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Rachel

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27. マリア・クラウゼン

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 翌朝、マルグレーテが目覚めた時、荷馬車の中の女達はまだ眠っていた。鳥の声と一緒に、ぐうぐうとあちこちから寝息といびきが聞こえる。
 マルグレーテは身なりを整え、そっと荷馬車から出た。太陽は、林の向こうで半分だけ顔を出しているようだった。
 荷馬車を降りようとしてーーマルグレーテは目を見開いた。焚き火の前で横になっていたはずのテオの姿がない!
 慌ててきょろきょろと辺りを見回す。と、林の向こうから誰かが歩いてくるのが見え、それがテオだとわかったので、マルグレーテはほっと胸を撫で下ろした。
 顔や服が濡れている。どうやら顔を洗ってきたらしい。
 テオはちょうど起きてきたらしいマルグレーテの顔をちらちらと伺っていたが、彼女が「おはよう、テオ」と笑顔で言ったので、テオも「おはよう」と小さく返した。彼が濡れた顔を袖でぐしぐしと拭こうとする様子を見て、マルグレーテは鞄からタオルを取り出した。テオは少し恥ずかしそうにそれを受け取り、ふわふわのタオルで顔を拭く。

「……すぐそこに川がある」

「そう。じゃあ私も顔を洗ってくるわね」

 マルグレーテがテオが来た方へ行こうとすると、テオは下を向きながら「俺も行く」と言ってくれた。

 川の水は澄んでいて、ひんやりと冷たかった。テオが持ってくれていたタオルで顔を拭くと、マルグレーテはもうすっかり目が覚めた気がした。

「川の水っていいわね。なんだか草の香りがするわ!」

 マルグレーテが嬉しそうに言ったのを、テオはぼんやりと眺めながら頷いた。



 ジプシー達のところへ戻ると、ピロシュカが欠伸を噛み殺しながら荷馬車に座っていた。

「あんた達、なんでこんなに朝早くから起きてるのさ……もっと眠ってればいいのに。もう行くのかい?」

 テオは無言で頷き、マルグレーテは頭を下げた。

「お世話になりました、ピロシュカさん。素敵なベッドをありがとうございました」

「それはいいけどさ、みんなは寝てるから見送れないよ。たぶん昼まで寝てる。あたしも眠くて眠くて……」

「皆さんに直接お礼を申し上げられなくてごめんなさい。昨夜はほんとうに楽しかったですわ」

「そりゃよかった。あたしも楽しかったよ……ふわあーあ。そんじゃ、道中気をつけな」

 マルグレーテとテオは欠伸をしているピロシュカに手を振ると、再びクレモナを目指して歩き出した。



 ジプシー達のいた林を抜けると、目の前には荒野と畑が広がっていた。もう日はすっかり昇りきったようで、春らしい陽気だ。
 川はぐねぐねと曲がりくねっているので、二人は地図で方向を確かめながら道になっているところを探して歩いた。
 家も店も人も何もない、つまらない道だ。テオはそう思っていたが、マルグレーテの方は終始にこにことしていて、目に入るものすべてに興味を抱いた。

「見て、テオ! 大きな鳥が飛んでいるわ。高いわねえ」

「まあきれいな花。もうすっかり春なんだわ」

「ねえ、あの雲! まるで馬の形に見えない?」

 マルグレーテの一言一言に、テオは「ああ」だとか「そうだな」と答えていたが、退屈そうだった彼は、だんだんと柔らかい表情を浮かべていた。
 しかし太陽がどんどん高く上がり昼近くになると、マルグレーテも疲れてきたようで、歩みが遅くなった。
 道の先に、大きな木があるのが見えてきたので、テオは「あそこの木陰で少し休もう」と提案すると、マルグレーテは目を細めて「ありがとう」と礼を言った。

 近づいてみると、木陰には先客がいた。古ぼけた帽子の初老の男が、馬に水をやっているようだ。馬が繋がれている荷車には、大きな布袋がいくつか積まれている。
 マルグレーテとテオが歩いてくるのに気づくと、男は馬を促して木陰を半分譲ってくれた。

