改悛者の恋

Rachel

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第三章 信頼への投資

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 アンドレの商会事務所の扉を開けたグランは目を瞬かせた。

「なんだ……これは」

 一つの大きな机をぐるりと囲むようにして、箱詰めされたたくさんの茶葉の商品が高々と積み上げられている。机の上に置いてあるのは買いたいと申し出ている貴族の名前のリストが一枚。それも一度も購入に至ってはおらず、さらに紅茶の在庫の数はどこを探しても記録されてなかった。
 ここまで手つかずとは。グランは苛だたしげに頭をかいた。これではほんとうに文字通り一から始めなければならないぞ。
 この事務所の鍵を預かる時、アンドレはグランにこう言った。この商会の大まかな取り仕切りは、前の経理の担当者に任せていたため、アンドレ自身が商いを動かせるわけではなかった、そしてその前の担当者は貴族の子息であり、アンドレ同様に商いの経験はなかったと。
 グランにしてみれば、よくそのような状態で商会を営もうと決断したものだと貴族というものに首を傾げるばかりだ。とにかくやることは山積みである。

 グランは商会に必要な項目を上げ、順に片付けていくことにした。まず商品を数えなければならない。数字を出し表にして、顧客にどの種の茶葉を購入するのか伺う手紙も書かねば。そしてそれを月に一度、在庫を用意するアンドレに報告することも必要だ。グランは商会を形から作り上げていくことに奮闘した。
 商会がそんな状態であったため、グランの生活を支えてくれるような収入は当分望めそうにはなかった。
 最初の給料は上等なフロックコートを買うのに使ってしまったから、グランは暮らしのために、商会の仕事が軌道に乗るまで造船所の仕事をかけ持ちしなければならなかった。 造船所の給料は安く、休みは週に一度と限られているため、事務所に行くのはそのたった一度の休みの日か、造船所の仕事を終えた後であった。
 二ヶ月もすると、商会はやっと形が見えてきた。わずかな時間の間にそれができたのは、少なからずグランに経験と才能があったからだろう。
 
 

「おい、ジャン。船底修理は終わったのか?」

 造船所の出入り口で、荷物をまとめて帰る支度をしている大柄な男に、似たような風貌をした男が声をかけた。日は傾き、そろそろ仕事も終わりの時間になりかけている。
呼ばれたジャンはニタニタ笑って答えた。

「いいや、けど新人がやってくれるって言うからさ」

「お前、またラグレーンに押しつけたのか」

 呆れたように息を吐く同僚にジャンは肩をすくめる。

「本人がやってくれるって言うんだからいいだろ。それにテディエ、てめえこそ一昨日甲板のタール塗り、やらせてたじゃねえか。俺は知ってんだぜ」

 言われた男――テディエもへらっと笑った。

「まあな。いいんだよ、ああいうやつは慣れるためにいろんな仕事をこなすのが大事なんだからな。しかし、船底修理とは結構、お前も酷なこと……」

 その時である。

「ごめんくださいまし」

 二人に柔らかい声がかけられた。振り向くと、後ろに付き添い人を連れた美しい装いの令嬢が立っていた。
 明らかに場違いな姿に、船大工達は目を丸くさせた。
 令嬢は上品な様子を崩さずに言った。

