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決意
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夜、ひと仕事を終え、溜まった疲れを落とすために浴室へ向かった。今日は両脚がいつもよりだるい気がする。
淡い緑のタイルが敷き詰められた床の続く先には、大きくて広い浴槽がある。温かな湯気に包まれた体が、しっとりと汗ばんできた。私は束ねていた髪を解くと、まず髪を洗い、その後ゆっくりと湯船に浸かった。
筋肉の緊張がほぐれてゆき、体の芯から温まるのが分かる。脱力し、浴槽に体を委ね目を閉じた。
――後で痛い目を見るかもしれんぞ。
キースさんが険しい表情で放った言葉が不意に脳裏をよぎった。
柔らかい光に照らされた湯船の中で私は大きなため息をついた。乳白色の水面が揺らいでいる。
キースさんは、貴族に対して相当の不信感があるのだろう。金があるからと媚を売られつつ、結局は平民だと見下される。それは紛れもない屈辱だ。……しかし、国外と多くの取引をしている以上、貴族……国の権力者達と無関係ではいられまい。貿易は国益にも関わっているため、トルメキア家は国から特権を与えられているだろう。
「セレンは、誠実だもの」
ぽつりと小さな言葉が唇の隙間から零れ落ちた。キースさんの見てきた貴族とはきっと違う、から、心配されなくたって大丈夫。
――でも。
たとえセレンが権力に執着していなくとも、周りがもそうだとは限らない。
彼の家族はどうだか分からないが、ノワール家を取り囲む貴族達――たとえばオリヴィア様。
彼女はセレンへの恋心は勿論、力の無い者はセレンには釣り合わないという考えを持っている。平民は貴族とは釣り合わない、それは貴族なら殆どの人が持っている共通の考えなのかもしれない。
そんな環境で生きているセレンが、私が側にいることで不利益を被ることは無いのか?……あるだろう。
そもそも私なんかがセレンに釣り合う訳がない。昔の思い出を差し引いて、私に何が残るというのだ。オリヴィア様の言う通りだ。
彼の為を思うなら、彼の側を離れるべきだろう。
私が痛い目を見るのは構わない。傷つくのも多少なら大丈夫だ。でも、セレンまで痛い目を見るのは嫌だ。
少しだけ涙が滲み、視界がぼやけた。別に、特別悲しくはない。これは当然のことなのだ。今、こうして彼の側にいることの方が不思議だ。
……なんだか最近すごく疲れている。頭の中がぐるぐる回る……。
不味い、のぼせてきたのだろうか。少し気分が悪い。まだ病み上がりといえばそうだし、長く浸かり過ぎたのだろうか。
少しふらつきながら慌てて浴槽を出る。最近の私は失敗が多い。今は精神的にあまり健康じゃないし、余計に自信がなくなりそうだ。
適当に髪と身体を拭いて、浴室を出て自室を目指す。窓を開けて涼みたい、その一心だった。幸いにも髪から雫は垂れない程度には水気を拭いたため、床を濡らすことはないだろう。
そう思っていたら、屋敷内を歩いていたセレンと丁度出くわすこととなった。
ぶつかりそうになったが辛うじて足が止まった。私の姿を見たセレンは、私の髪にそっと指先で触れると目を丸くした。
「どうしたのアルト!髪がびしょ濡れじゃないか!ちゃんと拭かないと……」
「ちょっと逆上せちゃって……大丈夫。そういえば、久しぶりね」
「うん約一週間ぶりかな……ってそれより、こっち!」
セレンはすぐ近くにある自分の部屋に私を連れていった。そこでソファの上に私を座らすと、部屋にあった柔らかいタオルで丁寧に私の髪を拭いた。
「ふふ、気持ちいい」
私が笑うと、セレンも口元を綻ばせて嬉しそうに微笑んだ。
「ねぇアルト、寂しかった?一週間」
彼の言葉に私はふっと表情を曇らせた。この一週間、どちらかというと苦しかった。私はどうするべきなのか。
「……アルト?」
