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第十一章 二人の道
しおりを挟む翌日。
ジレンは食堂の仕込みをしに、朝早くからデュクレ家を出ていった。
クラリスが朝ごはんを用意してくれたというのに、クレメールは緊張のあまり食べることができなかった。会って2日目だった朝はうまいうまいと言ってたくさん食べたのに、今日は一口もだめだった。
クラリスは少し心配そうな表情を浮かべたが、「そうですか」とだけ言って他に何も言うことはなかった。
クレメールはその反応に落ち込んだ。
もしかして見限られたかもしれない。そう思ってリビングの長椅子でぼうっと座り込んでいると、二階からクラリスが降りてきた。いつものエプロンや仕事着ではなくみぎれいな服装で、片手にかばんを持っている。
ぽかんと見上げたクレメールに、クラリスは小首を傾げた。
「あら? どこかへ案内してくださるのではなかった?」
「し、します、します!」
クレメールはバネのように立ち上がると玄関の扉に突進し、家を飛び出した。
勢いがあったのは玄関を出た時だけで、それから2人は無言で道を歩いた。
クレメールは固い表情のままで、クラリスは時折心配そうな眼差しを彼に向けながら足を進めた。
そのうちだんだんと、クレメールの進むスピードが遅くなってきた。気が進まないのだ。クラリスがちらりと伺うと、彼の顔は思いつめたような、不安そうな表情をしていた。
「クレメールさん、大丈夫?」
呼ばれてはっとした顔になり、クラリスを見た。
「体調が悪くなったんじゃない? また別の日に出直しましょうか」
彼女の気遣う言葉に、クレメールは唇を噛み締めて首を振った。
「いや、大丈夫だ……もうすぐ着く」
クレメールは先ほどより強い意志を持った表情になると、歩みを進めた。
ようやくクレメールが立ち止まった。クラリスも足を止めて彼の見ている方を向いた。
そこは大きな通りの前であった。どうやらここが目的の場所らしい。
この大通りは、商店の並ぶ他の通りと比べて、人通りが少ない。だがそれは今が日の高い時間であるからということをクラリスは知っていた。
ここは花街ーーいわゆる娼館の立ち並ぶ娼婦街である。クラリスは昔小さい時ーーまだ母親が生きていた時、一夜の春を求める者が行く場所だときいた。私も行ってみたいと駄々をこねて両親を困らせたことを覚えている。もちろん、今ではどういう場所なのかわかっていた。
クレメールは、クラリスを連れてそのまっすぐな通りを歩き出した。
「お、俺は……ここで生まれて、ここで育った」
クラリスはクレメールを見た。彼はこちらは見ずに、ただまっすぐ見つめたままで続けた。
「母親が娼婦だった……父親は知らない。そこの娼館では子を作ることはご法度だったが、ある時避妊に失敗して子どもを産んだ。彼女は産んだ子の首を絞めて殺そうとしたが、すぐに人に止められて子どもは生きながらえた。それが俺だ」
クラリスは淡々と話すクレメールをじっと見つめながら隣を歩いた。通りには誰も歩いていないが、窓からこちらを不審げに見る顔が時々ちらちらと見えた。
クレメールは続けた。
「彼女は罪人として憲兵に連れていかれたらしい。そしてそのまま帰ってくることはなかった。俺はその後孤児院に入れられたが、そこは子どもの数があんまり多かったから、歩けるようになるとすぐに娼館に返されて、そこで働き始めた」
クレメールが立ち止まって左側の建物の方を向いた。
「ここだ」
クラリスはまじまじとその娼館を見つめた。決して大きくはない、隙間を木片で覆ったような建物だった。窓は小さくしっかりと閉め切られ、誰かが覗いている様子はなかった。
