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21. あの音色
しおりを挟むおや、とマルグレーテは手をかざして空を見上げた。
もう春も近いというのに、ちらちらと雪が降り始めたのだ。白く小さな塊は、街灯に照らされた石畳みの上に落ちて消えていく。さすがに積もるほどの量ではないが、空気が寒いことこの上ない。
石畳みの坂を降りて辿り着いた大通りには、仕立て屋、金物屋、織物屋、パン屋と様々なお店が並んでいた。
遅くなってしまわないうちに、早くどこか宿を探さなければ。マルグレーテは寒さを紛らわすようにキアラからもらった緑のショールを胸元でかき寄せた。
その時だ。
マルグレーテは突然足を止めた。
ざわざわとした喧騒の中から、バイオリンの音が耳をかすめた。非常に美しく繊細な音色だ。
マルグレーテは自分の胸が波打つのを感じた。
もしかして。
もう何度目かの“もしかして”だが、賑やかな繁華街の中をかき分けて聞こえてくるその音楽は、あまりにも情熱的だった。
マルグレーテは、息をするのも忘れたようにその音の発信源を探した。走り回りながら、きょろきょろと見回し、雪の降る街中を駆け抜けていく。音はそんなに遠くはないはずだ。床屋、花屋、薬屋。辺りはもうすっかり店じまいをしている。
音を辿った先に、マルグレーテは一軒の食堂を見つけ出した。
窓からの灯りが街路に漏れ、賑やかな客達の声とともに、バイオリンやアコーディオンの演奏が聞こえてくる。ここだわ!
マルグレーテは息を弾ませながら、勢いよく食堂の扉を開けた。
外と違って店の中は温かく、大勢の客達でがやがやとしていた。座っている恋人達や、軍服を着た若い兵士の集団、立ちながら大声で話し、笑い合う髭面の男達。カウンターでは女将が客に相槌を打ちながら酒を出していた。
なんだかほっとするような地元の空気に、マルグレーテは緊張していた気を一瞬緩めたが、すぐに耳に飛び込んでくる音楽にさっと店の奥の方に目を向けた。
しかし演奏者達は大勢の人に囲まれているようで、ちらりとも姿を見ることはできなかった。音からしておそらく複数のバイオリン、それからチェロの他にアコーディオンがいるようだ。
マルグレーテの心臓は早鐘を打っていた。演奏の中から際立って聞こえる、ひとつのバイオリンの音。忘れもしない、これは彼の音色だ。彼しか出せない、あのバイオリンの音だ。
しかしマルグレーテが一生懸命背伸びをして身を乗り出そうとしても、大勢の客達のせいで演奏者の姿は少しも見えなかった。
「お嬢ちゃん、注文は?」
すぐ目の前のカウンターから中年の女将が声をかけてきた。ぷくぷくと太い指をトントンと台に打ちつけながら、こちらを睨みつけている。茶色い髪の毛に緑の瞳がきれいだが、しかめ面が少し怖い。注文せずに演奏を聞こうとしていることに怒っているのかもしれない。
「あ……ごめんなさい」
マルグレーテはさっと顔を赤らめると、他の客のテーブルをちらっと見てから言った。
「その、ええと……エールとピザをいただけるかしら」
女将は一瞬目を丸くしたが、すぐに吹き出した。
「エールはやめときなよ、お嬢ちゃん。あたしが心配だ。レモネードを出してやるから」
言い方は乱暴だが、女将は場慣れしていないマルグレーテを追い出そうとはしなかった。
すぐに温かいレモネードがカウンターに置かれる。
「はいよ。ピザはもうちょっと待ちな。今焼いてるところだから」
「あ、ありがとう」
マルグレーテは湯気の立っているレモネードに手を伸ばした。寒さでかじかんでいた手がじんわりと温まっていく。少し口をつけて飲んでみると、温かくほんのりとした酸っぱい液体が喉に落ちてくるのを感じた。はちみつの甘さもある。
そうしている間も、演奏は続いていた。マルグレーテの心臓もずっとドキドキしている。
カウンターから演奏者の方に目を向けている女将を見て、マルグレーテは言った。
