Bravo!

Rachel

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15. 追憶

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 マルグレーテは、列車に揺られながら凛とした顔つきで移りゆく窓の景色を眺めていた。
 もうすっかりウィーンの町は遠ざかり、畑、林、荒野が次々と過ぎ去っていき、やがて深い森に入った。その頃には日が傾いていた。

 マルグレーテは昨日、叔父と話したことを思い出していた。



~~~~~~~~~~~~~~~




 マルグレーテがウィーンを発つ前日、エドガーは、生まれて初めて口に含んだ紅茶を吹き出した。姪がまた面倒なことを押しつけてくるのではないかと思っていただけに、驚きは大きかった。


「叔父様の意見をききたいの。私の今後のことよ」

 そこまではいつも通りだった。今度は何だと身構える気持ちと呆れ半々の心境で、エドガーはカップに口をつけた。
 マルグレーテは出された香りのよいお茶を飲み干すと、目の前に座って紅茶を飲んでいる叔父に言った。

「私……テオを追いかけようと思うの」

「ブフォッ」

 予想外の話だった。
 幸い大惨事にはならなかったが、エドガーは優雅に紅茶を飲んでいたところで自分がこんな失態をやらかすとは、と軽くショックを受けた。
 エドガーは咳払いをしてカップを置く。すぐにでも下げてもらいたいが、ハーゲンは先ほど部屋から下げてしまった。

「ねえ叔父様ったら、聞いているの?」

 口元をきれいなハンカチで拭いながら、エドガーは口を開いた。

「いつもいつもお前には驚かされるが、今回ほど突拍子もないのは初めてだぞ……紅茶を台無しにしてしまった」

 マルグレーテは眉を寄せた。

「生半可な思いつきで決めたんじゃないわ。もう覚悟は決まっているのよ。ただ、一緒に住んでいた叔父様から見て、彼が……テオが私のせいでどれほど傷ついたのか知っておくべきだと思って……」

 エドガーは目を丸くした。マルグレーテの表情はいつになく真剣であった。もしかしたら姪はその道を望むかもしれないと一瞬たりとも考えたことがないわけではなかった。ただ、父親が許すはずがなかった。

「お前のお父様には何と言うつもりなんだ」

 マルグレーテは肩をすくめた。

「お父様には黙って行くつもり。説得するなんて無理よ」

「なんだって? 正気なのか」

「最初から真面目に話しているわ。もう、この町に戻るつもりもないの……ねえ、どう思う? 私が彼を追いかけても迷惑じゃないかしら」

 エドガーは珍しい姪の態度に、しばらく目を瞬かせた。冗談ではなく本気らしい。ふむと少し考えこんでから言った。

「……テオ君がどれほど傷ついたかって? 彼は確かにお前を大事に思っていたよ。自分の人生を天秤にかけるほどにな。だから貴族になるチャンスができた時は悩んでいた。お前との未来を本気で考えていたんだ」

 エドガーは苦い顔になった。

「だが結局お前は、別の青年と婚約した。それが……何を意味するかはわかっていたんだろう」

 マルグレーテが俯いた。

「テオと関係を断たなくてはならないということはわかっていたわ。たとえ友人という名目でも、それをお父様が許すはずがないことも」

「とにかくお前は、今まで友人として接してきた彼を急に突き放したということだ。まるで絵に描いたようなわがまま娘だったわけだな。そしてお前は、彼を傷つけるたった一言をエンマに言付けた……」

「ごめんなさい、と」

 マルグレーテは悔しそうにそう言い、唇を噛み締めた。
 そんな姪に、エドガーは責めるような態度は取らなかったが、心苦しそうに眉を下げて言った。

