改悛者の恋

Rachel

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第五章 舞踏会

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 商会もある程度軌道に乗り、部下たちも仕事に慣れてきた頃。
 グランは得意先のダカン侯爵の屋敷へ受注に訪れていた。執事から料金を受け取っていると、屋敷の主人が姿を現した。灰色の髪に青い目の壮年期を迎えた紳士だ。彼はドルセット伯爵現当主やアンドレとも親しく、また奥方とともにグランの売る茶葉を気に入ってくれている、大事な客であった。

「おお、やっと新作の茶葉が届いたか。楽しみにしていたよ」

「ダカン侯爵様、これはおまたせをしてしまいました」

 グランは深く頭を下げると商売用の笑みを浮かべた。

「今回の商品はほどよい甘みと苦みが同時に残る風味となっております。試飲された後、よければ感想をお聞かせください」

「そうか、早速家内と飲んでみることにしよう……おお、そうだ、ラグレーン君」

 ダカン侯爵は思いついたような表情になると、思いがけないことを提案してきた。

「次に王都の宮殿で開かれる舞踏会に君も来るといい。大きな催しだから地方からも大勢客が集まる。君に私の友人達を紹介する事もできるぞ」

「え……わ、私が?」

「そうとも。宮殿の舞踏会の時だけでも王都に来るといい。ドルセット伯爵家の名なら新たな招待状をもらうことぐらい容易いだろう。それが難しければ、私が王家に頼む事もできるが」

 グランは目を丸くさせた。
 宮殿の舞踏会。久しく聞いていなかった単語に、グランは耳を疑った。自分が宮殿に出向くなど許されるのか。ほんとうにそんなことが可能なのだろうか。

「とにかく、友人達には舞踏会で君を紹介すると手紙で約束してしまうから、そのつもりでいてくれたまえよ」

「は、はい、もちろんです」

 グランは頷くしかなかった。


 
 困ったグランはドルセット伯爵邸を訪れた。エリーゼは珍しく不在で、アンドレが出迎えてくれた。

「ダカン侯爵は顔が広く、素晴らしく寛大なお方です。宮殿の舞踏会に参加すれば、確実に顧客の増加に繋がるでしょうね。しかし……」

 アンドレは難しい顔をした。

「以前申し上げた通り、あなたはとても有名だ……悪い意味で。最近は商人として良い噂もきくことはありますが、やはり世間の記憶は薄れない」

 グランは俯いた。

「……そうでしょうね。実際のところ、私は商会の表舞台に立とうとは思っておりません。そんなことをすれば、商会の印象も伯爵家の印象さえも悪くなる。あの若い部下二人を社交界に出しても恥ずかしくないような人間に育てて……」

 アンドレは首を振った。

「いいえ。私が心配しているのは、世間体ではなくあなた自身です」

「え?」

 グランは目を瞬かせた。アンドレは言った。

「あなたは商会の柱であるお方だ。いずれは社交界の中を渡り歩いていただかなければなりません。あなたのせいで私の商会の評判や質が下がるとは全く思っておりませんよ。ただ、宮殿という大きさになると、多くの階層の人間が集まる。あなたに酷い言葉を浴びせる人間が少なからずいるでしょう。そうだな、ここは侯爵に頼んで……、いや侯爵よりもいっそ王子に……」

 グランは伯爵子息の顔をまじまじと見つめた。
 アンドレは苦い顔をしながら、グランを守ろうとする方法を思案してくれているようだった。あの時のエリーゼと同じだとグランは思った。初めて会った時のエリーゼも、自分が無作法だと囁かれるのに気にも止めないで、全力で自分の復讐を止めようとした。自身の評判ではなく自分の配下を気にかけることも誇り高い貴族らしさなのだろう。
 グランはアンドレの提案に首を振った。もう不安な表情は浮かべていなかった。

「いいえ、これまでの誹謗中傷は自分の自業自得。舞踏会でのそれらの被害は甘んじて受け入れましょう。商会のためにもアンドレ殿が許可してくださるなら、ぜひとも宮殿へ行かせていただきたい」

 はっきりと決意したようなグランだったが、アンドレは心配そうな顔で言った。

「私は毎年この時期は父のいる地方へ視察に行くので、参加できないのです。ですからあなたをお守りすることができない……」

「ご安心ください。私はこれでも小さな経理係から諸外国に名を馳せるほどの銀行家になった成り上がり者です。悪口や嫌がらせに負けていたら、今生きていませんよ」

 グランは自信たっぷりに言ってみせた。
 


 アンドレのはからいで、グランの元に宮殿から正式な舞踏会の招待状が届いた。王都へ発つ日が近づくと、いつも服を注文している店の仕立屋がにこにこした顔で上等な礼服を持ってきた。

