Bravo!

Rachel

文字の大きさ
上 下
30 / 33

30. 向こう見ず

しおりを挟む

 
 それから数日も立たないある朝、テオは早くに目を覚ました。
 太陽はまだ昇っていないようで、窓の外は暗い。しかしテオは伸びをしてむくりと起き上がった。
 支度をして部屋を出たが、まだメイドのロゼッタも起きていないようで、屋敷の中はしんと静まり返っている。
 テオは朝の散歩をしようと、玄関からそっと外に出た。

 朝の空気はまだひんやりとしていて、少し肌寒い。地面から短く生えた緑色の草は日に日に伸びているようだ。もうひと月もすればうんと高くなり、この辺りは草の匂いが増してくるだろう。
 テオはバイオリンを部屋に置いたままで何も持たずに歩くことに、もうすっかり慣れていた。

 少し歩くと川のほとりに出た。朝のポー川は暗い色をしている。魚たちの姿も見えない。太陽はだんだん昇っているようで、辺りは明るくなり始めていた。
 テオは川沿いに歩こうとして、はたと立ち止まった。

 誰かが、少し先の川岸の原っぱに仰向けで横たわっている。立派な身なりの男だ。
 テオは死体かと思い一瞬胸をどきっとさせたが、胸が動いているので死んではいないようだ。眠っているのか……酔っ払いか? 
 彼の荷物かと思われる大きな鞄が脇に置いてある。無用心だな。
 テオは呆れたような表情を浮かべてそのまま川岸を歩いた。
 しかし男に近づくにつれて、顔に見覚えがあるような気がしてきた。

「まさか……」

 テオは呟いてその可能性が頭に過ぎると、次の瞬間には駆け出していた。
 すぐ目の前まで来て見下ろすと、彼の予想は当たっていた。

「エドガー!」

 テオはしゃがみ込んで横たわる男の身体を揺さぶった。大丈夫なのだろうか、怪我を負ったりなどはしていないだろうか。

「大丈夫か、おい、エドガーったら!」

 彼は「ううん」と言うと、寝返りを打ってテオに背を向け、またすやすや眠り出した。
 テオは目を瞬かせた後、ほっとしたように小さな笑みを漏らした。どうやらほんとうにただ眠っているだけのようだ。
 それがわかると、テオは彼の耳元で大きな声を張り上げた。

「おいエドガー、起きろっ!」

 彼は身体をびくりとさせたが、それでも目を少し開けただけだ。

「うん……なんだよ……もう、少し……寝かせてくれ……」

 むにゃむにゃ言いながら不満そうなエドガーに、テオは苦笑いを浮かべた。

「こんなとこで寝てたら風邪ひくぞ。旅で疲れてるのはわかるけど、ひとまず起きろ」

 しかし、エドガーはもうしっかりと目を閉じていた。

「ううん、わかってる……私が……朝に弱いことは知ってるだろう、テオ君……」

 そう言ってエドガーは再び眠りに入ろうとしたが、突然「え……テオ君!?」と自問するとがばっと起き上がり、目の前にいるテオの顔をまじまじと見つめてきた。
 エドガーのはねた髪の頭には、葉っぱや土がついている。
 テオはそれがおかしくて笑いながら言った。

「久しぶりだな、エドガー」

「テオ君っ!!」

 エドガーは先ほどとは打って変わり歓声を上げると、嬉しそうにテオの肩に手を置いた。

「いやあーはははっ! 元気そうじゃないか! また会えて嬉しいよ」

「俺も嬉しい……いつ着いた?」

「さっき……いや、夜中だな、馬車で来た。川沿いのところで下ろされたんだが、なにしろ真っ暗でね。とにかく疲れ果てていたから宿を探すのも面倒だし、ここで寝たって凍えはしないだろうと思ったんだ」

「そ、そうだったのか」

 目の前の人物はほんとうに貴族なんだろうかと、テオの頭に懐かしい疑問が蘇ったが、彼は別の質問をした。

「手紙は? マリアとマルグレーテはまだ返事が届かないって言ってたけど」

「手紙は送ってない」

 テオは目を丸くさせた。

「送ってない? どうして」

「二人からの手紙を読んで、すぐに荷物をまとめてその日の一番早い列車に乗ったのさ」

「その日の列車だって?」

 迷いもしなかったのか。どうやらマルグレーテの気質は叔父に似たらしい。テオは以前のマルグレーテとの会話を思い出して、くすりと笑った。

「それにしても……」

 エドガーはテオをじろじろと見つめた。

「な、なんだよ」

「テオ君……表情が豊かになったなあ! 見違えたよ、良い笑顔じゃないか」

 エドガーの言葉に、テオは「はあ? 前からこんな顔だよ」と少し恥ずかしそうに顔を赤くして表情を歪める。エドガーはいやいやと首を振った。

「ウィーンで最後に見た時とはまるで違う……よかったよ、ほんとうに。仲良くやっているようだな、マルグレーテやマリアと」

 嬉しさの篭った目で言われ、テオは口をつぐんで照れ隠しに肩をすくめた。
 エドガーは小さく笑ってから「よいしょ」と腰を上げ、身体についた草の破片や落ち葉、土を払った。

