海賊ダンの恋

Rachel

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10. 自覚の夜

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 その日の夕刻の頃には、シルヴィアが自分で予想した通り、疲労による手の震えは止まっていた。しかしダンが頑なに「俺に任せろ」と言い張るので、シルヴィアは指示をするばかりでほとんどダンの手で夕食が作られた。

 主人とマギーのいる船倉に夕食を持っていくときにさえも「俺も手伝う」と何度も言ってきたが、シルヴィアは苦笑いしながら「ほんとうに大丈夫だから」と断って三人分の食事を階下に運んだ。


「ねえシルヴィア」

 カドーシャ嬢が夕食を口に運びながら言った。

「ここのところ、歌が聞こえてくるのだけど、あれは乗組員全員が歌っているの? 今日の昼間も聞こえたわ」

 シルヴィアは「はい」と頷いた。

「労働歌です。単に楽しみで歌っているだけのときもありますが、昼間はロープをみんなで引くときに歌っていました。歌があると周りのみんなと動作を合わせやすいんだそうです」

「ふうん、そういうものなのね」

 カドーシャ嬢は頷くのを見て、シルヴィアは少しためらった後、咳払いをして「実は」と言った。

「今日の午後、甲板で帆を張る作業に参加してみました。ロープを引っ張って結ぶという仕事です」

 シルヴィアの言葉に、マギーは食べている途中で「ぐふ、ごほごほ」とむせ、カドーシャ嬢は「なんですって?」と怒りの形相を浮かべて立ち上がった。

「海賊たちがあなたにそうしろと強制したのっ!?」

「ごほごほ、え、シルヴィアさん、ごほごほ」

「ち、違います、姫様」

 シルヴィアは慌てて首を振った。

「私がやってみたいと申し出たのです。その、ずっと甲板のお仕事を見ていて、おもしろそうだなと思っていたんです。今回は思い切って参加させてもらいました、決して無理やりにではありません」

 シルヴィアが一生懸命そう言うと、カドーシャの顔から怒りの色は消えたが眉が寄せられた。

「どういうこと? 船の……乗組員の仕事がおもしろそうに見えたというの?」

「はい、そうです」

「どのあたりが?」

「え? ええとそうですね、個々ではなく大勢で一斉にやることがその、大変興味深く思えて……一人の力ではできないのに、大勢の力では流れるように動くのが素晴らしくて……その、船はみんなで心を合わせて動かしているのだということに感銘を受けたのが理由です」

「ふうん……やってみてどうだったの?」

「はい、思った以上に力が必要でしたが、なかなかおもしろいと思いました。ロープの縛り方も教わりましたが、終わった直後は力の使いすぎで手が震えました。きつい作業だからこそ歌が歌われるのかと理解して、労働する人たちの工夫なのだと思いました。それにその……楽しかったと思いました」

「……ふうん」

 カドーシャ嬢は変なものを見るような視線をシルヴィアに向けたままだったが、それでもけちはつけずに食事を再開した。
 その間マギーは一人、水を飲んでむせていた喉をやっと落ち着かせたようだった。

「……はあー。やれやれ、シルヴィアさんってば相変わらずもの好きですね。船乗りの仕事ですか? あの悪魔みたいなおっかない連中と一緒に? 正気ですか。どうしちゃったんですか」

「どうもしてないわよ、ただ船を操るのに人手が不足してるから私も何かできたらと思ったのよ。もともとじっと見ているだけの性分でもないから」

 マギーは「あー」と言ってわかったように頷いた。

「そうでした、シルヴィアさんってば怖いくらい働き者なんでしたね。いつだって休まず動いてるんだから。後輩のこちらとしては困りますよ」

 その言葉に、カドーシャは目を細めて「あなたも見習ったらどうなの」と言ったが、マギーは「えへん」と咳払いをしてからシルヴィアに言った。

「シルヴィアさんがぼーっとしてられない性格なのはわかります。でも、なにもこんな海賊の中に混じって働き者ぶりの本領を発揮しなくてもいいのに」

 マギーがそう言ったのに、シルヴィアはふふっと笑った。

「そんなつもりはないけど……でも、私は力がないからまだまだ役立たずなの。ほかの人たちはみんな力があるから羨ましいくらい」

 マギーは「そりゃそうでしょうよ」と片眉を上げて言った。

「彼らのひとひねりでこちらは簡単に死んじゃうくらいの差がありますからね。片手だけでお墓行きですよ」

「マギーったら。冗談言わないで」

 シルヴィアが口をへの字に曲げると、マギーは肩をすくめた。

「冗談で済んだらいいんですけど……えー心配だなあ、シルヴィアさん。力のある船乗りたちの中に混ざってるなんて。姫様、どう思います?」

 カドーシャは「確かに心配よ」と言った。

「でも安心なさいマギー、私の一言一句で彼らを葬り去ることができる力があるんだから。シルヴィアに何あったら私は絶対に許さないもの」

 誇り高そうに鼻を高くして言う主人に、マギーは「そうでした。さすがです姫様、一生ついて参ります」と礼節を取った。
 主人と同僚の会話に、苦笑いを浮かべていたシルヴィアは「でも」と言った。

「甲板の仕事は大変ですが、そこからの景色は息をのむほど素晴らしいものですよ。海面に映る朝日も夕日も、まるで宝石を散りばめたようです。姫様たちもご覧なったらいいのに」