「ありがとうございます……こんにちは、シニョール」

 マルグレーテがそう言ったのに、男は目を丸くして慌てて帽子を取った。

「シ、シニョールなんて柄じゃないよ……こんにちは」

 マルグレーテとテオは、大きな木の根っこに腰を下ろすと、息を吐いた。

「ふう、ずいぶん歩いたわね。クレモナはもうすぐかしら」

 マルグレーテの言葉に、テオは頷いた。

「あともう何時間か歩けば着くと思う……たぶん。地図で確認しておくか」

「そうね」

 マルグレーテが小さな鞄から地図を取り出そうとした時、馬に水をやっていた男が「あんたら、クレモナに行くのかい?」と尋ねた。
 テオが無言で頷くと、男は言った。

「俺もちょうどあの町に帰るところなんだ。小麦粉の袋の上で良けりゃ、乗っけてってやるよ」

 マルグレーテは目を見張らせた。

「ほんとですか!」

「ああいいとも、ついでだ。歩きよりは楽だし、一時間くらいで着くよ」

「あんた、クレモナの町の人間なのか?」

 テオは警戒したように鋭い目で尋ねたが、男は気を悪くすることもなく頷いた。

「ああ、パン屋をやってんだ。俺が焼くパンはうまいぞ、今頃はかみさんが焼いてるけどな。着いたら寄ってけばいい、うちのパンを買ってくれりゃ、荷馬車に乗る駄賃はちゃらでいいよ」

 初老の男は馬を撫でた。馬も歳を取っているようだが、よく世話されているようで彼に懐いているようだった。
 テオはマルグレーテの方を見た。懇願するような目でこちらを見ている。余程歩きたくないのだろう。テオは吹き出しそうになったが、無表情のまま男の方を向いた。

「わかった、じゃあ頼む」





 荷馬車はガタゴトと音を立てて前へ進んだ。マルグレーテは小麦の袋の上で足を伸ばし、うーんと背伸びをした。空に鳥が高く飛んでいるのが見える。

「ふふ、楽ねえ。歩いてる時より眺めがよく見えるわ……ねえ、テオ?」

 マルグレーテがそう呼びかけたが、テオは眉をしかめたまま小麦の袋に捕まり、座ることに一生懸命だった。馬車は乗り慣れないのだ。バランスを崩して「うわっ」と身体をふらつかせると、パン屋の男は、はははっと笑い声を上げた。

「もっと奥に座らないと落ちるぞ! お嬢ちゃんの方に寄りな」

 テオは口をへの字に曲げたが、言われた通りに少しずつ奥へと身体を移した。マルグレーテに密着するのが恥ずかしくて、テオは少し顔を赤くさせた。
 その時、荷馬車が大きな石を踏み越えたのか、突然ガタンと大きく傾いた。弾みでテオはマルグレーテの方に身体を倒してしまい、彼女の膝の上に顔面から突っ伏した。

「うわっ、ごご、ご、ごめん」

 テオは顔を真っ赤にさせて慌てて起き上がった。しかし、マルグレーテの方は嫌な顔も恥ずかしい顔もせずに、楽しそうな笑い声を上げた。

「ふふふっ、大丈夫? もっと後ろにお尻を置いて、背中をもたれたらいいのよ」

 彼女の笑顔は眩しく、テオは一瞬見惚れたが、荷馬車の揺れにすぐに我に返ると、「そ、そうか」とマルグレーテと同じように後ろに下がった。
 確かに端よりずっと安定している。テオはようやく落ち着いて座ることができたので、ほうっと息をついた。
 景色の方へ目をやると、馬車はいくつもの畑や荒野の間を進んでいた。