「それじゃ、マリアの屋敷に案内してもらおうか。いやその前に、花屋に行こうかな……どこにあるかわかるかい、テオ君」

 花! さすがエドガーだ。テオは頷いた。

 しかし太陽はまだ昇ったばかりだ。二人は中心街の方へ歩いたが、街中の店はどこも開いていなかった。いつも賑やかな大通りもパン屋がパンを焼く匂いがするだけで、誰も歩いていない。
 テオは花屋の店の前までエドガーを連れてきたが、やはりこちらもまだ開店していないようだった。

「早すぎるんだ。また改めて来よう」

 テオはそう言ったが、エドガーは「まあまあ。ちょっとここで待っていてくれたまえ」と言うと、花屋の裏口に回っていった。
 テオは言われた通りその場で少し待っていたが、何か怒鳴るような声がしたのでやはり心配になって、エドガーの行った裏口へ回りーー足を止めた。

 騒いでいるのはエドガーだった。彼は裏口の玄関の扉をどんどんと鳴らし、大声でわめくように叫んでいる。

「おぉーいっ! 開けてくれえ、火事だ、火事だぞーっ!」

 嘘だろ。テオは唖然とした。店が開いていないからと言って、さすがにこれは。
 しかし効果はあったようで、ガタンバタンッと物が倒れる音がしたかと思うと、勢いよく玄関の扉が開いて、一人の髭面の男が慌てたように出てきた。花屋の店主だ。気の毒に、まだ服もきちんと着ていない。

「どこだっ!? どっから火が出た!? は、早く水を……」

 焦った表情の店主は、きょろきょろと辺りを見回したが、周りには特に変わった様子はない。
 扉から離れたところに立っていたテオは、花屋の男と目が合うと「俺じゃない」と肩をすくめてみせる。
 花屋は怪訝そうに眉を寄せた。扉近くに立っていたエドガーが、えへんと咳払いをする。

「落ち着きたまえ、ご主人。悪いが火事の話は嘘だよ。実は今すぐに花を売っていただきたくてね」

「は、う、嘘……? 火事、じゃねえのか……?」

 花屋は間の抜けた顔になった。エドガーはにこやかに笑みを浮かべた。

「火事ではない。だが、そうでも言わなければ、ご主人は寝たまま降りてこなかっただろう。さあ頼むよ、このお店の花を見せてもらえるかな?」

 目を見開いてエドガーを見ていた店主だったが、だんだんと恐ろしい形相になっていくのを、テオは遠くから見守った。






「……呆れた。それでそんなに頬を腫らしているのね」

 マリアの屋敷のロビーで、マルグレーテは腰に手を当てて、目の前に立つエドガーを見上げた。
 約二ヶ月ぶりに見る尊敬すべき叔父は、上質な仕立ての服を着ており、手には大きな花束を持っていた……しかし、髪の毛はあちこちにはね、どこか土や草の匂いがしている。なにより真っ赤に腫れた頬が痛々しい。


 今朝マルグレーテが支度を終え、部屋から食堂のある階段を降りようとすると、ちょうど玄関からテオが帰ってきた姿が見えた。
 あら、テオは朝から散歩に出かけていたのね。そう思って呼びかけようとした時、彼の後ろから一人の紳士が屋敷に入ってきたのが見えた。テオは彼をロビーに残し、そのまま食堂の方へ行ってしまう。

 あそこにいる紳士は誰? マルグレーテは不審に思ったが、柱の影からちらりと見えた男の顔に目を見開いた。まあ、叔父様だわ! 
 マルグレーテは満面の笑みを浮かべて、階段を駆け下りたが……抱きつこうとした叔父の片方の頬が腫れ上がっていたのであるーー明らかに誰かに殴られたとわかるくらいに。



 顔が腫れているわけをきいたマルグレーテは、呆れた視線を叔父に向けていた。

「久しぶりに再会したというのに、なんだその顔は……テオ君はもっと喜んでくれたぞ」

 エドガーが不服そうに、そして頬を手で覆いながら言うと、マルグレーテは肩をすくめた。

「私だって叔父様との再会を心から嬉しいと思っているわ。だけどそんな顔して……文句も言いたくなるわよ。第一に叔父様は考えなしなの、どうしてそんな無茶をするのかしら」

「一発殴られただけじゃないか。会って早々に小言を言うとは、恩知らずの姪だ」

「小言ですって?」

「そこまでだ」

 マルグレーテが眉を寄せて叔父を睨みつけた時、いつのまにか食堂から戻ってきていたテオが二人を止めた。

「二人ともよく考えろ。ここはマリアの屋敷で、エドガーの屋敷じゃない」

 それを聞くと、エドガーはばつが悪そうに口を結んで下を向き、マルグレーテは口に手を当てた。

「ごめんなさい、テオ」

「そうだな、私としたことが失礼した」

 素直に謝った二人に、テオはやれやれと息を吐いた。

「全く、二人ともいつも通りだな。それよりも……」

 テオは言葉を途切らせて後ろを見やった。彼の視線の先にはーーこの屋敷の主人マリア・クラウゼンが、緊張した表情を浮かべて立っていた。
 その姿に、エドガーははっとした表情を浮かべる。

