Bravo!

Rachel

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17. ベルベットに別れを告げて

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 翌朝。マルグレーテはボンネットの紐を顎の下で結び、フリルの少ない濃紺のドレスを着た。小さな鏡から自分の姿を見て眉をしかめる。一目で上等な生地とわかるものだ。まずは”庶民らしい服“を手に入れなければならない。
 荷物は宿舎に預けたままで、マルグレーテは町に出た。雨はやんでいたが、時おり冷たく強い風が吹いている。
 しばらく歩いた通りで「アンジェロ」と看板の下がった仕立て屋に入った。
 できるだけ質の悪そうな物を選ばなければ。それも茶色か黒だ。マルグレーテは暗い色の生地を眺めながら店内を歩いた。

「いらっしゃいませ。喪服かなにかをお求めですか」

 初老の男が声をかけてくる。店主のようだ。

「い、いいえ、そうではなくて……そのできるだけ……質の悪い服はあるかしら」

「は……? し、質の悪い物?」

 店主は目を瞬かせた。マルグレーテは言いにくそうに答える。

「ええ、その……町の人たちが着ているような普段着をいただきたいの。こちらにあるかしら」

「普段着……ああ、お忍びですね」

 店主は察したように頷いたが、うーんと顎に手を当てた。

「ですが、こちらの店は一応質の高い物を専門に扱っているという自負がございまして……。もちろんそれらしくお作りすることはできますが」

 マルグレーテは困った表情を浮かべた。それではだめだ。あの列車に乗っていた少年の母親も言っていたではないか、質の良いものだとすぐに目をつけられると……と、マルグレーテはふと店主の服装に目を止めた。

「失礼ですが、ご主人のそのシャツはどちらでお買い上げに?」

「え、これですか? これはチェーザレ通りのチェルカという店で叩き売りされていた生地ですよ、服は私が作ったんです、ああ、でもあそこなら生地だけじゃなくて服も売られていますね……」

 マルグレーテは笑みを浮かべた。そこだわ!

「ここからそこへはどうやって行けば良いのかしら、教えていただけますか」

「え、お嬢さん、あの店に行かれるんですか? なんでまた……そんなに質の悪い服がほしいんですか?」

「ええ、こんな格好では簡単に歩けないでしょう? 悪い人達に目をつけられないような服がほしいのよ」

 店主は怪訝そうな表情を浮かべ、ちらとマルグレーテの姿を眺めた。見た風では明らかに良家の子女だ。まあそもそも安い服を求めてではなく、質の悪い服を買いに、わざわざ仕立て屋まで出向くという発想が庶民からかけ離れていると、店主はひとりごちた。

「どなたか……ご一緒に行かれる方はいらっしゃらないのですか? 暗い道もあります、なんなら金を払って誰かをやって買いに行かせることも……」

 店主はそう言ったが、マルグレーテは首を振った。

「いいえ、自分のことは自分でやらなきゃ。心配してくださってどうもありがとう」

 そう言って微笑んだ彼女は、入店した時より気品あるように見えた。
 ちょっとした手の動き、佇まいは優雅で、店主は腰が自然と低くなった。彼女はほんとうに貴族なのだ。店主はそう感じ取ると同時にやはり心配になった。
 チェーザレ通りは比較的明るく、憲兵も歩いている。チェルカの店主も悪い人間ではないが、それまでの道中が一番気にかかる。チェーザレ通りにたどり着くまで通る地区は治安が悪かった。ごろつきも見かけるところだ。金を騙し取られたりしてもおかしくない。「アンジェロ」の店を出た貴族の客が、その後暴漢に襲われたという事件の噂が広がるのも避けたいところだ。

「いけません、お供を一人つけてください……おい、ロメオ」

 店主は、奥で布地の束を運んでいた若い金髪の男に声をかけた。

「なんすか、親方」

「彼女をチェルカの店まで送ってくれ」

「……俺が? ダマスクの裁断がまだなんですけど」

 ロメオという弟子は、あからさまに嫌そうな表情を浮かべたので、マルグレーテは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

