Bravo!

Rachel

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29. 驕慢

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 マルグレーテは窓から差し込む日の光に、目を覚ました。うーんと伸びをする。ぐっすり眠ってしまったのね。マルグレーテは昨夜の出来事を思い浮かべると、自然と笑みを浮かべた。

 昨晩はマリアとマルグレーテ、そしてテオで劇場に行った。

 最初、マルグレーテは不安を抱えていた。テオはあまり行く気がないようだし、それに劇場のボックス席に座れるような正装も持っていない。ウィーンにいた時はエドガーが正装を用意してくれていたが、今は着の身着のままの彼である。
 マルグレーテは一着だけ伯爵令嬢だった時のドレスを持っているが、それだって売ってしまおうと考えていた。それにドレスを着るのに必要なペチコートやシュミーズは、トリエステの古着屋の老婆に預けてしまった。ドレスに合う靴だって持っていない。
 行きたいとは言ったものの現実的には難しいのである。
 しかしマリアは言った。

「大丈夫、私はこの町に住んで長いのよ。なにもかも任せてちょうだい」

 自信ありげに言った通り、マリアは町のあちこちの店をまわってテオとマルグレーテに服も靴もすべて揃えてみせた。テオはリネンのシャツに上等な生地のベスト、そして彼の脚まで伸びたフロックコートを羽織った。マルグレーテは薄桃色のふわふわした裾が何枚も重なったドレスを着た。広い襟は細かいレースで飾られており、それに似合うアクセサリーも用意されている。
 驚いたテオと恐縮するマルグレーテに、マリアは勝気な笑みを浮かべてみせた。

「私を誰だと思ってるの? ひと昔前だけど、ヨーロッパでそれなりに名を馳せたマリア・クラウゼンよ。蓄えはたくさんあるから心配しないで。それに服や靴は洋裁店から借りるだけ。今回は特別」

 そうして二人を劇場に連れ出してみせたのだった。

 マルグレーテは、その時美しい濃紺のドレスを着ていたマリアの姿が目に焼き付いていた。颯爽とした美しさ、必要な物を揃えるセンスの良さ、そしてそこまでの力を自分で培ってきたという強さ、それら全てが魅力に溢れていた。そして一夜明けた後になっても、マルグレーテはその余韻に浸っていたのである。



 朝の支度を終えたマルグレーテは食堂へ降りた。メイドのロゼッタが何か用意しているようで、調理場の方から音がしている。
 食卓ではすでにテオがパンを食べていた。

「おはよう、テオ」

「おはよう」

 その声に、ロゼッタが気づいたようで調理場から顔を出す。そして「マルグレーテ様おはようございます。少々お待ちくださいね」と言って顔を引っ込めた。
 マルグレーテはテオの隣に座った。

「昨日のオペラは素晴らしかったわね」

 テオはパンをかじりながら頷くだけだ。マルグレーテは続けた。

「久しぶりに劇場の音楽を聞いたわ……歌も演出も良かったし、二階だったからオーケストラもよく見えたわね」

 そう言っているうちに、ロゼッタが温めたスープとパンを持ってきてくれた。

「ありがとう、ロゼッタ」

 ロゼッタは眉尻を下げ、マルグレーテ達の方を見た。

「テオ様やマルグレーテ様はいつも通りで結構ですが、オペラに行った翌日の奥様は決まって夕刻に起き出すんですよ。ご健康に響かなければ良いのですが」

 やれやれと肩をすくめたロゼッタに、マルグレーテはふふと笑みを浮かべた。

「仕方ないわ、だってマリアさんはたくさんシャンパンを飲んでいたもの。私、あんなにたくさん飲む人がいるなんてびっくりしてしまったわ。ね、テオ」

「……あんな高価なものを、わざわざあそこで飲むことにもびっくりした」

 テオもパンを食べ終えた手を払いながらそう言った。ロゼッタは呆れたようにため息を吐いた。

「飲んでいる時は平気なのです。ですが、翌日はいつも気分が悪そうにしておられます。お二人と行けば、もう少し自重なさるかと思っておりましたが、そうでもなかったようですね」

