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3. 旅の終わり
しおりを挟む列車の旅はさらに続いた。車内の寝台で眠ることもあったが、乗り換えがある度に列車を待つので、町で一泊することもあった。
グラーツの町に着くと、マルグレーテは楽譜屋でバイオリンの楽譜や教本を買った。テオに教えるためだ。
しかし、テオは楽譜を見て顔をしかめた。
「俺は楽譜なんか読めるようにならなくても今まで生きていけたし、今さら必要になるとは思えない」
すると横からエドガーが言った。
「そうでもないさ。確かに君の演奏には楽譜がなくても問題ないが、楽譜は音の記録が残せるし、昔の音楽家によって記録された名曲を再現することができるんだ。覚えれば便利だぞ」
「それに音符は文字を覚えるよりずっと簡単なの……とにかく読んでみましょうよ」
マルグレーテはにこにこしながらテオの隣に腰掛けて楽譜の本を開いた。テオも肩をすくめて仕方なくマルグレーテの手元に目を落とす。
「これはルートヴィヒの"君を愛す"の曲よ。まず、この棒のついた黒い玉が一つの音を表していて、五つの線のどこに位置するかで音の高さが決まるの……」
マルグレーテの説明は単純明快でわかりやすく、まともに譜面を見たことがないテオでも理解できた。
「それなら、次はラの音?」
「そう! 覚えるのが早いわね」
マルグレーテは貴族の娘の教養として一通りの音楽知識は学んでいるので、間違った事を教える事はなかった。
エドガーもその様子にほっとしていた。ウィーンに行ったとき、もし誰かに彼の指導を頼むとしたら、最低限の楽譜は読めたほうが良いだろう。
「この棒の上に付いている飾りはなんだ?」
「これは音の長さを半分にしているのよ。この飾りが多ければ多いほど音が短いの……たとえば、ich lie--be dich のラの音は長いのにソの音は短いでしょう?」
「ああ、なるほど」
グラーツの町を発ち、再び列車の旅は続いたが、楽譜の講座のおかげで三人は退屈することはなかった。次の駅に着く頃にはテオは最初の曲をきちんと弾けるようになっており、次の譜面にも目を通していた。
エドガーは、熱心に楽譜を読み始めたテオを見て、隣の姪に耳打ちした。
「彼の吸収力はすごいな。基礎がこの早さなら、宮廷の演奏会の楽譜も心配なさそうだぞ」
マルグレーテは咎めるようにエドガーを見た。
「叔父様、彼はあくまで演奏を聴きにウィーンへ行くのよ。もちろん彼のその才能を多くの人に認めてもらいたいけど、それは彼が望めばという話だということを忘れないでちょうだい」
「わかっているさ」
エドガーは肩をすくめた。
「私は彼にとってのベストを考えているんだ。名もない音楽家にチャンスを作り出していくのが、我々音楽愛好家の役目だからな」
胸を張って言う叔父に、今度はマルグレーテが肩をすくめた。
グロッグニッツの町に着くと、次の列車の発車まで一日待たなければならなかった。どうやら途中の谷で山崩れがあったらしい。
「宿を探さなければならんな」
荷物を両手に持ったエドガーはいかにも面倒だというような表情で言った。マルグレーテは頷いたが、周りの景色に感嘆の声を漏らした。
「山に囲まれたきれいな町ね! 行きは通り過ぎただけだったから、ちっとも気がつかなかったわ」
秋も深まる山の木々は赤や黄色、橙で鮮やかに染まっていた。
駅を降り中心街に出ると、広場の中央でジプシー達が演奏したり踊ったりしているのが見えた。街でも珍しいのか、多くの人が集まって見物している。
エドガーとテオは一瞥したが、人があまりにも多いのでそのまま通り過ぎようとした――しかし、マルグレーテは足を止めて目を輝かせた。
「うわあ……素敵なダンス! ねえ、少し見ていきましょうよ」