クレメールはその娼館から目を逸らすことはなく、続けた。
「俺はずっとここに住んでいた。働くといっても俺は女じゃない。器用じゃない俺は、結局女衒として客引をするしかなかった。1日に2人、客を連れてこないと食事を抜かれた。その上理由もなしによく殴られた。死神にも嫌われるほどの死にぞこないだから、多少何かしても死にはしないだろうって思われてたし、母親が良い人間じゃなかったらしくて、俺はみんなから嫌われてた」
クレメールの声は暗く自嘲的だった。クラリスは小さな少年が殴られる様子を想像し、こぶしをぎゅっと握った。クレメールは続けた。
「何度もここを出ようか迷った。けど、ここ以外に俺には行き場がなかった。だから食べ物と寝床をもらうために、俺はなんでもやった。そのうち客引だけじゃない、館の雑用もやったし、老婆の相手も……男の相手もやった。そうすれば、夕食にありつくことができたんだ」
そこまで言うと、クレメールは逃げるように身を翻して再び歩き出した。一緒になって娼館を見上げていたクラリスも慌ててそれに従う。
「全然食い物にありつけない日が続いた時もあった。それでパンを盗んで、役所に連れていかれたこともあった」
クレメールはその時のことを思い出し、身体を震わせた。まだ子どもだったのでひどく恐ろしかった。
「殴られるのには慣れてたけど、あんなに怖い思いをしたのは生まれて初めてだった。役所はそういうとこなんだって身に染みてわかった」
クラリスは、示談金を出して役所に彼を迎えに行った時の事を思い出していた。彼は憲兵に名を呼ばれた時も、牢を出た時も、ひどく怯えた顔をしていた。
クレメールは続けた。
「結局、それから何ヶ月か牢屋にいたらしいけど、気がついたらまた例の娼館に戻っていた。相変わらず客引をしていて……それしか生きる術を知らなかった」
やがて2人は大通りの終わりに着いた。すぐ目の前に見える船着場の向こうには、青い海が広がっている。この海沿いには、先ほどの通りと違って漁師や貿易商人、仕入れの準備をする料理人などが歩いていた。
2人は角を曲がると娼婦街を後にして、そのまま船着場の道を進んだ。
クレメールは続けた。
「19の時だ。俺がこの辺りで客を探してると、船長が……君の親父さんが、俺を呼び止めた。客だと思った。その時は3日食べてなかったからやっと見つけた客だと思って……すごく嬉しかった。だけど、デュクレ船長は俺の顔色を見て、心配して声をかけたらしかった」
今でもその時のことをクレメールは鮮明に覚えていた。
デュクレ船長は灰色の眉を寄せてクレメールにぐんと顔を近づけてきた。
「お前、どこの船の乗組員だ。待遇が悪すぎやしないか? 全然食べてないって顔してるぞ。クリスに似てるかと思ったけど、もっとひどい顔だ。その船と契約が終わったんなら、私の下で働かないか。ちょうど人手が足りてなくてな。毎日腹いっぱい食わせてやる、どうだ?」
クレメールは、自分は船乗りではないこと、娼館の客引をしていること、顔色が悪いのは3日食べてないからだということを話した。
だが、デュクレ船長は肩をすくめた。
「お前の事情はわかった、いいから私と来い。船の乗り方は私が一から教えてやる。まずは腹ごしらえだ」
少々強引ではあったが、デュクレ船長はそれからクレメールを引っ張って食堂でご飯を食べさせ、その夜のうちからクレメールを船に乗せて出航してしまった。クレメールはこの時、後になって追い出されると思っていたが決してそんなことはなく、デュクレ船長のはからいによって正式に商船の船乗りとなったのである。