「もちろん婚約者のいるお前には、それしかできなかっただろう。だが確かにテオ君は、この言葉に相当なショックを受けていたようだった。一晩部屋に篭って出てこなかったが、彼がこの町を発つことを決めたのはすぐだった。一分だっていられなかったんだろうな、お前との思い出のあるこの町には」

 マルグレーテは頷くだけだった。エンマから伝言をきいた彼の顔を想像すると、胸が痛んで仕方なかった。しかし泣くわけにはいかなかった。傷つけたのは自分である。
 エドガーは言った。

「私は、お前が決心してブラント伯爵の息子と結婚する方を選ぶと思っていたよ。なんだかんだあっても、お前は兄上の意見には全て従ってきたじゃないか」

「……わからなかったの。貴族の家に生まれたからには家のために結婚するものだって言われてきたし、お父様には逆らえなかった。でもこのままじゃ嫌だって思ったの。お父様に勘当されたってかまわない。だって、私は……」

 マルグレーテは握りしめた自分の手を見つめた。

「私は……テオを愛しているんですもの」

 声は震え、泣くのを我慢していることが、エドガーにもわかった。彼女なりに相当に思いつめて考え出した結論なのだ。
 彼は姪を見てしばらく黙っていたが、やがて言った。

「誰にも言うつもりはなかったが……私の話をしようか」

 マルグレーテが顔をあげる。

「叔父様の……話?」

 エドガーは姪に微笑みかけて頷いた。いつになく優しい笑みだった。

「お前と似たようなことを、私も若い時に経験したのさ」

 マルグレーテは目を丸くした。エドガーは長椅子の背にもたれると、深く息を吐いた。

「昔この町に、社交界の話題になるほどの素晴らしいソプラノの歌手がいた。名はマリア・クラウゼン。彼女は光が雲に降り注ぐような声を出すこともできたし、雛を守るために親鳥が出すような鋭い歌も歌えた。歌う姿はまるで春の女神のように美しかった。当然どの劇場からも依頼が殺到したし、ウィーンの人間はみな彼女に魅了された……私も、その一人だった」

 マルグレーテは驚きの声を上げそうになった。叔父様が?
 エドガーは姪の表情に少し笑みを浮かべた。

「そう、この私がだ。意外だろう? だが私にも、一人の女性に恋をするくらい若い時があったんだ」

 エドガーはそう言って視線を遠くに移した。

「兄上と違って、私は小さい時から劇場音楽が好きだった。成人してからは毎日のように一人でチケットを買って劇場に出向いていた。お前のお祖父様が音楽を推奨していたから、いつも良い席で観ることができたんだ。ある時オペラ公演の後、劇場前の石段で、一人の若い女性が泣いているのを見つけた。わけをきくと、その日あった公演で自分も舞台に立つはずだったのに、急に他の女性が歌うことになってしまったという話だった」

 マルグレーテは顔を曇らせた。エドガーはちらりと姪を見て頷いた。

「お前の思っている通り、調べてみると貴族のわがまま令嬢が急に歌いたいと言い出したことが原因らしかった。そのせいで彼女ーーマリアは舞台を下ろされてしまったんだ。私は……権力に振り回されるような劇場をなんとかしたいと思った。それで、あちこちの劇場のオーナーと話をするようにした。出資金に基づくのではなく、技術で人を選ぶべきだと。ウィーンで上演される音楽はもっと崇高なものであってほしかったんだ。私は町の音楽のレベルを上げることに邁進した。町の片隅で技術と才能を持て余している人間を劇場に紹介したり、指導者を支援したり、とにかく貴族の私ができることはなんでもやったよ。そうした努力があって、劇場の石段で悔し涙を流していたマリア・クラウゼンは時の人となった」

 エドガーは思いに馳せるように再び遠くを見た。

「私とマリアが想い合う仲になったのがいつからだったかはわからないが、お互いに心から愛し合っていた。公にすることはなかったが、私達は毎日のように顔を合わせては一緒に時を過ごしていた。お前やテオ君のようにね」