「いや、しかし先に宿を……」
「ほら早く、こっちよ!」
エドガーが言いかけた言葉には全く聞き耳を持とうとせず、マルグレーテは叔父の袖を引っ張って、広場の真ん中の方へとずんずん歩きだした。引かれながらエドガーは後ろを向いてテオに困った顔を向けたが、テオも肩をすくめて後に続いた。
ジプシーたちの演奏は、アコーディオンにバイオリン、マンドリン、笛、タンバリンなどの楽器が使用され、それに合わせて三人の美しい女性が艶めかしく舞踊っていた。音楽はいかにもジプシー風で、調子はだんだんと速くなっていき、それに合わせて雰囲気も盛り上がっていった。見物人たちは演奏に合わせて手拍子をし、マルグレーテもそれに合わせて楽しんでいた。
テオも、皆から注目を受けている踊り子のダンスを見ていたが、途中から隣のマルグレーテに視線を移していた。
耳に新しい音楽と華やかな舞に、伯爵令嬢の頬は薔薇色に染まり、目はきらきらと輝いている。もともと可愛らしい顔立ちをしていると思っていたが、芸術に純粋に感動している彼女の横顔は、周りが霞んで見えるほどに美しかった。
列車の中で譜面の説明をしているときに、「貴族令嬢の嗜みとして、音楽の知識は持っているけど、私は演奏は得意ではないの」と残念そうに述べていた。だがテオのような演奏家にとっては、彼女のように熱心に聴いてくれる存在はなにより嬉しいものだ。
テオはふと思った。自分は演奏している最中は、演奏に全神経を費やしているため、周りを見たことがなかったが、マルグレーテは今のような表情で、自分の演奏を聴いてくれているのだろうか。
演奏が終わると、拍手と歓声が沸き起こり、あちこちからたくさんのコインが投げられた。
エドガーは、いつまでも拍手を送っているマルグレーテの肩をたたいて促した。
「さあ、行くぞ。宿を探さなきゃならん」
ずんずんと歩くエドガーの後ろにつきながら、マルグレーテは隣を歩くテオに言った。
「さっきのジプシーの踊り子たち、とても美しかったわね! 私は黒髪の人に見とれてしまったわ。素敵な舞だと思わなかった?」
「え……踊り子?」
テオは焦った。まさかジプシーの踊りに見向きもせずにマルグレーテの顔をずっと見ていたなどと言えるわけがない。
テオが何と言おうか迷っていると、思いがけずマルグレーテは笑った。
「わかっているわ、テオは舞よりも演奏の方が気になったんでしょう。いつも音楽のことを考えているなんて、ほんとうに好きなのね!」
マルグレーテが勝手に解釈してくれたので、テオは言い訳する必要もなく、自然と話を変えることができるとホッとしたように言った。
「それは君も同じじゃないか。劇場でやる正式なものだけじゃなくて、ジプシー音楽も好きなんだな」
テオの指摘にマルグレーテは頷いた。
「もちろんよ。メロディーのある音楽は好きだわ。ジプシーたちみたいに踊りたくなるようなものも、楽譜に載っているような曲も好き。でも、曲というよりは感情が伝わってくるような演奏が一番魅力的だと思うの。だから私はあなたの演奏が好きなのよ!」
テオは目を瞬かせた。
「俺が感情を出してるって? そう見えるのか」
テオは自分が基本的に無表情であり、考えもあまり表に出さない人間だと自覚していたので、マルグレーテの言葉は意外だった。
「見えるんじゃないわ、バイオリンの音色がそう聞こえるのよ。人の心を掴むというか……うまく説明できないけど、あなたの音には精神が宿っているの。そしてそれが聴いている人の心に訴えかけて、まるで一緒に宙で踊っているような……」
テオは口の端を少し上げた。
「大した想像力だ」
「ほんとうよ! そう感じるんだから。とにかく他の人の演奏とは違うの」
テオは肩をすくめた。
「……他人とは、顔も声も性格も違うんだからおんなじ音が出るわけがない」
