Bravo!

Rachel

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22. 雪道の列車

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 マルグレーテは眩しさに目を覚ました。窓の外が明るい。いつのまにか朝になっている。
 寒さに身を震わせ、マルグレーテは寝返りを打った。視線の先にテーブルが目に入り、手紙が置いてあるのが見える。ああそうだ……昨日の夜に手紙を書いたのだ、叔父に宛てて。何の報告を?
 マルグレーテはあっと声を上げそうになってがばっと上半身を起こした。
 テオ! そうだ、昨日テオと再会したのだった。ちゃんと隣の部屋にいるのかしら、まさか、もうとっくに発ってしまったなんてことは……!?
 焦る気持ちで寝巻のまま部屋を飛び出し、隣の部屋をドンドンドンとこぶしで叩く。

「テオ、テオ、いるの? 入るわよっ!」

 返事も待たずに思い切り扉を開ける。

 開けた先には、もちろん例の人物がいたーー上半身に何も身につけていないままで。
 どうやらちょうど着替えている最中だったらしい。開けたのと同時に彼と目が合った。
 目を見開いたまま動作を停止させているテオに、マルグレーテはほっと胸を撫で下ろしたように笑みを浮かべた。

「よかった……テオがいる」

「あ、あたりまえだっ! いいからさっさと扉を閉めろっ!」

 顔を赤くしたテオの罵倒に、マルグレーテは慌てて言う通りにした。だが、にこにこするのはやめられなかった。
 テオがすぐそこにいる。昨日の出来事は夢じゃないんだわ。マルグレーテは嬉しそうに鼻歌を歌いながら自分の部屋へ戻った。




 支度を終えたマルグレーテは荷物をまとめた。そして今度はきちんと着替えた状態で、テオの部屋の扉を静かに叩くと、口をへの字に曲げたテオが出てきた。

「カフェに行かない? お腹がすいたわ」

 テオは不機嫌そうに無言で頷き、マルグレーテとは目を合わせずに、すたすたと先を歩いていく。マルグレーテは彼の態度に首を傾げたが後に従った。

 昨夜は雪がちらついていたにもかかわらず、今日は太陽が明るく、その日差しから急に暖かな春がやってきたように感じた。
 二人は言葉を交わさないまま、一軒のカフェに入った。
 マルグレーテはパンを選び、温かな紅茶を頼んでからテーブルに座る。テオはコーヒーを頼んだ時に言葉を発しただけで、あとはずっと無言だった。マルグレーテの視線にも反応を返さず目を逸らしたままだ。やがてコーヒーが運ばれてくると、テオはそれを一気に飲み干そうとした。

「あっ、テオ、熱いからゆっくり……」

「うぁあっつっ!」

 テオはガンッと音を立ててカップを置くと左手で口を押さえた。案の定、やけどしてしまったようだ。

「大丈夫……?」

 テオは口を押さえたまま眉をしかめて頷いた。
 マルグレーテはカウンターまで行き、水をもらうとテオに渡す。テオはそれを受け取ると口に含んで飲み干した。

「……ありがとう」

 テオがこちらを見てそう言ったのにマルグレーテは笑みを浮かべた。
 やっとこっちを見たわね。マルグレーテはテオの前の席に座り直すと真剣な表情になって言った。

「テオ、聞いて。実はね、相談があるの。今後のことなのだけど……その、もしテオが良ければ、会ってみたい人がいるの」

 テオは不審げな表情を浮かべた。

「会ってみたい人? だけど、君は、俺に会うために旅してたって……」

 そこまで言ってからテオは少し恥ずかしくなり、言葉を途切らせた。マルグレーテは頷いた。

「ええ、もちろんあなたに会うのが目的よ。ただ、ちょっと気になることがあって……マリア・クラウゼンという名前、聞いたことはある?」

「マリア・クラウゼン? 知らない、誰なんだ」

 眉を寄せたテオに、マルグレーテは答えた。

「有名なソプラノ歌手らしいわ。彼女は……叔父様の昔の恋人なの」

「エドガーの?」

 わずかに驚きの表情を浮かべたテオに、マルグレーテは叔父から聞いた話を全て話した。エドガーがなぜウィーンの音楽家達を支援し続けているのか。なぜ劇場でいつも良い席が提供されていたのか。なぜひとりで暮らしているのか。

「……叔父様はずっとマリアさんに会えないでいるのよ、彼女を今でも愛しているのに。だから、もし彼女に会えたら叔父様のことを話したいと思っているの。できれば二人を引き合わせたい。もちろん勝手な話だということは承知よ、余計なお節介かもしれない。でも……」

