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4. 音楽の町
しおりを挟む朝。カーテンの隙間から差し込む柔らかい日差しに、テオは目を覚ました。肌触りの良すぎるシーツに掛け布団とお揃いの若草色の枕、明らかに高価な家具の並んだ部屋に違和感を感じ、がばっと起き上がった。
ここは一体どこだ。
テオは素早く昨夜の記憶を辿り、あっと声を出して事の次第を思い出した。
昨夜、エドガーの屋敷にたどり着いたはいいが、勧められた夕食も断り召使いに案内された部屋に入ると、ベッドに突っ伏してしまったのだ。
ベッドの端に清潔な寝間着が用意されていたが、テオは自らの衣服を見下ろして、自分は昨日は上着も脱がずに寝入ってしまったことを知った。そして枕の隣にバイオリンのケースが横たわっているのを確認した後、部屋をぐるっと見渡した。
そうだ、長旅をしてきたから実感が湧かなかったが、ここはウィーンなのだ。ウィーンの貴族の邸宅に自分は滞在しているのだ、少し前までは街角の隅に座り込んで眠ることもあった自分が。
すぐ目の前にあった鏡で身だしなみを整えたテオは、部屋を出た。
長い廊下を歩き、突き当たりの階段に差し掛かったところで、降りてきた初老の男と鉢合わせた。
「おや、テオ様。お目覚めでしたか。申し訳ございません、朝食の準備はもうしばらく時間を頂戴することとなってしまいますが」
テオは眉をひそめた。
「……あんたは?」
その言葉に初老の紳士は目をぱちくりさせたが、ほっほっと笑い声を漏らすと頭を下げた。
「これは、大変失礼致しました。私はこの屋敷の執事を任されております、ハーゲンと申します」
「執事?」
「はい。ご主人様ーーエドガー様の名の下、屋敷を総括しております。昨夜自己紹介をさせていただいたつもりでしたが、覚えておられませんか」
「……昨日は半分寝ていたんだ、悪かった。俺はテオだ」
テオが罰が悪そうに言ったのに、執事のハーゲンはにっこりと頷いた。
「はい、存じ上げております。テオ様はお客様、ご主人様のご友人として、このお屋敷にお迎えさせていただいております」
「エドガーは?」
「まだお休みになられております。お屋敷の中も、そして外も、自由に歩き回って良いとテオ様に昨夜おっしゃっておられましたよ」
テオはうっすらと昨夜の様子を思い出した。そういえばそんなことを言われたような気もする。
「屋敷の外を一回りしてくる」
ハーゲンは頷いた。
「かしこまりました。ご帰宅なさる頃には朝食を用意しておきますので、食堂にいらしてください、すぐ下の階ですよ」
玄関を出ると、テオは屋敷づたいに街を歩き始めた。鞄もバイオリンも部屋に置いたままで手ぶらで外へ出るのは久しぶりだった。
冷たく乾いた風が吹いて、枯葉がひらひらと舞い落ちてくる。周りはエドガーの屋敷と同じくらい荘厳な造りの邸宅が街灯と共に静かに立ち並んでいた。家々から朝食の準備をしている音がわずかに聞こえるだけで、通りには誰も見当たらなかった。
これまで庶民派の宿屋に泊まるばかりだったテオは、朝といえば市場で賑わう街の様子しか知らなかったので、この静けさは新鮮だった。市場はここから離れているのだろうか。ウィーンはこうした上流階級ばかりが住んでいるのだろうか。
次々と疑問が湧いてくるうちに、やがて再び屋敷の玄関まで辿り着いた。
「おお、おはよう、テオ君。朝の散歩はどうだったかな」
テオが食堂に入ると、テーブルには温かな朝食が湯気を立てて並び、エドガーが席に着いていた。その横で執事のハーゲンが椅子を引いてくれている。
「……思ったより静かだった」
席に着きながら答えたテオの言葉に、エドガーは笑った。
「ははは、この辺りはな! 一区を抜けるとそうでもないさ。今日は町を案内しよう、もちろん君が疲れていなければの話だが。昨日の事は覚えていないらしいじゃないか」
テオは肩をすくめた。
「あんなに長い時間馬車に乗ったことなんかなかったんだ。もうぐっすり寝たから平気だよ」
朝食を終えると、エドガーとテオは屋敷を出た。エドガーは書斎から持ち出してきたウィーンの地図をテオに広げてみせた。
「私の屋敷のあるこの一区は市壁で囲まれていて、だいたい貴族が住んでいる。その辺をぐるっと回って、それから市壁外へ行こう。そうそう、バイオリンを持っていきたまえよ」
この都市を熟知しているエドガーだったが、彼は腐っても貴族なので、移動は基本的に馬車を利用している。しかし、テオは馬車よりも歩きの方が得意だろうと思い、エドガーは歩いて街中を案内した。
