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1. 無愛想な辻バイオリン弾き
しおりを挟むゴトリ、と音を立てて目の前のテーブルにリゾットの皿が置かれた。赤ワインの良い香りが漂ってくる。
マルグレーテは、美味しそうな料理を前にして、まずはと水を飲み干し、食べても良いかと問うような目で、前に座る叔父を見る。彼は苦笑いを浮かべた。
「熱いから火傷には気をつけるんだぞ」
叔父エドガーの言葉に頷くと、マルグレーテは早速スプーンを手に取った。
「いただきますっ!」
ウィーンに住む伯爵令嬢マルグレーテは、毎年気ままな旅をする叔父エドガーに連れ立って、初めてイタリアを訪れていた。いくつか都市を回っていたが、もう旅も終盤に近づき、今はここヴェローナが最後の滞在先である。
この旅の間、エドガーの配慮で大体いつもホテルで豪華な食事をとっていたのだが、今夜は特別、叔父の選んだ大衆食堂で食事することになった。マルグレーテにとって庶民向けの店に入るということは滅多にないことである。初めて口にする味の料理に、マルグレーテは大満足だった。
「お、ついに演奏が始まるらしい」
叔父の言葉にマルグレーテは皿から顔をあげる。
「まあ、こんなところで?」
「そうだよ、これがこの店を選んだ決め手だ」
エドガーの視線を辿ると、店内の奥はピアノが置いてある低い段になっており、楽器を持った男達がズラズラと並んでいるようだった。
嬉しい! マルグレーテは早々に皿に残ったリゾットを平らげてしまうと、しっかりとその小さな舞台の方に向き直った。
演奏は合図もなく突然始まった。スペイン風の音楽の曲で、その中心となるバイオリンを弾いているのは、端正な若い男だった。マルグレーテと歳はそう変わらないように見える。彼の目つきは冷たく、演奏中にこりともしなかった。しかし、凍るような表情で演奏されるその情熱的なバイオリンの音色に、マルグレーテは心を奪われた。こんな音色、今までの演奏会では聴いたことがないわ!
息をするのも忘れるほどに、その音楽は美しかった。まるで自分の魂が肉体を離れ、このバイオリンの音に手を引かれて踊っているような……星空を駆け巡っているような気さえした。
「ブラヴィー!」
「素晴らしい!」
演奏が終わると盛大な拍手と歓声が客席から沸き上がり、マルグレーテも感極まりながらも拍手を送った。
「……叔父様! あのバイオリンの人は誰なの、イタリアでは有名な方?」
マルグレーテの問いに、エドガーも感動した様子で答える。
「いや、私にもわからん……だが実に素晴らしい演奏だったな! 思わず胸に手を当てたよ……次の公演はいつか聞いておいで。お前は彼に直接賛辞を述べないと気が済まんだろう? 私は店主と話をするから」
マルグレーテは頷いて舞台の方を振り返った。ピアニストやアコーディオン弾きは、まだ楽譜の整理をしているようだったが、先ほどのバイオリン弾きの若者の姿はなかった。すぐに店の裏口から帰ってしまうかもしれない。
マルグレーテはそう思い、慌てて席を立つと、店の出入り口へと急いだ。
バイオリンの演奏者テオは、無表情のまま舞台から出てくると、控え室に置いていたケースにバイオリンをしまった。
食堂のキッチンと楽団の控え室とされている部屋は小さな棚で区切られているだけであったが、清潔感はどちらからも感じられた。年季の入ったテーブルの上にはリンゴがいくつか並んでいる。テオはその中から1番きれいなものを選んで手に取った。そのままバイオリンの入ったケースを小脇に抱え、一番奥の事務所で今日の分の給料を受け取ると、酒場の裏口の扉を開けた。
店の外に出ると、むっちりした腕を組んで壁に寄りかかっている女がこちらを見た。女は襟ぐりの大きく開いた真っ赤なドレスを身に纏っている。テオは一瞬眉をひそめたが、彼女の視線を無視するかのようにそのまま通り過ぎようとした。しかし女は艶麗な笑みを浮かべ近づいてきた。
「待ってたんだよ、ハンサムさん。ねえ、あんたならサービスしとくからどうだい?」
「間に合ってる」
テオが顔を彼女に向けることもなくぞんざいに言うと、女はテオの腕を掴んだ。
「そう言わずにさ! あんたのさっきの音楽に感動しちゃったんだよ」
「失せろ」
氷のような声で言い放つと、しなだれかかるようにしてきた女の手を振り払った。「なにさ!」と不満そうに言う彼女を残して店の表の通りへ回る。
路地を抜け、大通りに面した店の前に来た……ちょうどその時、扉が勢いよく開いて目の前に若い娘が飛び出してきた。マルグレーテだ。
テオの方はいきなり現れた彼女に目を丸くしたが、マルグレーテの方はバイオリン弾きの姿を目にすると、慌てた表情が安堵に変わり、ほっとした笑みを浮かべた。よかった、間に合ったわ!