 エドガーは姪に微笑んだ。その時、冬の北風がガタガタと窓を揺らした。その音に耳を傾けた後、エドガーは続けた。

「だが、私にもとうとう貴族の息子としての婚約話が来た。私は父にすがった。マリアを愛していると、彼女以外とは結婚できないと頼み込んだんだ」

 マルグレーテは目を見張った。叔父が誰かにすがるなんて想像もつかなかった。そして同じ境遇の自分と比べる。エドガーは自分がどうしたいか、自分の父に訴えた。叔父は行動を起こしたのだ。マルグレーテにとって、それはとても重要なことに思えた。

「失いたくなかった。後悔するのは嫌だったし、できるだけのことはしようと思っていたんだ」

 エドガーは遠い記憶を思い出すように目を細めた。

「父は苦い顔をしたが、結婚して彼女が貴族としてきちんとふるまえるのであれば良しと言ってくれた。あの時ほど父に感謝したことはなかった」

 マルグレーテはおやと首を傾げた。では、叔父様は結婚していたの? 私が生まれる前に亡くなったのかしら。
 しかしエドガーは苦い顔で続けた。

「でも、彼女の考えは違った。マリアに父との話を告げると、彼女は自分とは結婚するべきではないと断ったんだ。同時に貴族に仲間入りするのは嫌だと、はっきり言い切った。それならばと、私は貴族をやめて平民になって結婚するのはどうかと提案した。次男だから家を継ぐ必要もない。しかしこれも断られてしまった」

「そんな……どうして?」

 マルグレーテの問いに、エドガーは自分が同じようにマリア・クラウゼンに尋ねたことを思い出していた。





『どうしてだ、マリア! 私は君のためならなんだって捨てることができる……この暮らしも、貴族の肩書きも。兄上がいるから家の心配は全くない』

 マリアは困ったような顔で言った。

『だめよ……今のこの町の劇場音楽は、エド、あなたが生み出したのよ。名もない私達に光を当てて、舞台に立たせてくれたのはあなただけ。そしてそれは、あなたが貴族であるからこそできることなの。エドガー、あなたを心から愛しているわ。でも、ちっぽけな私なんかに縛られてはだめ。あなたはこの町で、もっともっと、たくさんの有名な音楽家を育てるの。あなたはこの町の音楽と結婚するべきなのよ』

 エドガーは、このマリアの言葉を一言も忘れられなかった。
 無意識に自分の好きな事ばかり追いかけていた若きエドガーに、このマリアの言葉はどんと衝撃を与えたのだ。それは、貴族の重荷というよりは、次男として目標もなく役職もなく生きてきた彼に、貴族であることの誇りと重みを感じさせていた。





 エドガーはガタガタ鳴る窓を見つめながら言った。

「それからすぐに、マリアは町を去った。自分がウィーンにいてしまっては、私が彼女に固執し、他の音楽家に目を向けなくなってしまうと考えたのだろう。彼女はすでに有名になっていたこともあって、その後ミラノの舞台でさらに人気を馳せたときいたが、私は彼女に言われた言葉の重みで、追いかけることができなかった。あちこち旅もしたが、あえて彼女を探すことはしなかった。そしてそのまま何年も経ってしまった」

 マルグレーテは遠い目をした叔父を見つめた。
 マルグレーテが知る限り、彼はずっと独り身だ。そして今でも恋人に言われた通り、この町の音楽のために奔走している。叔父様はほんとうにマリア・クラウゼンを愛していたんだわ。マルグレーテは、知らなかった叔父の過去に衝撃を受けていた。

「あの時、どうするべきだったかはわからない。だが、ひとつはっきりとわかっていることがある」

 エドガーは鋭い目で姪を見た。

「お前とテオ君は、私達とは違う。お前にそれだけの覚悟があるなら、後悔しないうちに彼を追いかけるんだ」