「あの、私は一人で大丈夫ですから……」

「いえいえ! そういうわけにはまいりません……ロメオ!」

 店主がひと睨みすると、ロメオは「へいへい」と肩をすくめた。

「頼んだぞ、生地の裁断は私がすませておこう」

 店主がそう言ったのに、ロメオは急に顔を明るくした。

「えっほんとですかっ! やったあ」

 店主はロメオに近づいて耳打ちした。

「その代わり、そのお方をちゃんと安全に店へ送ってやるんだぞ。確実にどこかの貴族のご令嬢だ。絶対に失礼のないようにな。必要なら、一日護衛をしたってかまわん。だが間違っても意地汚くおこぼれをもらおうとするなよ……」

「わーってますよ、俺だって親方の弟子ですからね。ほらお嬢さん、いくぜ」

「あ……は、はい! あの、親方様、ご親切にありがとうございました」

 にこにこと笑って手を振る店主に頭を下げると、マルグレーテはすでに店を出ていってしまったロメオを追いかけた。





 仕立て屋の店主の言った通り、ロメオの進む道はだんだんと薄暗く、そして怪しい雰囲気になっていった。
 薄汚れた服を着て階段に座り込んでいる男、うずくまって顔を伏せている老婆、ぼさぼさの髪をまとめることもなく目をぎらつかせてこちらを見ている女。三人ほどの男達がマルグレーテを目にするとにやりと笑い合い歩み寄ろうとしたが、ロメオが連れ立っていることに気づくと、小さく舌打ちして去っていった。
 怖い。マルグレーテは寒気を感じて両腕を縮こませた。もし一人であったなら何をされていたかわからない。列車で親子の母親に言われた通り、この服装は華美過ぎるのかもしれない。
 ロメオは青い顔をしているマルグレーテに気づくと笑った。

「悪いな、怖がらせちまって。こっちの道の方が近道なんだよ」 

「そ、そうなのですか。この町のほとんどがこうなのかと思ってしまいました」

「さすがにそれは困るさ。他の通りはいくらかましだし、大通りに面するところに出たら憲兵が目を光らせてるよ」

 ロメオの明るい態度に、マルグレーテは少し気が楽になった。
 やっと暗がりの道を抜けると、店が立ち並ぶ人の多い大通りに出た。
 先ほどとは全く違う雰囲気だ。エプロンをした女が買い物を終えたのか紙袋を抱えている横で、幼い少女がエプロンの裾をつかんでもう片方の手で飴を舐めている。通りの向かいでは、使用人らしい格好をした若い娘が買おうか迷っているように窓からケーキを眺めているようだ。
 こんなにほっとするような通りもあるのね。マルグレーテが安心したように胸を撫で下ろした、その時だ。

 わずかな音がマルグレーテの耳をかすめ、はっと立ち止まった。
 ロメオが振り返る。

「どうした、お嬢さん。何か盗まれでもしたか?」

 マルグレーテは首を振り、風にのって聞こえてくる音に耳をすませた。
 音楽だ……それも、弦楽器の響きにちがいない。

「バイオリンが、バイオリンの音がするわ! どこで……どこで演奏しているのかしら」

 急に焦ったような様子になったマルグレーテに、ロメオは目をぱちくりさせ、きょろきょろと辺りを見回した。

「え、バ、バイオリンの音? そりゃ、どっかで演奏してるんだろうけど……えーと、ああ、あそこだな」

 ロメオの指した方向に、小さな人の輪ができている。マルグレーテはそれを見とめるとすぐにそちらの方へ走り出した。

「お、おい、まてよ……」

 マルグレーテは後ろから引き止める声も聞かずに、まっすぐその音楽の聞こえる方へ駆け寄っていった。
 もしかして……もしかして、テオなの? 高鳴る胸を押さえ、息を弾ませてそこに辿り着いた。