「あそこの店は料理も酒もうまいぞ。人の良い店主がやっているから、機会があれば行ってみるといい……あの黒い屋根の店には絶対入るな、卵を食べれば確実に腹を下す」
貴族という身分にしては、エドガーは市壁の外の庶民的な通りの店々に精通していた。
テオは旅先でのことが思い浮かんだ。そういえば、イタリアでもホテルこそ質の良い所を選んではいたが、最後のグロッグニッツを除けば食事は高級というより、駅や町人に尋ねて家庭的な料理の出る店が多かった。そもそもテオが演奏していたあの食堂兼酒場も、地元の庶民の集まる場所だ。マルグレーテがこんな事を言っていた……エドガーは普通の貴族とは、少し違っているのだと。
一通り市壁外を歩いた後、エドガーは緑の屋根の店まで来た。楽器屋だ。
「ここで、君のバイオリンの具合を見てもらわないか?」
テオは眉を寄せた。
「別に壊れてない。音は出る」
エドガーは笑い声をあげた。
「それは知っているさ。ただ楽器の手入れは必要だぞ。弦もろくに替えていないんだろう」
「……信用できるのか? 壊されたり別の楽器とすり替えられたり……」
テオの警戒するような目に、笑いを浮かべていたエドガーは目を細めた。彼の生きてきた世界を思えばこのような疑いの目は当然だ。
エドガーは真面目な顔で穏やかに答えた。
「心配するな。店主は私の古くからの知り合いで、腕も確かだ。この街区でバイオリンの構造に詳しい男は彼を抜いていない。私が保証しよう」
テオは無表情でエドガーを睨んでいたが、やがて小さく頷いた。
「わかった。エドガーがそこまで言うんなら」
エドガーはホッとして扉を開けた。
「いらっしゃい……おや、これは旦那!」
リンリンとドアベルが鳴ると、恰幅のいい店主がにこにこしながら出迎えた。
「帰ってたんだな、イタリアでの旅はどうで?」
「昨日着いたんだ。いつも以上にすばらしい音楽を聴けたよ。だがやはり勝手知ったるこのウィーンがいい……これの手入れを頼みたい、大事な物だ」
エドガーは店主にテオのバイオリンを差し出した。
「バイオリンね……旦那のこの後の予定は?」
「またすぐに来る。あんまり手離したくないんでな。もし修理しなければならんところがあったら直す前にききたい」
「承知した。弦はどうする、ちょうどいいのが手に入ったが、張り替えるか? 古いままだとあんまりいい音が出ねえが」
エドガーはテオの方を向いた。視線を受けたテオは頷いた。
「よろしく頼む」
手入れが終わるまでの間、エドガーはテオを連れて近くのカフェに入った。
「ここが一番落ち着けるカフェだ」
エドガーは湯気の出ているコーヒーを飲みながら新聞を広げた。
テオはエドガーが新聞を読んでいるのをしばらく眺めていたが、突然煙たくなって咳込んだ。
煙草だ。カフェの中は広く、天井も高いが、煙草の煙が部屋いっぱいに立ち込めていた。
辺りに気を配れば、あちこちからわめいている声がするのに気づき、テオは顔をしかめた。酔っているわけではなさそうなのに、口論は白熱している。
新聞を読み終えたエドガーは、目の前のテオの顔を見て、その目線を辿って笑い声を漏らした。
「あれは喧嘩しているわけじゃない、今の社会情勢について討論しているんだ。最近機械化が進んで、仕事がなくなってきた連中が多いだろう」
テオは、口調を荒げている彼らが上等な衣服に身を包んでいる姿に眉をひそめた。
「でも……彼らはどう見ても労働者じゃない」
エドガーは頷いた。
「ああ、もちろんインテリ達だ。労働者の代わりとなって政治に変化を与えようって考えなんだろう」
テオはやはりわけがわからないと肩をすくめた。
あんなに豪勢な服を着ていられる身分だというのに、なにが不満なのだろう。政変が起こったときに、なにかしらの被害を受けるのは下層民だ。旅をしていた頃、テオは社会情勢が変わりそうになるとその土地を去るようにしていた。大幅な変革は平穏な暮らしを壊すことになりかねない。
エドガーは、顔をしかめたままのテオを見て再び笑った。
「まあ政治が変わろうが、帝国が崩れようが、この土地から音楽が消えることはないさ。さあ、そろそろ手入れが終わったかもしれん、いこう」
楽器屋に戻ると、二人は待っていた店主に奥の修理部屋まで通された。そこには様々な楽器が並んでおり、テオはきらきら光る真新しい金管楽器に目を細めた。
時々酒場で協奏する時に一緒になる金管奏者の楽器は、大抵くすんであちらこちらにへこみがあった。