「知ってるわ。ここの船窓からも見えるもの。もちろん甲板からの方がもっときれいなんでしょうけど、海賊どもと顔を合わせるのは絶対に嫌だわ」

「ごめんなさい、シルヴィアさん。私は手で触れる確かな宝石にしか興味ありませんので……」

 主人と同僚のそれぞれの言葉に、シルヴィアは目をぱちくりさせたあとで、眉尻を下げてふふっと笑った。

「それはそれは、失礼しました」

 全面的に否定されたにも関わらず笑顔で食事をするシルヴィアを、カドーシャ嬢はじっと見つめた。

「シルヴィア、なんだか楽しそうね」

「え? ですからそれは、姫様たちが……」

「違うわ、最近の話よ。なんだかきらきらしているわ。甲板の仕事の件だけじゃない……この前あなたが話した航海士の男と話したあとからかしら。もしかして彼に惹かれてたりして」

 カドーシャ嬢の言う航海士とはピーターのことだ。

 シルヴィアは昨日ピーターから聞いた話を、主人と同僚に細かく話していた。それがカドーシャの関心を引いたのである。
 マギーは「ああ、あのひどい環境で働いていたところを海賊に助けられたって話ですか」と言ってから顔をしかめた。

「そうは言っても海賊ですからね。人から物を奪うなんて、やってはならないことですよ。まあ顔が良いなら許してしまうかもしれませんけど」

 マギーの解答に、カドーシャ嬢は呆れた視線を向けた。

「マギーはいつまでたってもおりこうじゃないわねえ……それでシルヴィア、その航海士の男に一緒に甲板作業しようと言われたの?」

「え?」

 シルヴィアは目をぱちくりさせた。

「いいえ……そういえばピーターとはあれきりお話していません。甲板で見かけることもありますが、普段は船長室で海図を見たり経理のお仕事をしたり忙しいようです」

 熱量の感じない淡々としたシルヴィアの説明に、カドーシャ嬢は首を傾げた。
 おかしい。彼かと思ったのに。彼女を明るくさせている者の正体は誰なの? マギーと違ってそういう浮ついた話は徹底的に話してくれないんだから。
 カドーシャ嬢は少し探りを入れてみようと考えてから「ねえシルヴィア」と言った。

「今夜は金曜日……またお酒の日だったわね」

「はい、そうです。またお茶と一緒にお待ちいたしますね」

「あっシルヴィアさん! できたらもう少しお酒を多めにもらってきてくださいね。大変美味しかったので」

 マギーが口を挟むと、カドーシャはしかめ面をした。

「そうよ、シルヴィア聞いて、マギーったら五杯も飲んだのよ。私は一杯しか飲まなかったのに!」

 マギーは照れたようにへらりと笑った。

「いやあ紅茶で薄めるといくらでもいけてしまいますよね。なんせそれだけで甘いし、蜜もいりませんからね。ごくごくいけました。今夜も楽しみです」

「まったく、主人を差し置いて」

 カドーシャ嬢は小さくため息を吐いてからシルヴィアの方を向いて「それでシルヴィア」と話を続けた。

「あなた、前のお酒の日のときに、海賊たちの歌が上手だと褒めていたわね。一番上手な人はやっぱり魅力的なのかしら」

 シルヴィアは目をぱちくりさせてから「え? そう、ですね」と頷くと、ネヴィルのことを想像しながら答えた。

「魅力的といえば魅力的です……甲板長さんなので、乗組員全員、それに私にも配慮してくれます。声がとても大きいので、近くだとビリビリしますが。でも歌はやはり一級ですね」

 カドーシャ嬢はシルヴィアの顔色を窺いながら聞いていたが、彼ではないと心中で断定した。
 甲板長と言えば、最初の日に財宝を甲板に運んでいた、あの髪の毛のない大柄の中年男だったはず。あれのどこが“魅力的といえば魅力的”なのよ。
 カドーシャ嬢のなんとも言えない表情を浮かべていたが、シルヴィアが「あっそれではどうでしょう」と明るい声を出した。

「歌が始まりましたらお呼びしましょうか。姫様も甲板に上がって直近でお聞きなさったらきっと感動されますわ。甲板でお酒をお召しになるのでも良いですし、今夜は晴れていますから月もきれいに見えますよ」

 カドーシャは「えっ」と顔を引き攣らせた。

「い、いえ、遠慮しておくわ。ここでゆっくり飲むのが一番だし、歌は、その、あなたが教わってきて私に聞かせてくれたらそれでいいから。ええ、そうだわ、そうしてちょうだい」

 シルヴィアが「あら、そうですか」と少し残念そうに言ったのに、カドーシャ嬢は首を傾げた。
 単に船乗りの仕事が楽しいと感じているだけなのかしら。それにしては笑顔が増えた気がする。捕虜になったばかりのときの顔の強張りや、甲板の様子を話すときの乗組員へのよそよそしさがない。声からも棘がなくなった。絶対に何かあるはずだわ。
 カドーシャ嬢はもう少し様子をみようと、シルヴィアの顔を見ながらそう思った。


 ********


 夕食を終え、シルヴィアが船倉から皿を持って調理場に上がると、ダンがもう洗い物に取りかかってくれていた。流し台の隣に置かれた皿を見る限りは、よく洗えているようだ。

「あら、早いのね」

 シルヴィアが声をかけると、ダンははっと彼女の方を振り向いて「お、おう」と返事をした。
 どこか元気のない顔だ。

「その……今日は酒の日だからな。早いとこ準備を終わらせとこうと思ってよ」

「明日の朝の食事のこと? 問題ないわ、お酒の日の翌日は、みんな体調が悪そうにしているから前と同じように薄味のスープにするつもり。具材は少ないけど、朝はあれで十分だもの。大して準備はいらないから大丈夫よ」