 小さな人だかりの向こうの壁際には、たしかにバイオリンの演奏者がいた。
 マルグレーテは人々の注目を集めている人物の顔を見ると、はっと立ち止まった。
 バイオリン弾きは、黒い髭の目立つ中年の男だった。彼はにこにこと黄色い歯を見せて得意げに弦を鳴らしていた。ひどく陽気な音楽だ。弦が切れるのではないかと思うくらいに無茶な音を出している。音の切れも正確ではない。
 呆然とその音を聞いていたが、やがてマルグレーテは呆れたように目を閉じた。
 これはーーこの音は、彼のバイオリンじゃない。演奏を聴けばわかることだった。

 そこへロメオが息を切らしながら追いついた。

「はあ、はあ、急にどうしたんだよ。バイオリンの演奏が聞きたかったのか? なら、そうと言ってくれりゃ……」

「いいえ、そうではないの。ごめんなさい、人違いでした」

 マルグレーテのがっかりした表情に、ロメオは眉を寄せた。

「人違い? あんた……ここらでバイオリン弾きの知り合いがいるのか?」

 マルグレーテはゆるゆると首を振った。

「いいえ、その人は……旅をしているの。私の大切な友達で……ここまで探しにきたんです」

 マルグレーテははっと顔を上げて、ロメオに尋ねた。

「少し前に、このトリエステの町に来たかもしれないの。ご存知ありませんか? 若いバイオリン弾きで、ものすごく腕が立ちますの。最近どこかで音を聴いたりしませんでしたか?」

 しかし、ロメオは気の毒そうに言った。

「さあ、知らねえな。悪いが俺はあんまり音楽は興味なくて。誰かがバイオリンやらアコーディオンやら街中で演奏しているのは、よく見かけるけど」

「そう……」

 マルグレーテはがっかりと肩を落とした。彼はこの町に来ていないのかしら。もしそうであるなら、次にどこへ行ったら良いのかわからない。彼の行き先は「南」以外には検討もつかないのだ。
 落ちこんでしまったマルグレーテに、ロメオは頭をかいていたが、「あっ」と声を漏らした。

「そういえば、二、三日前の夜、ソフィアがすっげえきれいなバイオリンを聞いたって言ってたっけ……」

「きれいなバイオリン!?」

 マルグレーテはがばっと顔をあげた。

「なんですかそれは! どんな音かしら、どこでお聞きになられたの?!」

 ずいと身を乗り出して尋ねるマルグレーテに、ロメオは少し後ずさった。

「さ、さあ、知らねえけど……ソフィアにきいてみれば、わかるんじゃねえかな」

「そのソフィア様はどちらにいらっしゃるのっ!」

「え……食堂だよ、大体いつもマルコの店で給仕してる。ああそういえばこの通りにあるぜ」

 マルグレーテは満面の笑みを浮かべると、両手を合わせて嬉しそうに歩き出した。

「そうなのね! では早速行きましょう、彼女にご紹介していただきたいわ」

「い、いやいや、ちょっと待てよ!」

 ロメオが慌てて止めた。

「マルコの店は夜しか空いてねえよ。第一そんな格好であの店に入ったらじろじろ見られてたまったもんじゃねえ。そのためにこれから服屋のチェルカに行くんだろ」

 マルグレーテははっと立ち止まって顔を赤く染めた。

「そ、そうでしたわね……。ごめんなさい、私ったら」



 こうしてようやくマルグレーテとロメオは、チェルカに辿り着いた。
 マルグレーテは入った店の中を、珍しそうにぐるりと見回した。店内は太陽の光が弱く薄暗かったが、置いてあるものはわかった。布、布、布。そしてどれも薄かった。もしかして肌着ではと思うほどに、ぺらぺらだ。

「お嬢さん、ほら、この辺が女物の服だぜ」

 ロメオが手招きした方に行くと、台の上に大きな籠が置かれてあり、その中には布の塊が積み重なっていた。

「これ……?」

 手にとって布を広げてみると、確かにそれは裾が長くワンピースの形をしていた。

「こりゃ珍しい客が来たもんだね」

 後ろからしわがれた声がしてマルグレーテは振り返った。
 老齢の女性が驚いた顔でこちらを見ていた。青い目が印象的、顔にも袖から見える手にも深いしわが刻まれ、灰色の髪は後ろで乱雑にまとめられている。
 マルグレーテは小さくお辞儀をした。