新品はこうしてきれいに磨かれて売られているんだな。自分にはあまり関わりのない楽器の事実に、テオはひとり感心していた。
店主は手元の台の上に置いていたバイオリンケースを開け、中身を取り出して二人に見せた。
「まず表面はきれいに拭いておいたよ。調べたけど、修理が必要なところは特になかった。本体そのものの傷みもまあ大丈夫だろう。そんで、張り替えた新しい弦の方なんだが……どうかな、弾きにくいかどうか確かめてみてくれないかい?」
テオは新しくなった弦をしげしげと眺めた。見るからに頑丈で上等そうなものだ。
テオはバイオリンを受け取ると、左下の部分を顎に当てて弓を傾ける。
まるで森の奥を流れる小川のような音が流れた。そのままテオは鉄道の旅の時にマルグレーテから習った短い曲を弾いた。
弾き終わるとテオはまじまじと手元のバイオリンを見下ろした。弾きやすいなんてものじゃない、なにもかもが違う。これほどなめらかに弦を擦ることができるとは思わなかった。弦を替えただけなのに、まるで自分の楽器じゃないみたいだ。顔を上げると、店主は美しい音色に目を丸くさせ、エドガーは口元に手を当てていた。
テオはバイオリンを手にしたまま肩をすくめた。
「……さすが高級品は音が違う」
「むしろ今までどんな弦で弾いていたんだ!」
エドガーはわからないというように首を振った。
「弦はよく切れるものだと聞くが、そんなに質の悪いものを使っていたのか? まさか、今まで弦が足りていなかったとかではあるまいな?」
「ないことはないけど、いつも店で一番安い物を買ってる。ああ、でもさっきまで付けてたやつは、一文無しになった時に情けでもらった廃棄寸前の物だった」
「嘘だろう……」
呆れたように言うエドガーだったが、二人の会話を聞いていた店主が横から口を挟んだ。
「……い、いやいやいや、弦の問題じゃないだろう!? 君、すごくうまいじゃねえか! 何者なんだ、ずいぶん若いが、宮廷の楽士なのかい?」
「……別に何でもない」
テオは無表情のまま答えて楽器をケースにしまう。エドガーはテオのそっけなさに苦笑いし、代わりに店主に笑顔を向けて答えた。
「彼はまだウィーンに来たばかりの人間だよ。これから有名になるかもしれないからよろしく頼む」
店主はテオの無愛想に一瞬目を瞬かせたが、笑って頷いた。
「ほう、彗星のごとく現れた天才ってやつか! そりゃ、期待が高まる。今後もこの店を贔屓にしてくんな」
手入れの支払いを済ませると、エドガーはテオと共に店を出て、帰路についた。
街中の木々はすっかり色づき、乾いた風によって枝を離れた葉が宙に舞っていた。じきにこの風もさらに冷たくなり、枝は裸になるだろう。
テオはこの季節になると毎年冬支度をして、南の方へ移動していた。寒さの中では指が動かないし、客は立ち止まらない。何より野宿すれば凍えてしまうような場所にいるわけにはいかなかった。
まだ母が生きていて自分が幼かった頃、一度だけ寒さで死にかけたことがあった。あの時はほんとうにつらかった。手足は動かせず、歯ばかりがかちかち鳴り、ひどくみじめで苦しかった。もう二度と同じような目にあうものかと、テオは一人で旅をするようになった時から冬は必ず南の方で過ごすようにしていた。
「厚着のコートを買っておかないとな。今年はいちだんと寒くなりそうだ」
エドガーは着ている薄いコートの前をかき寄せながらテオに言った。
「それにしても、今日は弦を替えてもらっただけだったが……もっと質の良い木でできた楽器だったら、音はさらに良くなるんじゃないか?」
テオは肩をすくめた。
「どうかな。俺はずっとあのバイオリンしか弾いてこなかったから、他の物だとうまく操れないかもしれない」
「ああ、そうか、楽器が手に馴染んでいるかどうかも重要だったな。となると……」
ふむ、と考えているようなエドガーは、ふいに立ち止まり、ポケットから小さなノートを取り出して何やらペンを動かし始めた。
テオは怪訝そうなまなざしでエドガーを見ていたが、ふと、どこからともなくピアノの旋律が聞こえてくるのに気づいた。
音は練習しているようで、ところどころつかえては弾き直している。そしてそれはピアノだけではなかった。耳をすませると、あちらこちらの家々から楽器の旋律が流れていた。
ひとつひとつ聴くと決して上手いとは言えなかったが、それでも一生懸命練習している奏者の姿がテオの頭に浮かび、テオは自分がバイオリンを教えてもらっていた頃の事を思い出していた。