~~~~~~~~~~~~~~




 叔父のいつになく力強い口調は、列車に乗っていてもなお、マルグレーテの頭に響いていた。
 ええ、叔父様。私は彼を追いかける。そして絶対に彼を見つけ出すわ。マルグレーテは膝の上の手をぎゅっと握った。

 エンマがひざ掛けを持って戻ってきた。

「マルグレーテ様、足を冷やされませんように」

「ありがとう、エンマ」

 マルグレーテは礼を言うと、その温かそうなひざ掛けをたぐり寄せた。ふわふわしている。エンマはこんな素晴らしい毛布を持ってきてくれたんだわ。

「ねえ、エンマ」

 マルグレーテは、目の前の席に腰かけたエンマが膝に乗せた肩かけ鞄を開けているのを見ながら言った。

「なんでしょう」

「ありがとう」

 マルグレーテの繰り返しに、エンマは目を瞬かせた。

「もうききましたよ、どういたしまして」

「違うの、私の……旅についてきてくれて。私、あなたがついてきてくれていなかったら、きっと……」

 マルグレーテの言葉に、エンマは珍しくふっとーーまるで長姉のベルタのようなーー笑みを浮かべた。

「お嬢様が心配だからと申し上げましたでしょう。……でも、いらぬ懸念のようでしたね。お嬢様はしっかりしてらっしゃるから安心いたしました」

「屋敷ではわがままを言いたい放題だったし、お姉様には甘えていたところしか見せなかったものね。でもね、私はもうイタリアに行ったことあるんだから!」

 エンマは静かに頷いた。

「そうでしたね。ベルタ様が、マルグレーテ様はイタリア語がお上手だとおっしゃっていました」

「そうよ。音楽の用語を小さい時から覚えるのが好きだったの」

 マルグレーテは誇らしげに頷いて、テオのことを思い出した。そういえば、彼も楽譜に載っている用語は覚えるのが早かったわ。
 テオは、結局文字を覚えようとはしなかったが、楽譜を読むことには努力を惜しまなかった。音楽用語の文字はシュンタンマイアーの指揮では必要になるので完璧に覚えていたのだ。

「……早くお会いできるといいですね」

 急に黙り込んだマルグレーテに、エンマがぽつりと言うと、若い女主人は微笑んだ。

「ええ、そうね」



 翌朝、マルグレーテは急に感じた寒さに、ぶるっと身体を震わせた。昨日エンマが用意してくれた毛布にぎゅっと身体を縮こませて、うっすらと目を覚ます。
 列車の窓の外は明るくなっているようだ。

「あっ」

 マルグレーテは完全に目を開けると、ガバッと起きて車窓にはりついた。
 一面の雪景色だ。太陽も顔を出し、照らされた雪がきらきらと輝いている。寒いはずだわ。

「お目覚めのようですね」

 エンマが目の前で温かそうな紅茶をポットから注いでいた。食堂車から持ってきたようで、パンとバターもある。

「いつのまにか眠ってしまっていたみたい。エンマは? ずっと起きていたの」

「いいえ、私も少し仮眠を取らせていただきましたよ。もうすぐグラーツだそうです」

 マルグレーテは窓辺を見た。
 外はずっと真っ白だ。さぞかし寒いのだろう。次に乗る列車までの乗り換えに時間がかかりませんように。マルグレーテは身体を縮こませながら小さく祈った。

 グラーツの駅も雪が積もっていたが、通りや出入り口の雪は傍に寄せられ、分厚く着込んだ人々が忙しそうに行き交っていた。
 マルグレーテはエンマを連れて駅舎で次の列車を尋ねた。

「次に来るイタリア方面? リュブリャナ行きが十二時に来ますけど……」

 駅員は、いかにも良家の子女とわかる旅装のマルグレーテと後ろのエンマを青い目でじろじろ見た。

「でも、一等車とか食堂車の類はありませんよ」



 お昼過ぎ、マルグレーテとエンマを乗せた列車は、リュブリャナに向けて出発した。
 駅員の話だと、途中でマリボルを経由し、そこで一泊するため、トリエステまで三日はかかるらしい。
 エンマが個室の席を確保してくれ、食事にも困らなかったが、ただひとつ、寒さはどうにもならなかった。雪どけの町や村の間を通るのであればなんでもなかったが、雪の降る山道は、ひざ掛けがいくらあっても足りなかった。
 こんなに寒い中でも、テオはいつも旅をしていたのかしら。
 マルグレーテは窓の外の雪を眺めながら、彼が昔の話をしていた時のことを思い出していた。

 彼はジプシーや旅芸人と一緒にいたと言っていた。どんな暮らしかマルグレーテにはわからないが、きっともっと寒い思いをしたこともあるのだろう。
 会って間もなかった頃、彼が日銭を稼ぐ暮らしをしていると聞いて、もっと贅沢で温かな環境を与えてあげたいと思ったものだ。驕っていたわ。マルグレーテはかつての自分を思い起こし、そして今の自分と比べた。もう貴族の娘としての自分は捨ててきた。テオと共にいることを望むということは、自分はそのような環境で生きていくということだ。
 貴族の娘としてぬくぬく育ってきた自分には厳しいことでもあったが、それでもマルグレーテは決意していた。耐えてみせる。彼が自由を失うよりよっぽどいいわ。

 エンマが湯気の立つ紅茶を運んできた。

「あまり質の良い物ではありませんが、温まります」

「ありがとう、エンマ」

 マルグレーテは暖かいカップに口をつけた。香りのしない、まるで紙のような味であったが、それでもエンマの言う通り、マルグレーテの身体はほかほかと温かくなった。
 叔父様の屋敷で飲んだ紅茶は美味しかったわ。マルグレーテは今度は叔父の昔話を思い出した。