「ねえ、パン屋さん、ちょっとお聞きしたいのだけど」

「なんだい」

 ガタゴトと揺れる中、マルグレーテが尋ねた。

「私達、マリア・クラウゼンという女性を探しているの。クレモナに住んでいると聞いたのだけど、ご存知ないかしら」

 パン屋の男は手綱を取りながら頷いた。

「ああ、知ってるとも。クラウゼンってドイツ系の人だろ。町はずれのでっかい屋敷に住んでる」

 マルグレーテはテオと驚いて顔を見合わせた。

「まあ……ご存知でしたか。実は私たち、彼女に会うためにクレモナに向かっているの」

「へえ、そうなのかい。彼女もうちの店のパンをよく買ってくれるよ」

 それからパン屋は続けて驚くべきことを言った。

「金持ちで独り身だから、最初は死んだ夫の遺産でも溜め込んでるのかと思ってたけど、元は有名な歌手だったんだってね。今は町の子ども達に音楽を教えてるよ」

 マルグレーテとテオは驚いて、再び顔を見合わせた。
 彼女は結婚していない! マルグレーテはどきどきする胸を押さえた。



 男が言った通り、荷馬車は一時間ほどでクレモナの町に着いた。
 パン屋の前まで来ると、マルグレーテとテオは小麦袋の上からひょいっと降りた。テオは足がガクガクするのを感じて、膝をしきりに気にしていた。

「ありがとうございました。とっても助かりました」

 マルグレーテが礼儀正しく頭を下げると、パン屋は照れたように「いやいや」と手のひらを見せ、後ろのパン屋を親指で指した。

「ここが俺の店だ。絶対うまいから買ってってくれよ」



 香ばしいパンを買った二人は、それにかぶりつきながら、ミラノの劇場オーナーにもらったマリア・クラウゼンの屋敷の住所を確認した。パン屋が言うには、この中心街から少し離れたところに、クラウゼン邸があるらしい。
 パンを食べ終わると、二人は住所を頼りに町を歩いた。クレモナの町は密集したようにそれぞれの建物の距離が近く、テオはこの町の広場はたくさんあるわけではなさそうだなと歩きながら思った。それでもあちこちからは誰かが歌っていたり、楽器を演奏していたりする音が聞こえてきた。
 二人はどんどん町はずれの方へと進んでいった。

 町の中心街の喧騒からは離れ、静かな通りを歩いていき、ようやく一軒の黒塗りの門の前で足を止めた。

「ここ……?」

 マルグレーテは門の中の屋敷を見上げた。シンプルだが、堂々とした門構えの屋敷だった。目の前に広がる庭が美しく見える。
 庭では黒髪の女が植物の手入れをしているようだった。

 マルグレーテはテオと顔を見合わせて頷くと、門の前から女に声をかけた。

「すみません、ちょっとお聞きしたいのですが」

 女は振り向いた。姉のベルタよりももっと年嵩ーー中年に差し掛かる手前に見える。
 彼女は立ち上がると、こちらに歩み寄ってきてくれた。

「なにか?」

 彼女の問いかけに、マルグレーテは緊張しながら尋ねた。

「その……こちらはマリア・クラウゼン様のお屋敷でしょうか」

 女は頷いた。

「そうですが、あなた方は?」

 ほんとうにここだったのだわ! マルグレーテは嬉しさに顔を輝かせてテオを見た後、言葉を選びながら答えた。

「私はマルグレーテと申します。その、不躾な願いですが、マリア・クラウゼン様に直接会って、ぜひお話したいことがあります。とても大切なことなのです。どうかお取り次ぎしていただけますでしょうか」

 女は眉を寄せていたが、マルグレーテの丁寧な言い方に、女は少し考えてから「わかりました、奥様にお伺いして参ります」と言うと、屋敷の中へ入っていった。
 マルグレーテはテオの方を振り向いて、不安そうな声で言った。

「お会いしてくださるかしら。こんな身なりだからと追い出されたらどうしましょう」

 テオは肩をすくめた。

「そしたら、俺がここでバイオリンを弾くさ。静かなところだから、たぶん屋敷の中でも聞こえる。調子っぱずれに弾けば、耳障りだって文句を言いにここまで降りてくるよ」

「テオったら」

 マルグレーテはテオの冗談に小さく笑い、門の格子から庭を伺った。
 花壇にはポピーやクレマチス、ルピナス、チューリップなど、色とりどりの花々が咲いていた。春の花を揃えたらしい。先ほどの黒髪の女がいたところには、スコップや手袋、バケツなどが置いてある。彼女が世話をしているのね。
 しばらく待っていると、女が戻ってきた。彼女は門の前まで来ると、ガチャンと扉を開けて「どうぞ」と中へ入れてくれた。