 ダンは「あ、そうか」と言った。

「じゃ、あとは姫さんたちの飲む茶を淹れるだけだな。そこのかまどの前に真水入れといたのがあるから、それでお湯沸かしてくれよ」

 シルヴィアは目をぱちくりとさせた。

「準備がいいのね……あのお酒、姫様たちにも評判がよかったから、今夜は多めに持っていってさしあげたいと思っているの。お酒を入れてもらう容れ物はどんな大きさでもいいのかしら」

 ダンは小さく笑みを浮かべて「へえ、そいつはよかった」と言ってから、振り返って空き箱や入れ物などが置かれた棚をざっと見た。

「そこに空き瓶があらあ、それに入れてもらえばいい」

「全部大瓶じゃない。こんなに大きくなくてもいいの」

「多い方がいい、おめえだって飲むだろ。余ったら俺が飲む」

 シルヴィアは小さく笑って「だめよ」と言うと、棚の奥から水差しを取り出した。

「いいわ、これに入れてもらうから。その方が紅茶に入れやすいもの」

 そのときガンガンガンと甲板の方から音がした。お酒の分配の合図だ。
 ダンは「あー……そいじゃ、行くか」とシルヴィアにかける声は暗く、前のときとはまるで違っていた。


 酒の日の甲板は前回のときと同様やはりランタンが多く吊るされており、煌々と明るかった。
 シルヴィアたちが調理場から出てきたときにはもうすでに長い列ができていた。昼間の甲板作業で見た顔も多いせいか、シルヴィアは前回のときのように恐怖で身体がこわばることはなかった。

 ダンの後ろに並んだシルヴィアは、彼の背中ががっくりと落ち込んでいるように見えた。一昨日のときはもっと嬉しそうににこにこしながら飛び跳ねていたのだが、今夜は見る影もない。
 理由は明白だ、お酒を飲むときにダンに過去の話をしてもらうと約束した。きっとそれが彼の中で憂鬱になっているのだ。
 こんな態度になるとは思わなかったが、海賊になる前の話をすることは、彼にとってそれほどまでに嫌なことらしい。
 こんな状態で無理やり聞き出したら、私がいじめているみたいじゃない。
 シルヴィアはなんだか自分がとてもひどいことをしているような気がしてきた。今回は自分の好奇心を控えるべきかもしれない。


「あの、ダン」

 並びながらシルヴィアが声をかけると、彼は明らかに肩をびくりとさせた。

「な、なんだよ」

 思い切り警戒しながら振り返るダンに、シルヴィアは言いづらくなって、考えていたこととは別のことを口にした。

「その……姫様のところにお酒と紅茶をお持ちするとき、また手伝ってくれるかしら。水差しを抱えていると茶器の盆が持てないの」

「ああ、なんだ……そりゃもちろん手伝うけどよ。そんなことより、その、シルヴィア、今夜さ、俺、おめえに……その」

 ダンは歯切れが悪そうに言った。

「俺、おめえに昔のこと話すって約束だったろ……だから、めちゃくちゃ早いペースで飲むと思う。その、飲まなきゃ話せねえから……だから、俺がひどく酔っ払ってもあんまり気にしねえようにしてくれねえか。その、明日の朝も起きる自信が……まあピーターなら手伝ってくれるだろうけどさ、とにかく先に謝っとこうと思ってよ」

「え、だ、だめよ、まって!」

 シルヴィアは慌てて言った。

「言わなくていいの! その……も、もう興味がなくなったのよ。あなたの過去なんて聞きたくないから話さなくてけっこう」

 ダンは「えっ」と目を丸くさせた。

「言わなくていいって……?」

「そうよ。昔の話なんてもうちっとも聞きたくなくなったから。そんなことよりも今夜は私に歌を教えてほしいの。姫様が船倉に聞こえてくる歌をお気に召されたようだったから、私が教えてさしあげたいのよ」

 ダンはぽかんとした表情で「歌」と呟いて、シルヴィアの顔をじっと見つめ、眉を寄せてくしゃりと笑った。

「シルヴィア、おめえ……俺なんかに気い遣いやがって」

「別にそんなつもりはないわ。言ったでしょう、ただ興味がなくなっただけよ。それより歌は教えてくれるの?」

「……へへ、いいぜ。歌は得意じゃねえが、昔話よりは全然……へへ、へへっ!」

 急に明るさが戻ったダンに、シルヴィアはよかったと微笑みを浮かべた。


 今夜もお酒を注いでいるのはピーターで、隣ではやはりネヴィルが仁王立ちしていた。
 ピーターはシルヴィアの番が来ると彼女の方に手を差し出した。

「あれ、今回はカップじゃなくて水差しになってる……カドーシャ嬢たちもお気に召したようだね」

 シルヴィアはピーターに笑顔を向けて水差しを渡すと言った。

「そうなの。おいしいって評判がよかったからこの大きさにしたのよ。同じ侍女のマギーがとても気に入っていたわ。前回たくさん飲んだらしいの。だから姫様が怒って、私ももっと飲みたいのにっておっしゃってらしたのよ」