「あら、そういうものなの?」
技量のあるなしで音の違いが出るのはわかる。だが、マルグレーテには劇場で聴くようなある程度のレベルは皆同じ音に聞こえた。
「私には上手か下手かの区別しかできないわ。テオの音だけは、他の誰にも出せない音だと思うけれど」
「うまいかそうじゃないかだって、楽器に触れる年数が人によって違うからだろう。考えていることだって一緒じゃない。俺の音が他の誰かの音と違うのは当然だ。俺は、俺なんだから」
マルグレーテはその簡潔な答えを理解することはできなかった。だって一定のレベルになるとみんな同じように聞こえるんだもの、弾いている人間にはわかるものなのかしら。
その時、目の前にこちらを向いて仁王立ちしたエドガーが「えへん」と咳払いをして会話を止めた。
「話し合いはひとまずそこまでだ。全く、私が一生懸命宿屋を探しているというのに、後ろでぺちゃくちゃ楽しそうに楽器の話をしているとは」
「あっ、ご、ごめんなさい、叔父様」
マルグレーテははっとして辺りを見回した。いつのまにか中心街を抜けて細い通りを歩いていたようだ。目の前の小さな建物はどうやら宿のようだ。
「ふん。とにかく今夜はここに決まった。部屋を三つとも同じ階にしてもらったんだぞ。荷物を運んだらすぐに食事だ」
グロッグニッツの宿でエドガーは高価なワインに香ばしいソースのかかった大きな牛肉を三人分注文した。テオは初めての高級料理に目を丸くして皿の上を見た。食前の祈りが済むと、彼は隣に座るマルグレーテの手元を見ながら一生懸命カトラリーを使って食べた。
若者のそんな様子に、エドガーはほっと胸を撫で下ろした。よかった、思ったよりも行儀が良い。もしもウィーンで彼のバイオリンを見込まれて、貴族の食事会に招かれたとしても大丈夫そうだ……そんな事を考えながらエドガーは注文通りの良い肉にナイフを当てた。
食事の後は談話室に移動した。エドガーが揺り椅子でうとうとしている横で、テオは長椅子に座してバイオリンの手入れをしており、マルグレーテは向かいの椅子からそれをじっと見つめながら考え事をしていた。その食い入るような視線に、テオはやりづらそうに手を動かしていたが、やがてため息をついた。
「見せ物じゃない」
やめてほしいという意味を込めた言い方だったが、マルグレーテの方はそれには答えず、「ねえ、テオ」と呼びかけた。
「さっきの話、やっぱりよくわからないわ。ウィーンの舞台で聴くバイオリンは、みんな同じに聴こえるもの。演奏者達の性格は全然違うのに」
テオは目を見張らせた。
「まだそんなことを考えてたのか」
「だって……」
テオは納得のいかない表情のマルグレーテを見つめた。
彼女は音楽を愛している。それは先ほどの会話からもよくわかった。だが楽器に関しては嗜む程度で極めようとはしていない。ゆえに理解しがたいのかもしれない。
テオは小さく息を吐いた後、少し考えてから言った。
「……昔、旅芸人からバイオリンを習った時、彼がこう言ってた。楽器の音は、演奏者がどんな経験をしてきたかによって変わってくる。演奏者でも人間性の深い者ほど、いろんな音が出せるって。世界を知らないままの音楽は豊かじゃない。俺はずっと店の中で専属をやってる演奏家より、ジプシーの方が独創的で力があると思う。耳がもう違うんだ。いろんな音を聞いてるから使い分けることができる。俺なんかが知らない音域を彼らは何十にも分けて聞き分けてるんだ。それが経験の違いだ……わかるか?」
テオの話を、マルグレーテは感心したように聞いていた。耳が違う……そんなこと、考えたこともなかったわ。
「世界を知らないままの音楽……」
マルグレーテはぽつりと呟いた後、テオにきらきらした目を向けた。