「ここの造船所の支配人かどなたかはいらっしゃいますでしょうか。ある工員の方と少しお話できたらと思いまして」

 ジャンは美しい令嬢に見とれてぼうっとしたまま固まってしまった。テディエも同じであったが、はっとして答えた。

「え、え、ええと、支配人は今日はもう帰っちまいました……けど、そろそろ仕事の終わる時間なんで、たぶん会えますよ。案内しましょうか」

「まあ、ほんとうに? それじゃあお願いしてもよろしいかしら」

 花の咲いたような笑顔を浮かべた令嬢に、ジャンもテディエもしまりのない顔になってへらっと笑った。

「お安い御用ですよ。で、誰です? そいつの名前は?」

 令嬢の言う名前をきいた途端に、二人は目を点にさせて固まった。


 
 グランは材木を作業場にガラガラッと下ろし、息をつくと額に流れる汗をぬぐった。
 造船所の仕事が休みだった昨日は商会事務所の机に座っていたが、今日はこちらで朝から材木運びばかりだった。
 造船所には多くの労働者がいたが、みなグランの犯罪歴を新聞で読んでいたため、彼からは遠ざかり、めんどうな仕事を押しつけてきた。グランは悔しさを感じていたが、せっかくの収入源である造船所を辞めるわけにもいかないので、しぶしぶ引き受けていた。
 いつもなら造船所の仕事の後の夜は商会の注文整理に行くのだが、目の前の船底はボロボロで修理に時間がかかりそうだ。今夜は事務所に行くのは無理だな。そう思っていたところだった。

「グラン!」

 突然、聞き覚えのある高い声で呼ばれ、思わず振り向いて目を丸くさせた。

「……エリーゼ?」

 材木だらけの作業場に現れたのは、紛れもなく伯爵令嬢エリーゼ・ドゥ・ジレ・ドルセットだった。彼女の後ろには付き人らしい少し年嵩の女性が控え、さらにその後ろには彼女らをここまで案内してきたと思われる工員のジャンとテディエが意外そうにこちらを見ている。

「な、なぜここに……。なにしに来た?」

 まるで奇怪なものでも見るかのような目つきのグランに、エリーゼは腰に手を当てた。

「あなたに会いに来たに決まってるじゃない! ちっともお屋敷に来てくれないんだから」

「……忙しいんだから仕方ないだろう。ここだけじゃなく、商会の仕事だってある」

 エリーゼはそのようねと肩をすくめてみせた。

「わかっているわ。商会の事務所にいなかったから来てみたの。ここでのお仕事も大変そう……ねえ、ところで今日のお仕事は終わった? 今夜うちで夕食を一緒にどうかしら。お兄様からもぜひって言われているのよ」

 グランは鼻で笑って材木を持ち直した。

「あんたの屋敷で? 無理だ。伯爵が許さないだろう」

「あら、お父様は最近はずっと、辺境の領地へ行っているの。今あの屋敷の主人はお兄様だから安心して」

 あの伯爵家の嫡男を前にして、安心などできるか。グランは心の中で呟いた。
 商会の営みに携わるようになってから、アンドレは根っからの貴族で上司としては気配りのできる良い男だと思ったが、依然として腹の読めない恐怖の対象だった。妹を利用しようなどと一瞬でも考えたことがわかってしまえば死ぬより恐ろしい目に合わされるだろう。

 グランは口元を歪めて、材木を拾い上げて彼女に見せるように掲げた。

「あいにく、仕事が終わらない。明日までにやる事がここには山ほどあるんだ」

 すると、エリーゼががっかりしたような顔を浮かべる間もなく、彼女の後ろから空回りしそうなほど明るく野太い声が上がった。

「待てよ、ラグレーン!」

 ジャンとテディエだ。彼らはグランの方へ駆け寄ってくると言った。

「船底修理は俺たちに任せて、お嬢さんの屋敷に行ってこいよ」

「そうだよ、かまわねえさ!」

「え? で、でもさっきは……」

 二人の思いがけない提案にグランは戸惑うばかりであったが、エリーゼはたちまち満面の笑みを浮かべた。

「まあ、よかった! とっても親切な工員さん達ね!」

 ジャンとテディエはしまりのない顔でへへへと笑った。なるほど、ただそう言われたかっただけか。グランは彼らを冷めた目で見ていたが、突然ぐいっとエリーゼに腕を引かれて驚きの声を上げた。

