爵の屋敷に行く約束をしているんだ。悪いが帰ってくるまでの事は頼んだぞ」

 同じく机に向かっていたジャスマンは、それを聞いてきょとんと顔を上げた。

「でも、今月の収益表を出すのにはまだ早いですよ? それとも新しい顧客の紹介……?」

 グランは苦笑いした。

「いいや、仕事に関してではなさそうだ……アンドレ殿ではなく、現当主ベルナール様にお会いすることになっている」

「ええっ、ドルセット伯爵ご自身に!?」

「で、でも、現当主様は、商会には全くご関心がなかったのでは?!」

 グランは目を細めて頷いた。

「そうだ。だから、今回はおそらく――俺の、俺自身が抱えている問題の事だと思う」

 グランは十中八九、エリーゼの事だと確信していた。舞踏会であんな騒ぎがあったのに噂を聞きつけないはずがなかった。伯爵はどのようにして自分を排除しようとするのだろうか。そう考えると心が暗くなった。
 グランは部下二人に真剣な顔を向けた。

「俺が帰ってきた時、もしかしたら俺はなにもかも失っているかもしれない。もはやお前たちの上司ですらないかもしれない。それでもお前たちにはこの仕事をこのまま続けてほしい」

「えっ」

「それは一体どういう……」

「まあ、アンドレ殿が俺を必要としてくれている限りは、ここに居続けるから安心してくれ。ただ……」

 グランはなにかを言いかけたが「なんでもない」と首を振ると、不安そうな部下を残したまま事務所を後にした。
 

 エリーゼもアンドレも出迎えない伯爵邸は、いつになくピリピリした雰囲気だった。 
 客間に案内され、そこのソファにどっかり座っていたのは、想像通りドルセット伯爵ベルナールだけだった。
 ベルナールはグランの顔を見ると一瞬顔を歪めたが、表面的な笑みを浮かべた。

「仕事中にわざわざ呼び出してすまない。そこにかけてくれ」

 グランは伯爵の向かいに座った。

「名乗るのが遅くなり申し訳ありません。私はグラン・ラグレーンです。ご子息アンドレ殿の所有する商会の経理その他運営を担当させていただいております」

「ああ、知っているとも。悪いが全て調べさせてもらった……君の生まれから今に至るまで全て。銀行家として名を馳せていた事も牢獄にいた事ももちろん知っている」

 伯爵は軽い口調で言ったが、グランはその言葉に目をぱちくりさせてふっと笑った。その柔らかい笑みに伯爵は怪訝そうな表情を浮かべた。
 グランは言った。

「申し訳ありません。ただ……ご子息と全く同じことをおっしゃるもので」

「なに……?」

 伯爵は目を見開いたが、すぐに元の形式的な笑みに戻った。

「以前君は宮殿近くの豪邸に住み、貴族とも並ぶような生活をしていたらしいな。社交界にいそしみ、誰より上等な食器を使い、誰より上等な馬を持っていたと」

 グランは目を細めた。

「……そうでしたね。あの頃はそういう細かいことにこだわりを持っていた。私には大事なことでした」

「そこでだ。君が息子の商会に大いに貢献してくれているその労いとして、贈り物をしようと思う。もう一度その生活に戻るのはどうかね」

 グランは「その生活?」と眉を寄せたが、伯爵は続けた。

「昔の屋敷を買い戻し、そこに住まうといい。それだけじゃない。私は王の覚えがめでたいおかげで、伯爵の他にも男爵位を持っている。君はそれを受け取る気はないかね」

 爵位。
 その言葉にグランは目を大きく見開いた。銀行家時代でさえ手に入れることができなかった、かつて、どうしても、どうしても欲しかったものだ。

「わ、私が男爵に……?」

 伯爵は頷いた。

「そうだ。君もこれで念願叶って貴族の仲間入りができるぞ。……その代わり、君にひとつ頼みがある」

 伯爵は微笑みを浮かべつつも、鋭い目で切りつけるかのような視線をグランに向けた。

「エリーゼと今後一切関わらないでいただきたい」


 
 客間の隣の部屋では、エリーゼがその部屋に通じる扉に背をもたれて、客間での会話をきいていた。アンドレも横でそれを心配そうに見守っている。
 グランの来る数時間前に、エリーゼとアンドレはこの部屋にいるよう父親に言われた。そして決して大声を上げないことと会話の邪魔をしないこと、話が終わるまで部屋を出ないことを約束させられた。守らなければ、エリーゼは問答無用で修道院送りだと言われたのである。