「マ、リア……?」

 ドサッと何かが落ちた音がして、マルグレーテは目線を下げた。エドガーの手から花束が落ちたらしい。気づいたテオが無言で拾う。
 そんなことにはおかまいなしに、エドガーとマリアはずっと見つめ合っていた。まるで二人だけが時を遡ったかのようにーー別世界に入ったように見えると、マルグレーテは思った。

 マリアは泣きそうな笑みを浮かべて言った。

「……久しぶりね、エド」

 その声を聞いて、エドガーはますます目を見開いた。彼は花束のことはもう忘れてしまったようで、ゆっくりとマリアの方へ歩み寄っていった。

「マリア? ほんとうに、ほんとうにマリアなのか?」

「ええ、私よ……忘れてしまった? ふふ、二十年以上も経ってるものね。私も歳を取ったの……」

「そうじゃない、そうじゃないんだ」

 エドガーは首を振った。もう彼はマリアのすぐ目の前まで来ている。

「君は……君はあの時のままじゃないか。最後に別れた、あの列車の時の、その顔……その声。なにひとつ……変わってない」

 おそるおそるエドガーが手を伸ばすと、マリアはその手を握った。

「あなたもよ。私に花を用意してくれるのも、こんな風に顔を腫らしてまで無茶をするところも、昔のままね」

 マリアがそう言って笑った瞬間、エドガーはひしと彼女を抱き寄せた。しばらくの間、誰も口を利かなかった。
 マリアのすすり泣く声だけが響いた。やがてエドガーが沈黙を破った。

「会いたかった……ずっと」

 マリアは泣きながら詫びた。

「ごめん、なさ、い……エド……ほんとう、に。私、あ、なたに……ひどいことを……」

「いいんだ。君はなにも悪くない……むしろありがとうと言いたい。あの時決断してくれたことも、こうして今会ってくれたことも……君のくれた手紙が……私はほんとうに嬉しかったんだ」

 エドガーが喉を詰まらせながら言うと、マリアはもう、ただ泣くばかりだった。

 少し離れたところから見ていたマルグレーテとテオは小さく微笑み合った。
 テオが目配せをした方向に、マルグレーテが視線をやると、食堂から顔を出していたロゼッタが遠目に主人の様子を見て涙ぐんでいた。彼女もようやく心配の種が消えたらしい。しかしロゼッタは、テオとマルグレーテの視線に気付くと、はっとした表情になって食堂に引っ込んだ。
 それに再び顔を見合わせたマルグレーテとテオは、また再会の様子を眺めた後、そっとその場を抜け出そうとしたーーしかし、泣き顔のマリアに引き止められた。

「まって……マルグレーテもテオもまってちょうだい。一緒に……朝食をいただきましょう。ロゼッタが作ってくれたわ」

「でも……」

 マルグレーテが言いづらそうに下を向くと、いつのまにかいつもの調子に戻ったエドガーが言った。

「久しぶりにみんなで食べようじゃないか。マリアだけじゃなくて、テオ君とも話したい……もちろんお前ともだぞ、マルグレーテ。どんな旅をしていたのか気になっていたんだ……お前の手紙は支離滅裂でよくわからん」

「まっ」

 マルグレーテは心外そうな表情を浮かべた。






 朝食はロゼッタが四人分用意してくれた。テーブルの真ん中には、エドガーが先ほど苦労して手に入れてきた花々が花瓶に生けられている。
 いつもと同じ朝食なのに、マルグレーテにとっては叔父がいると少しスパイスが効いたように感じた。それがひどく懐かしい。マリアは幸せそうにエドガーを見つめている。テオもいつになく饒舌だった。

「……俺もまさか、ほんとうにマルグレーテがジプシーと一夜を明かすとは思わなかった。言葉もほとんど通じないのに、マルグレーテは連中にすっかり馴染んでたよ……大した社交力だ」

「社交とは言えんだろう。本物の社交界じゃ、ひどいもんだった。ダンスだって相手とろくに目も合わせず……」

 叔父がそう言いかけたのに、マルグレーテはパンを千切っていた手を止めて、ギロッと睨んだ。それにびくりと肩を震わせたエドガーは咳払いをした。

「まあ、マルグレーテは……そうだな、打ち解けやすいんだ。そうそう、確かに打算なんか考えない人間をいつもすぐに見つけ出していたか……それにしてもマルグレーテ、藁のベッドだって?」