 マルグレーテはスープに口をつけて「おいしい!」と言ってからロゼッタの方を向いた。

「でもマリアさんは立派よ、あんなに飲んでも正気を保っていたし、ふらふらしてもいなかったわ。叔父様なんかいつも真っ赤な顔になって、ところかまわず寝てしまうから困ったものよ」

 マルグレーテがそう言ったのに、ロゼッタの表情が少し心配そうな顔になった。そして言おうか迷っていたようだが、躊躇いながら口を開いた。

「奥様は……結婚なさっていなかったのですね。私はてっきり、奥様は寡婦様なのかと思っておりました。ずっとどなたかを……想っているようでしたから」



 ロゼッタは、マリアが歌手を引退してこのクレモナの町へやって来た時にメイドとして雇われた。ロゼッタにとってマリアはおおらかで接しやすく、ひょうきんな性格をしていたが、あまり自分のことを話そうとしなかった。ただ花が好きだということはわかったので、庭園にはうんと労力をかけているのであった。



「その……エドガー様という方は、奥様を愛しておられるのでしょうか。もしそうでなかったら、あまりにも……」

「愛しているわ」

 ロゼッタが言いづらそうに口にしたのに、マルグレーテはきっぱりと言い切った。

「叔父様は今でもマリアさんを想っているはず。そうじゃなかったら、私にあんな話はしないもの。絶対に叔父様は来るわ」

 力強く自信のある言葉に、ロゼッタは目を丸くさせたが、「そうですか」と先ほどよりも少し安心した表情を浮かべた。




 朝ごはんの後、マルグレーテとテオは町へ散歩に出かけた。
 春の日差しが暖かい。遠くでひばりの鳴く声が聞こえていたが、それは街中へ入ると賑やかな雑踏に紛れていった。
 マルグレーテはテオの隣を歩きながらちらりと彼の手元を見た。今日はバイオリンを持っている。もしかしたら、どこかで弾いてくれるかもしれないわ。マルグレーテは浮き足立つように歩を進めた。

「さっきのことだけど」

 突然テオが口を開いたので、マルグレーテは彼を見上げた。

「絶対に、なんて言って大丈夫か」

 マルグレーテは眉を寄せた。何の話かしら。

「エドガーのことだ。この町にエドガーはほんとうに来るのか?」

 マルグレーテは目をぱちくりさせたが「なあんだ、そんなこと」と笑みを浮かべた。

「来るわよ。私達がここにいなかったとしても、叔父様はマリアさんに会いにくるわ……絶対ね」

 断定して言うマルグレーテをテオは無表情で見つめていたが、「ならいいけど」と肩をすくめた。

「俺は……マルグレーテが追いかけてきてくれるなんて、思ってもみなかったから。エドガーは分別もあるし、歳だってそれなりに……」

「分別ぅ? まあ、テオったら。私には分別がないって言うの」

 マルグレーテがじとっとした目を向けると、テオは「あ、いや、そういう意味じゃなくて」と焦ったような表情を浮かべた。

「その、君は決断してから行動するまで早いだろ。エドガーは歳をとってる分もう少し慎重だし、ずっとウィーンにいたからやらなきゃならないことだってたくさんあるはずで……」

 そう並べ立てて弁解するテオに、マルグレーテはくすりと笑みを漏らした。

「そうね、あなたの言いたいことはわかるわ。確かに叔父様が彼女に会うには、時が経ちすぎたかもしれない」

 マルグレーテは、ちょうど目の前を横切った買い物帰りの老夫婦を眺めた。二人とも腰は曲がっているが仲良さそうにしっかり腕を組んでいる。
 マルグレーテはテオを見た。

「でも、あの叔父様が諦めるなんて思えない。マリアさんの話をしてくれた叔父様は……ほんとうに苦しそうだったもの」

 テオは目を細めた。



 エドガーは、テオがウィーンにいた時、いつも彼に気を遣ってくれていた。冗談ばかり言ってマルグレーテを怒らせたり笑わせたりしていた。夜にテオが楽器の練習をこっそりしても怒らなかったし、劇場関係の人間や貴族らがテオをスカウトするために屋敷を訪ねてきた時も、彼らと会うよう無理強いはしなかった。エドガーはテオのことをよくわかってくれていたのだ。それなのにエドガーの心の内を、俺はちっとも知らなかったんだな。