「この日のために仕立てておいたんですよ。ラグレーン様はいつもうちを利用してくださっていますからね……ぜひこれをお召しになってください」

 仕事用の新しい服を着るつもりだったグランは驚いたが、用意された夜会用の礼服を着てみると、なるほど自分の陰気な顔さえ華やいで見えるほどに上等な服だった。
 王都行きの馬車に揺られながらグランは、舞踏会で会うだろう顧客達の顔と名前を思い浮かべていた。
 久しぶりの舞踏会だ。最後に出向いたのは半年ほど前である。グランが短剣で復讐を企てていたが、エリーゼに全力で止められたあの夜だった。そういえば部下の面接を行って以来、彼女とは会っていない。舞踏会の件以降で伯爵邸を訪ねた時もいつも留守にしていた。「暇で仕方ないの」と愚痴をこぼして屋敷に引きこもり、部屋でお茶を飲んで過ごすという毎日はもう辞めたのだろうか。それならばもしやこの夜会に出席していたり……?
 そこまで考えて首を振った。いいや、彼女は社交界が心底嫌いだと言っていた。半年前に舞踏会にいたのは親戚の招待だったからだろう。それに彼女は名高いドルセット伯爵家のひとり娘だ。舞踏会にいたとしても王都の貴公子達が彼女を放っておくはずがなく、グランとは言葉を交わすこともないだろう。自分はダカン侯爵と会って、顧客達に商会の説明さえできればいい。そのために出席を許されたのだと、グランは無意識に自分に言い聞かせていることに気がついていなかった。

 グランが王都に着く頃にはもうすっかり日が暮れていた。今夜はホテルに泊まり、明日の舞踏会に参加して、その次の朝には王都を出るという緻密な予定であった。王都ではあまり良い思い出はなかったので、長居するつもりはなかったし、なにより商会を部下達に任せきりにすることはできない。グランのハードスケジュールはすべて商会を中心として動いていた。
 
 翌日、グランは王都の商店を見てまわり、紅茶の値段などを確かめ、実際に飲んでみたりした。グランの予想通り、港町に出回る紅茶に比べると種類が多いが値段は高く、安いものには味気がない。王都に住む顧客にはやはり茶葉の質を売りにしていこう。グランがそう考えているうちに、日が暮れる頃になった。ホテルに戻り正装に着替えると、辻馬車を捕まえていよいよ宮殿へ向かった。
 馬車の窓から懐かしい華やかな街路が見え、グランは目を細めた。煌々と明かりが灯り、歩道に敷き詰められた石はきっちりと並べられている。大きく立派な屋敷が立ち並び、その前では品のある黒の正装をした男たちが歩いているのが見えた。向かいでは、美しいドレスや帽子を身につけた貴婦人たちが、嬉しそうに馬車に乗り込んでいる。この大通りに、かつての自分は屋敷を構えていたのだ。それは遠い昔のことのように思えた。
 
 宮殿の入り口付近にはすでに多くの人が集まっていた。辻馬車を降りたグランは、前回のブリュノー家での件があったので、少し緊張しながら招待状をドアマンに差し出したが、ドアマンはにこやかに彼を出迎えてすんなりと会場へ通してくれた。
 宮殿を訪れるのはほんとうに久しぶりだった。富と権力を兼ね揃えていた銀行家の時は頻繁に通っていたが、荘厳な建物の中に入る時は前と変わらず心が打ち震えた。
 大きなホールは飾り立てた客達でひしめき合っていた。音楽が流れ、ダンスをしたり談笑したりする人々で溢れている。慣れない人間には、この中から特定の人物を探すのに骨が折れることであったが、目のいいグランはそれを得意としていた。しかしダカン侯爵はまだ来ていないようだ。ホールにはすでにたくさん人がいるのに、入り口からはどんどん客達が入ってくる。
 侯爵が来るまでなにか食べて待っていよう。グランは宮廷料理の並んだテーブルに近づいた。
 ドルセット伯爵邸での晩餐も目を見張らせたが、宮殿の物は数が違った。あらゆる種類の食材が使われ、富を惜しみなく誇示するかのような贅沢な料理ばかりだった。色鮮やかな野菜のオードブルや子羊の煮込み、様々な種類のチーズが銀色のトレーに乗せられて並んでいた。
 それらをつまんでいると喉が渇いたので、ワインはないかときょろきょろ見回していた。その時、声をかけられた。