弓を擦るだけで音を奏でられるということに、幼い時はひどく感動したものだった。まだ小さかったために楽器を構えることすら大変だったが、音楽を奏でるということは楽しく、ジプシーのバイオリン弾きの元で練習を重ねていった。
「やあ、すまんすまん。こんなところで立ち止まってしまったな」
ふいに気がついたように、エドガーが詫びたが、テオは彼の言葉に応えず、ただ気になることを言った。
「……誰か楽器を弾いてる」
エドガーはああと頷いてきょろきょろと辺りを見回した。
「ご令嬢達の嗜みだよ。この辺りは貴族やブルジョワの屋敷が並んでいるからな。ほら、マルグレーテも音楽を少しやっていたと言っていただろう……おっと、忘れていた。彼女の屋敷にも寄らねばいかんのだったな」
テオはわずかに顔をしかめた。
貴族の嗜み。その通り、貴族の娘達はテーブルマナーやダンス、刺繍、言語などを含めた一般的な教養のひとつとして音楽を嗜むことが必要とされる。理由はただひとつ。より良い条件の家に嫁ぐためである。どの家からも求められるのは完璧な淑女だ。ウィーンでは音楽好きが多いため、音楽は必須なのだろう。チェンバロを習い、バイオリンを弾き、歌を歌うことで音楽を身につける、それが彼女たちに課せられた義務なのだ。
そう考えると、この辺りで響く音楽はみな、そうした義務感のあるものだと思えてしまい、テオは急にマルグレーテに会いたくなくなった。
「……疲れたから、今日はもう帰りたい」
エドガーは目を瞬かせた。
「え? でも……」
「別に今日無理に会うこともないだろう。音楽の嫌いな親父さんがいて追い出されても困る。それに……新しく張り替えた弦で練習してみたいんだ」
テオの無表情からは何も読み取れなかったが、エドガーは肩をすくめた。
「そうか。まあ君がそう言うんなら」
その日の夜。夕食を終え、テオが新しく張り替えたバイオリンの弦で練習をしていると、部屋の扉が叩かれた。
練習を邪魔されてしかめ面で扉を開けるとエドガーだった。手に持った白い封筒をひらひらさせている。
「案の定と言ったところだな」
「……何が?」
「まあ、読みたまえ」
エドガーがテオにその封筒を渡して差出人の名前を指差したが、テオはちらと見ただけで眉をしかめたままそれを突き返して、エドガーを見上げた。
「誰からなんだ?」
そのテオの問いに、エドガーは目を瞬かせ、そして思い出したように声を上げた。
「ああ、そうか! 君は文字が読めないんだったな、悪い悪い。マルグレーテからだよ……どうせ寄越すと思っていたんだ」
テオはわずかに目を細めた。会いたくないと思っていたため、強引に押しかけられた気分だ。
「……練習中だ」
テオの拒絶にエドガーは含み笑いを漏らした。
「おいおい、手紙を読む前からそんな顔をするな。確かに少々わがままだが、私のお気に入りの姪っ子だぞ。内容だけでも聞くだけ聞いてやってくれ」
そう言われては仕方がない。テオは肩をすくめると、エドガーを部屋へ通し、自分はベッドに上がった。そして手紙の内容を聞く気がないというように、枕に背をもたせかけると脚を伸ばし、両手を頭にやって寛いだ格好で目を閉じた。
そんな様子にエドガーは小さく笑ったが、椅子に腰かけて改まったように手紙の中身を取り出した。
「それじゃあ失礼して読み上げさせてもらうよ。ええと……。
“拝啓、テオ様
ウィーンでの生活はどうですか。不自由をしていませんか。
叔父様に筒抜けになってしまうことはわかっていましたが、どうしてもあなたに手紙を書かずにはいられませんでした。叔父様が意地悪をせずにきちんと読んでくださるといいのだけれど。
町の案内を私ができずにほんとうに申し訳なく思っています。でも、きっと私より叔父様の方が多くを知っていると思うので、叔父様になんでもわがままを言ってあちこちへ連れて行ってもらってくださいね。
近いうちに、劇場で演奏会が行われると聞きました。きっと叔父様の元にも招待状が届けられるでしょう。私も父から許可を得られればご一緒できるはずです。
早くお会いしたくてたまりません。いいえ、お会いするだけでなく、テオのバイオリンが早く聴きたいというのが本音です。あなたの弾く旋律は、いつまでも私の頭からも心からも離れませんが、やはりもっと聴きたいと求めてしまいます。だってテオのバイオリンは、ほんとうに誰よりも素敵なんですもの。
楽譜は街中に溢れていますから、ぜひ弾いてみてください。弦も弓も慣れている方が良いかもしれませんが、種類は様々あるので、お店でぜひ試してみてくださいね。