私の顔を覗き込むようにして見た彼が、怪訝そうな顔をした。少しの沈黙の後、私は苦し紛れの吐息と共に、一つの未来を述べた。
「……私、家に帰るわ」
淡い緑のタイルが敷き詰められた床の続く先には、大きくて広い浴槽がある。温かな湯気に包まれた体が、しっとりと汗ばんできた。私は束ねていた髪を解くと、まず髪を洗い、その後ゆっくりと湯船に浸かった。
筋肉の緊張がほぐれてゆき、体の芯から温まるのが分かる。脱力し、浴槽に体を委ね目を閉じた。
――後で痛い目を見るかもしれんぞ。
キースさんが険しい表情で放った言葉が不意に脳裏をよぎった。
柔らかい光に照らされた湯船の中で私は大きなため息をついた。乳白色の水面が揺らいでいる。
キースさんは、貴族に対して相当の不信感があるのだろう。金があるからと媚を売られつつ、結局は平民だと見下される。それは紛れもない屈辱だ。……しかし、国外と多くの取引をしている以上、貴族……国の権力者達と無関係ではいられまい。貿易は国益にも関わっているため、トルメキア家は国から特権を与えられているだろう。
「セレンは、誠実だもの」
ぽつりと小さな言葉が唇の隙間から零れ落ちた。キースさんの見てきた貴族とはきっと違う、から、心配されなくたって大丈夫。
――でも。
たとえセレンが権力に執着していなくとも、周りがもそうだとは限らない。
彼の家族はどうだか分からないが、ノワール家を取り囲む貴族達――たとえばオリヴィア様。
彼女はセレンへの恋心は勿論、力の無い者はセレンには釣り合わないという考えを持っている。平民は貴族とは釣り合わない、それは貴族なら殆どの人が持っている共通の考えなのかもしれない。
そんな環境で生きているセレンが、私が側にいることで不利益を被ることは無いのか?……あるだろう。
そもそも私なんかがセレンに釣り合う訳がない。昔の思い出を差し引いて、私に何が残るというのだ。オリヴィア様の言う通りだ。
彼の為を思うなら、彼の側を離れるべきだろう。
私が痛い目を見るのは構わない。傷つくのも多少なら大丈夫だ。でも、セレンまで痛い目を見るのは嫌だ。
少しだけ涙が滲み、視界がぼやけた。別に、特別悲しくはない。これは当然のことなのだ。今、こうして彼の側にいることの方が不思議だ。
……なんだか最近すごく疲れている。頭の中がぐるぐる回る……。
不味い、のぼせてきたのだろうか。少し気分が悪い。まだ病み上がりといえばそうだし、長く浸かり過ぎたのだろうか。
少しふらつきながら慌てて浴槽を出る。最近の私は失敗が多い。今は精神的にあまり健康じゃないし、余計に自信がなくなりそうだ。
適当に髪と身体を拭いて、浴室を出て自室を目指す。窓を開けて涼みたい、その一心だった。幸いにも髪から雫は垂れない程度には水気を拭いたため、床を濡らすことはないだろう。
そう思っていたら、屋敷内を歩いていたセレンと丁度出くわすこととなった。
ぶつかりそうになったが辛うじて足が止まった。私の姿を見たセレンは、私の髪にそっと指先で触れると目を丸くした。
「どうしたのアルト!髪がびしょ濡れじゃないか!ちゃんと拭かないと……」
「ちょっと逆上せちゃって……大丈夫。そういえば、久しぶりね」
「うん約一週間ぶりかな……ってそれより、こっち!」
セレンはすぐ近くにある自分の部屋に私を連れていった。そこでソファの上に私を座らすと、部屋にあった柔らかいタオルで丁寧に私の髪を拭いた。
「ふふ、気持ちいい」
私が笑うと、セレンも口元を綻ばせて嬉しそうに微笑んだ。
「ねぇアルト、寂しかった?一週間」
彼の言葉に私はふっと表情を曇らせた。この一週間、どちらかというと苦しかった。私はどうするべきなのか。
「……アルト?」
私の顔を覗き込むようにして見た彼が、怪訝そうな顔をした。少しの沈黙の後、私は苦し紛れの吐息と共に、一つの未来を述べた。
「……私、家に帰るわ」
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