「最初は船の進め方も、ロープの結び方も、乗組員の上下関係もわからなくて、慣れるのに苦労した。だけど、他の人間と同等に扱われたことが新鮮で……給料なんてものを初めてもらった時は涙が出た、へへ、冗談じゃないぜ」
クレメールは思い出すように小さく笑みを浮かべた。
やがて2人は船着場の終わりの崖のところまでたどり着くと立ち止まった。
クレメールは海の方を向いた。
「それからずっと6年間、デュクレ船長の下で船乗りとして生きてきた。今ジレンの小屋の隣にある家は、俺が2年目の時に、引退して田舎に帰った甲板長からもらい受けたものだけど、俺は君の親父さんと同じようにほとんど海の上で過ごしてきた。それは……俺が、俺自身の過去から逃げるためでもあった」
クレメールは低い声で続けた。
「そうは言っても、航海から帰ってきたら一度は娼館に行く男だ。しかも昔の奴らと顔を合わせるのが怖くて、明るいうちに行ってた……つくづく自分でも浅ましくて臆病な野郎だと思う」
クラリスはクレメールの顔を見上げた。苦しそうな表情をしている。
クレメールはさらに続けた。
「それで、今回の件なんだが……この前の夕食の時、修道院が完成した後は貴族の邸宅の仕事があるって言っただろ。実はその貴族ってのが、俺の母親の元同僚だった。彼女は貴族に身請けされてて、俺だって気づくと嫌がってすぐに契約を切ろうとした。親方も途方にくれちまってたから、それで俺……仕事を辞めちまったんだ。けど、俺もできた男じゃないから、酒に逃げてあんな騒ぎを起こしちまった。結局俺はそういう人間だ。役所に捕まって当然だったんだ。だから……その、もうわかっただろ。俺はあんたにふさわしい男じゃない。俺はもともと暗いところで生きていかなきゃならない。もうこれきりにして、俺たちは会わない方が……」
クラリスは思わず彼の頬に自分の手を伸ばした。彼の、今にも泣きそうな表情に耐えられなかったのだ。
クレメールさんは私と決別するために、ここへ案内したのね。私がクレメールさんの過去をきいて、拒否すると思っているんだわ。
触れられたことに驚き、言葉を途切らせてしまったクレメールに、クラリスは少し迷ってから切り出した。
「……きいて、クレメールさん。少し前に、私は父を失ったわ。正直なところ、知らせを聞いた時どうしたらいいのかわからなかった。涙がこみ上げてきたけど、泣いてはいけないと押しとどめるものがあったのね。でも、ある男性が無理をするなと言ってくれた。泣きたい時は泣けと、肩を貸してくれたの。あの時ほど心が支えられたことは、今までなかったわ。まるで心に一筋の光が照らされたようだった、ほんとうよ。だから、私は少しでもその人の力になりたいの。その人がどんな生まれでも、どんな過去を持っていても、私はその人となら、悲しみも喜びも分かち合えるって思えるもの」
クレメールはぐしゃりと顔を歪めてクラリスの方を向いた。
「いや、違う、違うんだ、あの時の俺は……そんな殊勝なことを考えていたわけじゃないし……俺はもっと情けない男なんだ。最初は船長が死んだのを伝えに行くのが嫌だったし、君の家に初めて泊まった時は……その、変な期待をしていたし、君が紹介状を持ってきてくれたあの日なんか、俺は昼間から、その、酒場だけじゃなくて……」
「知ってるわ」
クラリスは微笑みを浮かべて遮った。
「私ね、知ってるの。あの雨の日、窓辺からあなたが嫌そうな顔をして玄関まで歩いてくるのが見えたし、その夜にクレメールさんを部屋に案内した時にはなんだか声が上ずっていたし、初めてジレンとお料理したあの日も、あなたから甘い香りがしたから……」
クラリスがそう言ったのに、クレメールの顔はかあっと赤く染まった。ぶんっと音がなるほどの勢いで、再び顔を海の水平線に向ける。