「先ほどの演奏、素晴らしかったですわ! お名前は? ぜひ次の公演を教えてください」
またか。テオは満面の笑みを向けてくるマルグレーテに、あからさまなしかめ面をした。
「間に合ってるから、けっこうだ」
そう言って立ち去ろうとする彼にマルグレーテは目をぱちくりさせたが、慌てて追いかける。
「お、お待ちください! 間に合ってるとは? 何が間に合っているのですか?」
テオは舌打ちした。
「けっこうだと言っているんだ」
マルグレーテは自分のイタリア語が間違っているのかと首をかしげていたが、あっと声をあげた。
「も、もしかして、もう次の公演のチケットは完売しているのですか? そ、そんな……で、でしたら、その次の公演のものを買いますわ!」
テオは会話が噛み合っていないことに気づき、足を止め振り返ると、追ってきた娘を刺すような目つきで眺めた。
ギロリと視線を向けられた彼女は少し怯んだ表情を見せたが、彼女の着ているドレスは見るからに上等な物で、襟ぐりもさっきの女よりもずいぶんと控えめだ。体つきも華奢である。どうも商売女ではないらしい。
「……あんた、誰?」
マルグレーテは自分がまだ名乗っていないのに気がついた。
「これは、失礼しました! 私は、マルグレーテ・フォン・シュミットと申します。イタリアに来た旅行者ですわ。先ほどこちらのお店で演奏を聴かせていただきました」
テオは眉を寄せた。旅行者? 貴族か。彼は名前から判断してドイツ語で問うた。
「ドイツ人貴族?」
マルグレーテは嬉しそうな笑顔で首を振り、ドイツ語で応えた。
「いいえ、お察しの通り貴族ですけど、ウィーンから来ましたの! 私、音楽が好きで、演奏会へよく行くのですが、あなたのような素晴らしい演奏は初めて聴きましたわ。ほんとうに感動しました」
テオの冷たい表情が少し和らいだ。音楽を好む者を拒む理由はなかった。
「そうか」
マルグレーテは、彼の顔をうかがって、もう一度尋ねた。
「あの、お名前と次の公演を教えていただけますでしょうか。ぜひまた聞きたくて……」
テオはマルグレーテの目を睨むように見た。彼女の瞳は怯えと期待が混じった色をしている。悪意のないものだと悟ると、彼はすっと目を逸らして言った。
「名前はテオ。公演なんて大それたことはやらないけど、明日またここで同じ時間に弾く」
テオの返答に、マルグレーテは目を輝かせた。
「明日……明日、また聴けるのですね! 嬉しい!」
マルグレーテの反応を最後まで聞くことはなく、テオは彼女を尻目に歩き出した。
「あっ! 楽しみにしておりますわよう」
慌ててテオの背中に声をかけたが、ざわついた街の大通りの中、彼の耳に届いているのか定かではなかった。
次の夜。
マルグレーテは、再び例の食堂にいた。叔父エドガーが店主に頼み、舞台の目の前のテーブルに座ることができた。夕餉は昨日とは違うトマトソースのビゴリにしてみたが、マルグレーテにとっては新鮮な味で満足していた。
デザートを食べ終わった頃にようやく舞台で準備が始まった。昨夜と同じくピアニストやアコーディオン弾きなどがズラズラと現れ、最後にバイオリンを持ったテオが舞台に出た。
客席をちらりと見ることもなく、相変わらず冷たい表情のままのテオに、マルグレーテはくすりと笑ったが、ふと気がついた。彼は楽譜を持っていないわ。
舞台には、それぞれの演奏者用の譜面台が用意してあったが、テオはそれすら使わないようだった。