「ワインをお探しですか?」

 振り返ると、黒髪の若い女性がにっこりと艶麗な笑みを浮かべて、赤のワイングラスをこちらに差し出してくれている。宝石の並ぶ煌びやかな深紅のドレスが見事だ。
 初めて見る女性に知り合いだっただろうかとグランは目を瞬いたが、「これは、どうも……」と受け取ろうとした。と、グランがグラスを持つ前に、女性がぱっとグラスを手放した。途端にグラスは彼の足元に落ちてしまい、ワインは飛び散り、グラスはパリンと音を立てて割れてしまった。グランの足のズボンに赤い液体が少しかかってしまったようだ。

「きゃあっ!ごめんなさい、私ったら……!」

 女性が悲鳴を上げたので、グランは「大丈夫です」と言おうと彼女の顔を見て、静止した。
 女性は手を口元にやって笑っていたのだ。
グランは信じられず目を丸くさせた。なんだ、この女は。

「あら、どうかして?」

 女は笑みを浮かべたまま悪びれる風もなく小首を傾げ、グランは言葉を出せずにいた。
そこへ新たな声がかかった。

「おやおや、バレティーヌ。一体どうしたんだい?」

 彼女に声をかけて歩み寄ってきたのは、きれいに撫でつけられた焦げ茶の短髪に上等なジャケットに身を包んだ、いかにも王都の伊達男と言えるような人物だった。
 バレティーヌと呼ばれた女性は笑みを浮かべたままで答えた。

「ワイングラスをこの人に渡そうとして落としてしまったの。私がいけなかったのよ、ジャン」

 そう言って少し眉尻を下げたが、やはり口元は笑っている。
 その横からジャンという男がグランの方を向いてきれいな笑顔で言った。

「彼女が大変失礼致しました。服の方は大丈夫ですか……おや、ずいぶん質の高い礼服を着ていらっしゃいますね。これはすばらしい」

 グランはこの男の笑顔の裏になにかあるとすぐに勘づいた。

「え、ええ。ありがとうございます……」

「お詫びにお飲み物をご一緒させてください。あちらのテーブルへ」

「いや、私は……」

「そう言わずに! 王室で保存されたワインは今しか飲めません、さあさあ……」

 そう言ってジャンはグランの背中に手をやり、強引に誘っていこうとする。グランは「いいえ、けっこうです」と言って彼から離れようと後ずさりした。
 その瞬間だった。グランはなにかに足を引っ掛けて倒れそうになり、とっさに後ろのテーブルに手をつこうとした。その手をつこうとした場所には、まるで用意されたかのように銀の長いトレーがテーブルからはみ出るように置かれてあるではないか。トレーの上には銀の水差しと数種類あるオードブル、そしてソースのたっぷりかかった子羊煮込みの鍋が乗っている。それに気がついたのは、グランがそこに体重をかけてからだった。もう遅い。
 トレーは勢いよく跳ね上がり、オードブル料理と鍋は宙を舞い、尻もちをついたグランは文字通り、料理を頭からかぶることになった。
 途端に会場には、まるで道化を見ているような大きな笑い声が広がった。いつのまにか、大勢の人に囲まれていた。
 嵌められたのだ。最初から――この目の前で高らかに笑っている赤いドレスの女に声をかけられた時から、罠だったのだ。そして今つまづいたのは彼女が足を出してグランを引っ掛けたからだろう。
 彼女は笑いながら言った。

「いやだこの人、身体に料理を浴びるほど食べたかったんだわ!」

 それに応えるようにジャンも笑いながら頷いた。

「卑しい身分で宮殿なんかに来るからいけないのさ。馬子にも衣装とは確かに言えたが! しかしこれで身に染みただろう」

 近くで笑っている彼らの取り巻きの連中達からも、笑い声とともに声が上がった。

「あれがあのラグレーン?」

「罪人のくせに、よくこんなところへ来れたもんだ」

「伯爵子息の気まぐれらしいぞ」

「牢獄の匂いがまだするわ」

「あんな格好じゃ、ダカン侯爵に顔向けできないだろう」

「顧客に見つかる前に早く帰りなさいな!」

 自分の名前も素性も、伯爵家で商会を任されていることも、どこから聞きつけたのかダカン侯爵に会うことすら知られている。
 グランは驚きのあまり尻もちをついたまま立ち上がる事もできず、煮込みソースと水の滴る髪の毛の間から、笑うだけの者達をぼんやりと眺めることしかできなかった。少し離れた場所でひそひそと話す者達が見えたが、誰もこちらに手を差し伸べようとはしなかった。
 そうだ、これが社交界だ。前も嫌味をいわれることはあったが、ここまでされることはなかった。いや、自分はきっと笑っている側だったのだ。
 グランは、かつての世間の冷たさが、再び、いやかつて以上に身体に刺さるのを感じていた。
 その時である。