「……ごめん」
なぜか謝ってきたクレメールに、クラリスは首を振った。
「私の方こそ、あなたに気を遣わせてしまってばかりでごめんなさい。父の葬儀でも、海軍や商会の人達がたくさん来ていたから自分と噂になることを心配して、私に近づかないようにしていたのでしょう。でもね、クレメールさん」
クラリスはクレメールの向いた顔の方へ自分が移動して、視線を合わせた。
「あなたを嫌う人がいても、私はどうしてもあなたを嫌いになんてなれないわ。私はあなたといたいのよ。他の誰でもない、あなたと一緒に食事がしたい。あなたと一緒に暮らしたいの」
「な、なにを言ってるんだ、だ、だめだ、だめだ!」
クレメールは顔を赤くしたまま眉を寄せて首を振った。
「きっとすぐに俺に幻滅するに決まってる。俺は娼館で育ったんだぞ。前に食堂で会った男を覚えているだろう、俺はあの男となんら変わりはないんだ……あ、あの男と同じ事を、俺が考えているとしたら、い、嫌だろう!? い、い、今、俺が君に、何をするかもわからない!」
クラリスは、クレメールがあんまり必死になってそう言うので、思わずくすりと笑ってしまった。
「たとえ同じ事を考えていたとしても、あなたはそうしないはずよ。それにあの人とあなたじゃ、決定的に違うことがあるわ」
「なにが違うっていうんだ、あいつとは生まれも育ちも似たようなもんで……」
「私はあなたを愛しているんだもの」
クレメールは目を見開いた。本気か。
「嘘だろ」
「嘘なんかつきません」
「だって、俺は……」
もしかしてさっきの話を聞いていなかったのだろうか。クレメールはわけがわからないというように頭をばりばりかいた。
そんな様子に、クラリスは笑みを浮かべて彼の手首を掴むと首を横に振った。
「髪が乱れるわ。それに、そんなに驚くことではないわよ。だってあなた、とっても優しいじゃない」
これは夢ではないだろうか。目の前の彼女の顔が、普段にも増して艶麗に見える。くそ、ならこうしてやる。クレメールはギリッと歯を噛み締めると、両手を勢いよくクラリスの肩に置いた。そして身をかがませ、一瞬だけ彼女の唇を奪った。すぐに身を離し、彼女の顔色を伺う。
怯えた表情になっているだろうか。少し怖がらせてしまっただろうか。
しかしクラリスは、ちっとも怯えた表情になんてなってはいなかった。それどころか、驚いたように目をぱちくりさせてから、ほんのりと頬を染めて笑みを浮かべて言った。
「それは、"はい"の意味かしら?」
クレメールは頭を鐘でガーンと殴られたような衝撃を受けた。
そしてふらふらと後ずさりして下を向いてしまった。
負けた。
惨敗だ。クレメールの心中にいた臆病で弱気な自分が、すうっと消えていってしまった。彼女を愛さないように、なんてもうできない。
いや、もともと惚れていたのはとうにわかっていたことじゃないか……。
クレメールはそのまま沈黙していたが、しばらくして俯いたまま小さな声で言った。
「……あの夜、君がジレンと食事の用意をしてくれていた日が最後なんだ。あれからは一度も娼館に行ってない。大工を辞めた時も酒は飲んだけど、女は抱いてない。言い訳じみてて証拠もないけど、信じてくれ」
俯きながら言ったクレメールの言葉に、クラリスは穏やかな笑みを浮かべたまま「はい」と頷いた。
クレメールは続ける。
「婚前交渉は絶対しない。誓うよ。それに、君のお父さんの貯金には一切手をつけない。まず仕事を見つける。ちゃんと給料をもらえるようになる。そしたら……そしたら、俺と、けけ、け、結婚し、してくれないか」
クラリスは嬉しさでいっぱいになったが、彼が少し離れて俯いたままであることを少し残念に思った。