演奏は前回と同様、突然始まった。曲は昨夜と同じものに加えて、北イタリアの民謡が流れた。アコーディオンとピアノの演奏者達は常時にこにこと楽しげにしているが、ただ一人テオは無表情で、しかしずば抜けて情熱的な音色だった。誰もが食事の手を止めてその旋律に耳をかたむけ、マルグレーテもテーブルに手をついてうっとりと聴き惚れていた。ほんとうに素晴らしいバイオリンだ。
演奏が終わったとたん、食堂は歓声と拍手とでいっぱいになった。
演奏者達が長々とお辞儀を繰り返し笑顔で手を振っていた横で、テオは一度きりの会釈をすると、舞台から奥の小部屋にすぐに姿を消してしまった。
「素晴らしい演奏なのに愛想のない男だ」
叔父が隣で呟いたのに対し、マルグレーテは彼が消えた部屋の奥を見つめたまま言った。
「でもあんな演奏、他に聴いたことがないわ。彼のバイオリンは、間違いなく世界一よ」
うっとりした声の姪に、エドガーは笑った。
「すっかりとりこになってしまったようだな」
「もちろんよ! 叔父様だって、ここにいる人達だってきっとみんなそうだわ。まるでバイオリンが歌っているかのよう……。ウィーンでもあんな演奏をする人はいなかったわ」
素直なマルグレーテは頬を紅潮させて言い切ったあと、はっと我に返ったように言った。
「彼はまた明日もここで弾くのかしら?」
エドガーは答えた。
「昨日店主に聞いたが、あのバイオリン弾きはここの専属の楽団の一員ではないらしい。契約は今夜までだときいたぞ」
「こ、今夜までですって!? ではここを離れるというの、どこへ?」
てっきりこの店の楽団員だと思っていたマルグレーテは思わず立ち上がった。
エドガーは肩をすくめた。
「そこまでは知らんな。後で店主とバイオリン弾きに会って聞いてみよう。今はまだ演奏を終えたばかりで忙しいだろうから……」
「それじゃあ間に合わないわ! 彼はすぐに帰ってしまうのよ、私、聞いてくる!」
マルグレーテは叔父を残したまま、慌てて店を出た。
ガス灯に照らされた道は、暗いのにもかかわらず多くの人でにぎやかだった。
マルグレーテは通りを曲がり裏口へまわった。ちょうどその時、テオが扉を開けて出てきた。
「あっ、あの!」
呼ばれた声にテオは眉をひそめたが、ああと思い出したように言った。
「昨日の」
マルグレーテは眩暈がした。無愛想だけど覚えていてくれたんだわ! 嬉しそうに頷いた。
「ええ、昨日お会いしたマルグレーテです! 今夜も素晴らしい演奏でしたわ!」
「それはどうも」
それだけ返して立ち去ろうとするので、マルグレーテは慌てて引き留める。
「あっ! お、お待ちを!」
まだ何かあるのかとテオは訝しげに振り向いた。
「ここで演奏するのは今日が最後と聞きました。私、その、明日もあなたの演奏を聴けると思っていたので……! 次の公演が決まっているのでしたら、場所を教えていただけませんか?」
彼女の懇願するような様子に、テオは冷たい表情を少し崩した。
「……そんなに俺のバイオリンを気に入ってくれたのか」
マルグレーテは真剣な顔で大きく頷いた。
「ええ、とても! 我を忘れるほどに!」
マルグレーテの必死な態度に少々圧倒されたが、あまりにも大袈裟な言い方に、テオは破顔した。
思いがけない彼の笑顔に、マルグレーテは目を見張った。まあ。今まで気づかなかったけど、この人、よく見たらすごくハンサムだったんだわ。
今さらのようにそんなことを考え、ぼんやりと彼の顔を眺めるマルグレーテだったが、テオの方は笑いながら言った。
「そいつはよかった。でも……昨日も言ったけど、俺は公演なんて大それたことはやらない。いろんな街で1人で弾いて稼いでるんだ」