 テオは目を細めて話を聞いていた。マルグレーテは続けた。

「私はテオを追いかけることができたけど、叔父様はできなかったでしょう。私がここまで来れたのは叔父様のおかげだから……何かしてあげたくて。昨日叔父様に手紙を書いている時、そう思ったの」

 テオは小さく頷いてから言った。

「その、マリア・クラウゼンって歌手はどこにいるのかわかってるのか」

 マルグレーテは眉尻を下げた。

「わからないの。叔父様の話ではミラノで有名になったらしいのだけど……昔のことだから」

 マルグレーテは自信なさげに俯いたが、テオは「わかった」と言った。

「ひとまずミラノに向かおう。劇場を訪ねてみてもいいし、客に尋ねてみてもいいかもしれない」

 テオの快い返事に、マルグレーテは拍子抜けしたように言った。

「……いいの? テオは、ほんとうはすぐにでも、もっと南へ行きたいのでしょう」

 テオは変なものを見るような目でマルグレーテを見た。

「……そういうところには気を遣うんだな」

「あら、私はいつだって気を遣っているわ」

「嘘つけ。それなら今朝、返事も待たずに扉を開けて男の着替えを覗いたのはなんだ。伯爵令嬢のすることじゃないぞ」

 ギロっと刺すような目を向けたテオに、マルグレーテは怯むことなく肩をすくめた。

「まあ、機嫌が悪いと思ったらそんなことを気にしてたのね。大丈夫よ、なあんにも見ていないから」

マルグレーテの言い方に、むっとしたテオは思わず声を荒げて言った。

「な、なんにもってなんだよ、なんにもって! そんな言い方も失礼だぞ、貴族ならそういうところに気を遣うべきなんじゃないのか」

「おあいにくさま、もう貴族じゃないのよ。ただの平民なんだから」

「なっ……そ、そうかもしれないけど……いや、そんなことは今は関係ないだろ! 話を逸らすな。よく聞け、貴族であろうとなかろうと、着替えの最中に部屋に入るのは金輪際やめるんだ、いいか!」

 テオが説教するように言ったのをマルグレーテはぽかんと見上げていたが、やがてくすくすと笑い出した。
 テオは眉を寄せた。

「何がおかしい? 俺は真面目に言って……」

 テオはそこで言葉を途切らせた。
 マルグレーテが笑いながら目から涙を流していたからだ。な、なんだ、泣くほどおかしかったのか。いや違う、俺の言い方が強かった?
 テオが戸惑っていると、マルグレーテは涙を拭ってふふふと笑った。

「ごめんなさい、なんだか懐かしくて。またこうしてテオと話せることを、ずうっと夢にみていたから。すごく……すごく嬉しいの」

 テオは驚いたようにマルグレーテを見つめた。

「……マルグレーテ」

「いつも思い出していたの、あなたと過ごした日々は一つも忘れられなかった。あなたと再会できて、ほんとうに幸せだわ」

 マルグレーテが目を潤ませて言うと、テオも表情を和らげた。二人は少しの間沈黙して見つめ合っていたが、やがて「わかったよ」とテオが言った。

「俺だって、エドガーには良くしてもらった。彼の役に立てるならなんでもしたい。もう冬も終わる……ミラノだって、どこへだって行こう」

「ありがとう、テオ」

 マルグレーテは目の前の青年を愛おしそうに見つめ、テオも真面目な顔で頷いた。

「あ、そうそう」

マルグレーテは思い出したように言った。

「次から扉はノックの返事を待ってから開けると約束するわ」

 テオは片眉をあげると小さな笑みをこぼした。

「絶対だぞ」





 ウーディネの駅でミラノへの行き方を尋ねると、鉄道の乗継ぎと馬車移動をしなければならないらしかった。マルグレーテとテオは、ウーディネからまずヴィチェンツァに向かうことにした。

「エドガーへの手紙にはなんて書いたんだ」

 列車に揺られながら、テオが向かいに座るマルグレーテに尋ねた。

「もちろん、あなたに会えたことよ。あとはエンマのことがどうなかったかってことと……あ、私達がウーディネにいることと、西側のイタリアに行きたいと思っていることは伝えたわ……マリアさんのことは書いてないけど」

 テオは目を細めたが、「そうか」とだけ言うと、窓の外に視線を移してしまった。

 彼の態度は相変わらずそっけない。それは出会った時からそうだとわかっていることだ。嫌だと思った人間とは関わろうともしないので、少なくとも嫌われていないことは確かだ。だが旅に慣れていない自分が、自由を好むテオの重荷になるかもしれないということも事実だった。ウィーンにいた時、彼が自分のために自由を捨てるか悩んでくれたことを、マルグレーテは忘れてはいなかった。