叔父様の屋敷なら、きっと真夜中を過ぎても練習させてくださるでしょうね。だって叔父様は贅沢にもその美しい音楽を聴きながら眠りにつくことができるのですから。私の部屋にもその音色が届けばいいのに。
それでは、また。
あなたの友人、マルグレーテより
追伸、私のお気に入りの楽譜を同封するので、気が向いたら弾いてみてください”」
手紙を読み終えたエドガーの顔は思い切りしかめつらをしていた。
「全く、勝手な事を言いおって。なにが贅沢にも、だ。弦楽器の音は屋敷中に響くんだぞ! テオ君、君は彼女のこんな戯言には……」
と、手紙の文面からテオの方へ顔を向けたエドガーは、言葉を途切らせた。
青年はいつのまにかベッドの上で上半身を起こしており、両膝を立ててそこに顔を埋めていた。
「ど、どうした。具合でも悪いのか」
エドガーの問いに、テオは顔を上げないまま首を振り、くぐもった声を出した。
「俺が……俺が、間違ってた。マルグレーテは、純粋に俺のバイオリンを気に入ってくれてたのに……」
「ええと……何の話だ」
テオは顔を埋めたまま何でもないというように首を振って言った。
「……エドガー。明日、彼女の屋敷に行ってもいいか?」
突然のテオの言葉に、エドガーはぽかんとしたが頷いた。
「あ、ああ、いいとも。明日の午後にでも行こう……あの子も喜ぶだろう」
テオはふっと顔をあげて、手を差し出す。エドガーが手紙を渡すと、テオは読めない文面に目を落とし、マルグレーテのきれいな文字をじっくり眺めた後、同封されていた楽譜を取り出して、今度は文面とは違った目つきでそれを読み始めた。
エドガーは眉をしかめた。嫌な予感がする。
「ま、まさか、テオ君、君はこんな時間から……」
「エドガー」
テオは楽譜から顔を上げてエドガーを見た。
「朝早いうちに弾くのと、今から練習するのと、どっちがいい?」
エドガーは、やはりかとがっくりと項垂れて答えた。
「……今夜中にしてくれ。朝は絶対にやめてくれ」
こうしてエドガーの秋の夜は長く、マルグレーテのいう“贅沢な時間”はのんびりと過ぎていったのであった。
翌日の午後、エドガーとテオはマルグレーテの住まうシュミット伯爵邸を訪れた。
「これはこれは、エドガー様。相変わらず突然の訪問ですね」
出迎えた伯爵邸の執事は、にっこりと微笑む優しげな老人であったが、エドガーは彼の放った言葉に浮かべていた笑顔を引き攣らせた。
「……それが訪問客に対して執事が最初に言うことかい?」
「失礼ながら、高貴な身分の方は最初に訪問の予定や依頼を伝えるものだと先代の主から伺っておりますから。……おや、お顔の色が優れませんが」
「お気遣いどうも。昨日はなかなか眠れなかったんだ、“贅沢にも“ずっと音楽が聴こえていたからね。ルドルフ、君も弦楽器は屋敷中に響くということを覚えておいた方がいい」
目の下のクマを指摘した執事に、エドガーは真剣な表情で言った。すると、エドガーの後ろからテオが小さく「悪かったよ」とつぶやいた。
そこで初めて執事はテオの存在に気づき、目を丸くさせた。
「おやおやおや! これはこれは、お連れ様がいらっしゃったとは……大変失礼致しました。私は執事のルドルフと申します」
「……テオだ」
急にかしこまった老人に、テオは目をぱちくりさせて名前だけ答えた。
「それで、今日はお二人して何の御用で?」
エドガーは今朝届いたばかりの白い封筒をかざした。
「もうこの屋敷にも届いているだろう、来週劇場で開かれる演奏会のことで、兄上とマルグレーテに会いにきた。それと、テオ君はバイオリンを弾きにきた」
「おお、そうでしたか。マルグレーテ様は上のお部屋にいらっしゃいますが……まずはエドガー様とテオ様のご訪問をご主人様に報告し、演奏の許可を得て参りますので、こちらのロビーにてお待ちください」
執事のルドルフはエドガーとテオをロビーまで通すと、すぐに廊下の奥へと消えた。
シュミット伯爵邸のロビーには、エドガーの簡素な屋敷と違って、大きな階段の周りに年代を感じる調度品が飾られていた。壁に掛けられたバロックの絵、ずらりと並ぶ銀色の燭台、東方の水差しに見事なタペストリー。テオは調度品には興味がなかったが、相当の値打ちがあることはわかった。
「この屋敷は代々受け継がれている。ここに置いてある物も全部そうだ。兄上が揃えたんじゃなくて、もっとずっと昔からあるんだ……私が子供の時からこの配置すら変わっていない」
物珍しげに見渡すテオに、エドガーが言った。