 マルグレーテは得意そうに頷いた。

「そうなの! 私も初めてだったけど、意外とふかふかしていて、良い匂いだったわ。ぐっすり眠れたのよ」

「伯爵令嬢だったお前が、ジプシーに混ざって藁のベッドでねえ……お前のお父様やお姉様が聞いたら目をまわすな」

 マルグレーテはさっと顔を曇らせた。マルグレーテが去ってからの家族のことをーーウィーンにいる父のことを、叔父は知っているのだ。
 不安そうな表情になった姪に、エドガーは優しく微笑んだ。

「心配するな。伯爵家が悪いようにはなっていない……朝食の後でちゃんと話そう」

マルグレーテが小さく頷くと、エドガーは話題を変えるように明るい声を出した。

「それにしてもお前もテオ君も、よくマリアを見つけたな。手紙で読んだが、マリアはもう舞台には出ずに引退しているんだろう」

「そうなの。私も都会から身を引いて、ひっそり暮らしてるつもりだったから驚いたわ」

 マリアが同調したのに、テオは肩をすくめた。

「俺はミラノで有名になったって聞いたから、ミラノに行った。それだけだ。全部マルグレーテの友達が……」

「キアラよ」

 マルグレーテがテオの言葉を引き継いだ。

「キアラは道中で偶然出会った大事な友達なの。彼女がお勤めしているお屋敷の奥様が大の音楽好きで、マリア・クラウゼンの名前や劇場のことを知っていたのよ」

「偶然にしてはよくできているな……我が姪ながら運の良さには驚く」

 エドガーは関心したようにコーヒーを飲みながら言った。

「テオ君の後を追っていった時、私は応援する半面、マルグレーテは諦めて帰ってくると思っていたんだ。まさかテオ君どころかマリアまで見つけるとは思わなかった」

「俺もマルグレーテから人さらいの話を聞いた時はひやひやした。ほんとうに無事でよかったと……」

「……人さらいだと!?」

 テオの小さな呟きをエドガーが聞きつけて眉をぐんと寄せた。ぎくっとしたマルグレーテが飲もうとしていた紅茶のカップを下ろして、「ちょ、ちょっとテオ」と慌てて咎めるように言うので、テオは「あれ、手紙で伝えたんじゃなかったのか」と返す。その様子にマリアがくすりと笑みを漏らした。

「マルグレーテはエドに心配をかけたくなかったのよね。いろいろあったけど、とにかく無事でよかったじゃない」

エドガーは眉を寄せたまま、呆れたようにため息をついた。

「それはそうだが……後で聞かせてもらうからな。全くこの先のことを考えると、心臓がもたない」

「ご心配なく。これからはずうっとずうっとテオと一緒だから大丈夫よ。ね、テオ」

 マルグレーテはつんと上を向いてそう言った。テオは「う、うん」と頷いたが、マルグレーテが“ずうっと”と強調して言ったことがむずがゆく感じ、少し俯いた。

「しかしテオ君一人ならともかく、マルグレーテも一緒にとなると大変だぞ。私は赤ん坊の頃から面倒をみてきたんだ。とにかくわがままだし、向こう見ずだし、文句は言うし……」

 エドガーの言葉にマルグレーテがむうっと口を尖らせたが、すぐにテオが「そんなことはない」と首を振ると次のように言った。

「マルグレーテは慣れない旅で疲れていても文句一つ言わなかった。服だって、俺に会うためにドレスを手放したんだ。どんな場所で寝ることになっても不満を言わないし、気が利くし、なんでも興味を持ってくれる。それに、いつも笑顔だから俺は……」

と、そこまで言ってテオは言葉を途切らせた。
 マリアとエドガーがにやにやと笑みを浮かべ、マルグレーテは頬を赤くしてこちらをぽかんと見つめている。それにテオもつられて赤面した。
 エドガーが言った。

「なるほど、だからテオ君の表情はそこまで豊かになったというわけか。納得だ」

「べ、別にそれは……」

 頬を赤くしたテオが否定しようとするのをエドガーは遮った。

「まあまあ、わかった。マルグレーテも、テオ君にわがままを言うような駄々っ子ではなくなったようだ」
 
 するとマルグレーテが膨れたように言った。

「子ども扱いするのはやめて。……それよりも叔父様、ウィーンの劇場の人達は突然のことなのに大丈夫だったの? 誰が引き継いでくれたのよ」

「引き継ぎ? 何のことだ」

 エドガーのきょとんとした様子に、マルグレーテは目をぱちくりさせた。

「え……だって、演奏会の管理に、楽器奏者の援助だとか……叔父様はいろいろやっているじゃない」

 テオも頷いた。

「春のシーズンは演奏会が嵩むんだろ。だから忙しいのかと思ってた」

「私も……あなたが返事を書いて、落ち着いた頃に来てくれればと思っていたのよ」

 マリアも眉尻をさげて言うと、エドガーは頭をかいた。

「いやーそういうのは……ええと、あんまり……」

 あんまり? エドガーの小さな言葉に、三人は顔を見合わせた。

「まさか……何も言わないままでウィーンを出てきたの?  挨拶もせずに?」

 マルグレーテが眉を寄せて問い詰めるように言うと、叔父はごまかすようにはははと笑って言った。

「な、何人かには話したさ! そうそう、それに私がいなくなっても、今は大勢の貴族がパトロンとして音楽家や劇場についているから大丈夫だろう……マリア、ウィーンはあれからずいぶんと変わったんだ。ほんとうだよ」