「奥様は客間でお待ちです、ご案内いたします」

 彼女の声は無機質であったが、所作は丁寧で、マルグレーテとテオに対して礼を尽くしていた。
 屋敷の中も花壇のように手入れが行き届いており、あちこちに花が飾られていた。
 二階へ上がり、扉が開いている部屋の前まで来ると、案内してくれた女が立ち止まった。おそらくここが客間だろう。

「奥様、お客様を連れてまいりました」

「ありがとう」

 女の呼びかけに、部屋から返事が帰ってきた。中に、屋敷の主がいるらしい。
 女が「どうぞ、お入りください」と言ってくれたのに従って、マルグレーテとテオは緊張の面持ちでに入った。

 客間は淡いグリーンで統一されており、茶色のテーブルや椅子とよく合っていた。
 テーブルの前には、薄茶色の髪をまとめた女が、濃紺のワンピースに身を包んで立っていた。歳は中年半ばといったくらいだろうか。はしばみ色の瞳がこちらを向いた。

「いらっしゃい。ごめんなさい、どこかでお会いしたことがあったかしら」

 はっとするような、美しい声だった。マルグレーテはテオと一瞬だけ顔を見合わせると、礼儀正しくお辞儀をした。

「いいえ、突然お邪魔して申し訳ありません、お初にお目にかかります、マルグレーテと申します。こちらはテオです」

 紹介されてテオは小さく頭を下げただけだったが、マルグレーテがスカートの裾をするのつまみ、右足を後ろに下げたままでいるのに、女主人は笑みを浮かべた。

「まあまあ、こんな挨拶は久しぶりだわ。でも、かしこまらなくて大丈夫よ、私はマリア・クラウゼン。マリアと呼んでちょうだい。どうぞよろしくね」

 女主人がそう名乗ったのに、マルグレーテは心が震えるような思いで顔を上げた。
 マリア・クラウゼンは言った。

「昔のファンの方ではなさそうね。私に用があるようだけど、一体何かしら」

「は、はい……その」

 マルグレーテは拳をぎゅっと握った。言うのよ、そのためにテオとここまで来たのだから。

「その……ウィーンの貴族、エドガー・ゲルハルト・フォン・シュミットという人物を、覚えておいででしょうか」

 マルグレーテの言葉に、マリアは驚いたように目を丸くさせた。瞳は動揺したように動いている。

「ええ。エドガーね……ええ、もちろん、もちろん覚えているわ、ウィーンでずいぶんお世話になった人だもの。でも、どうして?」

 マリアは戸惑うような視線をこちらに向ける。マルグレーテはゆっくりと落ち着いた調子で言った。

「彼は、私の叔父です。エドガーは私の父、シュミット伯爵の弟です」

「まあ……まあまあ!」

 マリアは丸くした目を見張らせた。

「あなたが、エドの姪ですって?」

 マルグレーテは「はい」と頷いた。マリアは考えを巡らせながら呟くように言った。

「でも、あなたがエドの姪なら、ウィーンの貴族のお嬢さんよね? 一体どうやってここまで……?」

 マルグレーテは苦笑してから、「それは、話せば長くなります」と肩をすくめた。





 マルグレーテとテオは、マリア・クラウゼンの勧めで長椅子に座った。
 最初にここまで案内してくれた黒髪の女は、この屋敷でメイドをしているらしかった。客人と女主人にお茶を淹れてくれた彼女は、ロゼッタと名乗った。