「わかったわ! 劇場の人達が同じ音に聴こえるのは、皆が同じ音を求めているからだわ……そう、そうよ、そういうことなのだわ。みんな同じ音を目指しているんだもの、だから同じ音に聞こえるのだわ。すごいわ、テオ! ウィーンの人達だって、きっと考えなかったことよ、あなたはやっぱりすごいわ!」
嬉しそうな声を上げるマルグレーテに、テオはわずかに口の端を上げたが、「それでもウィーンはウィーンだ」とマルグレーテから視線を外した。
「俺だって若い方だし、完璧じゃない。君は褒めてくれるけど、ウィーンの町は……音楽の都は、俺には遠すぎる場所だと思ってる。求められているものが違うし、やっぱり世界中から優れた音楽家が集まる町だってきいてる。俺なんか、楽譜だって君に教えてもらうまでは読めなかったし、読む必要もないと思ってた……」
マルグレーテは、テオの無表情の奥に小さな不安があるのがわかったので、微笑んで首を振った。
「ウィーンの音楽は、あなたの思っているようなそういう形だけのものじゃないわ。あの町は音楽を渾身から求める人たちが集まる場所というだけで、完璧な人なんてほとんどいないわ。もちろん人が多いから音楽のレベルは高いでしょうけど、あなたのバイオリンはそれに十分応じているし、むしろウィーンに影響を与える存在になるはず。それに、あなた自身もあそこでより良いものを得られるって信じているわ」
テオは驚いたようにマルグレーテを見つめた。
「……ありがとう」
まっすぐなマルグレーテの言葉は、テオの心に自然と安心感を与えた。
翌日、グロッグニッツの駅を出発すると、ウィーン南駅まですぐだった。
見慣れた街並みが窓から見えてくる頃になると、もうすっかり辺りは暗くなっていた。エドガーが呟いた。
「やれやれ、ようやくおてんば娘のお守りから解放だな」
「聞こえているわよ」
マルグレーテは叔父を睨みつけると、テオの方に向き直ってがらりと態度を変えた。
「テオ、ほんとうはあなたには私の屋敷に招待したかったのだけど、私の家にはお父様がいるからだめなの。それでね……あなたには叔父様のお屋敷に住んでもらおうと思っているの」
テオはエドガーとマルグレーテの両方を交互に見ながら目をぱちくりさせた。
「二人は一緒に住んでいないのか?」
エドガーは横で頷いた。
「私は一人で数人の使用人と共に暮らしている。私の兄がマルグレーテの父だ。まあ、同じウィーンにいることには変わりないが」
「家だってそんなに離れていないのよ。叔父様は朝は機嫌が悪くて面倒だけど、基本的に自由に過ごせると思うわ。演奏会は三人で一緒に行きましょう。私をのけ者にしないでね」
エドガーは肩をすくめた。
「君の父親が止めない限りはな。テオ君、私の家では演奏をせがむわがまま娘がいないからゆっくりできるぞ」
「まっ! ひどい言い方。そんなにたくさんお願いしていないわよ」
マルグレーテの不服そうな言葉に、テオは言った。
「バイオリンを弾くことは俺にとって生きることの一部だ。頼まれなくても毎日弾く」
「まあ、それなら毎日叔父様の屋敷に遊びにいかなくてはね!」
マルグレーテのはしゃいだ声に、エドガーはため息をついた。
駅を降りると、すでにシュミット家の屋敷の馬車が迎えに来ていた。
「グロッグニッツで手紙を書いたが、ここまで時間通りとは、さすがはお前のお父様だな」
馬車を目にしたマルグレーテは、少し元気をなくした様子で言った。
「そうね、お父様のことを思い出したら、急に家に帰りたくなくなったわ……。機嫌が良いといいのだけど」
揺られる馬車の中、テオは窓から見えるウィーンの景色を珍しそうに眺めていた。マルグレーテはその懐かしい町並みをテオに紹介するつもりであったが、屋敷に近づくにつれてだんだん暗い気持ちになっていった。
エドガーは姪の様子をおもしろそうに見ていたが、テオは彼女の様子をいぶかしんだ。