 マリアは目を細めた。

「そのようね。マルグレーテから話は聞いたわ」

 マルグレーテが「なによ、叔父様だって向こう見ずじゃない」と小さく呟いたのに、エドガーは肩をすくめた。

「皇帝も訪れるブルク劇場はもとより、トーア劇場はシュタンマイアーがいるんだぞ。彼はベテランだし、他の出資者も多い。私の役目は終わったのさ……ああそうだ、テオ君!」

 エドガーは思い出したように声を上げると、「テオ君に渡さなきゃいけないものがあってね」と言いながら、足元に置いた大きな鞄を開けて、中をごそごそと探り出した。

「ええと……あ、あったぞ、これだ」

 エドガーが差し出したのは、一通の白い封筒だった。
 テオに渡しながらエドガーは言った。

「シュタンマイアーからだ。テオ君が去ってからも、彼は君のことを気にしていたようだから、マルグレーテの手紙が来た時に君が元気でいるらしいと伝えたんだ。それで……そうそう、彼には挨拶に行ったんだ……私がこの町を発つ前に、これを君にと託されたんだよ」

 テオは目を丸くした。

「先生から俺に?」

 封を開けてみると、文字の書かれた手紙と楽譜が入っていた。
 手紙は美しい字体で綴られている。丁寧に折られた楽譜を広げてみると、そこには音符がびっしり並んだ曲が書かれていた。見るからに難しい楽譜だ。
 「手紙は私が読み上げようか」とエドガーが言ってくれたので、彼に便箋を渡す。

「さすが、シュタンマイアーはきれいな字だな……

“拝啓 テオ様

 手紙を書くなど不躾なことをして申し訳ありません。ただエドガー様があなたにお会いになると伺い、一筆取らずにはいられませんでした。
 お元気ですか。音楽は続けていますか。あなたが初めて私のところへ来た夜のことは、今でもよく覚えています。
 あなたが私のところへバイオリンを弾きにきていたのが懐かしいです。あなたは私にバイオリンの技術を習いに来ていたようですが、ほんとうのことを言うと、私の方があなたから多くのことを学んでいました。
 私は元はヴュルツブルク生まれですが、人生のほとんどをウィーンで生きてきました。ですから旅をしてきたあなたの耳ほど、音を聞き分ける力はないのです。音のひとつひとつを大切にしているあなたからは教えていただいてばかりでした。
 私は長年の積み重ねのおかげで、ウィーンの劇場にて指揮を務めることができておりますが、この歳になっても学びに限りはない。それは技術だけの話ではなく私自身の成長もそうです。テオ君は私から学ぼうと非常に熱心だった。その姿から、私は得るものがあった。それに気づかせてくださいました。ほんとうにありがとう。
 どうか幸せになってください。あなたの存在やあなたの音楽が、周りの人に力を与えていることを忘れないでください。
 マルグレーテ様は、テオ君の技術だけに注目し、ただ称賛を送り、羨望の眼差しを送るだけのような方ではありません。練習に励むあなたを、マルグレーテ様はそっと見守っていた。その存在は生涯生きていく中で得がたいものです。もちろん、彼女のことはあなたが一番よく存じているでしょうから、これくらいにしておきましょう。
 おわりに、あなたが最初にお気に召してくれた協奏曲の三番の楽譜を同封します。弾き方はあの夜にお教えしましたが、楽譜全体を通すとなると結構難しいですよ。よければ練習してみてください。
 それではどうか、お元気で。

あなたの教え子、テオドール・シュタンマイアーより”」

 エドガーは読み上げてからテオを見ると、彼は俯いて鼻をすすっていた。
 エドガーは彼をシュタンマイアーに紹介した自分を、心の中で褒め称えた。
 マルグレーテも「ほんとうにいい人ね。テオのことをこんなに思ってくれているなんて」と小さく言ってから涙を拭いた。
 テオはそれに頷いた。
 
「俺は、ウィーンで音楽をやる連中はみんな、音楽家の家に生まれてるとか、金持ちしかいないって思ってたし、それ以外の下々の人間は相手にもされないって思ってた。けど、先生はそうじゃなかった……俺の生まれも、俺が文字を読めないことも、絶対にばかにしなかったし、俺に敬意すら払ってくれた……」

 テオは涙を拭くと、すっと顔を上げてエドガーに言った。

「ありがとう、エドガー。この手紙は大事にする。もし先生に手紙を書くようなら、俺が心から喜んでいたと伝えてくれないか」

 エドガーは微笑んで頷いた。

「もちろんだ」





 朝食を終えると、マリアは一階のホールで教材や楽譜の準備をし始めた。今日は町の子ども達に音楽を教える日だ。もうすぐあの小さな彼らがやってくる頃だろう。

 マルグレーテとテオ、エドガーは、マリアが「よければ使ってちょうだい」と言ってくれた客間に移動していた。品の良い長椅子にテオとマルグレーテは並んで座り、シンプルな装飾が施された机を挟んだ向かいに、エドガーが座った。