「女将さん、ちょっとお尋ねしたいのだけど」
「なんだい?」
「今、演奏している人のことなのだけど、どなたが弾いてらっしゃるの? ずっとこのお店にいらっしゃる方々なのかしら」
女将は首を振った。
「いんや、巡回の連中の寄せ集めらしいんだ、旦那が管理してるからあたしはちっとも知らないんだけどね……あんた、そこからじゃ全然見えないだろう。ちょっとこっちにおいで」
女将はカウンターから出ると、舞台の前に並ぶ人だかりの一番後ろに、空のテーブルを移動させた。
「さ、のぼりな。ここからだとどんなに背の高い男よりもよく見えるはずだよ」
「まあ……ありがとう!」
女将の気遣いに、マルグレーテは嬉しそうに笑みを浮かべた。女将は目を細めて頷くと、テーブルにのぼるマルグレーテに手を貸してくれる。
マルグレーテはよじのぼってようやく演奏者の姿を見ることができた。
人々に囲まれて演奏しているのは、アコーディオンとピアノ、チェロ、複数のバイオリン。
そして、その中心に立って音楽を先導しているバイオリン奏者はーー思った通り、マルグレーテがずっと会いたいと焦がれてきた人物だった。
『テオ……!』
マルグレーテは息をすることさえ忘れて彼を見つめた。
目を伏せ、左指を滑らかに動かして音を紡ぐ青年は、間違いなくテオだった。
冷たい表情、客の方をちらりとも見ない愛想のなさ、そしてこの情熱的な音色。なにもかもがウィーンの時のままだ。
変わらない、彼はちっとも変わっていないわ。
演奏のクライマックスでは、テオの腕ならではの、うっとりするような飾りのハーモニーがつけられた。おそらく彼の即興だ。その心臓に響いてくるような懐かしい美しさにマルグレーテは口に手を当てた。思わず笑みがこぼれ、目尻には涙が浮かんでくる。そうよ、最初の私は、テオのこの演奏に恋をしたのだわ……ただ音に美しさを求めるその情熱に、その在り方に。
演奏が終わった。
割れんばかりの拍手と歓声が送られる。演奏者達は深々とおじぎをし、テオも小さく頭を下げた。
マルグレーテは鼻をすすると、テオをまっすぐに見つめた。そして拍手と歓声の中をかき分けるように大声で「テオ!」と彼の名を呼んだ。
それが届いたのか、若者はふと顔を上げ、こちらを見た。無表情だった彼の目が、みるみるうちに大きく見開かれていく。
ああ、覚えてくれていた。マルグレーテはそれが嬉しくて思わず涙を浮かべながらも微笑みかけた。
しかし彼の方は、驚きのあまりにバイオリンをガタンッと床に落とした。そしてそれにさえ気づかずに、彼はマルグレーテをまっすぐ見たまま動かなくなってしまった。
マルグレーテはすぐさまテーブルから降りた。そしてまだ拍手や歓声が続く中で、手前にいる人達の間をぬって演奏者側の方へ進んだ。
「ごめんなさい……失礼します、ごめんなさい」
押された客達は「なんだこの娘は」と眉をしかめたが、マルグレーテは足を止められなかった。まっすぐ演奏者の方へ突き進んだ。
ようやくテオの目の前に辿り着くと、まず床に落ちたままのバイオリンを拾った。それを彼の方へ差し出したが、テオは目を見開いたままこちらを見るだけで、ぴくりとも動かない。
「あ、あの……」
マルグレーテは何を言ったら良いのかわからなかった。言いたいことはたくさんある。
「テオ、私よ……覚えていて?」
マルグレーテは眉尻を下げて言った。
「マル……グレーテ?」
テオは信じられないというようにこちらを見ている。
「君なのか、ほんとうに?」
マルグレーテは彼の懐かしいテノールを耳にし、嬉しさでいっぱいになって「ええ、私よ」とこくこくと頷いた。また涙が溢れてくる。唇が震え、そのまま嗚咽を漏らしそうになったが、ぎゅっと拾ったバイオリンを握りしめると、笑顔でもう一度それを彼に差し出した。
「だめじゃない、大事なバイオリンを落としちゃ。壊れて使えなくなってしまったら、あなたは病気になっちゃうわ」