「へえ、船室に籠る酒豪たちってわけだね。なかなか海賊に向いてるんじゃないか」

「まあ、そんなこと言ったら姫様怒るわよ」


 シルヴィアがピーターの冗談を聞いてくすくす笑う様子を、ダンは目を細めて見ていた。
 先に酒を注いでもらった彼は、近くで腕組みをして見ているネヴィルの方に歩み寄った。

「ネヴィル、シルヴィアが言ってたぜ、明日も甲板の仕事あったらやってみてえってよ……少しずつやらせていいよな」

 ネヴィルは眉を寄せた。

「かまわんがあんまり無理させるな。あんな細腕でやれば折れちまうかもしれんだろう」

 ダンは目の前で組まれたネヴィルの丸太のような腕を睨みつけて「おめえが太すぎんだよ」とツンツン指でつついてから続けて言った。

「まあ、シルヴィアがきつそうならやらせねえよ。運動音痴のピーターとか小柄なトニーのときだってそうだったし、俺だってちゃんと加減はわかってらあ……そういや、シルヴィアがおめえの歌のことすっげえ褒めてたぜ」

 ネヴィルはツンツンつつかれたのを嫌そうに避けると、太い肘でダンの頬をぐいぐい押した。

「お前はもうちっとうまくなりやがれ。俺が何度教えたって音程合わねえじゃねえか」

 ダンは「う、うるせえ」と口を尖らせた。

「俺あちゃんと合ってると思ってんだよ。シルヴィアだって、このあと歌教えてくれって俺に頼んできたんだぞ」

 ダンが得意そうに言うと、ネヴィルは「はあ? お前に?」と目を丸くさせた。

「おいおいおい、だめだだめだ、絶対だめだ、音痴に指導なんざこの俺がさせねえ……おいシルヴィア!」

 酒の入った水差しを抱えてこちらに歩いてくる彼女に、ネヴィルは言った。

「ダンから歌は教わるな。俺が教える。これは甲板長命令だ」

 ダンはぎょっとした顔になった。

「はあ?! な、何言ってんだ、おっさん! 横入りすんなよっ! 俺が頼まれたんだぞ!」

「へっ、悔しかったらお前ももっとましな歌を歌え。わかったな、シルヴィア。乾杯したあとだ」

 突然の甲板長命令に、シルヴィアはきょとんとしたが嬉しそうな顔になった。

「ええ、もちろんよ! ありがとう、それじゃ準備が終わったらお願いします」

 シルヴィアの肯定的な返事に、ネヴィルはこくこくと頷き、ダンはむすっとした顔になった。


 ****


「……んだよ、俺に教えてほしいって言ったくせに。結局おっさんに鞍替えしやがって」

 ダンはぼそぼそ言いながら船倉に向かうシルヴィアの後ろを歩いた。手にはラムの入った水差しと紅茶のポットをもっている。シルヴィアは盆にカップやスプーンなどの食器を乗せて、彼の前を歩いていた。
 ダンの文句にシルヴィアが言った。

「そんなに怒ることないじゃない。今夜は私もダンも一緒に甲板長さんから教わるだけのことよ」

「え、お、俺も……?」

 シルヴィアは振り返って「あたりまえでしょう」と言った。

「あなたがいなかったら、私は甲板に出ることはできないのよ。そばにいてくれないと困るわ」

 シルヴィアがそう言ったのに、ダンは目をぱちくりさせていたが、「そ、そうかよ」と呟いたあと、気分を良くしたのか口の端を上げて「そうだよな……うんうん」と1人で大きく頷いていた。


 階段を下りて船倉の方まで行くと、ダンは例のごとく扉の前で待たされたが、やはり彼女たちの会話は扉越しでもよく聞こえた。


「……ありがとう、シルヴィア。まあ、その水差しは全部ラム酒なのね、そんなにたくさんもってきたの」

「さすが気が利きますね、シルヴィアさん! 姫様、もうこれで姫様の分まで私が飲んだなんておっしゃらないでくださいよ」

「まあマギーったら、ほんとうのことじゃない……シルヴィアの分は別であるの?」

「はい、姫様。調理場に残してあります」

「あれ、シルヴィアさんまた上に行ってしまうんですか? まだ調理のお仕事があるんですか」

「いいえ、今日はもうないわ……歌を教えてもらう約束をしたの。覚えたら姫様にもお聞かせいたしますね」

「え? 歌の話、冗談じゃなかったんですか」

 マギーがほけっと言ったが、カドーシャ嬢は「お黙りマギー」と言った。

「楽しみにしているわ……でもシルヴィア、くれぐれも無理をしてはだめよ。とくに今日は、その、船乗りの仕事をして疲れているのでしょう。早めに下りてらっしゃい」


 会話が終わると、シルヴィアが船倉から出てきた。
 ダンはしばらく黙っていたが、階段を上がりながら口を開いた。

「おめえの主人、良い人だな。おめえが疲れてるって、ちゃんとわかってくれてるなんてな」

 ダンの言い方に、シルヴィアは小さく笑ったが「そうよ」と言った。

「貴族のご令嬢は下賤な者には関わらないと思ったら大間違いなの。カドーシャ様は思いやり深くてほんとうに素晴らしい方よ。お食事だってご一緒させていただいているもの。お仕えできてほんとうに幸せ」

 ダンは目を細めて「ふうん」と言った。

 そのうちに二人は調理場にたどり着いた。
 シルヴィアは、カップに自分用のラム入り紅茶の準備を始めた。紅茶の香りが漂い始める。
 良い匂いだな、ラムと合いそうだ。ダンは鼻をひくつかせた。
 手を動かしながらシルヴィアは言った。