「ロゼッタは私の代わりに掃除や家事をしてくれるの。お花を育てるのがうまいのよ」

「奥様は時々なんでもご自分でやってしまおうとなさるので、少々困る時がありますが」

「いいじゃない、あなたしか雇ってないんだから」

「え……ロゼッタさんだけなのですか? こんなに広いのに?」

 マルグレーテは目を瞬かせた。ここまでの広さのある屋敷には、当然執事やメイド、料理人が揃っているものだとばかり思っていた。
 マリア・クラウゼンは肩をすくめた。

「使っていない部屋ばかりなのよ。三階なんて、もう六年も上がってないわ」

「ですから子ども達におばけ屋敷だなんて言われるんです。いい加減に掃除をさせてください……あそこに何があるかも教えてくださらないし」

 ロゼッタがそう文句を言ったのに、マルグレーテは何があるのかと興味を持ったが、マリア・クラウゼンは意味ありげに微笑むと、ただ「内緒」とだけ言った。

 ロゼッタがお茶を用意してから部屋を去ると、マリア・クラウゼンはマルグレーテとテオに向き直った。いくらか緊張している表情が窺える。

「さあ……話してちょうだい。エドガーの姪御さんが一体どうやってここまで来たのか……それになぜ来てくれたのか、とても気になるわ」

「はい。ええと、まずは……私が叔父と旅行に来た時のことから」

 叔父のことを話す前に、マルグレーテはまず自分とテオのことを話さなければならないと思った。叔父が自分に昔話をしてくれたのは、それがきっかけなのだから。
 マルグレーテは、テオとの出会いやウィーンでの出来事、身分の事、父親の事、婚約の事などを包み隠さず話した。マリアはそれを興味深そうに、あるいは懐かしそうに聞いていたが、その横にいたテオは少し恥ずかしそうにそっぽを向いていた。
 テオがウィーンを去った話をした後、マルグレーテはようやく叔父からマリア自身の話を聞いたことを伝えた。この昔話でエドガーが自分の背中を押してくれたことは、マルグレーテにとって大きなことだった。叔父の後押しがあったからこそ、マルグレーテは旅に出てテオと再会できたのだ。

「……叔父は未だに結婚していません。私が知る限り、誰ともお付き合いしていません。ただひたすらに、ウィーンの音楽と共に生きているので、みんなに変わり者と言われています。ですが叔父のおかげで成功した音楽家は数えきれないほどです。演奏会に行くと、いつも良い席が用意されているし、音楽家の人達とも親しげに話をしておりました」

 マルグレーテが一度言葉を切ると、マリアは目を細めて笑みを浮かべた。

「そう、そうなの……彼はずっと……ずっとあの町の音楽を支えてくれていたのね。それに、誰とも結婚していなかったなんて……ふふ、ばかね。嘘みたい」

 そう言って目を細めると同時に、涙がつうっと流れた。美しい泣き方をする人だわ。マルグレーテはぼんやりそう思った。

「……叔父はずっとマリアさんを愛しています。ですが、マリアさんが言った“ウィーンの音楽家を育て続けてほしい”という言葉を頑なに守っているので、ずっとマリアさんに会いに行けずにいます。もしマリアさんの中で叔父への気持ちが少しでも残っていたら、どうか、どうか叔父と会っていただけないかと……いえ、せめて手紙だけでも、書いてはいただけないでしょうか」

 マリア・クラウゼンは目を閉じて、息を吐いた。昔のことを思い出しているようだ。
 叔父がマルグレーテに話してくれたのはたったほんの一欠片に過ぎない。二人にはもっともっとたくさんの思い出があったはずだ。突然予告もなく訪れて、混乱させてしまったかしら。マルグレーテは少し申し訳なく思った。
 やがてマリアは目を開けた。

「……もうとっくに、エドは私のことなんか忘れてしまっていると思っていたわ。二十年以上も前のことだもの。でも……彼はずっと、私との約束を守ってくれていたのね」

 マリアは少し俯いたが、すぐに客人の方を向いて笑顔を見せた。

「私はね、何度も結婚しようとしたのよ。ウィーンを離れて、ミラノに来て、名前が売れてからたくさんの求婚者に囲まれた。貴族の人も、庶民の人も、同じ舞台に立つ俳優もいたわ。嬉しかったけど……でも結局、誰とも結婚しなかった。できなかった。みんなをエドと比べていたのね。それに、どこかでこう思っていたのかも、彼にはウィーンの町と結婚しろと言ったのに、自分が他の誰かと結婚なんて、できる立場じゃないってね」