「ウィーンにいた頃を思い出すな」

 エドガーが言った。

「よくこうして三人で、私の屋敷の客間で話したもんだ。二人が居なくなってしまうと、あの部屋も静まり返って、やけに寂しく感じたよ」

 マルグレーテは小さく微笑んだ。叔父様も私と同じように感じてくれていたのね。しかし哀愁に浸ってばかりはいられない。マルグレーテには知らなければならないことがあった。

「お父様は……どうしてらっしゃるの。お姉様達はお叱りを受けたのでしょうね。それにエンマは……」

 心配そうな顔で言う姪に、エドガーは微笑んだ。

「心配するな。何もかも話すから。まずは君のお父様のことだ」

 マルグレーテは緊張のあまり手が震えるのを感じた。気づいたテオがマルグレーテの背中をぽんぽんと叩いてくれる。
 エドガーは言った。

「君が列車でウィーンを発ったと知って、兄上は激昂したのではないかと思うだろう? 実際はそうじゃなかった。お前が修道院を抜け出し列車に乗ってイタリアへ行ってしまったと聞いて、兄上は絶望したんだ」

「ぜ、絶望?」

 マルグレーテは想像もつかないその言葉に、目を瞬かせた。
 エドガーは頷いた。

「そうだ。言葉にはしなかったが、何日も誰とも口を利かず、仕事での外出も一切しなくなってしまった。おかげで私は臨時の代理としていろいろやらされたよ」

「え……叔父様が、お父様の仕事を?」

「そうさ、信じられんだろう。私もだ。だがあの伯爵家の執事に頭を下げられちゃあな。それに君の家出には私も一枚噛んでいたから、後ろめたさもあった」

 横で聞いていたテオは、ウィーンでマルグレーテを訪ねた時にシュミット伯爵邸にいた年老いた執事をぼんやりと思い出していた。そうだ、あの老人はエドガーとずっと口喧嘩をしていた。その彼がエドガーに頭を下げたのか。
 エドガーは続けた。

「そのうち……日が経つにつれて、兄上はいつもの調子を取り戻してきたようだった。おそらくお前の姉さん達が何かしら言って励ましてくれたんだろう。ある時私が伯爵邸に行くと、開口一番に“もうお前が仕事をする必要はない。今までご苦労だった”と言われたよ。それから“マルグレーテは帝国の憲兵に追ってもらっているから心配ない”とね」

 マルグレーテは「げっ」と声を漏らしそうになって堪えた。やっぱりそうだったのね、お父様の指示で、憲兵は私を追っていた……エンマもそれがわかっていて、囮になってくれたのだわ。
 マルグレーテの表情を読んだように、エドガーは頷いた。

「それからほどなくして、マルグレーテが帰ってくるらしいと伯爵邸から知らせがあった。まさかと思って飛んでいくと、屋敷の客間まで憲兵に連れて来られたのはエンマだけだった」

 マルグレーテは心配そうな声で言った。

「エンマは……彼女はどうなったの」

 エドガーは小さく笑みを浮かべた。

「安心しなさい。今でも彼女はベルタの侍女をやっている。……憲兵に連れて来られる時も、エンマは伯爵令嬢だと思われていたみたいで、丁重に扱われていた。兄上は、エンマのやったことに対しては怒っていなかった。全てマルグレーテの命令に従ったことだからと、私やベルタが繰り返し言っていたからな。だが……」

 エドガーは言葉を途切らせて眉を寄せた。

「なんなの?」

 マルグレーテが不安そうに言うと、エドガーは苦虫を噛み潰したような顔で答えた。

「兄上は、どうしてもお前を連れ戻そうと思っていた。どんな手を使ってでもな。するとエンマはそれに断固として反対したんだ。まあ、マルグレーテの行き先は彼女も知らないし、私だってテオ君がどこに向かったかなんてイタリア以外わからなかったから、兄上からすれば、憲兵を使って探すしかなかったんだろう。とにかくエンマは、兄上の乱暴なやり方に強く異議を唱えた。自分の意志で行動しているマルグレーテをどうか止めないでくれ、お前の幸せを勝手に決めないでくれとね」

 マルグレーテはエンマを思って目を閉じ、テオは目を丸くした。マルグレーテの父親に盾つくなんて、あの侍女もなかなかやるな。
 エドガーは続けた。

「そのまま二人は激しく言い争うことになってしまってな。あれは見ているこっちが恐ろしかった。イザベラとロザムンドなんかは遠くから眺めるだけだったよ。結局私とあの執事が兄上を止めて、エンマがベルタを自室に引っ張っていったから、その場はなんとか収まった」

 マルグレーテは胸が痛むのを感じた。私がやらなかったことを、エンマが引き受けてくれたのだわ。父に異議を唱えるのは、ほんとうは私自身がやるべきことだったのだ。
 エドガーは続けた。