そう言った直後に、マルグレーテはテオに抱きすくめられていた。
身動きできないほどにその力は強かった。
「マ、ルグレーテ……ほんとうに……ほんとうに、君なのか」
「ええ、そうよ、会いたかったわ……ほんとうに会いたかったのよ……」
マルグレーテは嬉しくてテオの胸の中ですすり泣いた。涙が溢れて止まらなかった。
二人は固く抱き合っていたが、テオが少しだけ身体を離してマルグレーテの顔を見た。
「だ、だけど、どうしてここに……だって君は」
目の前の彼は戸惑ったような、困ったような表情を浮かべている。マルグレーテは唇を噛み締めた。
「あなたの後を追ってきたの。どうしても、あなたと離れたくなくて」
「後を追ってきた? ウィーンから?」
テオはわけがわからず混乱した声を出したが、この時になって、静まり返った店内にはっと気づいた。店中の人々の視線がこちらに注がれている。
どうやら今までのやりとりはすべて周りに聞こえていたらしい。
「なになに、なんの騒ぎ?」
「追ってきたってよ、この寒いのに」
「感動の再会か?」
「へーっ、やるね」
そんな言葉まで聞こえてくる。
そこへ女将が呆れたように手に腰を当てて近づいてきた。
「……とにかくあんたたち、舞台から降りて席に座ったらどうだい? これ以上客に見せつけなくてもいいだろう」
女将の言葉に、テオもマルグレーテも顔を赤らめて頷いた。
女将は他の客達に邪魔されないようにと、マルグレーテとテオを厨房の奥の小さなテーブルまで案内してくれた。二人がすまなそうに礼を言うと、彼女は手をひらひらさせながら「新しく飲み物でも持ってくるよ、お嬢ちゃんのピザもね」と告げて厨房に戻っていった。
女将の背中を見送ると、テオはテーブルの向かいに座るマルグレーテをまっすぐに見た。
「……俺の後を追ってきたって? 誰と一緒に来た……エドガーか?」
「いいえ、私だけ。お姉様の侍女のエンマが途中まで一緒についてきてくれたけど、今はもうずっと一人なの」
「一人で? まさか君が一人で、ここまで?」
驚くテオの表情に、マルグレーテは笑みを浮かべながら頷いた。
「ええ、鉄道も駅馬車も、一人で乗ったわ」
「信じられない、な、なんでそんな無茶を……。そんなのどうやって許してもらったんだ。第一に、君は……」
言いかけて、テオの顔がぐしゃりと歪んだ。その泣きそうな表情に、マルグレーテははっとした。
いけない、会えたことが嬉しくて忘れていたわ。マルグレーテは大きく息を吸った。テオがウィーンを去ったと聞いたあの日から、再会したら絶対に言おうと決めていたことだ。
「テオ、聞いて。私はあなたにひどいことをしたわ。あなたが真剣に私との事を考えてくれていたのに、私は父の言うままに従うだけだった。ブラント伯爵家のご子息と結婚するのはつとめだから仕方ないって思っていたのよ。同時にテオならきっとわかってくれる、大丈夫だって思っていた」
マルグレーテはテオの瞳を見つめながら続けた。
「でも、あなたが行ってしまったと聞いた時、自分の愚かさに気づいたの。あなたの気持ちも、自分の気持ちさえもちっとも考えていなかったんだわ、ばかだったのよ。何もかも私が悪かったわ。ほんとうにごめんなさい」
マルグレーテは深く頭を下げた。テオはゆるゆると首を振った。
「……だって君は貴族じゃないか。本来収まるべきところに収まったんだって、俺は自分を納得させたんだ。その通りだろう。ただ、俺も小さい人間だから、あそこにはいられなくって……」
「ウィーンからあなたを追い出してしまったのは私よ、ブラント伯爵家との婚約を嫌だとも言わなかったんだもの。あなたに見限られて当然だわ」
テオは顔を歪めたまま言った。
「見限るなんて……ただ俺達はお互いの住む世界が違っただけだ。君は生まれに従った……受け入れられなかったのは俺だ」
マルグレーテは小さな笑みを浮かべた。