クラリスは後ずさった彼の方へ歩み寄ると、手を伸ばしてクレメールの頬に自分の両手を伸ばした。彼の頬は熱があるのではないかというくらい熱い。
クラリスは、クレメールの不安に揺れる瞳をまっすぐに見つめた。
「こだわりの強い方。でも、それであなたの妻になれるのなら……喜んで」
それを聞いたクレメールは目を潤ませ、唇を震わせた。
「ほんとうに?」
「最初から私がお願いしているじゃない」
クラリスは小さく笑ってから、クレメールを見つめ、嬉しそうに彼の腕に触れた。
「でも、あなたもそう望んでくれたのが何より嬉しい。片思いはちょっと寂しかったんだもの」
クレメールは泣きそうな表情を浮かべて震える唇を噛んだ。
彼女が片思いだったことなんて、一度もないのに。しかし、クレメールは恥ずかしくてそれ以上何も言えなかった。
それから2人は、そのまま腕を組んで再び船着場を歩いた。船着場から商店の並ぶ通りを進み、やがてデュクレ家まで来た。
と、玄関に誰かが居ることに気づいた。
ジレンよりも少し歳下くらいの、金髪とそばかすの目立つ見覚えのない少年だ。
彼は自分を見ている2人の存在に気づくと、パッと駆け寄ってきた。
「あの! もしかして、デュクレさんとクレメールさんですか?」
2人は顔を見合わせた。
「そうだけど……あなたは? どなたかの使いかしら」
クラリスの言葉に、少年はほっとしたような表情を浮かべた。
「ああ、よかった! 親方からクレメールさんを連れてこいって言われてるんです、ついてきてください」
そう言うと、少年はタタタッと駆け出した。2人はまた顔を見合わせたが、少年が向こうから「早くぅ!」と叫ぶので、慌てて従った。
少年の足は速かった。広場を抜け、中心街を通り、やがて木々に囲まれた低い平野に抜けた。そこには木材がズラリと並び、何人かの男達が土台をカンカンと打ち立てているようだった。
「親方ぁ、連れてきましたよう」
少年は小さな布の天幕の方へと駆けていった。そこには大きな机が置かれてあり、1人の大柄な髭面の男が机の上に置いてある紙を見下ろしていた。
男は少年の声に顔をあげた。
「おう、ニコル! 戻ったか」
男の声は野太く、少し離れたところにいたクレメールとクラリスにもよく聞こえた。男は駆け寄ってきたニコルの頭に手をやる。彼は「よくやった、駄賃はあとだ、持ち場に戻れ」と言い、少年が作業場へ駆けていくのを見送ってから、客人の方に目を向けた。
こちらへずんずん歩いてくる。
まるで熊のようだとクレメールはひとりごちた。
男は2人の前まで来るとクレメールに向かって言った。
「あんたがレイモン・クレメールだな」
「は、はあ。あの……」
男は次いでクラリスにも目を向けた。
「で、あんたがクラリス・デュクレか」
「ええ、あの、あなたは……?」
クラリスが戸惑いがちに問うと、男はにかっと歯を見せて笑った。
「へへへ、2人ともわけわからねえって顔してんな。悪い悪い、俺はデラボルド、大工だ」
男、デラボルドは後ろで作業をしている弟子達にちらりと目をやった。
「一応あいつらの親方をやらせてもらってる。実は今日からここに学校の校舎を建てることになっててな。とにかく人数が足りねえんだ」
「は、はあ」
「だからお前、手伝ってくれねえか、明日からでいいからよ」
「へ?」
クレメールはぽかんとした表情を浮かべた。一体何を言われているのだろうか。
「お、俺が?」
「そうだ。今、仕事ねえんだろう?」
「で、でも、なんで俺を……?」
デラボルドはええと、と頭をかいた。
「お前、ランディールのとこで働いてただろ」
ランディール? クレメールははっとした。ランディール親方か!