「ねえ、テオ」

 マルグレーテはまじめな顔で言った。

「私、あなたの足手まといになるつもりはないの。少しでも邪魔だとか、何かが嫌だと思ったら言ってちょうだい。でも、あなたのそばにはいさせてほしいの。ウィーンに帰りたいなんてこれっぽっちも思ってない。ほんとうよ、だから」

 マルグレーテの声は不安げだった。テオはわずかに目元を柔らかくして言った。

「わかってる。マルグレーテのことを邪魔になんか思ってない。ウィーンに返すなんて考えてないし、第一……」

 テオはマルグレーテから目を逸らして言った。

「君を突き放すなんてこと、俺ができるわけないだろう。君が……そこまで犠牲を払ってくれたのに」

 照れた様子のテオの言葉に、マルグレーテは心が温かくなるのを感じた。

「……犠牲を払っていると思ったことなんて、一度もないわ」

 マルグレーテはそう言ったが、テオは窓辺に目をやったまま答えなかった。

 ほんとうだ。マルグレーテ自身、伯爵令嬢としての地位を捨てたこと、ウィーンの町を出たことを犠牲などとは思っていなかった。確かに劇場のボックス席に座れないことや家族に会えなくなることは悲しいことであったが、それよりもテオと共にいることの方が何より大事だった。
 ウィーンの音楽を愛していた自分がそんな風に思うなんてと不思議ではあったが、その思いは確かで、それほどマルグレーテの心はテオで埋め尽くされていた。まだ一年も一緒に過ごしていないのに。
 マルグレーテがふふっと微笑みかけると、テオは眉を寄せてこちらを見た。その視線さえも愛しく思える。

「テオ、大好きよ」

 思いがけない言葉にテオは目を丸くしたが、瞬時に赤面し「なんだ、急に」と顔を歪め、再びぷいと窓の方を向いてしまった。

 それからしばらく二人は言葉を交わさずに、ただ同じ窓辺の外を見つめ続けた。と言っても、この辺りはほとんど雪景色である。山すそは雪ばかり残っていて、一面真っ白だった。
 しかしマルグレーテの目には、今まで一人で旅してきた時の景色と全く違うように見えていた。
 雪がこんなにきらきらと輝いているなんて知らなかった。林の木々の枝がこんなに生き生きとしていることに気づかなかった。枝に生える新芽が香るような気がする。雲の間からその存在を知らせる太陽の淡い光さえ、七色に光って見えた。マルグレーテは、向かいにテオが座っているという幸せを噛み締めていた。





 テオは、顔を輝かせて窓の景色を眺めているマルグレーテをちらりと盗み見た。
 まさか彼女がここまで一人で追いかけてくるとはテオは夢にも思っていなかった。急に大好きよと言われた時は心臓が飛び跳ねたが、彼女にばれていないだろうか。

 ウィーンにいた時から好意を持たれていることはわかっていたし、頬にキスをしてくれたことも、他の娘に嫉妬したと言っていたこともあった。
 しかし彼女が貴族の息子と婚約すると、よく届いていた楽譜付きの手紙が途絶え、演奏会にも来なくなった。あげくにもう会わないでくれという侍女の言葉とともに、マルグレーテ自身から謝罪の伝言が来た時は、彼女がもう自分の事を忘れてしまおうと思っているのだと思った。
 まだ出会ったばかりの時、マルグレーテは父親には逆らえないと苦しそうに話していた。だから確実にその貴族男性と結婚するのだろうとテオは確信していたのだ。
 それなのに彼女は父親を裏切り、音楽で溢れていたあの大好きなウィーンの町を出た。そうして雪の中、たった一人で、このしがない辻バイオリン弾きを探していたのだ。


 テオはマルグレーテの方を向いた。目の前の彼女は、貧しい粗末な服をまとい、頭に被せられた布の下の髪の毛は傷んでいるように見えた。ウィーンで見たときのような、お嬢様然として近寄りがたかった部分がなくなっていた。
 正直なところ、この元伯爵令嬢が自分のような生活を続ければ身体を壊してしまうだろう。かといって、ここまで追いかけてきてくれた彼女を手放す気はさらさらなかった。