「こんにちは、その、服を買いにきましたの」

 その様子に老婆は再び目をぱちくりさせて、隣にいた付き添いの青年を見た。

「ロメオ、あんた何をしでかしたんだい」

「おいおいばあさん、俺をなんだと思ってやがる……うちに来た客なんだけど、もっと簡素な服がほしいっていうから連れてきたんだよ」

 ロメオが説明したのを確認するかのように老婆がマルグレーテの方を見る。
 マルグレーテはこくりと頷いた。

「この服装ではなにかと不便で。できれば街中を一人で歩いても注目を浴びない服をお願いできたらいいのですけれど」

 老婆は青い目を丸くさせてへえと頷くと、顎に手を当ててマルグレーテの顔をじろじろ見た。それから少し考えてから言った。

「うーん、あんたは美人すぎるよ、目立たなくするなんて難しいと思うがね。まあ服で多少は隠してやろう、ついといで」

 そういうと、彼女は店内のそこかしこに積まれた服の山を回った。山の中から「これとこれ……それからこれも」と言いながら布の塊を引っ張り出しては後ろについているマルグレーテに持たせていく。そしてそれはすぐに両手いっぱいになった。持ちきれずにこぼれそうになったものはロメオが拾い、持つのを手伝ってくれた。
 やがて、ロメオの手もいっぱいになってきた頃、ようやく老婆は足を止めた。

「さあて、この中から選んでいこうか」



 マルグレーテは老婆の指示した服を次から次へと着ていき、結果的に老婆やロメオに判断してもらって何を買うかを選んだ。

「おや、結構いいんじゃないか、こりゃどうみても貧しい女に見えるよ」

 老婆がそう言ったマルグレーテの姿は変わり果てていた。
 黒く裾が擦り切れたスカートに、油シミのついたエプロン、ブラウスは肌触りの良いものだったがフリルもレースもない素朴なデザインだ。茶色の上着は細い毛糸でできていて、いくらか温かかったが、あちこち傷んでいる。
 みすぼらしいことこの上ない。マルグレーテは鏡に映った自分を驚いて見つめた。服だけでここまで変われるんだわ!

「最後にこれを羽織るんだ」

 老婆が差し出したのは黒く分厚いフェルトのケープだった。フードがついていて頭まですっぽりかぶることができた。
 色合いも悪くない。完璧なコーディネートだ。マルグレーテは自分の姿にすっかり満足していた。なんだか少し、テオに近づいたみたい。