「大丈夫か? そんなに父親が嫌いなのか」
「え? ……いえ、その、そうではなくて、ただ何もかも自由な生活ではなくなってしまうから、それが惜しいの。……よく考えたら毎日会いにいくのは難しいかもしれない。お父様が許してくれるはずないもの」
テオは頷いたが、彼女の言っていることがわからなかった。行きたいところに行けない? なぜだ。
考えているうちに、馬車が止まった。どうやらマルグレーテの住む屋敷に到着したらしい。
辺りはもう真っ暗だったが、彼女の屋敷からは灯りが煌々と漏れていた。
「さあ、マルグレーテ。笑顔をつくって貴族令嬢に戻る準備はできたのか?」
エドガーの問いにマルグレーテはつんとすまして言った。
「心配なさらなくてもけっこうよ、叔父様。お父様の前ではお人形のようにしていますから」
エドガーは愉快そうに笑った後、テオの方に顔を向けた。
「私も兄に軽く挨拶をしてくるから、ここで待っていてくれ。すぐに済ませる」
「わかった」
テオが頷いた。マルグレーテは悲しげな表情を浮かべてテオの手を取った。
「それじゃあ、テオ。元気でいてちょうだいね。叔父様には、うんとわがままを言ってもかまわないわよ」
「ありがとう、エドガーには楽譜をたくさんねだろうと思っている。次会うときにはもっと上達したバイオリンを聴かせるよ」
テオの言葉にマルグレーテは少し笑顔を取り戻した。
「期待しているわ」
マルグレーテとエドガーは馬車を降りると、屋敷の玄関へと向かった。
「笑顔が強張っているぞ」
「失礼ね、もともとこういう顔なの」
エドガーの指摘にマルグレーテは鼻をならした。すぐに召使いたちが出迎えてくれた。
「マルグレーテお嬢様、お帰りなさいませ」
「お帰りなさいませ」
召使いに笑顔を向け「ただいま」と答えると屋敷のロビーに入った。
「マルグレーテッ!」
「帰ってきたのね!」
ロビーではマルグレーテの姉達が待ちかまえており、笑顔で出迎えてくれた。
「ふふ、ギゼラお姉様にロザムンドお姉様、ただいま」
マルグレーテは目の前の二人の姉に微笑みかけた。
「まあまあ、しばらく見ないうちに肌が焼けたんじゃない?」
「髪もこんなにごわごわになって!すぐ手入れしなくちゃ」
三つ上のギゼラと四つ上のロザムンドは、妹が入ってくるなり頬に手を当てたり髪に触って彼女の状態を確かめ、マルグレーテはそれを嬉しそうに受け入れた。普段は口うるさいと思っているそれが、久しぶりに聞くと心地よく、自分を気遣ってくれている優しい手に、自然と笑みがこぼれる。そのときだ。
「マルグレーテ」
優しい声で名が呼ばれ、マルグレーテははっと顔をあげて嬉しそうな声をあげた。
「ベルタお姉様!」
ロビーに降りてきてこちらに両手を伸ばしているのは一番歳上の姉ベルタだ。マルグレーテとは六つ差があり、マルグレーテが最も慕っている姉だった。
姉妹はにっこりと微笑み合うと抱擁を交わした。
「おかえりなさい」
マルグレーテは優しい姉の腕に包まれたままで返事をしようとしたが、すっと姉の手が離れた。
なんだろうと姉を見上げるとベルタは自分の後ろに目を向けている。
振り返るとそこには、彼女達の父が立っていた。
マルグレーテたちの父ーーシュミット伯爵は、マルグレーテの姿を見ても普段通りの厳しい表情をちっとも緩めようとしなかった。マルグレーテは父親を見ると、上から糸でつられたかのようにしゃきっとし、ドレスの裾を摘み右足を後ろにやって、父親の前でかしこまった礼をした。
「お父様、ただいま戻りました。長く家を留守にし、ご心配をおかけ致しました」
シュミット伯爵は、目を細めて娘を見ていたが、やがて小さく頷いた。
「無事で何よりだ」
予想通りの、怒っているのかそうでないのかわからない声だった。と、マルグレーテの後ろから空回りなくらいの笑い声が響いた。