「うわっ」

「さあ帰りましょう、グラン! その木はそこに置くのよ。それじゃあ素敵な工員さん達、ごきげんよう」

 そうして令嬢に引っ張られるようにして去っていく新人、そして付き添い人が造船所を去っていくのを見送りながら、ジャンとテディエは、ほうっと息をついた。

「久しぶりに美女の笑顔を拝めたぜ」

「まさか、やつにあんなご令嬢がいたとはな。しかもありゃ相当な金持ちだぞ。やっぱり犯罪者でも有名どころは違うぜ……」

「あいつはここは長くねえだろうな、すぐに出て行くに違いねえ」

 二人は材木を下ろして作業に取り掛かり始めた。
 


 造船所から出て、そのまま馬車で伯爵邸に連れて行こうとするエリーゼに、グランは自宅に戻り、身なりを整えてから一人で屋敷へ向かうと言った。
 エリーゼは疑い深い目を向けた。

「そんなの信用できるわけないでしょ……いいわ、あなたの自宅の前で馬車に乗って待っていますから。早く支度をすませるのよ」

 結局グランは彼女から逃げることも叶わず、自分の家に着いた。
 たっぷり時間をかけて着替え、髪の毛についた木屑や埃を払い、櫛を通す。ジャケットのしわも念入りに伸ばした。ついでに散らかった部屋の片付けもしておく。家具といえる家具もあまりなかったが、とにかく少しでも時間を先延ばしにしたかった。とうとうなにもすることがなくなると、グランは腕組みをして考えた。
 あれからずいぶん時間が経っている気がした。もしかしたら、待ちくたびれてもう帰ってしまったということもあるかもしれない、そう思い玄関の扉をそっと開けた。
 そうしてグランは待ち構えていたエリーゼに首根っこを掴まれるようにして馬車に乗せられると、伯爵邸まで連れていかれたのだった。
 

 伯爵家の食堂では、主人席にはエリーゼの兄アンドレが腰を下ろしていた。エリーゼとグランが入ってくると、彼は笑顔で立ち上がった。

「やあラグレーン殿、ようこそ。エリーゼ、お帰り。よく彼を連れて帰ってきてくれたね」

「こんばんは。お招きいただいて光栄です……」

 グランは小さく会釈をした。

「ただいま、お兄様。あら、あなたたちは私ほど久しぶりではないのでしょう」

 エリーゼはツンとすましたように言い、上着や荷物を後ろで控えていた召使いに預けると席についた。
 アンドレは軽く笑った。

「まあそうだね、でも仕事なのだからあたりまえじゃないか……ああ、ラグレーン殿、ぜひそこへ座ってください、上着は彼に」

 グランが振り返ると召使いが上着と鞄を受け取ってくれた。グランはその動作に一抹の懐かしさを覚える。昔は自分もこういう生活をしていたのだった。崩れかけた家の扉を開けて、上着をその辺に放り出し、テーブルに置いてある古くなって固くなったパンをかじるのではなかったのだ。
 席について食前の祈りをすませると、ご馳走が次々と運ばれてきた。豪華さを増していくテーブルを見ながら、スープを口に運びながらグランは疲労でぼうっとしていたが、アンドレに話しかけられていることに気づいてはっとした。

「……ですから、長年商業に携わっていた男は他とは違うと実感しましたよ。やはりあなたに頼んでよかった」

 どうやら商会の仕事の話をしていたようだ。兄の言葉に、エリーゼはサラダをつつきながら不服そうに言った。

「お兄様は意地悪よ、ちっとも動いてなかった商会をグランに押しつけるなんて。彼は生きていくために働いているのよ。お兄様みたいに気まぐれを起こしている暇なんかないわ」