「エドガーに……早く会いたいな」

 テオが呟くように言うと、マルグレーテも眉尻を下げた。

「ええ、きっともうすぐよ。叔父様が来たら……またバイオリンを聞かせてあげてね。きっと喜んでくれるわ」

 テオは力強く頷いた。



 二人はしばらく街中を歩いた後、広場に辿り着いた。テオはぐるりと辺りを見回した。
 昼前なので、そんなに大勢の人はいないようだ。弾いてもあまり金にはならないかもしれない。
 しかしマルグレーテは乞うような目でこちらを見上げている。彼女は無言でバイオリンを弾いてほしいと訴えているのである。しかし無理に弾いてとせがむと彼が嫌がることもわかっている。だから何も言わないのだ。
 そんなマルグレーテに、テオは破顔すると立ち止まった。

「わかったわかった、弾くよ……何かリクエストは?」

 そう言われてマルグレーテは嬉しそうにその場で飛び上がった。

「うわあっ! 待望のテオの演奏だわ……そうね、この前子ども達が歌っていた曲はどう?」

 テオは「ああ、あれか」と言い、少し困ったような表情を浮かべた。

「君の好みの飾りが……うまくいかないかもしれない」

 まあ。マルグレーテは目を見開いた。

「何を言うの! そんなのどうだっていいわよ。あなたの好きなように弾いてちょうだい。知っているでしょ、私の好みはどんな音楽よりあなたのバイオリンなんだから」

 はっきりとそう言うマルグレーテに、テオは嬉しそうに目を細めて小さく頷いた。そして楽器ケースからバイオリンを取り出すと、調弦を始める。その間に、周りにはもう人が集まってきた。辺りのざわめきが一層増す。
 テオは楽器を構え、すっと無表情になると弓を傾けた。

 流れ出した例の北イタリアの民謡は、以前マリアの屋敷で弾いたような仰々しい演奏ではなく、軽く楽しげな音楽になっていた。それを聞いて、広場にいた見物人達は一緒になって歌い出した。手拍子をする者もいる。
 テオは相変わらずにこりともしなかったが、バイオリンの音色はやはり情熱的だった。そののびのびと弾く様子を、マルグレーテは嬉しそうに見つめていた。

 曲が終わると歓声と拍手が沸き起こり、群衆の輪からはコインが投げられた。人々は楽しげに再びその歌を歌いながら、だんだんと散っていった。

「良い演奏だったわ! 聴き惚れちゃった。一緒に歌ってくれるのも楽しくていいわね」

 マルグレーテがにこにこしながら言うのをテオは口の端を上げて頷きながら聞いていたが、ある視線に気づいてすっと無表情になった。
 マルグレーテも振り返ると、人々が去っていく中で一人だけ、その場に残ってこちらを見つめている者がいる。
 マルグレーテは驚きの声をあげた。

「まあ、あなたは……」

 申し訳なさそうにこちらを見ているのは、あのバイオリンの工房の青年、カルロだった。

「や、やあ」

 カルロの挨拶にマルグレーテは「こんにちは」と返したが、テオはわずかに目を細めただけで何も返すことはなく、しゃがみこんでバイオリンをケースにしまい始めた。
 カルロは歩み寄ってくると言った。

「そ、その、この前はすまなかった。失礼な態度を取った。お詫びにお昼ご飯をご馳走させてほしい……良ければ君も」

 テオに頭を下げてから、後半はマルグレーテに言った。マルグレーテは目を瞬かせたが、微笑みを浮かべた。

「ええ、喜んで……テオ、いいでしょう?」

 テオは閉めた楽器ケースを持って立ち上がる。口をへの字に曲げていたが、マルグレーテの期待のこもった顔を見ると、少しだけ表情を緩めてこくりと頷いた。




 広場に面した食堂で、マルグレーテとテオ、カルロはテーブルに座った。

「カルロのおすすめをお願い」

 マルグレーテがそう言うと、彼は「ええ、どうしようかなあ」と照れたようにメニューを見つめたが、テオの冷たい視線に気づくと表情を硬らせ、すぐに内容を決めて店員に注文した。
 店員が店の中へ入っていくと、カルロはテオとマルグレーテに向き直り、ぐっと頭を下げた。