「姫様はもちろん最高だけど、あなたにとってはクレイヴン船長だって良い人なんでしょう? あなたともとても仲が良さそうだわ」

 ダンはにやっと笑った。

「良い人だなんて言ったら笑っちまうぜ。けど、まあ確かにジェフの船以外にゃ俺は乗りたくねえな……できたか?」

 シルヴィアがカップを混ぜ終わると「ええ」と頷いた。

「甲板に行きましょう」


 二人が調理場を出ると、待ち構えていたようにネヴィルが大股でこちらにやってきた。やや顔を赤くしている。もうすっかり飲んでいるらしい。

「おー、二人とも現れたな。飲み終わったか?」

 ダンは眉を寄せた。

「おいおいネヴィル、俺たちゃ今まで仕事しててこれからやっと乾杯なんだぜ。ちったあ空気読んで待ちやがれ」

「なに、これから乾杯だと?」

 ダンは「そうだよ、ほら、しばらくどっか行っとけ」と言いながら、前のように木箱を寄せて椅子を作り、シルヴィアに座るように促した。
 ダンは懐から瓶を出しながら彼女の向かいに座ろうとしたが、そこへ彼を押し出すようにネヴィルがどすんと大股でそこに腰を下ろしてしまった。

「ははは、お前はシルヴィアの足元にでも座れ」

「……ったく、これだから酔っ払いは」

 ダンは瓶を持ったまま眉をしかめて立つしかなかった。
 シルヴィアはその様子に自分もと腰を上げたが、ダンは「大丈夫だ」と彼女を再び座らせる。そしてネヴィルには背を向けて言った。

「俺あ酒さえありゃ立ったままでも平気だからよ……とにかく乾杯しようぜ」

 にっと笑ってダンの差し出した瓶に、シルヴィアはふっと微笑んでからカップをコンと当てた。

 瓶を煽ってグビグビと飲んだダンは、ラム酒が身体に染み渡るのを感じて「ああーーうめえなあっ!」と叫んだ。
 シルヴィアはダンの大げさな様子にくすくす笑った後、ひと口飲んでから目を丸くさせた。

「あら、おいしい……! なぜかしら、この前よりもっとおいしく感じるわ」

「昼間全力で仕事したからだろ、へへっ、そういう日は酒がうめえんだぜ!」

 すると、ダンのすぐ後ろから突然歌が響いてきた。ネヴィルが歌い始めたのだ。


 友よ、同胞たちよ、さあ歌に参加してくれ
 さあ大きく声を出して私と共に歌おう
 さあ大きく声を出して、悲しみは御法度だ
 二度とここで会うことがなかろうとも


 ネヴィルの無駄に良い歌声が響くと、甲板中から続きの歌が聞こえてきた。


 皆の健康を祈って
 愛しき人にも乾杯だ
 声を出して共に歌おう
 酒を酌み交わし楽しくやろうじゃないか
 悲しみはここでは御法度だ
 二度とここで会うことがなかろうとも


 ダンは見張り台や船縁、ヤード、そして甲板から乗組員たちが酒を飲みながらこちらを見下ろして歌っている様子にやれやれと肩をすくめた。
 同時に、大勢の男たちからの視線を浴びていることに、シルヴィアは怖がっていないだろうかとダンは彼女の様子を窺う。
 しかし本人は怯えることなくむしろ楽しそうに、ネヴィルやその周りで歌う乗組員たちをかわるがわる見ていた。
 なんだよ、大した馴染みぶりじゃねえか。ダンは小さく笑みを浮かべた。


 歌が終わると、男たちは歓声を上げてそれぞれで乾杯し始めた。
 シルヴィアがその様子を見ていると、ネヴィルが「ようし、いいかシルヴィア!」と、地鳴りのような大声で言った。
 ダンは思わず耳を塞ぎ、シルヴィアはぴしりと背筋を伸ばした。

「歌はまず全員が合わせるとこを歌えるようになれ。まずは今の歌だ。いいか、俺に続けて歌ってみろ、“皆の健康を祝って”……」

「“皆の健康を祝って”……」

 真面目なシルヴィアは、赤ら顔のネヴィルから熱心に歌を教わった。
 結局ダンは、ネヴィルに追いやられて物理的に蚊帳の外になっていた。しかしシルヴィアから離れるわけにもいかないので、彼女のすぐ後ろに回って船縁を背もたれにし、彼女が歌を教わる様子を見守っていた。

 乾杯の歌の一番を覚えると、シルヴィアは「そういえば」と思い出したように言った。

「今日ロープを引くときも歌っていたわね。あれもみんな知っているのかしら」

「ああ、“引けよ引け、ジョニーよ進め”だ。よーし、歌ってやるからお前も続けてみろ」

 ネヴィルが“引けよジョニー”を歌い出し、シルヴィアがそれに合わせる。すると周りの男たちも再び一緒になって歌い出した。

 そのうちに、ほかで飲んでいた数人の乗組員たちもふらふらと近寄ってきた。
 男たちの人数が多くなってきたことにシルヴィアは少し不安を感じたのか、後ろに立つダンの方をちらちらと振り向いてきた。

 ダンはシルヴィアに、「こっち」と示して、座っている木箱を船縁の方に寄せるように言った。そして木箱の隣に小樽を持ってくると、乗組員たちとシルヴィアの間に壁を作るようにしてその上にどっかり座った。
 シルヴィアはそれで安心したのか顔を綻ばせたので、ダンは胸がくすぐったくなって酒瓶を煽った。