「おやおや、そうなのですか?」

 アンドレはおどけたようにグランの方を向くと、グランは肩をすくめるようにして答えた。

「正直に申しますと、私は今の造船所での稼ぎでやっと生活できる状態で……商会の仕事はその合間にやる程度でしかお力になれず、申し訳ない限りです」

「えっ?」

 アンドレは柔和な雰囲気を崩して驚いたように目を丸くした。

「ほんとうにそうだったのですか? ま、まだ造船所に?」

「まあ、お兄様ったら! それじゃあ私が今日グランを迎えにどこへ行ったのか知らなかったというの?」

 エリーゼが呆れたように言ったのに、アンドレは妹の方にがばっと振り返る。

「お前……造船所まで行ってきたのか!?」

「そうよ。お兄様ったら彼とは毎週会っているのに想像もしなかったのね」

「そんな……しかし、商会の仕事が動いているのにどうやって……」

 戸惑っているアンドレに、グランは静かに答えた。

「造船所へはほぼ毎日通っています。事務所に行くことができるのは仕事が終わった後と、休日だけです。アンドレ殿はいつも休日にいらっしゃるから……」

 商会に携われるのはほんとうに限られた時間だ。生活していくためにはどうしようもなかった。
 アンドレはずっと驚いた表情のままで、グランを見つめていたが、突然すっと頭を下げた。

「申し訳ありませんでした。あなたの事情をしっかり把握できておりませんでした。しかしそんなわずかな時間であそこまで……」

 なにやら口先で呟いた後に、決意したような顔になって確認するようにグランに尋ねた。

「造船所で働くのは衣食住のためとおっしゃいましたね? それ以外に理由はないと?」

「え、ええ」

「わかりました。ラグレーン殿、ここから北にそう遠くないところに私の所有する家がありますから、明日からでもそこで生活してださい。ほんの小さな住まいですが、コックと召使い、メイドをつけてありますから家事全般は安心してくださって結構です」

「な、なんですって? まさか……」

「造船所を辞職して、こちらの商会に専念していただけませんか。生活はこの私が保障します」

 伯爵子息がまたもや思いもかけない提案をしてきたことに、グランは頭を抱えそうになった。
 衣食住と仕事を与えるのか……この俺に? 彼は一体なにを考えているんだ。
 グランは混乱した頭で少しの間黙っていたが、顔をしかめて言った。

「……商会はまだ利益を出していない。見返りを受け取るほどの功労も立てていない。なにより私は――施しは受けません」

 そう強く言い切ったグランを、エリーゼは横で見ていた。彼はあの舞踏会の夜、物乞いになるくらいなら死ぬと言っていた。人からなにかを与えられることに抵抗があるのかしら。
 しかし、アンドレは首を振った。

「施しではありません、私はあなたに投資しているのです」

「……投資?」

「そうです。あなたはわずか二ヶ月、それも造船所の仕事の合間という限られた時間で、商会の欠落を見つけ、正確な運営に導いた。あなたはやはり商いの人間です。あなたがこの商会を大きく繁栄させてくださることにどうか投資させてください。もちろん商会が軌道に乗ってあなたの収入が安定すれば、家は出ていってもらってかまいません」

 熱心に言うアンドレに、グランは苦虫を噛み潰したような顔になった。
 もちろん商いはグランには慣れたものだった。造船所で木材を運ぶよりも数字を割り出す方がずっと得意だ。
 しかし、グランはこのアンドレという男がどうしても信じられなかった。自分は牢獄から出てきた身だ。たとえこの商会が成功しても、自分の名を社交界に明かせば損失を招いてもおかしくはない。なにも得るものがないはずなのに、こうまでして自分にかかわろうとするのはなぜなのだろう。なにか裏があるにちがいないのだが、グランにはそれが全くわからなかった。
 黙っているグランに、アンドレは再び意地悪そうな笑みを浮かべた。