マルグレーテは目を見張った。
「えっ……街で? それでは、劇場には出ないのですか?」
「そうだ。ときどきさっきの店みたいに短期契約で雇われたりするけど、基本的には1人であちこちをまわって道や広場で弾いてる。場所を定めてるわけじゃないが、特にこの辺りの街は少し弾くだけで暮らしていけるからよく来るんだ。明日からはもっと南へ行くつもりだ」
マルグレーテはショックを隠せなかった。
「そ、そんな……あんなに素晴らしいのに公式の場で演奏しないなんて! そうだわ、舞台と楽団なら私が紹介します! あなたならすぐに……」
「やめてくれ」
マルグレーテの提案に、テオは心底嫌そうな目で首を振った。
「俺はちゃんとした舞台とやらが嫌いなんだ。公式の場っていうのは結局のところお偉方の管理下だろ。身分がないと差別される。無駄な規則も多い。こうして街を自由に行き来している方が楽だし、一人で演奏してる方が俺のバイオリンだけをきいてもらえるっていう優越感に浸れる。それだけで十分だ」
舞台を否定するテオに、マルグレーテは胃がきゅっと痛むのを感じた。
哀しいかなその通りだ。世間では、演奏会の規模が大きければ大きいほど、出演する者もそれを聴きに来る者も、それなりの身分がなければ白い目で見られる。劇場での格差は昔に比べれば緩和されたが、まだしっかりと社会に根付いているのだと叔父がよく言っていた。
「そう……ですか」
貴族の身である彼女がそういう状況を弁明することは難しかった、否、弁明の余地はなかった。
彼ほどの才能があるのに、正式な舞台に立てないなんて。社交界でもうんざりしている格式が芸術の世界にまで影響してくることに、マルグレーテはため息をついた。
あまりにもがっかりしたその様子に、テオは彼女が好きらしい舞台を嫌いだと否定してしまったことに要因があると思い、慌てて言い繕った。
「あ……い、いや、舞台の演奏を否定してるわけじゃない。舞台に立てる連中は確かにそれなりの才能と努力があるんだろう。俺は自分の気が向いた時に、気が向いた曲しか演奏したくないから、その、決められた曲を弾くのが嫌なだけで……!」
冷たい表情が崩れ、焦りを浮かべたテオの顔に、マルグレーテは目を丸くしたが、彼が自分を傷つけまいとしていることに気づくと、にっこりと微笑んだ。案外思いやり深いようだ。
「ありがとう、お優しいのね」
「……!」
そのマルグレーテの感謝のこもった美しい微笑みに、テオは言葉を発せずに固まった。
今までまともに顔を見てなかったが、よく見たらべっぴんじゃないか。相手が貴族だから上品に微笑むのはあたりまえだとわかっていたが、テオは自分の顔が熱くなるのを感じた。
暗い夜の空だったが、明るく照らされたガス灯の光で自分の顔色を彼女に見られるのを恐れ、テオは咳払いして顔を背けた。
「……仕方がない。この街で演奏するのはほんとうにこれが最後だ」
そう言うとその場にかがみ込み、バイオリンをケースから出した。マルグレーテはまた目を丸くした。
「もしかして、今ここで弾いてくださるの?」
「俺は気まぐれだからな。次にいつどこで弾くかわからない。聴いておいた方がいいぞ」
そうして楽器を構えると再び零度の表情に戻り、弓を傾けた。
始まった演奏は、マルグレーテが初めて聴く曲だった。というより、彼の弾く曲はどれも聴いたことのないもののように聞こえた。どこか民族じみた節があるようで、しかし上品さと情熱を忘れていない、不思議な音楽だ。こんな旋律、天使でもない限り弾けやしないわ!