 グランの目の前に、空色のドレスの裾が現れた。床に広がるソースや水、料理で足元が汚れるのも構わずに誰かが歩み寄ってきたのだ。
 誰だとグランが顔を上げた先にいたのは――天井に飾られたシャンデリアの灯りを背景に立っているのは、エリーゼ・ドゥ・ジレ・ドルセットに他ならなかった。
 グランは目を見張らせた。夜会服に身を包み、いつにも増して美しく着飾っている彼女は、心配そうな表情を浮かべてグランを見下ろしている。

「グラン……?」

 エリーゼの目は、ソースと水でびしょびしょになった髪の毛から覗くグランの目をじっと見つめ、彼を心底案じている色を宿していた。
 エリーゼは気遣うように小首を傾げながら、グランの方へすっと手を差し伸べた。美しい白い手袋をはめている。

「……大丈夫?」

 そうしたエリーゼの行動に、周りで大きく響いていた笑い声がふっと消えた。あの名門貴族ドルセット伯爵令嬢が、前科持ちの笑い者の男に手を差し伸べている。その場を見ていた者たちはみな硬直した。
 それを知ってか知らずか、エリーゼは戸惑うグランにずっと手を伸ばしてくれている。

「立てる?」

 痛いほど刺さる視線の中グランは小さく頷くと、その白くきれいな手袋のエリーゼの手に、おそるおそる自分のソースで汚れた手袋の手を重ねて立ち上がった。
 立ち上がったグランは、怪我こそしていなかったが、目も当てられぬ格好になっていた。髪からは水とソースが滴り落ちているし、仕立屋が用意してくれた礼服はオードブルと煮込み料理でベトベトになってしまっている。白かったシャツはところどころ茶色に染まっていた。
 エリーゼは眉を下げてグランの顔を見上げると、不恰好に彼の頬についた茶色のソースに気づき、グランと手を重ねていないきれいな方の手袋の手で拭った。グランは明らかに親密と思わせるその行動に固まった。

「エ、エリーゼ……! なにをしているのかわかっているのか」

 エリーゼはしーっと言って彼の言葉を遮ると、微笑みを浮かべて小さな声で「今は私に従ってちょうだい」と言うと、今度は周りにも聞こえる程度の声で言った。

「とても素敵な服が台無しになってしまって残念ね。でも大丈夫、ここは宮殿よ。着替えがあるはずだわ、行きましょう」

 そう言って彼をホール外の廊下へ導こうとするエリーゼに、あのジャンという伊達男が声をかけた。

「お、お待ちください、ドルセット伯爵令嬢。ご存知ないのですか、この男は罪人なのですよ。あなたがお味方する価値もない……」

「言葉にお気をつけなさい、ジャン・ポール・ドゥ・レセット子爵。彼の悪口は私が許しませんよ」

 エリーゼから突然放たれた冷たく尖った声に、グランを含めその場に居た者達はびくっと肩をこわばらせた。この声質は兄そっくりだと、グランはぼんやり考えた。

「し、しかし!」

 ジャンもそれに怯んだが、どもりながら尋ねた。

「彼はあなたのなんなのですか、あなたのような方が……」

 エリーゼはちらりと振り向くと、睨むようにジャンを見て言い放った。

「彼は私の恋人です。それだけで十分な理由でしょう」

 その驚くべき発言に皆が息をのんだが、エリーゼはもう用はないとグランの手を引いてホールを出ていってしまった。
 


 ホールの外の廊下は蝋燭があちこちに灯されていたが、薄暗く静かだった。グランを引っ張ってきたエリーゼは、向こうからやってくる女官に声をかけた。

「ちょっといいかしら」

「はい、いかがされましたか……ああ、これはこれは、ドルセット伯爵令嬢様ではありませぬか。一体どうされたのです?」

 女官はエリーゼと面識があったらしく、少し打ち解けたような様子になった。エリーゼも女官に微笑んだが、グランの方を見て困ったように言った。

「彼がテーブルの近くで転んで料理をかぶってしまったの、着替えはあるかしら」

 女官はエリーゼの後ろに立つグランに気づいて目を凝らした。

「ああ、これはひどい、上等なジャケットが、シャツが、もったいない! 着替えはもちろんございますが……いいえ、一度浴室に行かれてしまった方が良いでしょうね。こちらへ」