「マルグレーテ」

 呼ばれてマルグレーテは窓から目の前の人物に顔を向けた。

「昨日一晩考えたんだ。俺は君と離れるつもりはない。でも貴族として育てられた君が、俺のようにずっと旅をして暮らすというのは、実際難しいと思う」

 その言葉にマルグレーテは顔を青くさせた。

「そんなっ! できるわ、私はどんなに疲れたって平気、森だって歩くし、野宿だってする……」

「わかってる」

 テオは手の平を見せて遮った。

「君の気持ちはちゃんとわかってるよ。修道院に入る直前に抜け出して、ここまで一人で来たんだろ、なんだってやるつもりだってことは十分わかってる。ただ俺は、旅にこだわらなくてもいいんじゃないかって思ったんだ」

「旅にこだわらなくても? でも、あなたは自由に旅をするのが好きで……」

 マルグレーテの言葉に、テオは穏やかな笑みを浮かべた。

「俺は……バイオリンを好きな時に好きなように弾けるんなら、それでいい。君が俺の演奏を聞いてくれるんなら、どこで暮らしたってかまわない。君が住みやすい場所を探したい。無理にあちこち行く必要はないと思ってる」

「ほ、ほんとうに?」

 その言葉にマルグレーテは目を丸くした。

「で、でも、あなたは何より自由を望んでいたのに」

「旅をしようと、どこかに住もうと、俺の自由だろ。ただし、そこには君がいてほしい。君には俺のバイオリンをずっと聞いてもらいたいんだ。いいだろ」

「……」

 口をぎゅっと結んだマルグレーテは何か言いたげであったが、胸がいっぱいのようでただ小さく頷いた。口を開かなくとも、彼女のその表情だけで嬉しさと感謝の気持ちが伝わってくる。
 テオは少し照れくさくなって咳払いをすると、視線を窓の外に移した。

「今回のエドガーの恋人の件が済んだら考えよう。まあミラノに着いた後も、探すのには時間がかかるかもしれな……」

と、テオは言葉を途切らせた。すぐ目の前にマルグレーテの顔があり、右頬に何か柔らかいものが押し当てられている。テオの思考が追いつく前に、それはすぐに離れてしまった。テオは右頬に手をやった。

「え……い、今……」

 今頬に当てられていたのは、もしかして、もしかすると、彼女の唇……?
 テオは窓の方を向いていた顔をギギギとマルグレーテの方へと向けた。目の前の元令嬢は、恥ずかしがることもなく泣きそうな笑みを浮かべていた。

「ありがとう、テオ」

 マルグレーテは目尻の涙を拭うと、立ち上がった。

「温かい飲み物を持ってくるわ、待っていて!」

 そう言って車室から廊下へ出ていってしまった。
 列車はガタンガタンと揺れているのに、彼女の足取りは軽く、すっかり車内に慣れたように見える。そんな後ろ姿をテオはどんどん熱くなる頬に手を当てたまま、ぼんやりと見送って小さく呟いた。

「まいった」





 列車は真っ白な道を進んだ。窓から見える雪はまだ溶けていないが、西へ進むにつれて少なくなっていくように見えた。

 空が夕焼けに染まる頃、列車はヴィチェンツァに到着した。荷物を持って降りると、雪はすっかり溶けていたが、冷たい風が吹いていた。テオはマルグレーテの大きな旅行鞄を持ってずんずん先を歩いていく。

「ちょ、ちょっと! テオったら、その鞄は私のよ。あなたが持つ必要なんてないわ」

 マルグレーテはテオの腕を掴んで言ったのに、彼はちらりと振り返って表情を変えずに言った。

「君に持たせるのは心配だ。人さらいに荷物を持っていかれそうになったんだろ、こういう人が多いところでは俺が持つ」

 マルグレーテはぽかんとしたが、すぐに腰に手を当てて憤慨したように「もう! 大丈夫よ!」と言った。テオはその様子に笑みを浮かべただけで、ホームにいる駅員が目に入るとミラノまでの行き方を尋ねた。

「ミラノまで? うーん、今年の雪は厳しかったから、北の方で線路が凍って列車が走れないところがあるんだ。とりあえずここの鉄道からだとブレシアまで繋がってるからそこまで行けばいい。たぶんそこからは馬車だなあ。三番ホームの列車がブレシア行きだ」


 ブレシア行きの列車は、一番星が輝く頃にヴィチェンツァを出発した。
 外の景色はだんだん暗くなり、冷たい風が列車の中まで浸透してくるので、春はまだ遠いように思えた。