「ひどい、ひどいわ、お父様……。グランにあんな事を提案するなんて」

 アンドレは泣いている妹の頭を撫でてなだめたが、自分自身も心を痛めていた。
 グランは銀行家でなくなった今でも爵位を欲しているはずだ。社交界でも商いでも、爵位があればそれだけで箔が付き、商会の範囲を広げられるだろう。なにより汚名を背負ったグランにとっては一足飛びの名誉回復だった。彼は文字通り、人生をやり直せるのである。
 
 しかし、次の瞬間ベルナールの大声が響いた。

「なんだと!?」

 グランが落ち着いた声で返す。

「申し訳ございません、大変光栄ではありますが、辞退させていただきます」

「なぜだ!? 君はなにを言っているのかわかっているのか、爵位を……爵位をやると言っているのだぞ」

「十分にわかっています。確かに、以前の私なら天にも昇るような気持ちでお受けしていたでしょう」

 ベルナールの怒鳴り声にグランは静かに答えた。

「ですが、残念ながら今は違います。私はむしろ……お嬢さんとの仲を許していただけるのなら、爵位も富もいりません」

「き、きれいごとであろう、今はただそう言っているだけで、後になれば……」

 グランはふっと笑った。

「伯爵は昔の私の性質をよくご存知ですね。今考えると、実に単純だ……。私からはなにもかも取り上げていただいて結構です。しかし、お嬢さんが私に微笑みかけてくれる限り、私は彼女と関係を断つことはできません」

「エリーゼに……娘に、なぜ固執する? あれは確かに伯爵令嬢だが、家を出ればなにも持たない、ただの平民だ。爵位はアンドレに相続される」

 ベルナールの声は低く重々しいものになった。対して、グランの声は変わらずに落ち着いていた。

「私は、彼女が貴族だから関係を断ちたくないと言っているわけではありませんよ。もし……もしもの話ですが、どこか遠い土地で、身分もなく一からやり直す生活を強いられたとしても、彼女と一緒なら、私はそれを望みます」

「それこそきれいごとだ! 地位も名誉もない女になど、なんの魅力が……」

「ありますよ。お嬢さんのことは、お父上のあなたが一番よくご存知のはず。だから、地位も名誉もない、いいや、汚名しかない私から遠ざけようとするのでしょう?」

 その言葉は確信をついたようで、ベルナールは急に押し黙った。
 グランは続けた。

「わかっておりました、私のような人間が彼女に近づいてはいけないことは。しかし、私はもう……彼女なしでは生きられない。もしお嬢さんとの関係を許してもらえるのであれば、私は全てを失ってもかまいません。失うことは一度経験していますからね。ですが、何度でもやり直せる自信はあります」

 ベルナールはなにも答えなかった。
 しばらく沈黙が続いたが、とうとうグランは腰を上げた。

「それでは、お話が済んだようなので、失礼して仕事に戻らせていただきます」
 
 客間の扉が開いて再び閉まる音がした。足音は廊下を歩き、ロビーへと続く階段を下りていく。

「エリーゼ」

 アンドレは、聞こえてきたグランの言葉に嬉しさのあまりすすり泣いている妹に呼びかけた。顔を上げたエリーゼの涙を拭ってやると、微笑んで言った。

「行きなさい。もう話は終わったんだ、今なら屋敷の中だから、帰りを見送るぐらいかまわないだろう」

 その言葉に、エリーゼは弾かれたように部屋を飛び出した。
 ふわふわした裾をつまみ上げて廊下を走り、階段を駆け下りていく。

「グラン! グラン! 待って!」

 客人は玄関の扉の前まで来ていたが、名前を呼ばれて振り返り、目を見開いた。

「エリーゼ……!」

 エリーゼは立ち止まっているグランの元へ駆け寄ると、そのまま息をつく間もなく、両手を彼の首に回して唇を重ねた。
 グランは突然のことに一瞬頭が真っ白になったが、しばらくしてエリーゼが背伸びをしてくれていることに気づくと、少しかがんでふわりと彼女の身体を抱きしめた。
 やがて抱擁を解くと、グランは顔を真っ赤にしていたが、エリーゼの方は涙に濡れていた。
 エリーゼはグランの片手を両手で握った。