「あなたはやっぱり優しいわね。でもね、叔父様には叱られたの。あなたを傷つけたことを知った。このままじゃいけない、後悔しないように行動しなきゃって思ったの。だからここまで来たのよ」
「後悔しないようにって……けど、生まれの違いはどうにもできないじゃないか。俺は貴族にはならないって決めたし、君は……ウィーンに戻ったら婚約者がいるだろう」
「いいえ」
マルグレーテは強い声ではっきりと言った。
「ウィーンにはもう戻らないわ。婚約はお断りしたの」
「え……?」
テオは歪んでいた表情を崩し、目を見張らせた。
「こ、断った……? 婚約を? そんな……そんなことしていいのか?」
マルグレーテは頷いた。
「お相手のグスタフ様は理解してくださったわ、私があなたのことを忘れられないということをちゃんとわかってくれていたの。ご両親のブラント伯爵夫妻もよ。家同士の間に亀裂が入ることはないから大丈夫。怒ったのは、お父様だけだった」
その時、食堂の女将が厨房からガタガタと音を立てながらやってきた。飲み物とピザを持ってきてくれたようだ。
「ありがとうございます」
マルグレーテがそう言うと、女将は腰に手を当てた。
「で、泊まってくのかい? そんなら上の部屋を片付けておくけど」
その女将の言葉に、テオはドキッと緊張したような顔になってマルグレーテの表情をこっそり伺った。しかしマルグレーテの方は何の躊躇いもなく微笑んで頷いた。
「助かります。今夜は宿がなくて困っていましたの、私があてにしていた宿は満席で……。テオは? どこかに宿をとっているの? あなたの分ももう一つお部屋をお願いする?」
マルグレーテのそんな問いに、青年は少し力を失ったような様子だったが、小さく頷いた。
「……俺もここに泊まる」
「だそうです。すみません、お世話になります」
女将はその二人の様子に笑いを堪えていたようであったが「ああわかったよ、任せておきな。二部屋だね。バイオリンのあんちゃんは気の毒だったね」と言ってから、厨房の方へと行ってしまった。
その後ろ姿を見送りながら、マルグレーテは「気の毒? 何がなの、テオ」と首を傾げたが、テオはなんでもないと首を振った。
「そんなことより、婚約を断るなんてこと、君の親父さんが許してくれなかったんじゃないのか?」
話を戻したテオに、マルグレーテは頷いた。
「ええ、お父様は私の意見なんか聞こうともなさらなかった。でもグスタフ様がお父様にそう申し入れてくださったの、おかげで平和的に解消できたわ。でもね……ほんとうはお父様が私の幸せを望んでくれているということも知ったの」
「君の幸せを? だ、だけど、エドガーは政略結婚だって……」
「もちろんそうした利害もあったのでしょうね。でもお父様は私が音楽を好きだということを知っていた。だから、音楽好きで劇場への寄付に力を入れているブラント伯爵家に、私を嫁がせようとしていたのよ」
マルグレーテは「それと」と言って下を向いた。
「もしグスタフ様と結婚しないのなら、修道院に入れとも言われたわ。お父様はどうしても私にあなたを忘れさせたかったのね」
マルグレーテは顔を上げ、悲しそうに微笑みを浮かべた。父は父なりに自分のことを心配してくれていたのだろう。テオを忘れることこそがマルグレーテにとっての幸せだと、本気でそう思っていたのだ。それが娘の思うものとはかけ離れていると疑いもせずに。
マルグレーテは続けた。
「でも私はどっちも嫌だった。あなたを忘れるなんて嫌だし、あなたを傷つけたままでいるのも、あのままあの町で過ごすのも嫌だった。でも、そういう選択を迫られてから初めて、私はあなたのそばにいることが幸せだってわかったの。心からあなたに会いたいと思ったわ」
「それで……抜け出してきたのか」
マルグレーテは頷いた。
「修道院に入るふりをして、隙をみて列車に乗ったの。お姉様達も叔父様もみんな協力してくれたわ。お姉様の侍女……エンマもね。とにかく、あなたに会いたかった。あなたに会わなきゃ、この先絶対後悔するって思ったの」