「数日はそのまま静かに時が流れた。エンマも旅でずいぶん疲れていたから、ベルタが休ませたんだ。その間に、私の元にお前から手紙が届いた。トリエステからの刻印が押されていたから、少なくともお前がそこにいることはわかった。お前の父親に見せようか、ずいぶん迷ったが、結局見せることにした」

「え……そ、んな………」

 マルグレーテはぞっとした表情を浮かべたのに、エドガーが小さく笑った。

「まあ聞け。私は兄上にお前からの手紙を読ませることで、お前が一人でも十分にやっていることを示したんだ。旅をすることでマルグレーテが世間を知り、成長していることも伝えた。私と約束した通り、定期的に手紙をよこして近況を知らせてくることも」

 エドガーはその時の様子を思い浮かべて言った。

「兄上はしばらくお前の手紙を見ていた。読んでいると言うより、お前の書いた文字を一つ一つ眺めているようだった。私はその時、初めて兄上が父親の顔をしていると思ったよ……それから急に私に、“マルグレーテにとってほんとうにそれが幸せだと思うか”と聞いてきた。驚いたよ。私は、“少なくともウィーンで結婚して貴族の奥方になるよりは幸せだ“って答えてやった。生活に困ったらお前は帰ってくるだろうしな。そうしたら、兄上は……」

 エドガーは目を伏せ、苦い笑みを浮かべてから言った。

「兄上は、“お前は結局追いかけなかったじゃないか”と言った……そう、兄上は私とマリアのことを知っていたからだ。でもマルグレーテとテオ君は、私達とは違う……それもちゃんと話した」

 マルグレーテは、叔父が少し苦しそうな表情を浮かべているのに気づいた。
 エドガーもそれに気づいたのか、咳払いをしてから少し声色を明るくして言った。

「話が終わって、私は自分の屋敷に帰った。後になってベルタから連絡が来て、兄上がエンマと和解したと知った。私はお前の手紙を見せたのと、自分の話をしただけだったから、きっとその後ベルタが兄上を説得したんだろう。兄上は私に、マルグレーテから手紙が届いたらそのたびに知らせるように言ってきた。憲兵を使ってお前の行方を追うのも、もうやめたらしかった」

 マルグレーテの震えが止まった。驚いた表情を浮かべる。

「ほんとう?」

「ああ、ほんとうだ。その代わり、たまにでいいから兄上に手紙を書いてやれ。お前のことを心配しているんだ。もちろん姉さん達にもだ」

 マルグレーテはぼうっとして考えた。お父様が私の心配を? マルグレーテには想像もつかなかった。
 前に宮殿の舞踏会で、ベルタが「お父様が私のことを心配してくれていた」と嬉しそうに言っていたことが脳裏に蘇る。しかし、マルグレーテには実際に見た父の恐ろしい姿しか思い出せない。一生懸命思い浮かべようとして、マルグレーテはやめた。
 父が恐ろしいのには変わりないが、とにかく憲兵をよこすのはやめてくれたのだ。それはお父様が私を信じてくれたからだわ。それならば、私も信じてみよう。今はテオも一緒だ。何も怖いことはないのだ。

「わかったわ」

 マルグレーテはこくこくと頷いた。

 いくらか表情の晴れた姪に、エドガーはよかったと胸を撫で下ろした。そして隣で優しく微笑んでくれている青年が目に入った。

「……ところでお前、ほんとうにテオ君に迷惑をかけていないだろうな。今度はどこへ行くんだ、もう考えているのか?」

 エドガーの問いに、マルグレーテとテオは顔を見合わせて笑みを浮かべた。
 テオが言った。

「俺達は……この町に住もうと思ってる。今はマリアのこの屋敷にやっかいになってるけど、そのうちに二人でどこか別の家に住めたらって」

「なんだって?」

 エドガーは目を丸くした。

「この町に住むって……だがテオ君、君は旅をこよなく愛していたじゃないか……ああそうか、マルグレーテのわがままだな?」

 眉を寄せたマルグレーテが反論する前に、テオが首を振って否定した。

「いいや、俺が言い出した。旅をしていたのは辻音楽師の仕事上、一つのところに留まらない方が都合が良かったからだ。今は違う、俺はマルグレーテと静かに暮らせれば、どこだっていいんだ」

「し、しかし……」

 エドガーは戸惑ったように言った。

「こんな、劇場も広場も一つしかないような町で……どうしていくつもりなんだ、ミラノまでは馬車で数日かかるぞ」

「ミラノには行かない。実はこの町のあるバイオリン工房から、宣伝の演奏をしてほしいと頼まれてるんだ。職人は良い腕をしてるから、一度知られたらきっと名が広まるはずだ。俺はその男の作ったバイオリンを試し弾きしてやれるし、楽器製作の助言もできる。まあ、家を建てるのには少し時間がかかるかもしれないけど……」