間近で聴くことのできる嬉しさと、目の前の言葉に表せない芸術に、マルグレーテは思わず胸に手を当てた。音は流れるようににぎやかな街に響き渡り、通りを歩く人の多くが、2人の立つ食堂の裏口近くに足を止めた。次第にその人だかりは輪となり、どんどん大きくなっていった。
バイオリンひとつなのに、大きなウィーンのオーケストラを鑑賞しているときと同じ、いいえ、それ以上の感動だわ。マルグレーテは夢見心地で聴いていたが、われるような拍手が鳴り響いているのに我に返った。いつの間にか演奏が終わったようだ。テオが地面にしゃがみこんでバイオリンをケースにしまっていた。大きな拍手と歓声とともに、あちこちからコインが投げられる。テオの隣りに立つマルグレーテは、コインを投げられる方に初めて立ち、複雑な新鮮さを感じていた。
マルグレーテは、足元に落ちているコインを一枚拾い上げてそれを眺めていたが、ふつふつと怒りが沸いてきた。
彼の音楽はこんなはした金で定まる価値なんかじゃない! ウィーン中の演奏会に出向いてばかりいたマルグレーテは、彼の意表を突くような才能は、もっと多くの人に認められるべきだと思った。そして、階級や口利きが必要な公式舞台、その門すらなかなか開こうとしない上層の人々、その社会にひどく腹が立った。
テオは投げられたコインを何食わぬ顔で拾っている。その日暮らしの彼には、きっと大切な資金に違いない。彼のような人はもっと評価されてもいいはずよ。
しかし、テオ自身がそういうことには興味がないと言っていた。彼に野心がもっとあれば、今より断然良い暮らしができるのは確かだ。ウィーンには野心のある音楽家が多い。また叔父のように、そうした音楽家を支援している貴族もいる。彼はもっとその世界を知るべきだわ。こんな街角や裏通りではなく、舞台に上がるほどの技術を持っているのだもの!
マルグレーテは、コインを拾う彼の動作をじっと見つめていたが、突然ひらめいたように彼の元へ駆け寄った。
「ねえ、私と一緒にウィーンに行きましょう!」
テオは拾っていた手を止めて顔を上げ、目をぱちくりさせた。
「……なんだって?」
「街角で弾くのもいいかもしれないけど、たまには聴いてみるのもいいのではありませんか? ウィーンは音楽の都です。あなたのような音楽家がたくさんおりますの」
「俺は弾かないと食べていけない」
「それは先ほどお聞きしましたわ。お見受けしたところ、あなたは楽譜を読むのではなく耳で聴いたものを弾いているのでしょう? それでしたら、レパートリーを増やすためにも演奏会に出向いてみてはいかがかしら」
テオはマルグレーテの指摘に口を歪めた。
彼女の言うとおり、テオは楽譜を読めない。その代わり耳で聴いたものをそのまま弾くことができる。テオはいつもそうやって演奏していた。大体は聴いたものや自分で作った曲を弾いていたが、そのためには確かに新たな曲を聴くことも必要だった。なにより、音楽の都ウィーンは音楽家にとって誰もが憧れる町だ。
「だが、俺は演奏会に行く身分でもなければ金もないし、服もない」
低くうなるような声に、マルグレーテはまたもやテオがたじろぐような笑みを向けた。
「ご安心ください。お友達として、あなたをご招待いたしますわ。ですからーー」
マルグレーテは右手を差し出した。
「私とお友達になっていただけるかしら?」
********************
「いかんっ! そんなことはこの私が許さん!」
夜半遅く、エドガー叔父の声がホテルのロビーに響いた。
マルグレーテがバイオリン弾きの青年と話を終えて店内に戻ってきた後、エドガーは店を出て馬車に乗っている間、姪から青年の話を聞いていた。しかし話が進むにつれてエドガーはだんだんと眉間に皺を寄せていき、そしてホテルに着く頃には怒鳴り声に達したのだった。
「叔父様っ! 叔父様だって彼の演奏は素晴らしいって言っていたじゃない!」