 女官は少し考えた後、二人を階段の上へと連れて行き、エリーゼを小さな部屋で待機させ、戸惑うグランをそのまま浴室に連れて行った。
 浴室では別の女官達が控えており、グランが抵抗する間もなく身ぐるみ剥がされると、浴槽に放り込まれてごしごしと洗われた。

 グランが洗濯物のようになっている間、エリーゼはドレスの裾についた汚れを先ほどの女官に取ってもらっていた。

「さあ、これで大丈夫ですね、手袋も新しい物をご用意しましょう」

 手際の良い女官に、エリーゼは嬉しそうに礼を言った。

「ありがとう、さすが宮殿の女官ね。頼り甲斐があるわ」

 女官は嬉しそうに頭を下げた。

「お役に立てて光栄です」



 
 それから半時ほど経って、エリーゼの待機していた部屋の扉がノックされた。

「失礼いたします」

 浴室の女官に連れられて、すっかりきれいになったグランが入ってきた。宮殿で用意された服は先ほど着ていた服よりもさらに上質の物のようだった。
 女官が言った。

「お召しになっていた服はこちらで洗濯いたしますね。お帰りの時にお声かけいただければと思います……それでは、私はこれで。ホールまでの行き方はわかりますね?」

「ええ、大丈夫よ。ほんとうにありがとう」

 エリーゼがお礼を言うと、女官は部屋を後にした。
 部屋に二人きりになると、グランはなにから言おうかと考えあぐねていたが、エリーゼはその女官の去っていった暗い廊下を見つめたままだ。
 まずは礼を言った方がいいだろうとグランは咳ばらいをして口を開いた。

「さっきは……」

「こめんなさい!」

と、エリーゼが突然こちらを向いて頭を下げた。グランは目を瞬かせた。

「な、なんで、謝るんだ……?」

 エリーゼは頭を上げ、ちらちらとグランを見ながら答えた。

「だって……だって、私ったらとんでもないことを言ってしまったじゃない? あ、あなたが私の、こここ、恋人だって……」

 なんだ、それか。グランは苦笑いを浮かべた。
 エリーゼはぶつぶつと呟くように続けた。

「友達なんだから、友達って言えばよかったのよね、それはわかっているのだけど、どうしても、その……」

 困ったように言葉を紡ぐエリーゼだったが、グランは言った。

「俺が、君の友達だろうと恋人だろうと、どちらにせよ一緒のことだ……君の評判には確実に傷がついた。伯爵家の名にも」

 エリーゼはぽかんとした表情を浮かべた後、そんなことと肩をすくめた。

「あれくらいでドルセット家は揺るがないわ。あなたが気にする必要は全くなくてよ」

 それから彼女は眉を寄せて言った。

「それよりも、ひどいことをする人達がいたものね。貴族と名乗るのも腹立たしいわ。なにが子爵よ。相も変わらず、社交界の人間は卑劣なことを考えるわね」

 グランは、そういえばとずっと頭に抱いていた疑問を言った。

「エリーゼ、君はなぜここにいる? 舞踏会は苦手だと言っていただろう。王都まで出てきて、用事でもあったのか……誰と来た? アンドレ殿はいないのだろう」

 エリーゼは、照れくさそうにして舌を出した。

「私はマリーおば様と一緒に来たの、ほらブリュノー家を覚えているでしょう? 彼女の王都の屋敷にここ一ヶ月ほど滞留させてもらっているのよ。それと、今夜の宮殿の舞踏会は来ると決めていたの……その、あなたが出席するってお兄様が言っていたから」

 ああ、なるほど。グランは頷いた。

「兄上に言われて君が来たのか」

 グランはそう結論づけたが、エリーゼは首を振って思いがけないことを言った。

「いいえ、お兄様は私に舞踏会には行かない方がいいと言ったわ。でも私は行くと決めていたの。だって、あなたと敵対する人間は絶対にあなたを貶めようとするでしょう。だから私がお兄様のように守れたらって思ったの」

「君が兄上のようにって、だが君は……」

 エリーゼは笑って肩をすくめた。

「ええ、そう。私はあまり外に出ていないから、突然当日に舞踏会に行ったところで、顔の広いお兄様みたいに社交界の人達に影響を与えることはできないわ。紋章のアクセサリーを持っていたって、瞬時にドルセット家の人間だって認識してはもらえない。あなたを守るには、みんなに私のことを知ってもらう必要があった。だから――このひと月、王都での貴族のお茶会や舞踏会に毎日のように参加して、多くの人に私の顔と名前を覚えてもらったの。元々マリーおば様からずっと王都へのお誘いは受けていたので、ただお受けしたに過ぎないのだけど。さっきの子爵もこれまでの小さな舞踏会に通っていたおかげで、私が伯爵家の娘であることを知っていたのよ。宮殿の女官まで覚えていてくれたことは嬉しかったけど」

 グランは言葉を失った。

 それではなにか、彼女は今日の舞踏会の参加者に自分の存在を認識させるために、苦手だというお茶会や舞踏会に参加し続けたのか。しばらくの間、顔を見なかったのは、全部……全部、俺を守るために?