「着くのは明日の朝くらいかしらね」

 マルグレーテは先程のヴィチェンツァの駅で列車に乗る前に買ったパンを取り出すと、テオに渡した。テオは「ありがとう」と言ってそれを受け取る。

「朝ってことは冷え込んでるぞ。雪のせいで鉄道がふさがれるくらいだ」

 想像して顔をしかめたテオを、マルグレーテはじっと見つめた。彼は寒いのが苦手なのだ。彼のために何かできないかと思案していたが、あっと思いついて旅行鞄を開けた。中から緑色のショールを取り出すと、テオの肩にかけてやる。
 テオは驚いてマルグレーテを見ると、彼女は微笑んで言った。

「キアラのことは話したわね。彼女が別れ際にこのショールをくれたの。とても暖かいから使って」

「でもこれは君が使うべきだ、俺は別に……」

「不思議なのだけど」

 マルグレーテは肩をすくめて言った。

「私はテオに会えてから、前ほど寒さを感じないの。だからいらないわ」

「なんだそれ……場所が違うからだろう。トリエステの方はやたら寒かった。風が強いんだ、あの辺りは。きっとこれから向かうところも寒い」

 テオの答えに、マルグレーテはくすりと笑みを漏らした。

「だったらなおのことあなたが使って。私、寒さはあなたほど嫌いじゃないし……必要になったら返してもらうから。ね?」

 テオは口をへの字に曲げていたが、やがて「わかった」と小さく頷いた。

「……けど、君が無理する必要はないから。俺は旅して生きてきたから慣れてるけど、君はそうじゃない」

「わかっているわ。ありがとう」

 マルグレーテは頷いた。



 列車は暗闇の中をガタゴトと音を立てて進んだ。強い風が窓を揺らしている。
 マルグレーテは浅い眠りについていたが、弦のこすれる音がして目を覚ました。窓の外は暗いが他の車室は明るく、まだ寝る時刻ではないようだった。気がつくと、テオに渡したはずの緑のショールが、いつのまにかマルグレーテの肩にかけられている。テオったら。
 テオは向かいの座席で、ランプの灯りのもとでバイオリンの手入れをしていた。テオはマルグレーテの視線に気がついた。

「悪い、起こしたか」

 マルグレーテは、目の前の光景に自然と自分の口の端が上がるのが分かった。

「いいえ……懐かしいわね。叔父様の家に行った時、いつもこうしてあなたが調弦していたのを覚えているわ」

「そうだったな」

 テオは思い出すかのように微笑みを浮かべた。

「初めの頃、君は一挙手一投足俺の調弦するところを見てたっけ」

 マルグレーテは少しはにかんで頷いた。

「だって、あんなに美しい音を奏でるんですもの、何か秘密があるんじゃないかって思っていたのよ。結局バイオリンには何の仕掛けもなかったけど」

「あたりまえだ。仕掛けなんてあったら音に影響する」

 テオは調弦を終えると、バイオリンを顎に挟み弓を傾けて音を確認した。
 溢れ出すその音に、マルグレーテは目を瞑った。なんて美しいのかしら。やはりテオは他の演奏者には出せない音色を奏でる。最初に聞いた時から、この音はマルグレーテの心を掴んで離さないのだ。

「ああ、幸せ」

「……まだ音出しをしてるだけだぞ」

 マルグレーテが満足そうに呟いたのに、テオは少し照れたような、呆れたような言い方で言った。

「だって久しぶりに聞くことができて嬉しいんだもの、昨日はテオを探すことで頭がいっぱいだったし……そういえば、食堂で弾いていた曲がとってもよかったわ。もう一度弾ける?」

 マルグレーテが目をきらきらさせて言ったのに、テオはうーんと唸ってから答えた。

「あの曲は他の楽器があってこそ成り立つんだ。まあ簡単な旋律は弾けるけど……これだろ」

 テオが軽くフレーズを演奏してみせると、マルグレーテは嬉しそうに笑みを浮かべた。

「そうそう、それ! 切ないメロディーよね、テオのバイオリンだからこそ響くというか……最後の方で流れた高音の飾りも最高だったわ」

 マルグレーテはうっとりしたように言うと、テオは顔を綻ばせた。

「ありがとう……君はちゃんとそういうところまで聞いてくれるな」

「もちろんよ。あなたの音は絶対に聞き逃さない自信があるわ……ね、何か弾いてくれない? ほんの少しでいいから。まだ遅い時間ではないようだし」

 期待を込めてマルグレーテがそう言うと、テオは少し考えてから弓を傾けた。流れ出したその音楽は子守唄のようなゆったりとしたラルゴで、列車内の乗客達は急に聞こえてきたその音色に、思わず聞き惚れた。

 雪道を走る列車は、まだ明けない暗い夜を柔らかな雰囲気を醸し出した音楽に包み込まれて進んでいった。





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