「その、この前はほんとうに悪かった。嘘をついているつもりはなかったんだ……だけど仕事を頼もうとしている相手にはちゃんと話すべきだった」

 真摯に謝るカルロに、テオはマルグレーテと顔を見合わせたが、咳払いをして言った。

「反省してるならいい……で、あんたは一体何者なんだ」

 テオの問いに、カルロは顔を上げて苦い笑みを浮かべた。

「僕は……」

 言いかけた時、店員がワインを運んできた。グラスにきれいな白い液体が注がれ、その匂いがふわっと漂った。まあ、花の香りのするワインなんて初めてだわ! マルグレーテは嬉しくなって声をあげようとしたが、真剣な会話が始まろうとしているのに今言うべきではないわねと思い、胸のうちに留めた。

 店員が去ると、カルロは続きを言った。

「僕は、前にも言ったようにフランス人だ。父は音楽家で弦楽器を弾いていた。教育熱心だったから……僕はパリの音楽院に入れられた。僕だけじゃない、兄二人も、弟もだ。僕はそこで、演奏や作曲、楽器の製作を学んだ」

 マリアさんが言い当てた通りだわ、テオは羨ましいなんて思っていたりするのかしら。 
 マルグレーテは素朴な疑問を抱いてマルグレーテはちらりとテオを見た。彼はただ無表情でカルロを見つめていた。

 カルロは続けた。

「僕は演奏より作曲より、バイオリンの製作が好きだった。それだけをやって過ごしていけたらって、いつも思っていたよ。でも学校はそんな甘くなかったし、何より父がそれを望んじゃいなかった。毎年実家に帰ると、父は兄弟の中で一番出来損ないの僕を責めた。仕方なかったんだ、兄二人も弟も優秀で、特待生の太鼓判を押されていた。それに引き換え、僕はバイオリンの製作以外はパッとしなかった。父は製作なんて職人のすることはやめて、作曲だけに励めと学校側にも手を回した。それで僕は製作の授業が受けられなくなった」

 マルグレーテは目を細めた。話を聞いているうちに、無意識に自分の父と比べていたのだ。
 
 父シュミット伯爵は恐ろしかったが、できないことを責めはしなかった。もちろん貴族の娘としてやるべきことは山ほどあったが、思えば得意なことや好きなことに没頭することを大目に見て許してくれた気がする。
 ベルタお姉様は詩を作るためにサロンへの出入りが許されていた。ギゼラお姉様はドレスのデザインのために仕立て屋に入り浸っていたし、ロザムンドお姉様は好きなダンスのためにしょっちゅう舞踏会に参加していたわ。
 そして私は? 叔父と劇場にばかり通っていたではないか。お父様自身は音楽がそれほど好きではなかったから、私だけ交渉に少し苦労した気がするけど、それでも叔父様という強い味方がいたし、毎日の食事の席で取り立てて責められることはなかった。
 そう思うと、マルグレーテの心に潜在している父への畏怖が少しだけ和らいだ。

 カルロはさらに続けた。

「好きなバイオリン製作の作業を取り上げられてから、僕は父の言う通り作曲に励もうとした。逆らえなかったし、出来損ないの自分を恥じていたからね。でもだめだった。ある日楽譜を見ていたら、頭が爆発しそうなほどに熱くなった。この時のことはあんまり覚えていなくて、人から聞いて知ったんだけど、僕は錯乱して音楽院を飛び出したらしい……気がついたら川のほとりで、全身ずぶ濡れで倒れていた。たぶん川に落ちたんだろうね」

 カルロは苦い笑みを浮かべながらワインを飲んだ。テオが驚いたように「よく生きてたな」と言うと、カルロはへらっと笑った。

「ほんと、自分でもそう思う。でも、僕は自力で助かったんじゃなくて、ジプシーに助けられてたんだ、起きたところには彼らの荷馬車やらテントがあってね。驚いたよ。それから僕は熱を出したらしいんだけど、彼らがいろいろ面倒をみてくれた。すっかり世話になってしまったのさ。もちろん、ちゃんと歩けるようになったら彼らの元を去ろうと思ってたよ。でもある時、彼らの弾いてたバイオリンにヒビが入って壊れそうになったから直してやったんだ。そしたらひどく感動されてね、一緒にあちこちを旅をしないかだとか、この技術は金になるとかいろいろ説得されて……結局僕は、ジプシー達についていくことにしたんだ」