「素晴らしいわ、奥様、ありがとうございます!」

 マルグレーテはにこにこした顔で老婆の冷たいしわしわの手を握った。老婆は少し目を丸くしたが笑みを浮かべた。

「おやすいご用さ……へへ、おい聞いたかい、あたしが奥様だとさ」

 そう言ってきた老婆にロメオは肩をすくめ、怪訝そうにマルグレーテに言った。

「なあ、ほんとうにそんな服を買うのかい? 俺はどうももったいない気がして……」

「ふん、なにがもったいないっていうのさ。好きな服を着てどこが悪いんだい。それにこの娘の願い通り、通りを歩いても注目を浴びない格好じゃないか」

 老婆がそう言ってくれたのに、マルグレーテは頷いた。

「おっしゃる通りですわ。奥様のセンスもよろしくて助かりました……おいくらかしら」

「そうさね、三十五……いや、四十リラってとこかね」

「ちょ……おい、ばあさん、それはさすがにちょっと高いだろ。こんなペラペラな生地だぜ?」

 ロメオが口を挟む。

「なに言ってんのさ、この上着は毛糸が編み込まれてるんだよ、それにこのフェルトだって、まだまだ上等……」

「嘘つけ、あちこち傷んでるじゃねえか。お嬢さんが金持ちそうだからってちゃんと相応の金額にしねえと、後々痛い目みるのはばあさんだぞ」

「ロ、ロメオ様、私は奥様のおっしゃられた金額でかまわな……」

 マルグレーテが言いかけると、ロメオはすぐに遮る。

「悪いがお嬢さんは黙ってな、生地の話となりゃ、ここは俺の領分だ。なあばあさん、俺だってだてに仕立て屋の弟子やってるわけじゃねえ。本当の金額を言いな」

 老婆は、口をへの字に曲げてロメオと睨み合っていたが、やがてへんっと声を上げると肩をすくめた。

「わかったわかった、お嬢さん、ほんとは十五リラだよ」

 マルグレーテはきょとんとした顔をした。十五リラ……最初に言われた額の半分以下だったの? ロメオがいなかったらなんの疑いもなく払っていた。
 そんなことを考えながら財布を取り出していると、老婆はブツブツと呟いた。

「ったく、それならどこから金を取るって言うんだよ……こっちはお偉方に絞れるだけ搾り取られてるっていうのにさ」

「んなの、このお嬢さんからしたら知ったこっちゃねえだろ。貧しい生活してるからって性根まで卑しくなるなよ」

「はっ、そんなのこっちこそ知ったこっちゃないよ。生きることに必死なもんでね」

 そんな二人の会話を聞きながらマルグレーテは金を老婆に差し出す。老婆は黙ってその金を受け取った。
 もうマルグレーテの方に視線を向けようともしない。ロメオは横でマルグレーテが先ほどまで着ていた服をひとつにまとめてくれている。
 マルグレーテはそのドレスの塊をぼんやり眺めていたが、ぐっとこぶしを握った。

「待ってください、ロメオ様」

 マルグレーテはロメオの手元にある濃紺の上等なドレスとボンネットを両手で抱えると、老婆の方へ歩み寄った。

「え、お嬢さん……?」

「奥様」

 ロメオが戸惑った声で言ったのと同時にマルグレーテはこちらを向いた老婆に言った。

「奥様、服代はきっかり十五リラお渡しましたが、奥様が献身的に服を選んでくださったお礼に、このドレスと帽子を受け取ってくださいませんか。お金ではありませんが、ベルベットの生地やボタンはそれなりに……」

「ま、まてまてまて!」

 目を見開いた老婆の横から、すかさずロメオが止めに入る。

「あんた、その服がいくらすると思ってんだ! 四十リラどころじゃねえぞ、それにこれがなかったらあんたが家に帰る時に困るだろう!?」

 マルグレーテは笑みを浮かべて首を振った。

「いいえ、家には帰るつもりはないの。確かにこの服は暖かかったけど私はもう着ませんし、旅をしておりますから荷物になるのも困りますの。奥様、受け取ってくださいますか」

 老婆は驚いた表情のまま、マルグレーテと差し出されたその服を交互に見つめた。

「け、けど……あたしゃ……受け取れないよ……」

 金額を多めに騙し取ろうとしたことに気が引けたのだろうか、老婆は急に遠慮がちな態度になった。
 マルグレーテは笑みを浮かべて言った。

「かまいませんのよ、私、ほんとうに奥様に感謝していますから」

「いや、だけどね……」

 老婆は困ったようにおろおろし始めた。マルグレーテはあっと思いついたように言った。

「それではこうするのはどうかしら、奥様にはこのドレスを預かっていただきますの。いつか、私がまたこの町に来たら、返していただきましょう! でも、もし政府からのお取り立てやお食事に困ったらぜひこちらを使ってください。奥様のお役に立つのなら、それが一番嬉しいですから」