「まあ、私の話を受けないという選択肢はないことは、すでにご存知かと思いますが」

 グランは目を細めた。またこれだ。

「あなたは……恐ろしい人ですね」

 アンドレは悪びれる風もなくにっこり笑った。

「よく言われます。実際はそうではないつもりなのですがね。まあでもこの話はあなたにとっても、悪くないでしょう?」

「あらグラン、私は大賛成よ。だってあなたの忙しさが少し減って、会える機会が増えるんですもの!」

 エリーゼが嬉しそうに口を挟んだ。アンドレはそんな妹に優しげな微笑みを向けている。それは兄が妹を慈しむものにちがいなかった。
 グランは肩をすくめた。

「……わかりました。ではあなたに従うことに致します。商会に全力を尽くさせていただきます」

「よかった! それでは早速明日から引っ越しの準備をお願いします。ああ、これで心置きなく夕食を味わえる」

 アンドレはにこやかにメインの肉にナイフの刃をあてた。


 
 夕食を終えると、アンドレはすぐにやる事があると食堂を去っていった。グランとエリーゼはそのまま席に残り、食後にお茶を飲んだ。

「ねえ、グラン」

 エリーゼはカップに口をつけながら少し遠慮がちに言った。

「ほんとうのところ、どうなのか教えてくださらない? さっきは私はああ言ったけれど、もしもあなたがお兄様の下で働くのが嫌で、造船所の方がいいのなら……」

 エリーゼは気遣うような表情をこちらに向けている。グランは目を丸くしたが、小さく首を振った。

「いいや、造船所での仕事に未練はない」

 グランは持っていたカップを置くとまっすぐ見つめてくるエリーゼに目を合わせて正直に言った。

「俺は……木材より数字をいじっている方が性に合う。正式に経済界に復帰できるとは思っていないが、その機会を与えてくれた君の兄上には感謝している。だが……」

 顔を曇らせて目を逸らしたグランに、エリーゼは引き継いだ。

「お兄様の意図がわからなくて、不安なのね?」

 グランは眉をしかめて頷いた。

「……なにか罠があるとしか思えない。こんな犯罪者の俺を嵌めたってなんの得にもならないのに」

 エリーゼは少し考えたが、カップを置くと「実はね」と切り出した。

「少し前にお兄様にきいてみたのよ、"なぜグランに商会の仕事を任せたの"って。そうしたら答えはなんだったと思う?」

 グランは肩をすくめた。

「人手不足とか?」

 エリーゼは笑って首を振った。

「いいえ、私もそう考えていたんだけど違ったの。お兄様はこう答えたのよ、"そうすれば、彼はお前に理由もなしに会えるだろう"って」

 グランはぽかんとした。

「あんたと俺を会わせるためだって言うのか? 俺が雇われた理由が?」

「ええ、どこまで本気なのかわからないけど」

 グランは全く本気にできなかった。冗談だろう、あの伯爵の嫡男がそんな理由で動いているとは思えなかった。
 グランが納得いかないような顔をしていると、エリーゼは言った。

「お兄様が私の心を第一に考えてくれているのは確かよ。お兄様は私を政略の駒になんて全く考えていないもの。もしそうであるなら、二十一歳でまだ結婚せずに家にいるなんてことはできないわ」

「……あんた、二十一だったのか」

 箱入りで育てられたからか、少々あどけなさの残るエリーゼをグランはしげしげと眺めた。
 エリーゼは少し赤くなった。

「そ、そうよ! だから親戚からは舞踏会の誘いが多いの」

「だが縁談の話が来ないわけがないだろう。そもそも王の覚えもめでたい伯爵家なんだから、条件の良い話もあったはずだ」

 エリーゼは口を尖らせた。

「だってどうしても嫌だったんですもの。お兄様に泣きついたら全部断ってくれたわ」

「それは……」

 完全なシスコンではないだろうか。グランは言葉を飲み込んで言い直した。

「とにかくあんたの気に入るものは手に入れて、それ以外は排除してきたということだな」

 エリーゼは笑顔で頷いた。

「ええ、そう。前にも言ったけど、私はずいぶん甘やかされて育ってきたわ。でも私のわがままで潰れちゃうような家ではないもの。……お兄様が、わざわざグランを嵌めるなんて、絶対に考えられないわよ」

「どうだかな」

 グランは肩をすくめると立ち上がった。ここで、彼女と話していても仕方ない。召使いからコートや鞄を受け取り食堂を後にする。エリーゼもその後に従った。

 前回来た時は気がつかなかったが、長い廊下には肖像画がズラリと並んでいた。
 エリーゼは、グランがそれらに視線を向けていることに気づくと、鼻で笑うような言い方で言った。