「グラン。私、あなたがほんとうに好きよ。今日ほど嬉しい日はないわ」

 グランは顔を赤らめたまま小さく笑った。

「なんだ、話をきいていたのか」

「あなたが私の事をあんな風に思ってくれているなんて知らなかったの。だって一度も……」

「正直に言うと、最近になるまで自分でもわからなかったんだ。言葉では言い表せないくらいに君を思っていたのに」

 エリーゼの目から再び涙が溢れた。

「私、どこへだってついていく。あなたのためならなんだってするわ」

 グランはエリーゼを愛おしそうに見つめた。

「……エリーゼ、きっと伯爵は当分俺たちを会わせようとはしないだろう。彼にとって君は大事な娘だからだ。だが、俺の覚悟は変わらない。それだけは覚えておいてほしい」

「もちろんよ。グランも私を忘れないでね。仕事にばかりのめり込んで身体を壊さないで」

 エリーゼは微笑むと、再びグランの胸に飛び込んでぎゅっと抱きしめた。
 二度目の抱擁を交わした後、グランは屋敷を去っていった。
 閉まった玄関の扉をいつまでもエリーゼは見つめていたが、やがてくるりと振り返ると、涙をしっかりと拭って客間の方へと歩き出した。


 
 客間に残されたベルナールは、眉をしかめたまま呆然とソファに座っていた。あまりにもぼんやりとしていたため、息子が入ってきた事に気付かなかった。

「彼は想像と違いましたか、父上?」

 アンドレの言葉にベルナールははっと顔を上げた。

「アンドレ……いつの間に」

「今入ってきたところですよ。どうでしたか、ラグレーン殿は」

 ベルナールはしかめ面をしたままだった。アンドレは吹き出しそうになるのを堪え、努めて落ち着いた声で言った。

「思いの外、まっすぐな男だとは思いませんでしたか」

 ベルナールは口を開いた。

「……アンドレ、お前は最初にあの男と会う前に、彼の半生を全部調べていたのか?」

 アンドレは目を瞬かせた後、笑みを浮かべた。

「ええ、もちろん。知らない人間と会う時は事前に全てを調べておけと、父上に昔から指導をされていましたから」

「……そうか」

 ベルナールは目を細めた。その目は幾分穏やかであった。

「昔、銀行家だったあの男を社交界で見かけた時は、なんと憐れな男だと思った。ああいう奴は結局下へと落ちていくものだからな。だが――ここまで変わるとは。一体なにがきっかけだったのか」

 アンドレは笑みを浮かべた。

「エリーゼですよ」

「エリーゼ? あの娘がなにをしたというのだ?」

「なにをしたと言えば……まあ、無償の愛を注いだというのでしょうか。エリーゼはただ彼を愛しただけですよ」

 ベルナールはわからないというように息を吐いた。

「正直、彼には驚いた。爵位をぶら下げればすぐに引き下がると思っていた。身のほどはわかっていたようだが……諦めの悪そうな男だ」

 アンドレは客間の窓辺へと歩み寄ると、グランが去っていく後ろ姿を眺めた。

「諦めませんよ、彼は。彼にはエリーゼしかいない。エリーゼだけが唯一の生きる理由なのです、少なくとも今は」

 その時扉がノックされ、客間にエリーゼが入ってきた。涙はしっかりと拭ってあり、瞳は強い意志を持った輝きを放っていた。

「お父様」

 エリーゼは言った。

「お父様のご意見をお聞かせください。それによって、私は今後の身の振りを決めます」

 アンドレは、エリーゼの真剣な顔に小さく笑みを浮かべた。彼女も覚悟はできているようだ。
 ベルナールは額に手を当てた。

「待ってくれ、少しくらい考えさせてくれてもいいだろう……」

 そうしてしばらく沈黙が続いたが、やがて「わかった、ではこうしよう」と、ベルナールは息を吐いて、口をへの字に曲げたまま二人に次のように言った。

「条件を出そう。商会の大きさを今の倍以上にする。それもアンドレ、お前の力なしにだ。エリーゼが夜会に出向くのもだめだ、もちろんエリーゼが彼と会うことも禁ずる。伯爵家の関わりは商品の必要な買い付けのみに限る。もしその条件で、ラグレーンが商会の規模を大きくして利益を上げたのなら……エリーゼ、お前と彼の仲を祝福してやろう」