 呆然としているグランに、エリーゼは楽しいことを思いついたような表情を浮かべた。

「これからホールに下りていって、大勢の前で踊りましょうよ! そうしたらあなたを否定するということはドルセット家を敵に回すことになるって、みんなわかるわ。あんなひどい目に二度と合わせるものですか。それからダカン侯爵のところへ行きましょう。そろそろ彼が来ている……」

 そこで、エリーゼは言葉を途切らせた――グランに抱きしめられたのだ。

「グ、グラン……?」

 呼ばれた彼は、しばらく彼女を腕の中で抱いた状態で黙っていたが、やがて苦しそうな声を出した。

「どうして……どうして君は、俺のためにそんなことまでやってくれるんだ。商会は預かっているが、俺のものじゃない。俺が君に返してやれるものはなにもないんだぞ……俺には、富も、地位も、名誉もないんだから」

 抱きしめたまま震える声で問うグランに、エリーゼはふふっと笑うと、優しい声で答えた。

「私は富も地位も、もう持っているもの。あなたになにかを求めているわけじゃない、私が――私があなたを好きだからやっているだけ。それだけの理由よ」

 エリーゼの言葉はとてもしっかりとした返事だったが、グランはその理由がとても脆いものだと思った。

「それは……君が俺に興味を持たなくなったら、もうおしまいということか」

「うーん、そうね。確かにその通りかもしれないけど」

 エリーゼは少し考えてから、がばっと体を離してグランの顔を見上げ、笑顔で言った。

「でも安心して。あなたから興味がなくなるなんて、絶対にならないから」

 グランはその間近で見る愛らしい微笑みに、顔がかっと熱くなるのを感じて、エリーゼからよろよろと後ずさり顔を背けた。
 わからなかった。彼女の考える事も、それが貴族の遊びなのかも、自分の飛び跳ねる心臓も。ただ一つ、言わなければならないことがあった。
 グランは顔を赤らめたまま、エリーゼの方を向いた。

「ありがとう、エリーゼ」

 エリーゼはその言葉に嬉しそうに微笑んだ。

「いいのよ、私もああいう連中にはぎゃふんと言わせたかったの! さあ、下へ行きましょう」

「その、エリーゼ」

 扉を開けようと取っ手に手をかけた彼女に、グランは目を合わせずに言った。

「俺のことは……名目上恋人でもいい」

 エリーゼはたちまち満面の笑みに包まれて、彼の腕に抱きついた。


 
 ダンスホールは一番のピークを迎えており、先ほどよりももっと大勢の客で埋め尽くされていた。二人がホールに現れると、騒ぎを知っている者たちの目が一斉に集まった。

「痛いほどの視線だな」

 グランの居心地悪そうな様子に、エリーゼは涼しい顔をしてみせた。

「ちょうどいいくらいよ。さあ、踊りましょう」

 そうして二人はホールの真ん中まで行くと、手を取り合って踊り始めた。エリーゼは王都に滅多に来ないとは思わせないほど洗練されたように美しく踊り、彼女の気品は皆の注目を集めた。グランの方は初めの方こそ緊張した顔をしていたが、彼女のきらきらした笑顔でそのうちに表情が柔らかくなりいつのまにか優しく微笑み返していた。
 この決定的な二人の仲睦まじい様子に、グランの過去の悪い噂を公然とすることは、名門ドルセット伯爵家を貶すことだと多くの人間が理解した。

 ダンスを終えてホールの中央から抜けようとした時、グランは突然固まったように足を止めた。

「どうしたの?」

 エリーゼが彼の視線を辿ると、その先には大勢の人達に囲まれて楽しそうに談笑している男女の姿があった。
 知り合いなのかしらとエリーゼは少し考えてからはっとした。大勢の人に囲まれている男女二人。前にも見た光景だ。まさか……?
 エリーゼはおそるおそる横に立つグランを見上げた。彼の顔は強張ってはいたが、前のような憎しみの色は浮かんでいなかった。それどころか、恐れを抱いているのか腕が震えているようだ。
 