 そのうちにダンもだんだんと酔いが回ってきて、ネヴィルの歌に調子良く合いの手を入れ始めた。そのタイミングが絶妙なので、シルヴィアも笑いながらネヴィルに続いてみんなと合わせて歌った。
「いいぞ、ダン」「ねえちゃんもうまいもんだ」「ネヴィルの低音と合うな」乗組員たちは賑やかに三人を囲った。
 それから甲板には数曲、楽しそうな調子っぱずれな歌声が響いた。


 しばらくして、ネヴィルが「ようし、次は……」と言ったとき、「そこまでだ」と低い声が遮った。
 全員が振り向くと、クレイヴン船長が腕組みをして呆れた顔をしていた。

「「ジェフ!」」

「あんたも歌え!」

「そうだ歌いやがれ!」

「船長もなかなかうめえんだよな」

「あれだ、酒の歌があったろ! あれ歌ってくれ!」

 すっかりできあがった乗組員たちの声がかかったが、クレイヴンは「歌わん」とばっさり切り捨てた。

「お前らもう7曲は歌ってるぞ。九官鳥じゃあるまいし、シルヴィアだってそんなに覚えられん。第一にやかましい。もう寝てる奴だっているんだぞ、歌の会はお開きだ。以上、解散!」

 クレイヴンのかけ声とともに、ネヴィルや乗組員たちは「ちぇ」だとか「ふわあ、寝るか」、また「俺はまだ残ってるから飲み直す」などと言いながら、それぞれ散っていった。

 彼らを見送ると、クレイヴン船長はダンの方に目配せした。ダンは首を振ると船長は眉を寄せた。
 その声なき会話に、シルヴィアはもしかして二人だけで話したいのではと思った。邪魔をしてはいけないと思い、「私もそろそろお部屋に戻らないと」と言って立ち上がろうとした。しかし、身体がぐらりとふらついて再び木箱にすとんと座った。

「お、おい、大丈夫かよ!?」

 ダンが慌てたように立ち上がると、シルヴィアは少し恥ずかしそうにしながらいった。

「……ごめんなさい。酔いが残ってるみたいだからもう少しここで醒ましてから戻ってもいいかしら。ダンと船長さんは二人で話があるでしょう、船長室に行ってくれてかまわないから」

「な、何言ってんだよ! 気づかなくて悪かった、あれだ、水飲んだ方が良さそうだな……!」

 ダンがそう言って船長を見る。クレイヴンは眉をしかめたが肩をすくめて身を翻した。
 彼はすぐに飲み水の樽から水を一杯汲んできてくれた。

「ありがとうございます」

 シルヴィアは船長からカップを受け取ってこくりと水を飲んだ。

「大丈夫か」

 ダンがシルヴィアの脇に立ったまま心配そうに尋ねたのに、シルヴィアは笑みを浮かべて言った。

「ほんとうに大丈夫よ、少し座っていればましになるから……ごめんなさい、船長さんにも面倒をかけてしまって」

 クレイヴンは首を振った。

「別に大したことじゃねえ。それよりあんまり無理して連中に付き合う必要はねえぞ」

 クレイヴン船長は言い聞かせるように、シルヴィアに言った。

「いいか、あいつらは加減ってもんを知らんからな。体力だって有り余ってんだ。せっかく教えてくれてるんだからとか、野郎どもへの気遣いはこれっぽっちも必要ねえ」

 クレイヴンの言葉に、シルヴィアは苦笑いを浮かべて手に持ったカップを見つめた。

「違うんです、私が楽しくなってしまったの。飲むスピードも早かったかもしれないわ。以後気をつけます」

 シルヴィアが恥ずかしそうにそう言ったのに、ダンは目を細めた。

「ネヴィルのやつ、乾杯の歌なんか歌うんだもんな。けど、おめえが楽しめたんならよかったぜ……それで、ジェフ」

 ダンはクレイヴンの方を見た。

「おめえがここに残ってるってことは何か話があるんだろ。どうした?」

 クレイヴンは「察しがいいな」と小さく笑ってから、やや真面目な顔になった。

「水さしたくはねえんだが、やっぱり警告しとかねえとって思ってな……今日甲板作業にシルヴィアが入っただろう。思いがけん新人に、驚く奴もいればめずらしそうに見る奴もいたし、大して気にしてねえ奴もいた。そういうのはいいんだが……悪く思う奴もいたってことを知らせにきた」

「悪く思う?」

 シルヴィアは眉を寄せた。

「やっぱり仕事の邪魔になっていたのかしら」

 クレイヴンは「いや」と首を振った。

「大抵新人の仕事の出来具合ってのは似たりよったりだ。シルヴィアは結構ましな方だぜ。要領もいいし臆病でもねえからな。奴がお前を悪く思うのは結局そいつ自身のせいなんだ」

