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今は

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「このまま挨拶にと思ったけど、ちゃんと正装に着替えたいな…」

「別に気にしなくていいのよ?私の格好に比べたら充分正装だし、我が家は名家でもあるまいし」

「そんな訳にはいかないよ。大事な挨拶なんだし…」

 少し困った顔をしながら彼が笑った。

「今日は格好からして目立つのは嫌だったんだ。…視線を感じながらアルトと話すなんて、大事な時間を邪魔されたくない」

 ゆっくりと進む馬車の中、私とセレンは横に並んで座っている。馬車の中の窓は、しっかりとカーテンで遮られていて、外の様子は全く見えない。

「そういえば私が何処にいるかどうやって調べたの?」

「昔から君の家がどこの土地を所有しているかは知っていたから、そのうち手放していない土地が何処か調べて、後は聞いて回ったよ。そこまで苦労はしなかったから、助かった」

 彼は穏やかな顔をして微笑んた。

「果物を育ててるんだろう?数こそ沢山採れなくても、とても品質がよくて美味しいと評判らしいじゃないか」

「うん、愛情一杯に育てているから」

 愛しているからこそ、毎日大変な世話をするのだ。管理、生産は大変だが、おかげ様でそこそこの売り上げが出るようになった。

「セレンは今、何をしてるの?聞いても私には理解出来ないことかもしれないけど」

「僕の本来の仕事は、宮廷の書庫の管理なんだ。莫大な量の書物や資料を保管、整理とか」

「セレンに向いてそう」

「兄上は武芸に長けているけど、僕はこちらの方が性に合ってるよ」

 セレンは、「勿論今も剣の稽古や訓練は行っているけどね」、と言って自分の腕の袖をまくり上げた。

 そこには薄っすらとだが、鋭い切り傷の後の様なものが残っていた。思わず顔が強ばる。怪我をした時の、彼の苦痛に歪む顔が脳裏に浮かんだ。平民にはあまり馴染みの無い剣の怪我。彼には身近なものなのだと、彼の住む世界の厳しさの一端を垣間見た気がした。

「もう痛く無いから、そんな顔しなくていいよ」

 彼は少し困ったように笑うと、なんでもないといったように腕を軽く振るってみせたり、傷跡をつまんだりした。

「実はここに派遣されることが決まったのは、僕の休養も兼ねてなんだ。この怪我は訓練のせいじゃない。機密事項の書いてある記録書を盗みに来た男にやられた」

 盗みなんて、と驚いた。王宮の警備はどうなっているのか、と疑問に思う私の気持ちを、彼は察したかのようだった。
  
「伯爵家とあろうものが、そんなことをするなんてね。僕も心底驚いた。貴族が嗜みとして賭け事をするなんてよくあるけど、彼は違法なものにまで手を出して、しかも別の弱みも握られてしまったらしい。全てをなかったことにする為には…」

 そこから先は何となく分かる。きっと交換条件を提示されて、そんな無謀なことをしてしまったのだろう。

「それで、その人は?」

「勿論身分は剥奪されたよ。伯爵が書庫に盗みに来た時、僕は一人だったし剣を持っていなかったから、取り押さえる時に腕を斬られてしまったんだ」

「そんな…」

「そのことが高く評価されたのもあって、こっちで一年の間ゆっくりと仕事をして戻ることになったんだ。腕もいくら利き手でないとはいえ、まだ時折痛みもあって本調子ではないから、ゆっくりとして来なさいって、家族も」

 セレンの横顔を見つめる。そこに子どもらしさは既に無く、凛々しい姿だけがあった。

 無性に褒めたい気持ちになった、今までの彼の努力、成長、全て。

 そして、優しく穏やかで、いつも私の目を見て話してくれるところや、笑った時の昔の面影を感じる顔。昔とちっとも変わらない彼の本質を。

 でもなんて言って良いのかわからない。ただ「頑張った、偉い!」と言っても伝わらない気がする。そう思った私の手は自然と動いていた。
  
「セレン」

 そっと彼の方に手を伸ばす。そして彼の頭の上を優しく撫でた。

 指先に感じる彼の柔らかい髪の感触が心地よかった。昔の私もこうやって、ことあるごとに彼の頭を撫でていた気がする。お姉さん気分になれて嬉しかったからか、それとも。

 単純に彼と触れ合えることが、嬉しくて楽しかったからかもしれない。

 セレンは私にされるがまま大人しくしていた。心なしか、彼の耳がさっきよりも少しだけ赤く色づいて見える気がした。

「昔みたいに、頭を撫でてくれるとは思わなかった」

「無意識だったわ」

「だって少し距離を感じてた。目も中々合わかったし」

「それは…」

「素敵になったって思ってくれたのは嬉しいけど、緊張されちゃったのは複雑だった」

 そう言って彼は本当に複雑そうな顔をする。私は思わず小さく笑った。

「ごめんなさい、緊張はしちゃうけど」

「しちゃうのか」

「でも仲良くしたい、昔みたいに。それは本当よ」

 私の言葉に、彼は再び複雑そうな顔をする。

「僕は昔と同じは嫌かな」
 
「え?」

 こんなに近い距離にいるのに、小さくてよく聞こえなかった。

「アルトはさ、僕に触れられるのも、触れるのも、嫌じゃない?」

「それは勿論よ」

 彼の切れ長の目がこちらを見つめる。彼の浮かべる微笑がどこか色っぽくて、胸がドクンと音をたてた。

「なら今はそれで充分かな」 

 もう少し撫でていて、気持ちいいから。彼はそう言うと、目を閉じて私の肩に自分の頭を乗せてきた。

「少し眠らせて」

 ゆっくりと進む馬車は、私の家に後どれくらいで着くだろうか。緊張でうるさい胸をおさえながら、私は永く感じる時を彼と馬車の中で過ごした。
 
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