「まあ、私に言わせればこんな物を買うより演奏会のチケットを買うか、旅費にまわす方を優先させるべきだと思うがな」
その時、階段の上から聞き覚えのある弾んだ声が降ってきた。
「テオ……? テオなのね!? 来てくれたのねっ」
マルグレーテだ。普段着と思われる簡素な桃色のドレスに身を包んだ彼女は、嬉しそうに階段を駆け下りると、青年の元へ駆け寄った。彼女の手入れされた美しい栗色の髪は、いつもしているような令嬢らしいアップにはせず、両端がそっと緩く編まれているだけで、ふわふわと揺れている。
「会いたかったわ! 手紙は読んでくれたかしら……いいえ、読んでくれていなくてもいいの、来てくださってほんとうに嬉しいわ!」
予想以上の歓迎ぶりと旅装でなく可愛らしい室内着のマルグレーテに、テオは少し頬を染めて言葉を紡ぐことができなかった。
エドガーが横から咳払いをした。
「あー、マルグレーテ。私もいるんだが」
「あら叔父様、御機嫌よう」
マルグレーテはちらと叔父を見るだけですませようとしたが、彼の目の下に驚いた。
「ど、どうなさったの、そのクマは! 病気にでもかかってしまったの?」
エドガーは苦笑いした。自分は睡眠時間を削るだけでひどくやつれた表情になってしまうらしい。
エドガーが答える前にテオが言った。
「俺のせいなんだ、昨晩はずっと練習してたから」
「練習? ああ、バイオリンのね」
マルグレーテが頷いたのに、エドガーが言った。
「お前が手紙と一緒に楽譜なんか送りつけるからだ。全くいい迷惑だよ、中身のない文章を読み上げなきゃならんかったしな」
マルグレーテは少し頭をめぐらせていたが、目をだんだんと大きくさせて笑みを浮かべた。
「……それじゃあ、テオは私のお気に入りの曲を練習してくれたの?」
「おかげでこっちはすっかり寝不足だ」
エドガーの不満気な言葉に、テオは頭をかいた。
「悪かったよ。もう二度と夜中に練習はしない」
そんな二人をよそに、マルグレーテは嬉しそうにきらきらした目でテオを見つめていた。彼は私の送った楽譜をもう練習してくれたのだわ、どんな人間にも排他的なテオが! もちろんただ新しい曲を弾いてみたかっただけなのだろうが、それでもマルグレーテは嬉しかった。
そこへ、執事のルドルフが書斎からロビーに戻ってきた。
「お待たせ致しました。ご主人様からエドガー様に、来週の演奏会ではマルグレーテお嬢様の付き添いを頼むと伝えてくれとのことです」
それをきいて、マルグレーテはふふふと笑った。
「昨夜の夕食では音楽の話を控えて、書斎でお願いをしたの、演奏会へ行かせてくださいって。もちろんあくまでもさりげなく、自然にね。あんまりしつこいと機嫌を悪くさせてしまうから」
エドガーは生暖かい目で姪を見てから、再び執事の方を向いた。
「わかった。兄上には任せてくれと伝えてくれ……それで、ここでの演奏の方は? 許可は取れたのか」
ルドルフは頷いた。
「しばらく考えておいででしたが、短い演奏ならば良いと仰っておられました。ご主人様はどなたかとは違って、今もお仕事をしておりますので」
「……まるで私が年中遊んでいるとでもいうような言い方だな」
エドガーが目を細めて文句をつけると、ルドルフはしらばっくれたように肩をすくめてみせた。
「いいえ、まさか! そんなことは微塵も思っておりませんとも。エドガー様は毎回突然訪問なさるように、いつもお忙しいでしょう」
そんな様子に、マルグレーテはテオに耳打ちした。
「この二人、いつもこうなの。ルドルフは叔父様が小さい時からずっとこの屋敷にいるらしいわ」
エドガーはふんと鼻をならしてから姪に向き直った。
「嫌味な執事は放っておこう。マルグレーテ、演奏は客間よりお前の部屋がいいのかな?」
「ええ、叔父様。どうぞこちらへ」
マルグレーテは頷いて二階へと導いた。
訪問者はいつもなら一階の客間に通されるが、二人はマルグレーテの客である上に、客間が書斎の隣に位置するため、音のことを考えると騒音で伯爵の機嫌を損ねる可能性があった。
マルグレーテの部屋は、クリーム色で統一された令嬢らしい雰囲気が漂っていた。壁にはロココの絵が掛けられ、棚には本と一緒に愛らしい人形が飾られている。
マルグレーテはメイドにお茶を頼むと、訪問客を装飾の施された栗色の美しいイスに座るよう促して、自分も座った。
「それで、ウィーンはどう? もう市壁の外は歩いた?」
テオは頷いた。
「エドガーが案内してくれた。楽器屋にもカフェにも入った」
「そうだそうだ」