 その時、店員が料理の乗った皿を運んできた。湯気の立ったトルテッリには引き肉が詰め込まれてぱんぱんに膨らんでいる。マルグレーテはふうふう息を吹きかけてからそれを口にしてみる。美味しいっ! マルグレーテは目の前に同席している二人を見つめたが、カルロもテオも食事よりも話に熱中していた。

 カルロは続けた。

「それからジプシー達についていってあちこち旅して回った。海を渡ることもあったし、砂漠も歩いたよ。どこの町でも弦楽器の修理をするよう頼まれた……それがすごく楽しくて、僕は絶対にパリに戻りたくないって思った。ひっそりとバイオリンを作ったり直したりして暮らしていきたかったんだ。ジプシーにそれを言ったらこの町の話をされた。ここならきっと話題には上らないし、バイオリンを直してほしい人しか来ないだろうって。それで僕はここに来た」

 カルロはようやく話を終えて、グラスに入ったワインを一気に飲み干した。

「ミラノや人の大勢いる都会に行きたくないのは、お父上やご家族に居場所を知られたくないからなのね?」

マルグレーテの言葉に、カルロは頷いた。

「僕がここにいることを知ったら、きっと音楽院に連れ戻される。たとえ一家の恥になろうと、僕はもう……もう嫌なんだ。学校を抜け出した意気地なしだって思われても仕方ないけど、でも僕は……」

 俯いてしまったカルロは、泣き出しそうな声になっていた。音楽院を抜け出したことを恥ずかしく思っているようだった。

「意気地なしなんかじゃない」

 テオがはっきりと言ったのに、カルロは顔を上げた。

「あんたはようやく自分の生き方を始めたんだろ、それは恥なんかじゃない。もっと自信を持て。連れ戻されないように隠れるんじゃなくて、連れ戻す必要がないって思わせるほど、いいバイオリン職人になればいい」

「……いいこと言うね」

 カルロは眉尻を下げてテオを見上げていた。テオは小さく口の端を上げると、ようやく目の前の料理を食べ始めた。
 マルグレーテが「ねえ、カルロ」と言った。

「私もね……実は伯爵家を抜け出してきたのよ」

「伯爵家……?」

カルロの目が大きくなる。

「え、どういうこと、君はそれじゃあ……」

「ええ、私は伯爵令嬢だったの。本名はマルグレーテ・フォン・シュミット」

「伯爵……令嬢……う、うわあ……」

カルロは緊張したような表情になって「かか、か、数々のご無礼、どうかお、おお許しを……」と言ったのに、マルグレーテは軽く笑って「やめてちょうだい」と言った。

「もうあの家に戻るつもりはないのよ。どうしてもお父様と分かり合えなかったの。貴族の娘って窮屈なのよ、貴族の男性と結婚しなきゃならないのだもの。そんなのごめんだわ。私はウィーンを去ってしまったテオを早く追いかけたかったし……」

「ウィーンを去った? 二人で一緒に来たんじゃないの?」

「ええ、私がテオにひどいことをしてしまって……」

 カルロが目をぱちくりさせてそう言ったのに、テオは「マ、マルグレーテ」と会話を止めて咳払いをした。彼女の目を見て、これ以上二人の詳しいことを話してほしくないという目線を送る。

「なによ、いいじゃない。カルロだって自分の話をしてくれたのよ」

「その話はまた今度だ。いいな?」

 テオの力強い眼力に、マルグレーテは「はいはい」と肩をすくめた。
 ほっとしたテオは目の前のワインを飲み干してから言った。

「……あんたの事情はわかった。それで、俺にはどうしてほしい?」

 急に話が戻った。カルロは目をあちこち彷徨わせ、頭をかいたが、ためらいながら言った。

「ええと、その、よかったら工房の宣伝として僕の作ったバイオリンを弾いてほしいんだ。君がこの町にいる間だけでいいし、君が好きな時でいい。もちろん給金は出す。それと、もし楽器に要望があったら教えてほしい、弾きにくいとか、低音が出にくいとか……製作に協力してくれるなら、好きなバイオリンをあげるよ。これはもちろん給金とは別だ」

