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憂いと安らぎ

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 昨日の外出でびしょ濡れになったせいだろう、私は今ベッドの上で寝込んでいる。…完全に風邪を引いてしまった。

 全身が熱く、頭がぼうっとして思考がうまく働かない。寝込んでしまった私の代わりにヴィンス様が忙しく働いている。本来なら彼は屋敷の掃除や雑用をする必要はないのに、申し訳ない。

 テーブルの上には、先程ヴィンス様がもってきてくれた薬と水、切り分けられた果物が置いてある。食欲の湧かない私の為に、せめてでもと彼が置いて行ってくれた。

 早く治さないと皆に迷惑をかけてしまう、と薬を飲む為に立ち上がろうとした。すると、私の部屋の扉をノックする音が聞こえてきた。

「はい」

 ノックに対して少し掠れた声で返事する。する軋んだ音とともに扉がゆっくりと開いた。

「アルト、気分はどう?」

「朝より少し楽かしら…」

 セレンが心配そうに私のベッドの横に、近くの椅子を引っ張って座った。

 私はベッドから起き上がろうとしたが、彼は私の肩に手を置く素振りを見せ、やんわりとそれを制した。

「相当辛そうだ…薬を、不味いだろうけど」

 セレンは薬の注がれたカップを手に取ると、そっと私の口元に持ってきた。私は薬の強い苦みに顔をしかめながらもそれを飲み干した。

「…不味いわ」

「いい子だ」

 彼はまるで幼子を慰めるように、目を柔らかくさせて私の頭を撫でた。

「子供じゃないから大丈夫よ」

「大切な人が苦しんでいたら甘やかしたくなるのは当然だろう?」

 コンコン、と再び扉をノックする音。そちらを見ると今度はヴィンス様が籠を片手に部屋に入ってきた。

「プラマヴェル様、先程お父様がいらっしゃいまして、お嬢様にこれをと」

 そう言って彼が籠の中身を差し出した。それは丸くて大きなオレンジだった。

「部屋にお通ししようと思ったのですが…。曰く、プラマヴェル様はお優しく、風邪を移してしまうことを気にしてしまわれるので見舞いの品だけを、と」

「お父様も気を遣いすぎだわ、お見舞いに来てくれたら嬉しいのに。…やっぱり移したくないから遠慮してくださって良かったかも」

 私はぽつりとそう呟いた。

「オレンジは僕が剥くから、ヴィンスは下がってくれ」

「承知致しました」

 ヴィンス様は籠ごとテーブルの上に置くと、一礼をしてさっさと部屋を出ていった。セレンは籠の中からオレンジと小さなナイフを取り出すと、その皮を綺麗に剥き始めた。

「冷えてる。美味しそうだ」

 彼の手の動きに合わせて、オレンジの皮がするすると下に落ちて渦を形作る。その様子をぼうっと見ていると、彼が切り分けた果実のひとつを私の口元に運んだ。

「アルト、口開けて」

 私は小さく口を開けてそれを食べた。まるで小鳥の餌付けの様だ。

「…おいしい」

 口に含むと勢い良く果汁が流れ込んでくる。その甘くすっきりとした味わいは、熱に侵された身体に染みるようだった。

「セレンも食べて」

 一人で食べきるのは無理であるし、それに彼にも一度食べてみて欲しかったのだ。

 彼は私の言う通りに一切れのオレンジを食べると目を丸くした。

「おいしい…向こうで食べていたのとは違うな。甘いし、身も詰まってる」

「そうでしょう?」
 
 私は得意げに笑った。セレンは切り終えたオレンジを皿の上に並べると、ナプキンで丁寧に手を拭いた。

「昨日、びしょ濡れで帰ってきた時はびっくりしたよ」

「ごめんなさい、それでこんな風邪を引いてしまって」

「謝る必要なんてないんだ、ただどうしたのかが気になって」

 セレンは私が昨日オリヴィア様に会っていたことは知らないのだ。屋敷に帰ったのは完全に日の沈む少し前だった。

 私は慌てて夕食の準備をした後、他に残っている仕事を片付ける為にずっと動き回っていた。そのため珍しく彼と一緒の食事ではなく別々に食べたのだ。

 その後はもうお風呂と寝るだけだったので、顔は合わせていない。

「オリヴィア様に買い物を頼まれたから、少し町に出かけていたの…今度屋敷にいらっしゃる時にそれを渡さなくちゃいけないから」

 一瞬の静寂の後、セレンが少しだけ眉をひそめながら口を開いた。

「…オリヴィアに会ったの?」

 オリヴィア、そう親しげに呼ぶ彼に少し胸が痛む。

「うん、そうだけど」

「そうか…今度彼女が来た時に、僕が渡して置くから」

「分かったわ」

 彼女とは一体どういった仲なのだろうか。気にはなるが、聞けなかった。

「…アルト、オリヴィアの事誤解してる?」

 俯く私の頬に彼の手が伸びてくる。

「僕が好きなのは君だけだよ」

 セレンが私の頬にそっと触れる。目の前には優しく微笑む彼の姿があった。その愛おしいものを見つめるような瞳から、私は目が反らせなかった。

「す、好きって…」

「話は風邪を治してから」

 セレンは私の頭を撫でると立ち上がった。

「約束があるからそろそろここを出ないと。遅刻してしまうから、また終わったら様子を見にくるよ。夜にしか屋敷に帰れなかったら、起こしたくないから遠慮するけど」

「…夜遅くてもいいから会いに来て、少しの間でいいから」

 風邪で熱が出ているせいか、いつもより大胆になれる気がした。それに、とても心細い気分だ。風邪を引いたり、体調が悪くなったりする時、一人でいるととても寂しくなってしまう。

 だから、彼に助けを求めるように手を伸ばし、彼の服の裾を掴んだ。

「寂しいの…」

「うん、分かったよ、アルト」 

 セレンの優しい声に私はほっとして目を閉じる。彼に頭を撫でられながら、そのまま深い眠りへと落ちていった。 
 
 
 

 
 

 


 

 
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