マルグレーテは怒鳴られても一歩も引かずに言い返した。
「それとこれとは話が別だろう! 彼がどこにでも顔向け出来る身分の整った貴族なら、喜んで連れていく。だが……」
「まあ! 叔父様まで身分を気になさるのね。私がお父様より叔父様の方が素敵だと思うのは、そういう区別をなさらないと思っていたからなのに、違うのね。フリードリヒ大王の意思を受け継いだって言っていたのは嘘なんだわ。結局のところそういう人間なのだわ」
エドガーはたじろいだ。
「い、いや、そういうわけでは……」
痛いところをつかれたようだ。確かに彼は自称啓蒙主義者だった。
「そういうわけではないとおっしゃりたいの? それなら彼がどんな身分でも関係ないのではないかしら」
姪に詰め寄られて、エドガーは咳払いをした。
「……私が言っているのは、その……つまり、正体不明の若い男を何の疑いもなしに、祖国へ連れては帰れないと言っているのだ。お前は彼のことをどれだけ知っている?」
今度はマルグレーテが言葉に詰まった。確かに彼とは二回会っただけだ。
「名前はテオ様というの。あちこちの町でバイオリンを演奏しているのですって……ええと、それから彼は……イタリア語もドイツ語も話せるわ」
明らかに少ない情報だとはわかっていたが、マルグレーテはほんとうにそれだけしか知らなかった。案の定叔父は胡散臭そうな表情を浮かべたので、マルグレーテはぐっとこぶしを握った。
「い、言っておきますけど、彼をウィーンに連れていきたいというのは彼の頼みではなく私の提案なのよ! 彼はあまり乗り気ではなかったけど私が説得したの」
「なんだと? お前が提案したのか?!」
大きく頷くマルグレーテに、エドガーは呆れたように額に手を当てた。
「……まったく、お前という子は! なぜそんな事を言い出した?」
マルグレーテは腰に手を当てて憤慨した様子で言った。
「あんなにも素晴らしい才能があるのに、街を放浪して日銭を稼いでいるなんて、これほど惜しいものはある? 彼は自分の能力がどれだけ優れているか知るべきよ! ウィーンならきっと大勢の人が彼の腕を評価してくれるわ。叔父様だって、ウィーンに彼のような人がいたら支援しているでしょう? だって音楽を心から愛しているじゃない!」
彼女の言う通り、エドガーは音楽を愛し、ウィーンの劇場や資金のない音楽家を支える活動をしていた。姪を連れて良い席で演奏会に参加できるのもそのおかげだ。そして、彼の弾くバイオリンが素晴らしいと感嘆したのも事実だった。
エドガーは、ため息をついて言った。
「……だが、ウィーンの君の屋敷に連れて帰ったところで、君の父親が許すとは到底思えないがね。門前払いをくらうということも……」
マルグレーテはにんまりと笑顔を浮かべた。エドガーはその謎めいた微笑みにきょとんとしたが、やがて察したのか勢いよく首を振った。
「おいおい、よせ! やめろ、私の家は絶対に……」
「お願い! 頼れるのは叔父様だけなの」
「お前、はじめからそのつもりで……! 向こうにあてがないのなら、連れていかなければいいじゃないか」
「だからこうして叔父様にお願いしているんじゃない。叔父様のお屋敷なら遠くはないから、私もすぐに会えるわ。それにもしかしたら毎晩演奏してくれるかもしれないわよ、あの素晴らしいバイオリンを!」
マルグレーテの懇願に、エドガーは再びため息をついた。別に困窮しているわけでもないのだ、客を1人迎えるという処遇なら独り身の自由な彼には難しいことではなかった。
「……あまり長居されても困るぞ」
叔父の了承ともとれるその言葉に、マルグレーテは花のような笑みを浮かべた。
「もちろんよ! 彼だってひとつの場所に留まるつもりはないと言っていたわ……ありがとう、叔父様!」
そう言って飛び上がって喜ぶ彼女の姿に呆れながらも、自分が姪に甘いことに苦笑するのであった。