マルグレーテはそこまで言うと、女将の置いたレモネードに口をつけた。それからピザを手に取って頬張った。
テオはぼんやりと彼女の姿を見つめていたが、やがて言った。
「俺が……君を忘れていたら、どうするつもりだったんだ。俺が君を憎んでいたりしたら……俺に恋人はいないと確信していたのか?」
マルグレーテは眉尻を下げて笑みを浮かべた。
「いいえ、もちろんその可能性も考えたわ。お姉様にも言われたし、旅の途中で仲良くなった仕立て屋の人にも言われた。でも、私は……まずあなたに謝りたかったの。あなたが私のことを忘れてしまっていても、憎んでいても、恋人がいたとしてもかまわない……まずあなたに謝ろうって決めていたわ。どんな状況だろうと、私があなたにひどいことをしたことには変わりないもの。それで……謝った上で、私はあなたが好きだと伝えることができたらって」
マルグレーテは俯いた。半分ほんとうだが、半分嘘だった。夢でみたように彼に恋人がいたとしたら、きっと絶望して泣きすがるかもしれないとは言わなかった。
マルグレーテは続けた。
「あの……それでね、テオ」
レモネードをこくりと飲んでから、マルグレーテはカップを見つめながら言った。
「あなたはそれで……その、恋人がいるのかきいてもいいかしら」
不安そうな言い方に、テオは眉尻を下げ、小さく口の端を上げた。ほんの少しだけ柔らかい表情になっている。
「いない……俺も君を忘れられなかった」
その言葉にマルグレーテは心から安堵したが、同時に胸が痛くなった。ああ、ごめんなさい、私はずっとあなたを苦しめていたのだわ。
「私を……憎んだでしょう。なんてひどい仕打ちをする女だろうって思われても仕方ないわ」
マルグレーテは萎れたように言ったが、テオは肩をすくめた。
「憎めたら、きっとまだウィーンにいた。君が他の男と結婚するのに、あの町にいることなんてできなかった。だからウィーンを出たんだ」
テオは目の前のマルグレーテをまっすぐに見た。そして彼女のその貧しい服装や、やつれた様子に目を細めた。
「俺こそ、君をつらい目に合わせたみたいだ。わざわざそんな服装になって、まさか一人でここまで来るなんて……よく俺がここにいるってわかったな」
「だって、あなたが叔父様からトリエステまでのチケットを受け取ったって聞いたから。テオならそこからイタリアの方へ向かうだろうって思ったの」
マルグレーテは思い出してくすりと笑った。
「トリエステの宿屋でバイオリンの練習していたらうるさいって言われたでしょう。それで近くの食堂で演奏したのね」
テオは目を瞬かせた。
「な、なんで知ってるんだ?」
「ふふ、テオのことをいろんな人に尋ねてまわったの。食堂で給仕をしていた女性の方が、とっても素晴らしい演奏だったって言っていたわ。話を聞いて、絶対にテオだって思ったの」
テオは目を見張った。
「あんな……あんな場末みたいなところにまで行ったのか? 」
「あら、給仕のソフィア様は優しい方だったわ。それに、仕立て屋のロメオ様という方が一緒に町をまわってくれたの。ほんとうに親切だったわ」
「仕立て屋のロメオ……」
男の名前にテオはふうんと目を細めたのにマルグレーテは微笑んだ。
「最初は仕立て屋の親方さんの命令でしぶしぶ引き受けたみたいだったのよ。まだその時の私はこの服じゃなくて、伯爵令嬢のドレスを着ていたから、客として扱ってくれたというのもあるわ。それに、あなたのことも話したのよ」
「俺のこと?」
「ええ。ロメオ様は、私があなたの子を身ごもって追いかけているんじゃないかって勘違いしていたわ」
「え……っ? み、身ごも……?」
マルグレーテは笑みを漏らした。
「ふふ、おかしいでしょう。その後は船着場に行ったの。宿屋の方から、テオがもしかしたらヴェネツィア行きの船に乗ったかもしれないってきいて」