 素晴らしい思いつきじゃありませんか、と楽しそうに微笑むマルグレーテに、老婆もロメオもあっけに取られ、もはやなにも言えないようであった。

 きっと貴族の気まぐれやら金の価値もわからない世間知らずと思われているのだわ。
 だが、マルグレーテはそれでもよかった。自分のために真剣に考えて服を選んでくれたのが嬉しくて、どうしてもこの女主人に礼をしたかったのだ。それに、とマルグレーテはテーブルに置いてしまったドレスを見下ろした。
 それにこのベルベットのドレスを着ているということは、まだ自分が貴族であるということを知らしめているようなもので、見つかればウィーンに逆戻りである。それだけはごめんだ。マリボルではすでに格好だけで憲兵に目をつけられていた。上等な外出着に未練はなかったのである。


 服屋を出ると、マルグレーテは身が軽くなったような気がした。あの分厚い生地のドレスを脱いだのだから文字通り軽くなったこともあり、マルグレーテはうーんと背伸びをした。少し肌寒さもあるが、あまり気にならなかった。それほどまでに解放的な気分だった。

 そんな様子をロメオが訝しげに見ているのに気づき、マルグレーテは笑みを浮かべたまま言った。

「ロメオ様、ありがとうございました! おかげでとっても良い買い物ができましたわ」

「良い買い物と言っていいのか、わからねえけど……まあお嬢さんが満足したならそれでいいや。それじゃ、お嬢さんの宿まで送るぜ」

「だ、だめです!」

 マルグレーテは慌てて彼を引き止める。

「ソフィア様に会わせてくださる約束です。絶対に会って、お話をお伺いしたいのです!」

 ロメオは頭をかいた。

「ああ、そうだったな……うーん、まあ会わせてやってもいいけどよ、さっきも言ったけど、あの店は夜にならねえと開かねえんだ」

「そうでしたわね。それなら……私はお店の前で開くのを待つことにいたします。そこまで案内していただけませんか?」

 ロメオは軽く笑った。

「おいおい、まだ昼時だぜ? 何時間待つつもりなんだよ……ったく、人探してんだろ……仕方ねえ、一緒に町を回ろう。一日付き合ってやるさ」

 マルグレーテは驚いたように目を見開いて首を振った。

「そんな! そこまでしていただくわけにはございませんわ、お店に戻らなければなりませんでしょう?」

「親方がむしろあんたについていけと言ったんだ。たぶんお嬢さんをこのまま放り出したってきいたら、尻蹴っ飛ばされんのは俺なんだよ……まあ、もうその格好なら目立ちはしねえが、俺はこの町を大体知ってるから、少しは力になってやれるぜ。その代わり、ソフィアの店でエール一杯、奢ってもらいたいねえ」

「ロメオ様……」
 
 マルグレーテは頭を深々と下げた。

「ありがとうございます……では、よろしくお願いします」




 トリエステの港町は大きいはずだが、案内人のおかげからか狭いように感じた。ロメオはほんとうに顔が広く、あちこちで知り合いに声をかけられている。というよりもこの辺りの人間は、皆が顔見知りのようにも思えた。
 ウィーンではどうだったのだろうか。マルグレーテは遠くなってしまった故郷の町の様子を思い浮かべようとしたがわからなかった。彼女があの町の中を自分の足で歩いたのは、あの舞踏会の夜、テオと歩いたあの時だけ。それ以外はほとんど馬車で移動するのが当たり前だった。

 チェーザレ通りを歩きながら、マルグレーテは先ほどの老婆の様子を思い出し、少し前を歩くロメオにきいた。

「ロメオ様は、貴族がお嫌いではありませんの?」

「……嫌いだったら、あんたのお供なんか引き受けねえだろ。なんでだよ、嫌われたいのか?」

 おどけて言ったロメオに、マルグレーテは前を向いたまま言った。

「そうではありませんが。こんなにご親切にしていただいてびっくりしているのです。貴族を嫌う人は多いですから。お店の奥様もそのように感じましたし……」

 ロメオは笑い声をあげた。

「あのばあさんは世界中を嫌ってるのさ。まあ、俺んとこの親方は貴族相手に仕事してるからな。服や生地を売った時も、連中は言い値で支払ってくれるし」

「まあ、そうなんですの」

 マルグレーテはふむと納得したように頷いた。それはそうだ。貴族の令嬢達は、舞踏会でドレスがどれだけ高くついたかを見極めて争うのだ。マルグレーテはそれがちっとも理解できなかったが、なるほど、こういうところでその争いが役に立っているのかと少し意外に感じた。