エドガーは思い出したように言った。
「楽器屋でバイオリンの弦を新しく張り替えてもらったんだよ。音を聞いたらお前も驚くぞ」
「あら、そうなの?」
こちらを向いたマルグレーテにテオは頷いた。
「弓の動きがなめらかになって前よりずっと弾きやすくなった」
「まあ、素敵! 私の送った楽譜はどうだった?」
「難しかった。だから昨日の練習は長引いたんだ」
エドガーは「どれ、見せてくれ」と言いながらテオが取り出した楽譜を横から見た。
確かに旅先で手に入れた初歩的な教則本とは比べ物にならないくらい、たくさんの音符が並んでいる。
譜読みの初心者である彼に、こんな楽譜を送りつけるとは。エドガーは姪の容赦ない無邪気さに辟易し、テオの技術への向上心に感心した。
テオはケースからバイオリンを取り出して弦の調整を始めた。
「おいおい、テオ君。お茶が来て一杯飲んでからでいいんだぞ。来たばかりじゃないか」
エドガーの言葉にテオは言った。
「人が来ないうちに弾いてしまいたいんだ。マルグレーテ……その、あまり楽譜通りじゃないかもしれない」
「かまわないわ」
マルグレーテは微笑んだ。
「私は、私の送った楽譜を練習してくれたということが嬉しいのよ、どうもありがとう」
テオは彼女の言葉に真一文字であった口の端をわずかに上げた。
彼は楽譜を広げ、再びざっと眺めてからテーブルに置くと、すっと立ち上がりバイオリンを顎に当てた。
美しい音色が溢れ出す。冒頭の難しそうな音がたくさん並んだ旋律も、まるでその音があたりまえに存在していたかのように弾かれていった。
マルグレーテは目をつむって音だけを楽しむつもりだったが、想定外の美しい響きに、目を見開いて全身で聴いていた。エドガーもテオの練習の音を昨夜聴いていたつもりだが、やはり音の美しさとテオの技術に感動していた。
音楽は楽譜通りに進み、短い曲としてすぐに終わった。
演奏が終わるとマルグレーテとエドガーは心からの拍手を送った。
「なんてこと……素晴らしいわっ!」
「昨日見た楽譜なのに、ここまで弾けるとは! やはり君は天才だ」
テオは少し照れたように肩をすくめた。
「完璧じゃない、数カ所ごまかしがあったし、それに弦を替えたから音が良く聞こえるだけだ」
「何を言っているのよ、同じ弦を使っている人は大勢いるけど、そんな音は誰にも出せないわ!」
「ううむ、こんな素晴らしい演奏を間近で聴けるなら、少しくらい寝不足でもかまわんな」
エドガーとマルグレーテが賞賛の言葉を送っていると、部屋の扉が小さく叩かれて、メイドがお茶を運んできた。
「ありがとう……ねえ、マリア! あなたもきいた? テオのバイオリン、とっても素晴らしいでしょう?」
マリアと呼ばれたメイドは、マルグレーテよりも少し歳上のようだ。彼女はカップとポットを置くとにっこりと微笑みを返した。
「ええ、お嬢様。バイオリンをちゃんと聴いたのは久しぶりですが、とても感動致しました。あの、それから……」
マリアは後ろを向いて開け放たれたままの扉の方を見た。その場にいた三人はなんだろうとそちらに目を向けーーマルグレーテはあっと声をあげそうになった。
扉の横に立っていたのは、父、シュミット伯爵だったのだ。座っていたマルグレーテとエドガーは反射的にその場でさっと立ち上がった。
「お、お父様」
なぜここに。マルグレーテは目を見開いて父を見た。彼が仕事中に書斎から出てくるのはとても珍しいことだった。
一方、テオはマルグレーテの言葉で目の前の紳士がマルグレーテの父であることを知った。
初めて見るシュミット伯爵は、背格好こそエドガーと似ているが、威厳のある風格で、高貴さをまとい、いかにも貴族らしい堂々とした雰囲気を放っていた。街中ですれ違う尊大な態度の貴族は苦手であったし反感さえ持っていたが、この紳士は次元が違うと瞬時に思った。彼女が父に歯向かえない理由がここにある気がした。そしてマルグレーテの目鼻立ちは父親似だと知った。
伯爵は部屋には入ろうとせずに、テオの方を向いて口を開いた。
「……なかなかのバイオリンだ。久しぶりに良いものを聴いた」
その言葉に、その場にいた者は皆瞠目した。
今、父は何と言ったの? マルグレーテは耳に入った言葉が信じられなかった。彼はテオのバイオリンを褒めたのだ、ウィーンで珍しく音楽好きでない父が。
テオは驚き固まったが、威厳のある彼を前にして、彼の中で一番うやうやしくお辞儀をした。
「……ありがとうございます」
シュミット伯爵は頷くと、弟に言った。