 まあ、気前の良いこと。カルロの提案にマルグレーテは驚いていた。
 バイオリンは高価だ。もちろん物にもよるが、少なくともマルグレーテがカルロの工房で見た物は、良い素材であると感じた。何よりテオがあれほど弾きやすそうに、そして名残惜しそうにしていたのだ。
 もしテオがこの話を断っても、絶対にあのバイオリンを買ってみせるわ。マルグレーテはこっそり心の中で決意して、最後の一つになったトルテッリを口に入れた。

 テオはしばらく考えていたが、口をもぐもぐさせているマルグレーテを見つめた後、こう言った。

「少し考えさせてくれないか」




 昼食を終え、カルロは工房に戻っていった。少し不安そうにしていたが、テオが「必ずまた工房に行く」と念を押すと、青年は少し表情を緩めて身を翻して去っていった。

 マルグレーテとテオはそのまま屋敷に戻ることなく、ただ歩き続けた。マルグレーテはちらりと横を歩くテオを見た。考え事をしているようだ。顔は前を向いているが、目は遠くを見ている。

 やがて二人は川に出た。流れは穏やかで、町の喧騒も遠い。鳥の鳴き声が聞こえた。

「ずっと考えてた」

 テオがやっと口を開いたので、マルグレーテはぱっと振り向いた。

「でも俺一人で決めることじゃないから、君の意見を聞かせてほしい。その、マルグレーテ。この町に……二人で住んでみないか」

「え……?」

 マルグレーテは目を瞬かせた。

「それは、今後も……叔父様の件が終わった後も、ということ?」

 テオは頷いた。

「この町は大きすぎることもないし小さすぎることもない。都会から距離があるから帝国の手も伸びてない。治安もそんなに悪くないし、物価も安い。マリアだっているし、劇場だってある……ボックス席のチケットは俺には買えないけど」

「で、でも……広場は一つしかないし、観光客はあまり来ないわ。あなたの演奏が……」

 マルグレーテが戸惑ったような顔で言うと、テオは肩をすくめた。

「そうだな。町の連中はそのうち俺のバイオリンに飽きると思う。そんなことは承知の上だ。だからカルロと組もうと思う」

「カルロ?」

 テオは頷いた。

「あいつは良いバイオリンを作る……宣伝がうまくいけば、きっとあちこちから注文を受けることになる。時間はかかるかもしれない……でもそれくらいの技術があいつにはある」

 マルグレーテは驚いたようにテオを見つめた。カルロと話している時にそんな風に思っていたなんて、ちっともわからなかったわ。

「今はまだマリアの厄介になってるけど、そのうち二人で住む家を見つけたいとも思ってる。その……君はどう思う? 君が住みづらいと思っているならやめる。またゆっくり、他の町を探してもいい」

 マルグレーテはテオの瞳を見つめた。マルグレーテを案じる優しい目をしている。
 本気なの? マルグレーテは意外に思った。今まで誰かに雇われるのを嫌い、どこかに所属するのを避けていた彼が、今この町に落ち着こうとしているのだ。

「……小さな家がいいわ」

 マルグレーテは言った。

「あなたのバイオリンがどこにいても聞こえるくらいね。広いと聞こえなくなってしまうもの。一音だって聞き逃したくないわ」

 マルグレーテの言葉に、テオは口の端を上げた。

「わかった、小さい家にしよう。屋根に登って弾いたっていい」

「素敵。私も一緒に登って隣で聞くわよ。この川を眺めながらでもいいわね」

 そう言ってからマルグレーテは、すっと川の方に顔を向けた。流れは穏やかで、太陽の光できらきらと水面が反射している。
 突然の話に頭は混乱していたが、マルグレーテはしばらくしてから「だめよ」と言った。

「テオの……テオのバイオリンの才能はどうするの?」

「才能?」

 テオは目を瞬かせた。川の方を向いたまま、マルグレーテは顔を歪めていた。

「ええ……だって、あなたのバイオリンは素晴らしいのよ。舞台やホールで演奏しているバイオリン奏者の誰よりも、あっと驚くような技術を持っている。ミラノや他の国々でもきっと高く評価されるわ。ほんとうに、ほんとうに、価値ある素晴らしいものなのに……」