「お嬢さんはドイツの貴族なのかい? あっ、言いたかねえなら、答えなくてもいいけどよ」

 ロメオの問いに、マルグレーテは首を振った。

「かまいませんわ。ウィーンから来ましたの……もう帰ることはないと思いますけど」

「ウィーンだって? そりゃまた大都会から……人探しのために来たってわけか」

「ええ、その方にどうしてもお会いしたくて」

 ロメオは、まっすぐ前を向いたままのマルグレーテを見ながら「ふうん」と頷いた。

「けど、むちゃな旅に出たもんだな。この町に来たかどうかも定かじゃねえんだろ? 雲をつかむような話じゃねえか」

「ええ、私もそう思います。でも、修道院で暮らすよりましですから」

「修道院ねえ……おっ、マルコ!」

 ロメオが前方を向いたまま声を上げた。知り合いがいたようだ。

「おお、ロメオじゃねえか!」

 黒い短髪の屈強な男が、木材を肩に担いでこちらに近づいてくる。彼ーーマルコは大工のようだ。
 彼はロメオの前で立ち止まると、「よっと」と声とともに木材をどかっと地面に下ろして不服そうに言った。

「なんだよ、てめえが流行病こじらせてずっと寝込んでるってえのは、やっぱりでまかせか」 

「ははっ、なんだよそれ。誰からきいた?」

「アントニオだよ、レベッカが一昨日の夜てめえを探してたから、俺が一緒に街を回ってやったんだ。で、アントニオの野郎に、てめえのことをきいた」

 ロメオは「げえ」と声を出して顔を引きつらせた。

「レベッカが? 嘘だろ、何回断わりゃ気がすむんだよ……アントニオには今度奢ってやらねえと」

 マルコは眉を寄せた。

「おい、レベッカのどこが悪いんだ、美人でいい女だぜ? 相手してやったっていいじゃねえか」

「お断りだ。あの女は男のふところから金を盗み出すプロなんだ……あっ、それよりマルコ。お前、最近若いバイオリン弾きを見なかったか?」

「バイオリン……? バイオリンってえのは、えーと、えーと、顔に当てて音出す木の楽器だっけか」

 マルコがうーんと考えてから肩をすくめた。

「さあ……どうかな、あんまり興味ねえからな。なんだ、人探しか?」

 ロメオは、後ろにいるマルグレーテにちらっと視線をやってから言った。

「ああ、このお嬢さんが探してるんだ。お前、酒場には毎日行くんだろ? 昨日の晩なんかはどうだ? 店で音楽をきかなかったか?」

 マルコは太い眉を寄せて頭をガリガリかいた。

「俺ぁ、酒場に行ったら酒飲んで飯食って、で終わりだからな……悪いな、お嬢ちゃ……」

と、マルコはマルグレーテのフードの下の顔を見ると言葉を途切らせて、驚きの声を上げた。

「うっひゃあっ! よく見たらえらくべっぴんじゃねえか。ロメオ、てめえやるなあ、どうやって落としたんだよ。そうか、だからレベッカを避けて……」

 急にまじまじと見つめられて大声を出されたので、マルグレーテは驚きのあまり声を発せずにいた。
 そんな彼女にかまわず一人で納得し始めた友人に、ロメオは目を細めて言った。

「お前は相変わらず失礼な男だな……彼女はうちの店に来た客だ。俺とお嬢さんはお前が考えてるような関係じゃねえし、それにレベッカは性根が腐ってるから最初から避けてんだ。それよりバイオリンだよ、ほんとに聞き覚えはないんだな?」

 マルコは“うちの店に来た客”と聞いてぎょっとしたように「そ、そうか」と一歩引いた。ロメオの勤める仕立て屋には、主に上流層の人間が客として来ることを思い出したのだ。「悪かった」とまた頭をガリガリかいてから地面に下ろした木材を抱え直した。