 船長がそう言ったのに、ダンは目を細めて「ああ、わかった」と言って再びすぐそばの小樽にすとんと座った。

「ジョシュのことか」

 ダンが眉をしかめると、クレイヴンは頷いた。

「今日お前らが帆を張ってるとき、後甲板の陰から奴がいらいらしながら空樽を蹴ってたのが船長室から見えてな。“くそ、女め”って呟くのも聞こえた」

 シルヴィアはさっと顔を曇らせた。

「私……彼に何かしたのかしら」

 クレイヴンは「いや」と言った。

「お前が原因じゃねえ。あいつは船に女が乗ってるってことが許せねえんだ。ダン、お前確か奴からちょいちょい話聞いてたな?」

 クレイヴンに話を振られて、ダンは頭に手をやりながら「全部じゃねえけど」と言ってから次のように説明した。

「ジョシュは女が憎いんだ。これまで女運がなかったらしい。出会う女全員に騙されてて毎回ひどい目にあってんだ。一文なしにされんのはまだしも、奉公人として売買されたり、豚小屋に閉じ込められてそこで死にかけたりしたこともあったって言ってたぜ」

「そりゃあなかなかひでえ女もいたもんだな」

 クレイヴンは苦笑いを浮かべた。ダンは肩をすくめる。

「確かにかわいそうだなって思うけどよ。そんなことがあってから、自分のテリトリーに入ってくる女を敵視するようになったんだと。買った娼婦も痛めつけるから、女たちも嫌がってプールアの港じゃ来店拒否されてるって聞いたぜ」

「そこまで……」

 シルヴィアは眉尻を下げた。
 クレイヴンはシルヴィアに言った。

「甲板の上じゃ周りの目もあるし、お前もたいていはダンと一緒にいるだろうからそこまで心配することはねえと思う。何よりお前も含めて船倉の姫さんたちは皇帝への献上品ってことになってるから、ちょっと傷つけでもしたら俺への裏切りになる。女が船に乗ることになるってわかっててもジョシュは俺についてきたから、悪いことはできんはずだ。俺だってあいつを信じてるしな。だけど警戒するに越したことはねえと思って、奴の話をさせてもらった」

 シルヴィアは頷いた。

「そう……わかったわ、ありがとう。船長さんが心配してくれているのはとても心強いです」

「こんなことしか言えんのは悪いがな。万が一奴と接触することがあっても、ほかの連中とおんなじようにしてればいい。俺としちゃ甲板の仕事は続けてほしいし、少なくともお前はここである程度の日数を過ごすんだ、味方を増やすのも大事だろう……ダン以外にもな」

 クレイヴンがちらと彼の方を見ると、ダンは顎に手を当てて難しい顔でぶつぶつと呟いていた。

「俺がジョシュと話すか……いや、でもそれじゃ神経逆撫でしちまうかも、ただでさえ最近口聞いてねえし、やっぱり奴を見張って……」

「ダン」

 クレイヴンが呼ぶと、彼はきょとんとした顔を船長に向けた。
 クレイヴンは言った。

「ジョシュは俺が見てる。お前はシルヴィアと一緒にいりゃあそれでいい。時間が経てば経つほど警戒が必要なのはジョシュだけじゃねえってこともわかってんだろ。俺たちが陸を出てからもうずいぶん経ってるんだ、考えたくはねえが……もしものことを考えろ。彼女を船倉に閉じ込めるってことにはしたくねえんだ、うまい料理も食いてえしな」

 クレイヴンの言葉は、シルヴィアが誰かに襲われるかもしれないという危険性を仄めかしていた。もちろん掟は皆忠実に守っている。しかし何かあってからでは遅い。
 ダンは真面目な顔で「わかった」と頷いた。

「実際のとこ、港まであとどんくれえなんだ? 近づいてんのかよ」

「今日は昼間に風が吹かなかったからな。まあ三日はかからんはずだ。明日の天気次第だな。寝る前にお祈りでもしとけ」

 ダンが目を細めて「教会にもいかねえ奴がしらじらしい」と言うと、クレイヴンはくくくっと笑った。

「じゃあ俺は見回り行ってくる……ダン」

「なんだよ」

「さっさとあれ、渡せよ」

「……っ」

 黙り込んでしまったダンに、クレイヴンはにやにやした。

「そいじゃあ、邪魔したな。シルヴィア、明日も甲板作業頑張れよ」

「あ……え、ええ。ありがとう、船長さん!」

 クレイヴンはシルヴィアの礼に応えるように片手を上げると船長室の方へ行ってしまった。


 ダンはクレイヴンの背中を睨みつけていたが、隣に座るシルヴィアの顔が浮かないことに気づいた。
 きっとジョシュのことを考えているのだろう。

 ダンは「あーあ」と声を上げた。

「理不尽な話だぜ。女ってだけで嫌われるなんて損だよな」

 ダンが言うと、シルヴィアは「でも……私も前まで同じだったもの」と落ち込んだように言った。

「男の人はみんな怖いと思ってた。とくに海賊は、女の人を見つけたら見境なく襲う獣だって」

 間違っちゃいねえとこもあるが。海賊に限らず年中発情してるやつはいるからな。ダンは何も言えず苦笑いを浮かべた。

「でも、ダンがそうじゃないって教えてくれたでしょう。ちゃんと掟に従ってるって……最初の日は姫様も私たちも海賊たちに慰み者にされてしまうと思ってたから、交渉が行われるって決まったとき、ほんとうはとても感心したのよ」

「そうか? 俺、おめえが胡散臭そうにこっち見てたこと覚えてるぜ。あの目つき、おっかねえなって思ったもん」

「そうだったかしら」

 シルヴィアがふふっと小さく笑ったのに、ダンはほっとした。

 あの頃と比べると、最近はほんとうに彼女の笑顔を見る回数が多くなった。ジョシュのことでまた警戒されるかと思ったけど、大丈夫なようだ。
 それに酒が入ると彼女は少し素直になって口数も増える。声にも棘がなくなるのである。