 マルグレーテの目尻から涙が溢れて出たのに、テオはぎょっとした。
 マルグレーテは続けた。

「テオの音楽は、たくさんの人に聞いてもらうべきだわ。それなのに都会から離れた小さな町で、しかも自分の演奏のためじゃなく、工房の宣伝のためだけに使われるなんて……なんだかとっても悔しい。テオは旅をしていたのに、私のせいでその音楽が世界に広まるのを止めてしまうなんて……」

 マルグレーテは顔を俯かせ、とうとう両手で顔を覆ってしまった。
 そんな様子の彼女に、テオは頭をかいてしばらくすすり泣く声を聞いていた。

 やがてマルグレーテが泣き止むと、テオは「俺は」と口を開いた。

「俺は……正直、俺自身の才能なんかどうでもいい」

 テオの言葉に、マルグレーテは驚いたように顔を上げ、隣の青年を見た。

「いつか前に言っただろ、俺は音楽を糧にして生きてきたけど、音楽のために生きてるわけじゃない。そりゃあ良い音楽を作り出すのは楽しいし、人に聞いてもらえるのは嬉しい……でもそれだけだ。大勢から評価されたいなんて思ってない。有名になるつもりもないし、なりたいとも思わない」

 マルグレーテが目を見開いたままでいると、テオは優しい顔を向けた。

「君は、俺が旅を好きだと思ってくれてるけど、それは君と出会ったばかりの頃の話だ。今の俺の願いは……君と二人で暮らすことなんだ。俺はこれからも生きるためにバイオリンを弾くし、君のために弾く。それがいいんだ、そう生きていきたい」

 テオは力強くそう言い切った。嘘偽りない、心からの言葉だった。それを悟ったのか、マルグレーテはぽかんと彼を見上げていた。そして急にぶわっと顔を赤くすると、下を向いた。

「……ごめんなさい、テオ」

「いや」

 マルグレーテは自分が恥ずかしくて顔を上げられなかった。
 テオの自分を思う言葉を聞いて、“テオの才能が世間に認められてほしい”と思う自分勝手な己の醜さを恥じたのだ。

「ほんとうに……ごめんなさい」

「いいって。それより帰って、ここに住むことにしたってマリアに伝えよう。カルロには、仕事の条件を考えてから話す」

 テオがそう言ったのに、マルグレーテはただただ頷くだけだった。




 クラウゼン邸への帰路についても、マルグレーテはずっとテオと目を合わせなかった。
 恥ずかしかったのもあるが、驕慢な思いをテオにぶつけていた自分に、ショックを受けていたのだ。