「うーん、よくわからんが、酒場に来る連中のことは、やっぱりソフィアにきくのが一番じゃねえか? 少なくとも、アントニオみてえに嘘はつかねえだろ」

「アントニオはお前と違って気が利くんだよ。まあ……でもやっぱりそうだよな。わかった、ありがとう、マルコ」

「いや」

 マルコは「悪かったな、お嬢さん」とすまなそうに首をすくめると人混みの中に去っていった。


 それからマルグレーテは、ロメオの後についてパン屋、肉屋、花屋、魚屋、カフェを巡ったが、大した収穫は得られなかった。「そういえば聞いたかもしれない」がいいところで、「バイオリン? なんだそれ、食えるのか?」と言われる時もあった。


 
 マルグレーテは広場の噴水に座り、ため息をついた。陽は傾き始めている。

「なかなか情報って、ねえもんだなあ」

 ロメオはマルグレーテの隣で仁王立ちをし腰に手を当て、苦笑いを浮かべた。マルグレーテはすっかり疲れてしまったが、ロメオの方は全くそんな様子もないようだ。
 マルグレーテは消沈したように言った。

「この町には……音楽が好きな方は、あまりおられないのですね」

「そりゃウィーンなんかと比べりゃ少ねえだろうな。それに今きいてきた連中は、上層の奴らとはほど遠い……あっそうか、もしかしたらお嬢さんの友達はそっちの金持ちの街区で演奏してるんじゃねえか? そうだよ、そうに違いねえ」

「いいえ、そうは思いません」

 マルグレーテが即座に否定したのに、ロメオは「え、そうなの」と目を丸くさせた。

「彼は、貴族の事を嫌っています。きっと……そちらへ近づくこともないわ」

 寂しげに前を向いたまま言うマルグレーテに、ロメオは目を細めた。
 彼はなんとなく察しがついた。貴族令嬢と辻バイオリン弾きの道ならぬ恋ってところか。

「ふうん……。それで、そんな格好になりたかったんだな。しかし貴族として育ったのに、よくそこまで思い切れたもんだ……あんた、結構怖いもの知らずだな」

 マルグレーテは笑みを浮かべた。

「ほんとうに恐ろしいのはあの町にーーあの家に留まっていることですから。彼に会えれば、私はそれでいいのです」

 もう決めたのだ。マルグレーテは自分の買ったばかりの服を見下ろした。フェルトでできたケープは温かいが、やはりあちらこちらが傷んでいる。このような服は生まれて初めて身につけたが、案外悪くないと思っている自分がいた。否、実のところ、そんなことはどうでもいいのだ。とにかく早くテオに会いたい、それ以外は望まなかったし、何も考えられなかった。彼に会えるのであれば何でもすると、マルグレーテは腹を括っていた。

 そんな風に凛とした表情で前を見るマルグレーテを、ロメオは目を細めたまま見つめていたが、やがて隣に「よいしょ」と腰掛けた。

「会ってどうするつもりなんだ」

「謝りたいんです」

「……謝る?」

 ロメオは驚いたように彼女の方をぐるっと向いた。マルグレーテは頷いた。

「ええ、私は彼を……ひどく傷つけてしまったから。たとえ彼に恋人ができていても、私のことを嫌いになっていても、ひどいことをしてしまったことを謝りたいの。自己満足と言われても仕方がないのですけど、それでも、私は……」

 ロメオは最初は目をぱちくりさせていたが、やがて小さく笑い、誰にも聞こえないくらいの声で「なんだよ、てっきり腹にそいつの子がいるのかと……」と呟いた。それから咳払いすると、ロメオは自分の考えにもう一度小さく笑ってから、ばつが悪そうにマルグレーテの方を向いた。

「その……会えるといいな。あんたがそんな風に思ってることを知ったら、その男だってきっと嬉しいだろうよ」

 マルグレーテはロメオの方を向き、目を細めて言った。

「そう願うばかりですわね」



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