「兄上、それだけですか?」
振り向くと、エドガーだった。彼は張り詰めた空気を全く気にせずに軽い調子で言った。
「自分の娘に久しぶりに会ったんだから、もっと言うことがあるでしょう、もちろん私にも」
シュミット伯爵は弟に目を向けた。
「……お前もよく帰ってきた、エド」
伯爵の言葉に、エドガーは笑いながら肩をすくめた。
「兄上も相変わらずのようですね。もちろん安全に、そして有意義に旅することができましたよ。誰かの多少なわがままもありましたがね」
マルグレーテは叔父を睨みつけ、姉達はくすくす笑った。シュミット伯爵は無表情のまま頷くと弟に「夕食は食べていくのか?」と尋ねた。
「いいえ、今夜は遠慮します。屋敷に帰ってからやることもありますしね。それでは失礼しますよ。御機嫌よう、姪っ子達」
伯爵とその娘達に挨拶をしたエドガーはロビーを去っていった。
「叔父様!」
エドガーは玄関を出ようとしたが呼ばれた声に立ち止まった。マルグレーテが駆け寄ってくる。心配そうな表情を浮かべていた。
「どうした、マルグレーテ」
エドガーの問いに、彼女は俯きそうだった顔をぐっと上げた。
「叔父様、テオを頼むわよ。暮らしが窮屈にならないようにしてあげて。音楽の教師も無理やり押し付けないで」
エドガーは少し驚いた顔をしたが微笑んだ。
「安心しろ、彼の生活の自由は私が保証する。演奏会にも連れていくし、町も軽く案内するつもりだよ」
マルグレーテはまだ不安そうな顔をしていた。
「お願い、叔父様。テオに伝えてほしいの。その、私が無理を行ってこの町へ来てもらったのに、何もできなくてごめんなさいって」
ウィーンの町の案内も、演奏会に出席する手配も、ほんとうは自分の手でやりたかった。テオにウィーンへ来るよう頼んだのは自分だ。しかし、父親の保護下にあるマルグレーテは、テオのことは叔父に頼るしかなかったのだ。連れてきたのは自分なのに、全て叔父に投げることに今更後ろめたさを感じていた。もともと彼は、テオを連れてくることに反対していたからだ。
それを汲み取ったエドガーは、姪の頭に手を乗せた。
「わかっている。私もすべて承知の上で引き受けたんだ。それに、君が単独で自由な生活を与えてくれるとは彼も思っていないだろう。君は彼の保護者になったわけじゃない、彼の友人になったと言っていたじゃないか」
エドガーは微笑んで続けた。
「生活は私が工面しよう。その代わりお前は彼の友人としての務めをしっかり果たすんだ。演奏会には今まで通りお前も誘うよ」
マルグレーテはやっと明るい表情になった。
「ありがとう、叔父様」
「だが、彼が帰ることを望んだら帰してしまうからな。私はお前のわがままにいくらでも付き合うが、彼にはその義理はない」
「そうね、それは約束だもの……」
マルグレーテは少し寂しそうに頷いてからいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「だから叔父様が彼をうんと楽しませてあげてね、彼がウィーンを離れたくないって言ってくれるように!」
マルグレーテは再び叔父に礼を言うと、屋敷の中へと戻っていった。
エドガーは笑って肩をすくめた。
「……やれやれ、それこそ友人としての務めじゃないか」
エドガーが馬車に戻ると、テオは背もたれに頭を預けて眠っていた。少し待たせてしまったようだな。
エドガーはその無防備な寝顔に自分の姪を重ねて思わず笑みを浮かべた。
無愛想でいつも冷めたような表情のテオに怯むこともあったが、旅の道中で長く共にいると、それもかわいいものだと思えるようになっていた。
馬車はエドガーの屋敷へと出発した。
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