「……ねえちょっと、一体何があったのよ」

 食事の席でも変わらず押し黙った様子のマルグレーテに、マリアはこっそりとテオに尋ねた。

「今後のことについて話してた。俺達もこの町に住むことにした」

「まあ、ほんとうに? そんなに居心地が良かった?」

 マリアは嬉しそうな声を上げて尋ねたが、マルグレーテはこくりと頷くだけだった。スープを静かに飲んでいる。
 マリアは顔を引きつらせ、再び小声でテオに言った。

「ちょ、ちょっと! 全然そんな様子には見えないけど! あなたまさか、無理やり決めたんじゃないでしょうね?」

「無理やりじゃない、賛成してくれた。小さい家に住もうって話もした」

 テオはロゼッタが持ってきたパンを頬張りながら言った。

「嘘でしょう……なんだか絶望に満ちた顔じゃない!」

 テオがあっと思い出したように言った。

「そういえば、今日カルロと会った、あの工房の男」

「えぇっ!?」

「奥様」

 マルグレーテの後ろから、ロゼッタが料理を並べながら冷めた目をして言った。

「会話を挟むようで申し訳ありません。ですが、その “こっそりとした声”は全てこちらまで聞こえていますよ」

「え……」

 マリアは顔を引きつらせた。マルグレーテはようやくばつが悪そうに顔をあげ、小さな声で言った。

「心配かけてごめんなさい。自分がとっても恥ずかしくなっただけなの。テオはなんにも悪くないわ。私はただ、自分がとっても情けなくて……」

「ま……あら、そうなの」

 マリアが力の抜けたような声を出し、テオは「マルグレーテ」と呆れたような声で言った。

「気にするなって言っただろ。君は俺のことを考えてくれてたんだから……いい加減目を合わせてくれ」

 そう言われて、マルグレーテはおずおずと彼を見た。テオの目はどこまでも優しく、目が合うと小さく微笑んでくれた。
 テオは話を戻した。

「……そう、カルロのことだ、マリアが言った通り、パリの音楽院を抜け出してた」

マリアは得意そうな表情を浮かべた。

「やっぱりね! 学生同士でもめたの?」

「いや、父親だ……音楽一家らしくて、無理やり通ってたらしい。ただバイオリンの製作は好きだったから、この町で工房を開くことにしたって言ってた」

 テオは肉を食べながら言った。

「マルグレーテを見て、俺は貴族は生きづらいと思ってたけど、貴族じゃなくても大変なことってあるんだな」

 テオの言葉にマルグレーテは頷いた。昼間思い出した自分の家族に再び思いを馳せ、目を細める。

「好きなように生きるって、幸せなことよね。カルロは私以上に苦しかったと思うわ。私には叔父様という強い味方がいたから」

 マリアはふふっと笑って頷いた。

「確かに、エドガーは生きづらいなんて言葉とは無縁かもしれないわね。居心地が悪かったら、なんとかして改善していこうとする人だったもの」




 夜、皆が寝静まった頃。横になっていたマルグレーテはむくりと起き上がった。そのままベッドを出ると、灯りはつけずに窓辺へ歩み寄り、窓を開けた。
 雲は晴れ、星がちかちかと瞬いている。

 この町に来て、もうすぐひと月経つ。貴族ではない暮らしにもすっかり慣れた。テオと散歩していない時、またテオがバイオリンの練習をしている時は、ロゼッタに卵料理の作り方や洗濯の仕方を教わっている。自分には新しいことばかりで、マルグレーテはその生活をとても楽しんでいた。
 マルグレーテは星を見つめながら、今日の午後のことを思い返した。

 テオが、まさかあんな風に思っていたなんて。
 マルグレーテは、テオが自分のバイオリンを何より一番に優先するだろうと思い込んでいた。そもそも旅先で出会った時、彼がウィーンに行くことに賛成したのは、彼自身の技術のためであったからだ。
 マルグレーテはテオと再会してから、絶対に彼の足枷になるまいと思ってきた。そしてテオの才能を尊重しようと心がけてきた。彼がジプシーと行動したければそれについていくし、旅を続けたいといえば従うつもりだった。
 
 しかし彼の本心は違った。マルグレーテとの暮らしを一番に望んでくれていたのだ。
 考えていた以上にテオが自分を愛してくれていることを知り、マルグレーテは心の中が熱くなるのを感じた。同時に胸が痛くなった。

 自分はどうなのだろう。彼を愛しているから追いかけてきた。それは明白だが、マルグレーテは彼のバイオリンへの思いも強かった。最初は彼のバイオリンに恋をしたのだから。だからそのバイオリンが蔑ろにされるのは嫌だと思い、昼間は涙が溢れた。
 そんな気持ち、私自身を愛してくれている彼に対してとても失礼よね。前にテオは自分のバイオリンを気に入ってくれたのは嬉しいと言っていたけど、それじゃただのファンだわ。
 もちろん、マルグレーテはウィーンにいた時からテオに恋をしていたことも自覚していた。チェロの演奏者アラベラにやきもちを焼いたことも記憶に新しい。それに、彼のバイオリンに一目惚れこそしたが、マルグレーテが貴族令嬢の位を捨てて無我夢中で追いかけてきたのは、彼のバイオリンではなくテオ自身なのだ。

 マルグレーテは唇をぎゅっと噛み締めた。テオは以前よりもしっかりこちらを見てくれている。私はもっとテオに向き合う必要があるのだ。
 世界に彼の音楽を認めてもらいたいと思う心は自分の欲に過ぎない。それこそ貴族の頃に抱いていた傲慢な心だ。広場での彼の演奏で、群衆から投げられたコインに満足できなかったあの頃の自分とは、いい加減に決別する時なのだ。
 もう二度とそんな浅はかな思いは抱くものですか。ただ、まっすぐにテオを愛する。貴族のような思い上がった心はもう捨てるのよ。
 マルグレーテは夜空に瞬く星に、固く誓った。




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