 グランは目を見開いていた。少し離れているが、人の集まった中心にいるあの人物、あれは間違いなく、自分が陥れた……そして自分から全てを奪って復讐を果たしたあの男に違いなかった。
 だがグランの心を占めていたのは、以前のような激しい憎しみではなく、恐れだった。
 今すぐにでも彼の元へ駆け出してひれ伏すか、あるいは彼のいるこの会場から逃げ出して部屋に閉じこもりたいという思いが込み上げてきて、どうしようもなく身体が動かなくなってしまったのだ。
 その時。

「グラン、大丈夫?」

 エリーゼが自分の腕を絡めている彼の腕をぎゅっと握った。グランは我に返ったように、心配そうな顔のエリーゼを見下ろした。
 そうだ、今は彼女が隣にいるのだ。その存在に心からほっとした。グランは小さく笑みを浮かべてみせた。

「悪い、なんでもないんだ」

 そう言うグランをエリーゼは少し不安げに見つめていたが、やがて優しく微笑み返して頷いた。
 そうして微笑み合っている二人の元に、一人の壮年がにこやかに笑いながら歩み寄ってきた。

「いやいやいや、ダンスが上手だとは知らなかったよ、ラグレーン君」

「ダカン侯爵!」

 グランはすっと居住まいを正してきちんとした礼を取った。

「ご挨拶が遅れて申し訳ありません」

「安心したまえ、実は今来たところなんだ。家内が支度に手間取ってね。今日の昼頃王都に着いたものだから。ところで……」

 ダカン侯爵はにこやかに言うと、グランの少し後ろで控えているエリーゼに視線を移した。

「君と踊っていたこちらの美しいご令嬢は? もしやあなたがドルセット伯爵のご息女だろうか?」

 エリーゼはにっこりと美しい笑みを浮かべ、貴族の娘らしく上品なお辞儀をした。

「はい。お初にお目にかかります、エリーゼ・ドゥ・ジレ・ドルセットです。お目にかかれて光栄ですわ。父や兄からダカン侯爵様のことは少し伺っておりますの」

 ダカン侯爵も彼女の手を取って挨拶をした。

「こちらこそ、はじめまして。ほう、そうでしたか。しかし……ドルセット伯爵がこんなに美しいご令嬢を隠していらっしゃったとは」

 エリーゼはくすりと笑みを漏らした。

「いいえ、私が屋敷に引きこもっているだけですわ。社交界は苦手ですから」

 ダカン侯爵は笑い声をあげた。

「ははっ! 私もですよ。今夜はラグレーン君に会うために来たようなものです。おおそうだ、ラグレーン君。向こうで友人達を待たせているのですよ、ぜひとも王都とは違う商いの話をしてやってください。エリーゼ嬢も良ければご一緒にどうぞ」

 そう言うとダカン侯爵は、身を翻してホールの人だかりの中を歩みだした。グランとエリーゼも侯爵の後ろについていく。少し歩くと、出入り口付近の方に何人かの男達が楽しそうに談笑しているのが見えた。
 グランは思い出したように上着の内ポケットに手をやってごそごそ探ったが、さっと青い顔になった。顧客の名前や注文内容を書き留めておくために準備した紙とペンを、先ほど女官に託した服に入れたままにしてしまったのだ。
 グランはちらっと侯爵の先にいる男達の人数を確認した。6人。それもおそらく全員貴族だ。絶望したような表情を浮かべたグランだったが、横からその様子を見ていたエリーゼは小さい声で彼に耳打ちした。

「大丈夫、彼らの本名や領地は私が知っているわ。あなたは顔とファーストネーム、それから仕事の内容だけ覚えておいて」

 その言葉に驚いてグランはエリーゼを凝視した。エリーゼは得意そうに笑顔で頷いてみせた。さすがは貴族の娘だ。
 その様子にいくらか救われ、グランは心でほっと息をついて気合を入れた。貴族の長い名前を覚えなくていいのであれば、あとは自分の得意分野だ。グランは自信有り気にダカン侯爵の友人達との話に臨んだ。まずは王都での紅茶の事情を詳しく教えてもらおう。こちらを売り込むのはそれからだ。



 
「それでは、私はそろそろこの辺でお暇させていただきますわ」

 エリーゼの言葉にグランははっとした。ひと通り商いの話を終えて、ようやく世間話に入った時だった。
 彼女が傍らにいることも忘れ、ダカン侯爵やその友人達との話に夢中になり、彼女に見向きもせず疲れたかどうかの気遣いひとつ見せなかった。かかとの高い靴を履いた彼女を棒立ちにさせたまま、一時間以上過ごしていたのだ。
 ダカン侯爵が言った。