 正直なところ意外だった。叔父は確かに無類の音楽好きだが、過去にあのような出来事があったとは想像もしていなかったからだ。
 音楽好きの多いウィーンの町でも、叔父は少し変わり者として噂されていることはマルグレーテも知っていたが、あれほど劇場音楽に力を注ぐのにはきちんと理由があったのだ。
 叔父は恋人の願いを叶えた。あの町に流れる音楽は、きっとこの先も永遠に受け継がれていくのだろう。それは、ウィーンを去ったマリア・クラウゼンが残したかけがえのないものだったと、マルグレーテは初めて知った。彼女がもし叔父との結婚を拒まなければ、叔父は町を出たかもしれない。今あるウィーンの音楽は永遠に失われていたかもしれないのだ。
 マリア・クラウゼンは正しかった。叔父があの町に必要な存在であることを見抜いていた。だからこそマルグレーテは音楽を好きになったし、そこへテオを連れてくることができたのだ。

 森を抜けて景色は村に変わった。
 しっかりと首にマフラーを巻き、帽子をすっぽり被った子供達が、雪投げをして遊んでいる。マルグレーテは目を細めた。
 あのように遊ぶことは一度も許されたことがなかった。末娘であるために、わがままを通して育てられた自覚はあった。しかしそれでも、やりたいことがなんでも叶えられたわけではなかった。常に父親の顔色を伺い、社交界では恥にならないようなふるまいを心がけた。貴族の娘の枠から外されるようなことはこれまで一度もしていなかったはすだ。

 貴族の身分を捨てた今、そうしたしがらみはマルグレーテにはなかった。それはとても解放的であったが、同時に恐ろしさも感じていた。エンマを連れているとはいえ、保護者もいない状態でこれから生きていくということを肝に銘じなければならない。危険はそこら中にあるだろう。そう考えると、マルグレーテの表情は自然と引き締まった。

「お嬢様」

 エンマの呼びかけに、マルグレーテは振り返った。

「トリエステに着いてからは、どうなさるおつもりなのですか」

 叔父がテオに渡した切符はそこまでだった。馬車に乗って移動することになるが、あてもない旅になるだろう。唯一知っているのは、テオが冬の間は南を目指しているということだけだ。
 マルグレーテは言った。

「ひとまず繁華街の食堂や酒場を巡ってみようと思うの。彼がそこで演奏していたかもしれないわ」

「もしそこで手がかりがなかったら……?」

 エンマの問いに、マルグレーテは口を結んだ。
 わからない。もうすでに途中で列車を降りて街中を歩いている可能性もある。だが、マルグレーテは彼がとにかく終点まで行ったはずだと確信していた。
 彼はウィーンからできるだけ遠ざかりたかったはずだ。叔父は、テオがウィーンを発つと決めてからは早かったと言っていた。一分でもいられなかった、と。そしてもう二度と戻るまいと誓ったのだろう。
 マルグレーテは唇を噛み締めた。今さら後悔したところで仕方のないことだとはわかっていたが、マルグレーテはテオをそこまで傷つけてしまった自分の浅はかさと無頓着であることに嫌気がさした。

「……トリエステにいなければ、また考えるわ。でも、おそらく南に向かったはずよ」

 エンマは一瞬心配そうにマルグレーテを見つめたが、すぐに目を伏せて「かしこまりました」と言うとカップに茶を注いだ。



 十六時前に、列車は経由途中のマリボルに着いた。グラーツやら途中で見えた村と違い、ここでは雪は積もっていなかった。ただ一段と冷たい風が吹いていた。
 夕日は傾きつつあったが、中心地に位置する駅は騒がしかった。ここで一泊することになっている。
 マルグレーテとエンマは列車を降りると、駅にある案内所で泊まることができる場所を尋ねた。