 エリーゼの顔には、みるみるうちに満面の笑みが広がった。

「お父様、ありがとうっ!」

 勢いよく抱きついてきた娘を、ベルナールは驚きながらも、優しく受け止めた。

「……まだ、彼が成功するかどうかは決まっていないんだぞ」

 エリーゼは嬉しそうに笑った。

「いいえ、彼ならきっとやり遂げるわ、お父様、大好きよ!」

 その言葉に、ベルナールは呆れたような声でつぶやいた。

「つくづく私も甘いな……」

「それでこそ父上です。寛大な精神に感服しました」

 笑顔を浮かべて言ったアンドレを、ベルナールはきつく睨みつけた。

「どの口が言うんだ、陰でこそこそ画策しよって……。北の領地にいる間は、全てお前が情報を握っていたのだろう。マリー・ブリュノーから手紙がこなければ、私は知る由もなかったんだぞ」

 アンドレは額に手を当てた。

「ああ、やはり彼女でしたか。それ以外は漏れのないようにしていたのですが」

「全くとんでもない息子だ」

 ベルナールは顔を背けたが、エリーゼは首だけアンドレの方に向けた。

「お兄様もほんとうにありがとう……最初から全部考えてくれていたなんて」

「可愛い妹の幸せのためさ」

 アンドレは妹に微笑みかけると、そのまま父に言った。

「それでは、ラグレーン殿に父上の提案を伝えてきます。父上も、息子がもう一人できる準備をしておいた方が良いですよ」

 ベルナールは鼻を鳴らしただけだったが、アンドレはそれを肯定として受け取ると、客間を後にしたのだった。
 
 アンドレが去っていくと、ベルナールは娘と向き合った。

「エリーゼ、お前に確認しておきたいことがある」

「はいお父様、なんでしょう」

 ベルナールは厳しい顔をしていた。

「彼の妻になるということが、どういうことになるのかわかっているのか」

 エリーゼは父の問いに目を瞬かせたが、すっと真剣な表情になった。

「わかっているわ。貴族ではなくなる、そうでしょう? 私は平民になるの」

 ベルナールは苦い顔のまま言った。

「今までお前は伯爵令嬢として、地位も権力も約束された生活をしてきた。貴族の中には、お前を妻にと望んでくれる者は大勢いるのだぞ。お前はそれでも平民を選ぶのか――権力と地位が約束された生活を失うということがわかっているのか?」

 エリーゼはゆっくりと頷いた。

「ええ、お父様。わかっているつもりです。私は、伯爵家の娘という地位をこれまで最大に活用させていただきました。とても便利なものだけど、私には然程重要なものではありません。それよりも大事なものを――大事な人を見つけたから。未練はないわ」

「社交界ではどうする? 平民に降嫁した変わり者のレッテルが貼られるぞ」

「お父様」

 エリーゼはふふふと口元に笑みを浮かべた。

「私はもうすでに変わり者よ、二十一の引きこもり令嬢ですから。……私はどんなことになろうとも、彼の妻になりたいの」

 エリーゼの強い思いに、ベルナールは眉をしかめたまましばらく沈黙していたが、やがて再び問いかけた。

「お前から見て、彼はほんとうに悪人ではないんだろうな?」

 アンドレもそうであるが、ベルナールは娘が社交界において裏のある人間を嫌い、関わりを持たないようにしていることは知っていた。だから、ラグレーンのような男を選んだことは驚くべきことだった。

「悪人だったとは思うわ。どんな理由であれ、やってはいけないことをした」

 エリーゼは言った。

「でも彼は変わったのよ、お父様。自分のした事を心から悔いています。彼にだって生まれ変わるチャンスがあってもいいと思うの、だって、私……」

 エリーゼは少し躊躇したが、真面目な顔で父親を見た。

「私、彼をほんとうに愛しているの」

 ベルナールは苦い顔のまま、なにも言わずにしばらく沈黙していたが、やがて言った。

「お前は私のただ一人の娘だ。わがまますぎるくらいに育ててしまったが、どんな形であれ、お前の幸せを望んでいる。どちらにせよあの男の暮らしが私の思う十分な生活状態になるまでは嫁にはやらん」

 父親の言葉に、エリーゼは嬉しそうな笑みを浮かべた。

「ありがとう、お父様」




 
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