「旅先から連れて帰ってきたのがこの青年か、エド」
エドガーはその言葉に目を丸くさせたが、頭に手をやるとへらっと笑った。
「いやあ、兄上にはすべてお見通しでしたか」
「マルグレーテがお前宛にかしこまった手紙を書くなんぞありえんからな。来週の演奏会にはこちらから馬車を向かわせる。三人で行くのにお前の馬車では小さいだろう。頼んだぞ」
伯爵は弟にそう言ってからマルグレーテに一瞥をくれたが、何も言わずに部屋を後にした。
扉が閉まり足音が遠ざかっていくと、マルグレーテとテオ、エドガー、そして隅に控えていたメイドのマリアは顔を見合わせた。
「今のをきいた?」
マルグレーテが興奮したように言った。
「信じられない、あのお父様がテオのバイオリンを褒めたわ!」
エドガーも立ち上がったまま驚きの声をあげた。
「それに馬車だ! いつもなら最後までマルグレーテを行かせまいと渋るのに、自ら向かわせるとは!」
「その上“三人”と言っていたわ、テオもちゃんと含まれているのよ!」
「あの旦那様が……! よかったですね、お嬢様」
マリアも同じく感激しているようだ。
テオはよろよろと椅子にたどり着くと、へたりと座り込んでしまった。
「テオ! 大丈夫?」
テオは無表情のまま答えた。
「……伯爵がきいているんなら、もっと、もっと昨日練習しておけばよかった」
「何を言っているんだ! 兄上の心を動かすのには十分すぎるくらいの演奏だったよ」
エドガーは大声で笑い飛ばした。それでもまだぼうっとしているテオに、マルグレーテは嬉しそうに言った。
「ありがとう、テオ。あなたの素敵な演奏のおかげで、あのお父様から許可を得られたわ」
「でも……楽譜通りじゃなかっただろう。あの曲が有名なら、ごまかした部分が伯爵にもわかったはずだ」
テオは少し苦い顔でテーブルの楽譜を見て言った。するとマルグレーテは楽譜を裏返し、その上に手を置いて首を振った。
「楽譜通りじゃなくて、テオの弾きたいように弾いてくれてかまわなかったの。お父様はそれを褒めてくれたのよ。私だってこの曲も好きだけど、それ以上にテオのバイオリンが好きなんだから」
テオはその言葉に目を丸くした。エドガーもマルグレーテに同調した。
「むしろそのアレンジがすばらしいな。習ってきた事だけで、楽譜通りにしか弾けない劇場の演奏者には真似できんことだぞ」
テオは驚いていたようだったが、やがてわずかに優しい目に変わって、二人を見上げた。
「……ありがとう」
テオは初めの頃と比べて氷が溶けたようなまなざしになっていた。マルグレーテも彼の新たな表情に笑みを浮かべて叔父の顔を見た。エドガーもそれに頷き、嬉しそうにテオとマルグレーテの頭に手をやった。
「いやあ、これで二人とも大手を振って演奏会へ行けるな! 何しろ兄上のお墨付きだぞ。もう怖いものなしだ。いっそ皇帝の席でも座れるんじゃないか?」
「叔父様ったら、またそんな調子のいいこと言って!」
マルグレーテは笑い声をあげた。
少し離れた廊下の先で、シュミット伯爵は立ち止まってその楽しそうな笑い声を聞いていた。
「珍しいこともあるものですね」
シュミット伯爵が振り返ると、執事のルドルフがおもしろそうに笑みを浮かべて立っている。
伯爵は目を細めたが、何も言わずに書斎へ歩き出し、ルドルフはその後に続いた。
「ご主人様がお嫌いな音楽をお褒めになるとは。雨が降らなければ良いのですが」
ルドルフの軽口に、伯爵は前を向いたまま眉をしかめた。
「別に嫌いなわけじゃない、毎回演奏会に出向くほど興味がないだけだ」
ルドルフは含み笑いをしてから言った。
「そうでしたか……彼をお気に召しましたか? テオという名もないバイオリン弾きのようでしたが」
「稀にないバイオリンの才能の持ち主だということは素人目にもわかる。私が気がかりなのは、マルグレーテの方だ」
伯爵の言葉にルドルフは納得したように頷いた。
「確かにマルグレーテお嬢様に、彼のようなご友人がいらっしゃるとは意外でしたね」
「無論、悪い虫が近づけば私が排除してきたからな」
「しかし、後ろ盾もなくエドガー様お一人に頼っているだけなのであれば、彼は無害と言ってもいいのでは……? 何かを企んでいる様子もなさそうでしたが」
ようやく書斎に着くと、伯爵はルドルフの方をちらと振り向いて鋭い視線を向けた。
「音楽を極める彼に非はない。言っただろう、問題はマルグレーテだ」
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