 もしかして、今なら受け取ってくれるんじゃねえか。
 先ほどクレイヴンが「渡せよ」と言ったもの。彼はダンが何か作っていたことに気づいていたらしい。

 ダンは懐に手を突っ込んで、件の木片を触りながら、水を飲むシルヴィアを見つめた。
 酔いも手伝って寛容になっている可能性はある。どうする、渡すか? 呆れたような顔で、しかたないわねと言って受け取ってくれるかもしれない。ああちくしょう、酒を残しておけばよかったな。瓶はとうに空で、酔いもすっかり醒めてしまっている。酒に慣れている自分が憎い。

 しばらくためらっていたが、ダンはとうとう「あ、あのさシルヴィア」と声をかけた。

「前にさ、おめえ、俺に石鹸くれただろ。そのお礼っていうか……俺の手慰みみてえなもんなんだけど、よ、よかったらもらってくれねえかなって思って……その、いらねえと思ったら捨ててくれてかまわねえし」

 言いながら、ダンは彫刻を施した小さな木片をシルヴィアに差し出した。ダンの遠慮がちな言い方になんだろうと不思議そうにしていた彼女は、それを見て目を丸くさせた。

「これ……ダンが彫ったの?」

 手のひらに乗るほどの小さな木でできた花と蔓の模様のレリーフだ。シルヴィアは手に取ってしげしげと眺めた。
 彼女があんまりじっと見るので、ダンは恥ずかしくなって顔を赤くさせた。

「ああ、小型ナイフでちょっとな。その、歪だし出来が悪りいかもしれねえから姫さんが持ってるような豪華な代物なんかと比べんなよ。俺の持ってるもんは酒と銀貨がちょこっとだし、財産とか当てになるもんもねえから、これじゃ石鹸の礼なんかにゃならねえけど……」

「いいえ……いいえ、すごいわ!」

 シルヴィアは目を輝かせてレリーフを見つめながら言った。

「だから木くずがあちこちにあったんだわ。こんなに細かい作業ができるなんて。ちっとも歪なんかじゃないわよ、お花のデザインのセンスもいいわね!」

「そ、そうか? 世辞なら別に……」

「お世辞なんかじゃないわ、とっても素敵じゃない。こんないいもの、もらってしまっていいの?」

 ダンは「そりゃまあ、そのために作ったからよ」と照れた笑みを浮かべた。

「嬉しい、ありがとう! すごいわ、この彫りの形……ふふ、石鹸のお礼に、仕事の合間を縫ってこんなものを作っていたなんて!」

 シルヴィアは目を細めて隣の彼を見た。ダンはその視線から逃げるように、そっぽを向いて「よかった、もらってくれんのか」とぼそぼそと呟いた。安心と照れから顔がじんじんと熱くなる。

 シルヴィアは言った。

「やっぱりあなたってすごいのね。ここまでの出来なら売り物にもなるはずよ。ピーターがあなたの腕を職人並みだって言ってたけどほんとうにその通りだわ」

「な、なんだよ、それ。あいつのことだからどうせ俺のこと馬鹿にしてんだよ」

「そんなことないわよ。ピーターが言ってたわ、あなたは手先が器用で面倒見も良くて、頭も良いって。ちゃんと褒めてたわよ」

「は? や、やめてくれよ、そういう風に言われんのは嫌えなんだ、なんか背中に虫がうじゃうじゃいるみてえに思えてくる、うげえ」

「なによその気持ち悪い喩え。せっかく褒められてるんだから喜べばいいのに、素直じゃないわね」

 シルヴィアはふふふっとまた笑い声をあげた。

 いつもより数の多いランタンの灯りは、シルヴィアを明るく照らした。
 その灯りのせいなのか、それとも明るい笑い声のせいなのか、はたまた酔いが戻ってきたのか。
 彼女の無垢な笑顔がやけに艶麗で美しく見え、ダンは動悸がしてきた。息苦しささえある。

 あ、まずい。

 ダンの変化には気づかず、シルヴィアは水の入ったカップをすべて飲み干した。

「それじゃあもう寝るわね。おかげさまで酔いも醒めて、もう立てるわ」

「そ、そうかよ、よかったな」

 立ち上がったシルヴィアを、ダンは直視できなかった。シルヴィアはにこにこと機嫌よく手元のレリーフを掲げた。

「これ大事にするわね。ほんとうにありがとう。おやすみなさい」

 まっすぐ船倉に向かうシルヴィアに、ダンは小さな声で「お、おやすみ」と返した。そして去っていく彼女の背中をちらちらと見送った。

 酔いがとっくに醒めていることはわかっている。それなのにいつまでも顔が焼けるように熱い。そしてこの動悸。おいおい。

「俺の馬鹿野郎」

 自分の下半身を見下ろしてダンは頭を抱えた。

「一番警戒すべきは俺自身じゃねえか」


 夜の海を吹き抜ける風は、昼間と比べてだんだんと強くなってきていた。
 バートラム号は、寄港する予定の町ーーペラムの港に少しずつ近づいていた。







 ここまでお読みいただきありがとうございます。
 補足ですが、この夜ダンはずっと眠れませんでした。そして物語は翌日に続きます。

 今回登場した歌は「Here's a Health to the Company」です。こちらはスコットランドまたアイルランドの昔から伝わる曲で、移民船で乗り合いになった人達と別れを惜しんで酒を酌み交わしながら歌われたと言われています。
 この曲はまた後日歌われることになります…(!)



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