 エドガーはぽかんとテオの話を聞いていたが、やがて眉尻を下げ「ほう」と感心したように笑みを浮かべた。

「そうか。きちんとそこまで考えて……」

 エドガーは組んでいた脚を直して、きちんとテオの方を向いた。

「ありがとう、テオ君の名前も一緒に世間に広まってほしいというのが私の本音だが……君がそこまでマルグレーテとのことを考えてくれていることに、心から感謝する。この子の父親も私と同じように思うことだろう」

「い、いや、俺は別に……」

 エドガーが真剣な目をしてそう言ったのに、テオは照れたように目を逸らした。
 マルグレーテが隣に座る青年の様子に嬉しそうに笑うと、叔父に言った。

「テオの言っているバイオリン工房にはね、たくさんのバイオリンが壁に飾られてあるの。カルロって人が一人でやっている工房なのだけど、とにかく素材が良いの。テオが弾きやすいバイオリンもあって、その演奏がとっても素晴らしかったのよ!」

「ほう、そうか。テオ君も認める腕だものな……一度行ってみたい、ウィーンの素材とどう違うのかも気になる」

 エドガーは胸ポケットから手帳を取り出して、何やら書き込んでいく。
 マルグレーテはその叔父の様子を懐かしく思っていた。ウィーンでの演奏会やイタリアに旅をした時も、エドガーはこうして手帳に何かしら書きつけていた。

「ねえ叔父様」

「なんだ」

 マルグレーテはペンを走らせたままの叔父に訊いた。

「叔父様はどうするの、今後のこと」

 エドガーの手が止まる。

「ずっとこっちにいるつもり? ウィーンには帰らないの」

「まだ……決めていない。マリアと話してどうしていくか決めるつもりだ。マルグレーテとテオ君にはちゃんと伝えるよ」

 テオは頷いた後、少し真面目な顔で言った。

「エドガー、その、わかってると思うし、大きなお世話かもしれないけど……マリアは望んで舞台女優を引退してる。彼女から言い出さない限りは、もう一度舞台に復帰させようなんて……」

 エドガーはふっと笑みを浮かべた。

「考えていないさ。もちろん彼女にそれだけの実力があることは知っているが、さすがにそこまでひどい男じゃない。今は子ども達に音楽を教えることに専念しているんだろう、それを支えることができたらとは思っているが……とにかく、安心してくれ。彼女の望まないことはしない」

 エドガーがそう言うと、テオはほっとしたように柔らかい表情になった。

 ほんとうにテオの表情は変わったと、エドガーはそれを見て思った。最初に会った時は、愛想のない、冷たい表情の青年だと不満に思ったものだ。マルグレーテと出会うことでこうまで変わるとは、あの時想像できただろうか。

「ねえ、叔父様」

 またマルグレーテが呼びかけたのに、エドガーはふと我に返った。

「……今度はなんだ」

「さっき、ロビーで不思議に思っていたのだけど……どうしてマリアさんに、“ほんとうにマリアなのか?”なんて訊いたの?」

 マルグレーテの問いに、エドガーは眉を寄せた。
 マルグレーテは続けて言った。

「マリアさんが言うのならおかしくないわ。だって叔父様が突然現れたんですもの。でも叔父様は違うでしょう、マリアさんのことを知ってるし、マリアさんを訪ねてきた。このお屋敷はテオの案内でマリアさんのお屋敷とわかっているはずだし、相手がマリアさんだって手紙を読んでわかっていたはずでしょう。それに、マリアさんは前と何も変わってないって、叔父様自身が言っていたのに」

「……お前も変なところを気にする奴だな。そういうところは聞き逃すのが礼儀だぞ」

 エドガーはじとっとした目で姪を見た後、小さく息を吐いてから言った。

「確かにマリアは変わってない。二十年以上経っているのに、何一つ変わっていない。だから……」

 エドガーは下を向き、蚊のなくような声で言った。

「……その、あの時は、彼女がマリアの子どもかと思ったんだ」

「「マリアの子ども!?」」

 マルグレーテとテオは顔を見合わせた。同時に二人して声を上げて笑った。

「エドガー、二十年経ってるからってさすがにそれは……」

「叔父様ったら! 手紙に彼女は結婚していないって書いたじゃない。メイドのロゼッタと二人で暮らしているって」

 二人がそう言ったのに、エドガーは下を向いたまま答えた。

「そ、そうなんだが……あまりにも昔と変わらないから……ウィーンで春の女神ともてはやされたままの眩しい彼女だったから驚いたんだ。声も聞いただろう、引退したとは思えないほど美しいままだし……」

 エドガーがそう呟くように言っているのに、マルグレーテとテオは再び顔を見合わせた。
 マルグレーテはテオにこっそりと「どうやら叔父様の中では時が止まっているようね」と耳打ちした。テオもそれに頷いた。テオは内心で、あまりに長いこと離れていると、こうして相手を神格化してしまうこともあるんだなと思い、自分はマルグレーテが早いうちに追いかけてきてくれてよかったと胸を撫で下ろした。








しおりを挟む

処理中です...