「おお、これは失礼、マドモワゼル! 少々仕事の話をしすぎてしまったようだ」

「いいえ、私は全くかまいませんのよ。ただ、親戚の者と約束した時間になる頃なので、私はこれで失礼致します。皆さん、良い夜をお過ごしください」

 エリーゼは笑顔でそう言うとお辞儀をして身を翻した。

「エ、エリーゼ、待ってくれ!」

 グランが慌てて追いかけ、エリーゼの腕を掴んだ。

「す、すまなかった、俺は……!」

 エリーゼは目をぱちくりさせてから、笑顔をグランに向けた。

「なにを言っているのよ、あなたは彼らと会うためにここに来たのでしょう。私のことは気にしないで。親戚の話はほんとうよ、そろそろマリーおば様の馬車のところへいかなきゃ。ああ……彼らの正式名は今夜中にリストにして、明日の朝一番に港町の事務所宛に送るわ。安心してちょうだい」

 グランは首を振った。

「それは……それはありがたいが、そんなことじゃない、俺は君を長いこと放って仕事の話を……」

 エリーゼは微笑んで、グランの頬に手を当てた。グランの頬も手袋ももう汚れていなかった。

「いいのよ、ほんとうに。今夜は素敵な夜をありがとう。おやすみなさい」

 そう言うと、エリーゼはすぐにホールを去っていってしまった。
 グランはその後ろ姿を申し訳ない気持ちで見送った。するとすぐ後ろから声がした。

「いやいやいや! ラグレーン君、君も隅に置けんな!」

 振り返ると、ダカン侯爵がにやにやとした笑いを浮かべている。

「私自身は、君が罪を犯した人間でも改心して真面目に商いを行い、我々顧客の事を真剣に考えてくれている真摯な態度を買っている。しかし、どうやってあの高嶺の花の関心を得ることができたのかな?」

 グランは小さく首を振り、視線を落とした。

「……わからないんです、私にも」



 
 馬車の中では、マリー奥方がいびきをかいて寝ていた。会場から出てきたエリーゼに、待機していた侍女がほっと息を吐いてから言った。

「お嬢様! お帰りが遅いので心配いたしました。マリー様は疲れて眠っておられますよ」

 エリーゼは茶目っ気たっぷりに微笑んだ。

「ごめんなさい、でも、今夜はとっても素敵な夜だったわ」

「はいはい、わかりましたから、早く乗ってください。すっかり遅くなってしまいましたよ」

 そうして馬車は侍女とマリー奥方、そしてエリーゼを乗せて走り出した。

 エリーゼは揺られる馬車の中で、ほうっとため息を吐いた。ほんとうに素敵な夜だったわ。
 先ほどグランは、彼女を放っておいたまま仕事の話ばかりをして長い間待たせてしまったとすまなそうにしていたが、エリーゼの方は全く怒りを感じていなかった。いいや、彼女は待っていたのではなかった。ずっと横でグランを見ていたのである。
 自己紹介の時の彼は緊張していたようだったが、商いの話となると一変した。貴族達にわかりやすいように言葉を合わせ、熱心に商売の説明をし始めた。王都の茶葉の質、伯爵家の商会で扱う茶葉の原産地の話、季節によって変化する栽培事情、割高の話、損得の話。市場に詳しくない貴族にもわかるような説明だった。そしてなにより彼自身が陰気だと気にしている顔が生き生きと輝き、自信に満ち溢れていた。
 仕事の話をするグランはなんて魅力的なのかしら……! うっとりと見つめるばかりであったエリーゼは、たとえグランに話しかけられても、すぐには返せなかっただろう。
 エリーゼはマリー奥方の屋敷に着くまでずっとそんなことを考えていたのだった。
 


 
 舞踏会から数週間後。エリーゼが王都を後にしてから、マリー奥方はサロンでの集まりで彼女とラグレーンの噂をきいて悲鳴を上げることとなる。

「な、な、なんですって……!?」

 エリーゼが、あの新聞沙汰になったラグレーンとかいう男と恋仲ですって!? 信じがたい話にマリー奥方はガタッと椅子から崩れ落ちそうになった。
 ドルセット伯爵家とマリー奥方のブリュノー家は遠い親戚であり、かかわりも薄いものであったが、マリー奥方には恐れるものがあった。

「伯爵に……ベルナール様に、なんと言われるかしら……ああ、私が同席していながら! 私の信用が失われてしまうわ」

 まさかすぐに疲れてしまってさっさと馬車に戻り、眠りこけていたとは言えまい。

「と、とにかく、噂が悪い形になって伯爵の耳に入る前に、私から手紙で伝えておかなければ……!」

 マリー奥方は急いでペンを取った。





 
 
 
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