「ここにあるのは、全部ドルセット一族に貢献した名のある人達なのですって。おかげで伯爵の地位なのにいろんなところで権力を持つことになったらしいわ。これ以上持っていても仕方ないと思うけど」

 グランはエリーゼの言葉に驚き、死んでしまった彼らに少々同情した。

「その権力を持つために、祖先がどれほど奮闘してきたのか考えないのか?」

 グラン自身も、かつては権力を手に入れるために血の滲むような努力をしてきた。結局必死に足掻いて手に入ったのは金だった。それもすべてこの手からこぼれ落ちてしまったが。それほど権力というものはもろいと感じていた。貴族でない限りそれを維持するのは無理なのだと、昔落胆したことを覚えている。
 しかしエリーゼは肩をすくめた。

「私は貴族としての誇りはあるけど、権力を頼りにして生きるなんて、無意味な人生だと思うわ。いずれは自分の手から離れるものに固執するなんてばかみたい。そんなものがなくても人の上に立つべき人は、いつか必ず上に立つものよ」

 グランは鼻で笑った。

「ほんとうに君はおめでたいな。人の支配下に生まれてみろ、誰だって上に立ちたいと思うさ。名高い貴族の家の娘だからそう言えるんだ。権力ありきの貴族の誇りだろう」

 しかしエリーゼは、違うわと笑って首を振った。

「貴族としての誇りは権力から生まれるものじゃないわ。人から得る信頼よ。信頼こそ私にとってなによりの誇りだわ。貴族に限った話じゃない、国王だって、銀行家だって、商人だって、医者だって、肉屋さんだって、人から信頼を得ているから生きていられるの。だから、みんなそれぞれ誇りを持って仕事ができるのよ」

 エリーゼは、グランから壁の先祖の肖像画に目を移した。

「私は一族が努力して王や領民達との間で信頼を培ってきたことを誇りに思っているわ。子孫の私達はそれを大切に受け継ぐべきだとも教えられてきた」

 グランも肖像画を見ながら、エリーゼの言うことにも一理あると少し感心していたが、「ふん」と鼻を鳴らすと、踵を返すと廊下をすたすた歩き出した。そして口を歪めながら言った。

「信頼なんてものは偽善だ。俺は経験上そう思う」

 エリーゼはそんなグランに目をぱちくりさせたが、急に笑い声をあげて彼の歩いている方に駆け寄った。

「なに言ってるのよ、あのお兄様からもうすでに信頼されているじゃない! だから経理を任されたんでしょう、偽善なんかじゃないわ」

「あれは信頼されているとは……」

「グラン」

 エリーゼはグランの前に出て彼の歩みを止めた。もう玄関はすぐそこだ。
 エリーゼは真面目な顔で言った。

「まずはあなたがお兄様を信じてあげて。それができないなら、私を信じて。私はあなたを陥れたりなんかしないわ、誓ってね」

 グランは口をへの字に曲げてエリーゼの真剣な表情を見つめた。
 初めてエリーゼと会ったあの日も、彼女は今と同じような顔をしていた。短剣を手に暗殺を企んでいた自分を、役人に突き出すこともせず、ただ説得しようとした。自分が周りの人間に非難されることなど気にもかけずに、全力で復讐を止めてきたのだ。そしてまた、彼の頭にあの背中を撫でてくれた優しい手が蘇った。

 グランは、目を逸らして小さい声で言った。

「あんたのことは……信じてるよ」

 その言葉に、エリーゼはみるみるうちに満面の笑みを浮かべた。

「ありがとう。とにかく今はがんばってみて。事務所には時々私も行ってもいいでしょう?」

「あいかわらず暇だな、茶会に行けよ。貴族の娘ならそういうのは大事だろう」

 グランが呆れたように笑うと、エリーゼは肩をすくめた。

「まあ、それは……気が向いたらね。事務所でお茶を淹れてあげるわ、私、とっても上手に淹れるんだから!」

 グランはわかったわかったと小さく笑いながら伯爵邸を去っていった。
 エリーゼはその後ろ姿を見つめながら小さく呟いた。

「がんばって、グラン……」
 


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