ついこの前まで上司だった、気は良いが、人使いの荒い男のことを思い出した。
デラボルドは続けた。
「あいつとは昔からの付き合いでな、頼まれたんだよ、変な客に目をつけられちまって仕事をやめちまった真面目な男がいる、雇ってやってくれないかってな」
ランディール親方がそんなことを……! クレメールは目を見開いた。
デラボルドは目を細めてクレメールを見た。
「でもお前、酒場で問題起こして憲兵に取っ捕まったんだろ? まあその腕っぷしは仕事で使わせてもらうけどよ。とにかくその牢に入ったとこまでは居場所がわかったんだが、いつのまにか示談で出たって言うじゃねえか。誰が払ったんだってきいたら、婚約者のクラリス・デュクレって名前をきいてな。それでそっちの家がわかったから、使いをやったって話よ」
「え、こ、婚約者……?」
クレメールが驚いたように隣に立つクラリスの方を向いた。クラリスは少し顔を赤くしたが、こほんと咳払いをすると、デラボルドに笑いかけた。
「そうだったんですのね。でも、そんな風にしてクレメールさんを探してくださったなんて、デラボルドさんは素晴らしい方ね」
そう言われて、デラボルドは「がはは」と照れたように笑った。
「まあ、あのランディールの頼みだからな。実は俺も昔いろいろやってな、あいつに何度か助けてもらったりしてんだ。ここじゃ、気取った貴族なんかいねえから安心してくれよ。育ちだって、気にするこたあねえさ」
「あ、ありがとうございます……」
デラボルドの温かい言葉に、クレメールは頭を下げた。そして給金の話や、建築の目処の話をした後、「明日は朝から来る」と話が決まると、クレメールとクラリスはその平野を後にした。
2人はもと来た道を歩いていた。喜ばしい状況のはずなのに、どちらも気まずい思いを抱え、無言でそっぽを向いていた。
クラリスは役所で自分がクレメールの婚約者だと名乗ってしまったことを後ろめたく思い、クレメールはさっき仕事が見つかったら結婚しようと言ったばかりであることを、どう切り出そうか迷っていた。
「あのさ……」
クレメールが口を開いた。しかし何を言おうか迷ったあげく、結局先ほどの疑問を口にした。
「そ、その、示談金を払う時、役所で俺の婚約者だって言ったってのは……ほんとうなのか?」
クラリスはビクリと肩を震わせた後、ばつが悪そうに横を歩くクレメールを見た。
「ごめんなさい、勝手な事を言ってしまって。その……その方が示談の話がしやすかったの。恋人でもなんでもないのに、なぜと問われても困ってしまうから……いいえ、それだけじゃないわ、私が、そう言いたかったからかもしれない。ほんとうにごめんなさい」
恥ずかしそうに謝るクラリスを、クレメールはじっと見つめた。
そうまでして自分を役所から出したかったというのか。婚約者? この俺に? あんな牢獄で殴られて転がっていた俺に、婚約者?
信じられないが、彼女はほんとうに俺のことを好きみたいだ。そう自覚した途端、無性に彼女への愛しさがこみ上げてきて、クレメールは急に立ち止まった。
「クレメールさん?」
クラリスも一緒に立ち止まる。不安そうな顔だ。クレメールは彼女の手を取り、まっすぐ目を見つめて言った。
「クラリス、これから教会に行かないか?」
「え?」
クラリスは目を丸くさせた。
「司祭に式の相談に行こう。日取りを決めたいんだ。君の親父さんが亡くなったばかりだから、喪が明けるまで待たなくちゃならないけど、なるべく早く、その、一緒に……」
クラリスはぱぁっと顔を明るくさせた。
「嬉しい。じゃあ私はほんとうに正式にあなたの婚約者になれるのね」
クラリスは心から嬉しそうにそう言い、「あっ」と思いついたように彼の両手を取った。
「そうだわ、司祭様のところに行く前に、父のお墓に行ってこのことを報告してもいいかしら」
クレメールは目を細めて頷いた。
「ああ、俺も行きたいと思っていた。君の弟と妹にも言わないとな」
「ほんとうね、マルセルやアネットにも……それにジレンにも早く知らせたい……! ああ、クレメールさん、私きっと今、世界で一番幸せだわ」
クラリスの嬉しそうな言葉に、クレメールは言いづらそうに頭をかいた。
「その、あのさ、け、結婚してからでいいから、な、名前で呼んでくれないか……時々で、いいから……」
クラリスは「あら、ほんと」と今気がついたように、肩をすくめた。
「うふふ、そうね、これからはレイモンさんと呼ぶわ! 素敵、レイモンさん、レイモンさん、レイモンさん……」
「わ、ちょ、そ、そんな急に、何回も言わなくていいから……」
クレメールは顔を赤くして慌てたように手の平をひらひらと振った、世界で一番幸せなのは自分の方だと思いながら。
教会まで歩く2人の道は午後の温かな日差しに照らされ、心地よい潮風が吹いていた。
FINE
これで完結といたします。
偏見の多い描写があったかと思いますが、一応19世紀という設定なのでご了承ください。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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