「案外、良い部屋ですね。建物を見たときは心配いたしましたが」

 エンマは宿屋で案内された部屋をぐるりと見回して、ほっと息を吐いたように言った。

「……荷物を置いたら、街中を歩こうと思うの、いいかしら」

 マルグレーテが部屋の前に立ってぽつりと言ったのに、エンマは静かに微笑んで頷いた。

「そういたしましょう」



 マルグレーテとエンマは暗くなりつつある賑やかな通りを歩いた。乾いたでこぼこの石畳みが、何度かマルグレーテをつまづかせようとしてきた。
 途中で哀しげなバンドネオンの音が街角の脇で聞こえ、立ち止まる。黒っぽいぼろぼろの服の中を着た白髪の老人が、ぽつんと座り込み下を向いてバンドネオンを鳴らしていた。彼の前には、色あせた橙色の帽子が裏返しに置かれている。通りを歩く人々は見向きもしなかった。
 エンマは眉を寄せて早く行こうと女主人を急かしたが、マルグレーテは足を止めたまま老人を見ていた。
 もしもテオがここにいたら、この老人と一緒に演奏したかもしれない。テオが彼と演奏していたなら、きっとあの帽子から溢れるほどのコインが飛び交ったはずだわ。
 マルグレーテはそんなことをぼんやりと考えていたが、やがてマルグレーテは、エンマが「お嬢様」と止めるのを聞かずに老人の方に歩み寄ると、持っていた小銭を何枚か裏返しにされた帽子にカチャリと入れた。
 マルグレーテは「素敵な演奏ね」と小さく声をかけたが、老人は演奏の手を止めることなくただ頷いただけだった。だが、心なしか演奏は明るくなったように聞こえた。

「行きましょう」

 マルグレーテが笑顔でエンマに言って歩き出した。エンマは後を追って不満気な声で言った。

「お嬢様、私達はあてもない旅をしているのです。無駄な出費はできません。あのような……」

「無駄ではないわ」

 マルグレーテは強い口調で言った。

「私達があまりお金に余裕がないこともわかってる。でも今のお金は、無駄ではないわ」

 ずんずん歩みを進める女主人に、エンマは奇怪なものを見るような視線を向けたが、やがて「わかりました」と諦めたような声を出した。

 街中はがやがやとしていたが、音楽があったのはその時の老人の演奏だけで、バイオリン弾きらしい人物は見当たらなかった。食堂や酒場の女将に聞き込みしても、それらしい人物はここ最近は見ていないとのことだった。



「どうやらテオ様はこの町に降りてはいないようですね」

 宿屋に戻ってからエンマがベッドのシーツを整えながら言った。マルグレーテも頷いた。

「そのようね。やっぱりトリエステまで行ったのだわ。列車の出る時間は明日の朝九時だったかしら」

「はい……やれやれ、揺れていないベッドは久しぶりですね」

 エンマの息を吐いたような声に、マルグレーテはくすりと笑みを漏らした。

「ほんとうね。明日からまたがんばりましよう」

 エンマとマルグレーテは、宿屋のいくらか柔らかいシーツにくるまった。エンマはすぐに寝ついてしまったが、マルグレーテは横になりながら彼女の寝顔を眺めていた。

 エンマはなぜ自分に着いてきてくれたのだろうか。思えば彼女はいつもベルタと一緒だった。
 マルグレーテは他の姉達と同じ侍女やメイド達に世話されていて、エンマのような自分だけの付き人という人間はいなかった。
 小さい時、長姉の部屋を訪れるといつもエンマがいた。ベルタは笑顔で小さなマルグレーテを迎えてくれたが、エンマがニコリと笑うところは見たことがなかった。厳しそうな表情で、「ベルタお嬢様はお勉強中でございます。妨げになるのでお控えください」と追い出されるばかりだったのを覚えている。あの時はベルタを独り占めできるエンマがずるいと思っていた。しかもエンマはいつもしかめつらだ。「ベルタお姉様といても楽しくないのなら、私が代わってあげる」と言ったことも一度や二度ではない。
 そんな時は決まってエンマはこう言った。「マルグレーテお嬢様というベルタ様の妹は、あなた様しかおられません。同じようにベルタ様のお世話は私の仕事。私しかできないことです。これは旦那様の命令ですから、どうぞご理解ください」
 旦那様ーーすなわち父シュミット伯爵のことである。いつも威張っていてベルタを独り占めできるエンマでさえ、お父様にはかなわないのだわとマルグレーテは肩を落としたものだ。それでもマルグレーテは駄々をこねて、エンマをよく困らせていた。

 そのエンマが、あの父の意向に背いて、自分についてきてくれている。

「ありがとう、エンマ」

 マルグレーテは寝息をたてている彼女にそっと礼を述べた。




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