「あそこか。高かっただろう」
「ええ、切符代が高いからあなたは船に乗っていないって確信したわ。そうそう、その船着場でね、私、人さらいに騙されそうになったのよ」
「はっ? 人さらい!?」
素っ頓狂な声を出したテオに、マルグレーテはくすくす笑った。
「そうよ。でも船に乗り込む前に、船着場の官吏の方が助けてくれたの。危なかったわ、今でも思い出すととっても怖いもの」
「……」
テオは無言のまま目を瞬かせていた。マルグレーテは続けた。
「この時ね、私は自分が服装で判断しているということに気づいたの。官吏の人は貧相な服装だったのだけど、人さらいは立派な格好をしていたから。学んだわ」
テオは無表情に戻ってマルグレーテを見つめた。
「……このウーディネまではどうやって?」
マルグレーテはトリエステから鉄道、駅馬車を使い、モンファルコーネを経由してウーディネまでたどりついたことを話した。友情を交わしたキアラとのこともである。彼女とウーディネ城近くの宿まで行ったこと、満室だと言われてがっかりしたこと、服装で判断されたと感じたことも述べた。
「でも今思うと、その宿に泊まらなかったから、あなたに会うことができたのだわ。大通りを歩いていたから、テオの音が聞こえたんだもの」
「俺の音?」
マルグレーテは笑みを浮かべた。
「ええ、歩いている時、バイオリンの音が聞こえたの。あなたが奏でている音だって確信したわ……実は今までバイオリンの音ばかり探していたから、あなたの演奏と似ても似つかない音でも“もしかして”って何度も駆け寄っていたのよ。その度にがっかりしていたわ」
テオは、マルグレーテが耳を頼りに一心不乱に街中を駆け回っている様子を想像したのか、苦い表情を浮かべた。彼はテーブルに置かれたエールを煽った。
「テオは……テオはどうしていたの? 私はあなたにとって三日前の足跡を辿っていたのよ。あなたのことを訊くとみんな口を揃えて三日前に見たって言っていたわ。だからこの町で会えるなんて……奇跡みたい」
テオは再び目を潤ませているマルグレーテを見つめた。
「俺は……できるだけ早くウィーンから遠ざかろうとしてた。でも船は使えないし、鉄道はモンファルコーネまでしか伸びていない。だから俺はモンファルコーネからこの町まで歩いたんだ。途中でパルマノーヴァに二日留まった。あそこには大きな広場があるから、たくさん稼げたんだ」
「パルマノーヴァで二日……」
マルグレーテは納得したように頷いた。やっぱり馬車にしてよかったのだわ。馬車にしたから彼に追いつくことができた。マルグレーテは自分の選択が間違っていなくてよかったと心からほっとした。
「叔父様に……手紙を書かなきゃ。テオと会えたことを伝えたらきっと驚くわ」
「会えたことよりも、今の君を見たらエドガーはきっと卒倒するぞ」
「おおげさね」
笑い合った後、二人は見つめ合っていたが、少ししてテオが言った。
「……ウィーンに未練はないのか。君の生まれ育った町だろう」
マルグレーテは笑顔で首を振った。
「あの町に戻ったら、私は伯爵令嬢に逆戻りよ。あなたのそばにいることができない町にいたって仕方ないもの。たとえ音楽の都でもね」
「マルグレーテ」
テオは身を乗り出すようにしてテーブルに手をついた。
「よく考えろ。俺はただの辻バイオリン弾きだ。舞台に出るような大きな出世なんか望んじゃいないし、自分一人が食べていければいいと思ってる。そんな男だぞ」
マルグレーテはテオの瞳を見つめた。初めて会った時、この目は冷たく感じた。だが今は自分への思いやりで溢れているのがわかる。ああ、この目に再び自分を映すことができたらと、どれだけ焦がれたことか。
マルグレーテは言った。
「私が生半可な思いでここまで来たと思って? あなたがどこへ行こうとついていくわ。テオの性格だって、ちゃんとわかっているつもり。あなたと共にいることができるなら、なんだってする覚悟がある。絶対あなたの邪魔にはならないって約束するわ。だからお願い、そばにいさせて」