 マリアは二人から目を逸らし、遠くを見た。

「当時の私は、貴族として力のある彼を私だけが独り占めしてはだめだと思っていたの。だってエドガーは、身分も何の後ろ盾もない平民の女を帝都で一番の売れっ子に仕立て上げたのよ。とんでもない人だわ。あそこまで力のある人に、身分を捨てるなんて絶対にさせたくなかった。あの町の音楽には、彼が必要だったの。だから……後悔はしていないわ」

 マリアが苦しそうな表情を浮かべたのを見て、マルグレーテははっきりと言った。

「マリアさんが叔父をウィーンに留まらせてくれたからこそ、私は今のウィーンの音楽と出会うことができました。今では叔父以外にも、劇場にはたくさんの貢献者がいます。庶民でも演奏家として有名になる方も増えました。叔父の志、いいえ、マリアさんの志は多くの人々の共感を呼んでいますわ」

 マルグレーテの言葉に、マリアは彼女を見て「ほんとうに?」と笑みを浮かべ、涙を溢れさせた。

「それなら……私のあの時の決断は、間違いじゃなかったのね……嬉しい。ああエド、ありがとう」

 そう言ってすすり泣いたマリア・クラウゼンに、マルグレーテは自分のハンカチを差し出した。マリアが「ありがとう」と言って受け取る。

 その様子を横から見て、テオは目を細めた。
 他人事とは思えなかった。彼女は苦渋の決断をしたに違いないーー自分がそうしたように。
 テオ自身は不器用だったためにマルグレーテにさよならも言わずにウィーンを発ったが、マリア・クラウゼンはエドガーにやるべき仕事を課した。そうすることで、エドガーは絶望せずにすんだのだ。
 今となってはそれが枷になってしまっているが、当時のエドガーにとって、ウィーンの音楽家を育てるという仕事は、生きていく上でも心の支えになっていたのだろう。そしてそのおかげで、今のウィーンの音楽があるのだ。
 だが、マリア・クラウゼンの方は後悔こそしていなかったが、長いこと胸を痛めていたはずだ。誰とも結婚しなかったのはその証拠だ。エドガーを思い出しては自分自身を戒めていたのだろう。テオはそう確信づいていた。マルグレーテが追いかけてきてくれなかったら、きっと自分もそうだったのに違いないからだ。

 マリアは涙を拭うと、呟くように言った。

「……会いたいわ、エドガーに。もし彼が、まだ私を思ってくれているのなら、また彼に会いたい」

 それを聞いて、マルグレーテは嬉しそうに笑みを浮かべた。

「叔父もきっと喜びます。今日はこれから彼に手紙を書こうと思っているの。マリアさんも、ぜひ一緒に出しましょう」



 外はすっかり日が暮れてしまっていた。マリア・クラウゼンは夕食と一緒に、マルグレーテとテオにそれぞれ部屋を提供してくれることになった。

「ロゼッタに頼んで、二人の寝室を掃除してもらったわ。長旅で疲れてるでしょうから、ゆっくりしていってね」


 夕食は温かな家庭料理だった。煮込まれたブロードや柔らかい肉は、旅で疲れたマルグレーテとテオに活力を与えた。
 食事をしながらマリアは言った。

「それにしても、マルグレーテは勇気があるのね。テオを追いかけようなんて、伯爵令嬢がよく決断したものだわ」

 マルグレーテは照れたように笑った。

「私はきっと貴族に向いていなかったの。父が怖かったから最低限のことはしていたけど、きちんとした姉達から見たら、ひどかったはずです。いつも叱られてばかりでした。でも、叔父様の影響も大きいのよ」