次の日の朝、支度を終えてマルグレーテが叔父と共にホテルのロビーに下りると、出入り口には昨夜ほぼ無理やり取りつけた約束通り、テオが小さな鞄とバイオリンケースを持って立っていた。ほんとうに来てくれたのだわ!マルグレーテはほっ息を吐いた。
実際のところ、昨夜の提案にテオの返事は曖昧だった。マルグレーテが彼に“明日の朝、ホテルのロビーに来て”と言った通りにしてくれるか定かではなかったのである。
マルグレーテは嬉しさいっぱいに彼の名を呼んだ。
「テオ様っ!」
明るい呼びかけに、彼は振り返った。マルグレーテがにこにこと嬉しそうに駆け寄る。
「おはようございます。きっと来てくださると思っていたわ!」
テオは頷いただけで何も言わなかった。あいかわらずの無愛想だったが、マルグレーテは全く気にならなかった。
しかし気に障る者もいた。
「それが、連れていってもらう人間の態度か?」
マルグレーテの後ろからエドガーは少々不機嫌そうな声で言った。
「ウィーンに行くのだぞ。もう少し嬉しそうにしたらどうだ?」
刺々しい言葉に、テオは明らかに嫌悪感を示す目を向けた。マルグレーテが慌てて言った。
「叔父様、そんな言い方しないで!……テオ様、こちらは私の叔父です。ごめんなさい、叔父様は朝は機嫌が悪いのよ、お気になさらないでね」
マルグレーテはそう言ったが、テオは顔をしかめたまま返した。
「……無理に連れていけとは言ってない。機嫌をとらなきゃならないんなら俺は行かない」
「そんなっ!」
マルグレーテは悲痛の声をあげると、後ろの叔父を振り返り、ぐわっと恐ろしい形相で睨みつけた。
その迫力に、エドガーは気押されて頭をかきながら咳ばらいして手を差し出した。
「……し、失礼した。私はマルグレーテの叔父、エドガー・ゲルハルト・フォン・シュミットだ。姪が強引にウィーンへの旅を勧めたときいたが、私も……君はウィーンへ行くべきだと思っている」
テオは胡散臭そうな顔をしながらも「テオだ」と名乗ってエドガーと握手を交わした。
「叔父様も、テオ様の演奏にとても感動したのよ! そうでしょう?」
マルグレーテの問いかけにエドガーもそれには素直に頷いた。
「昨夜も素晴らしい演奏だった。君ほど才能を持った青年が、町の片隅でその日暮らしとはほんとうに惜しい」
テオは眉を寄せた。
「……その日暮らしのどこが悪い? ウィーンに行ったところで何か変わるとは思えない。俺はこの生活で満足してる」
マルグレーテは頷いて言った。
「わかっているわ、だから貴族のわがまま娘という友人に付き合うと思うだけでいいから来てほしいの。もちろん不本意だとは思うけど……ほら、私たちは昨日からお友達でしょう?」
テオはマルグレーテの目を射るように見た。マルグレーテは、その目が従姉妹の飼っている猫が警戒している時の目にそっくりだなあと思った。
「……条件がある」
しばらく彼女を睨みつけた後、テオが言った。
マルグレーテとエドガーは顔を見合わせ、再び彼を見る。
「条件?」
テオは頷いた。
「俺の活動地点は今はここだ。ウィーンに行っても、いずれはちゃんと送り返してほしい。あんたの気まぐれが終わった後、向こうにそのまま放り出されるというのならお断りだ」
エドガーは頷いた。
「それは私が約束しよう。私はイタリア音楽が好きだからこっちには時々来るんだ。最も君が戻りたいと思えばの話だがな。向こうでの暮らしも、もちろん保障しよう」
エドガーのきっぱりした答えに、テオはしばらく考えあぐねていたようだったが、やがてマルグレーテの懇願するような視線に気づくと、下を向いて小さい声でわかったと言った。
マルグレーテはテオの返事にたちまち笑みを浮かべ喜びの声をあげた。
「うわあ、きっと素敵な旅になるわ!」
応援ありがとうございます!
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