テオはマルグレーテの真剣な瞳を見つめ返した。すがるような、しかし強い意志のある光を帯びていた。
テオは言った。
「君の気持ちはわかった……今日はもう寝よう、この町には着いたばかりなんだろう」
そのとらえどころのない返事に、マルグレーテは不安を抱いたが、小さく頷いた。
厨房の女将に声をかけると、女将は二階の部屋へ案内してくれた。
一つ目の部屋にマルグレーテは旅行鞄を抱えて部屋へ入った。小さな飾り気のない部屋だが、前回泊まった駅舎の部屋よりずっと温かく感じ、ベッドの他に机も椅子もあった。
鞄を置いてから部屋を出ると、テオは隣の部屋に案内されているようだった。
「支払いはまとめて明日の朝でいいよ。何かあったら一階に下りてきな」
女将がそう言ったのに、マルグレーテは礼を言って頭を下げた。彼女が階下に下りていったのを見届けると、廊下に出ているマルグレーテにテオが言った。
「それじゃあ、また明日。今後のことはまた考えよう」
「あっ、テオ、待って」
テオがすぐに踵を返そうとしたのに、マルグレーテは袖をつかんで彼を引き留めた。
「なに?」
「あ、あの、その……突然いなくならないでね。明日の朝、テオがいないってことになっていたら、私……」
心配そうに言う彼女に、テオは頭をかいてから言った。
「こんなところに君を一人にして置いていくわけがないだろう。俺だってそんなに薄情な男じゃない」
「絶対よ、ほんとうにだめよ」
マルグレーテが念を押すように言うので、テオは破顔して冗談まじりに言った。
「信用ないな。それならいっそ、同じ部屋で寝ればいいじゃないか」
「あら……そうね、その通りだわ! そうすれば、あなたがいなくならないか一晩中見張っていられるもの!」
真に受けてそう言ったマルグレーテに、テオは顔を赤くして慌てたように言った。
「ば、ばかかっ! 冗談に決まってるだろう、そんなだから人さらいに目をつけられるんだ!」
テオはそう言い捨てて部屋に入ると、バタンッと音を立てて扉を閉めてしまった。
マルグレーテは目を瞬かせたまま「あら?」と首を傾げた。冗談だったの?
それから「おやすみなさい、テオ」と扉越しに声をかけてから自分の部屋へ入り、扉を閉めた。
早速、鞄から紙とペンを取り出してテーブルに置く。“エドガー叔父様へ”と書くと、マルグレーテの顔は自然とほころんだ。
とうとうテオに会えたのだ。探すなんて到底無理だと言われたのに、会って謝ることも気持ちを伝えることもできた。叔父にその報告ができる日が来るなんて。
追いかけてきた自分に、テオは戸惑っているようだった。きっと私が軽はずみなことをしたのではと思っているのだわ、ウィーンを出てきたことを後悔するかもしれないと。
しかし幸い彼は私を忘れてはいなかった。憎んでもいなかったし、他に恋人もいないと言ってくれた。今はそれだけで十分ではないか。
マルグレーテが考えながらペンを進めていると、ふとバイオリンの弦をこする音が聞こえてきた。隣でテオが調弦しているのだ! マルグレーテは嬉しさで胸がいっぱいになり、目頭が熱くなった。
叔父様に自慢しなきゃ。この手紙を読んだら、きっとテオが遅くまで練習していた夜のことを思い出すわ。叔父の姿を思い浮かべてから、マルグレーテはふとあることを思い出した。
もしテオに会うことが叶ったなら、行きたいところがーー訪ねてみたい人がいたのだったわ。
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「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
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