「確かに、あなたならきっとエドガーと仲が良いでしょうね。彼も貴族らしくない人だったわ」

 マリアはふふっと笑うと、今度はテオに言った。

「テオはエドガーの屋敷にいたんでしょう? 朝はいつも不機嫌だったかしら」

 テオは驚いたように目を瞬かせてから頷いた。

「初めてエドガーと会ったのが朝早かったから……印象はものすごく悪かった」

 テオの返答に、マリアはくすくす笑った。

「昔からそうなのよ。私も朝は彼と会うのを避けたわ……そうだわ、一緒に演奏会にも行ったって言ってたわね?」

テオは頷いた。

「よく行かせてもらってました。マルグレーテと三人で劇場に……」

 テオはそこまで言って言葉を途切らせてから、もしやと思ったことを口にした。

「彼は支度に……何時間もかかってました」

「やっぱり!」

 マリアは嬉しそうに言った。

「まあ、叔父様ったら、若い時も用意に時間をかけていたのですか?」

 マルグレーテが驚いたように言うと、マリアは笑いながら頷いた。

「そうよ。私もいつも待たされたわ、公演はいつもギリギリだった……」

 マリアは過去に思いを馳せて一瞬遠い目をしたが、すぐ思い出したように言った。

「ねえ、演奏会の最初は大体いつも賛美歌でしょ? その時エドは……」

「「「いつも寝てる!」」」

 三人は同時に言って、顔を見合わせると笑い声を上げた。





 夕食の後は、そのまま食堂で手紙を書くことにした。マリアとマルグレーテがペンを走らせている横で、テオはバイオリンの手入れをしていた。マリアが新しい松脂を用意してくれたのでそれを使っていた。

 しばらくして、マリアが書いている手を止めて言った。

「二人にお願いがあるの」

 マルグレーテとテオは作業を中断させて、なんだろうと女主人の方を見た。
 マリアは真剣な表情で言った。

「エドガーには、できればこちらに来てもらいたいと思っているの。もちろん、彼が私に会ってくれるかわからないけど……私、一人で彼に会うのが怖いのよ。逃げ出してしまうかもしれない。だからね……一緒に会ってくれないかしら。その……もし良ければ、エドが来るまでここにいてほしいの。それが難しかったら、せめて、手紙の返事が来るまで。お願いよ」

 懇願するような言い方に、マルグレーテとテオは顔を見合わせた。

「もちろんですわ。できれば私も、叔父に会いたいもの……ね、テオ?」

 マルグレーテの言葉に、テオも頷いた。

「エドガーにも会いたいし、俺達としてもずっと旅をしていたから、休ませてもらえるのはありがたい」

 マリアはいくらかほっとしたような表情を浮かべた。

「ほんとうに? よかった……ありがとう」

 マリアは再び書きかけの便箋に目を落とした。話はそれで終わったかのように、再び沈黙が流れる。テオは楽器の手入れを終えて、今度は調弦を始めた。
 一方マルグレーテは、マリアが眉を寄せて迷いながら一生懸命に文を綴っている様子を、じっと見つめていた。

 再会するのが怖い。その気持ちはマルグレーテにもよくわかった。絶対にテオを見つけ出すと心に決めたはいいものの、彼と再会する前は自分も不安に押しつぶされそうだったのだ。それに恐ろしい夢も見た。
 きっと彼女も同じなのだわ。マルグレーテは口を開いた。

「マリアさん」

 呼ばれてマリアは顔をあげた。マルグレーテは言った。

「私は叔父から直接あなたの話を聞きました。叔父はあなたを愛しています……今でも。あなたからの手紙が届けば、きっとすぐに来てくれるわ」

 マルグレーテの力強い言葉に、マリアは眉尻を下げ目を細めた。

「そう……そうよね。ありがとう、マルグレーテ」

 それから二人が手紙を書き終えると、テオは一曲だけバイオリンを弾いた。シュタンマイアーが作曲した、エドガーお気に入りのアダージョの短調だった。
 知っている曲なのか、マリアがそれを聴きながら涙ぐんでいるのをマルグレーテはこっそりと見た。

 叔父様、クレモナに来なきゃだめよ。ずっと叔父様を想っている人がここにいるんだから。鎖はもうとっくに錆びついて外れていたのだから、絶対に来なきゃだめよ。





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