さくらの記憶

葉月 まい

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思わぬ再会

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「ん?」

読んでいた新聞から顔を上げて、祖父が窓の外を見る。

「どうかした?おじい」

パソコンをカタカタと打ちながら、北斗ほくとが声をかける。

「今、なんか物音がしなかったか?」
「んー?別に」

手元の書類に目を落としながら適当に答えると、祖父は机の向かい側から身を乗り出してきた。

「いや、なんか妙な音がしたぞ?」
「雨の音じゃないの?」
「違うな、そんなんじゃない。なんかこう、ザーッと」
「だから、雨だって」

視線も合わせず否定する北斗に、祖父はムッとしたようだ。

「絶対違う!北斗、お前、自分の耳とわしの耳、どっちを信じるんじゃ?」
「そりゃー、83歳の耳と28歳の耳なら、生物学的に言っても俺の耳だな」
「あーそうかい!じゃあ、もしわしの耳が正しかったら?生物学的に、お前よりわしの方が優れた人種ってことじゃからな!」

北斗は、やれやれと言わんばかりに祖父を見る。

「まったくもう、なんでそんなにムキになるんだよ?」
「北斗がわしの話を聞いてくれんからじゃろうが。ああ、この歳になって、孫にこんな扱いを受けるなんて…。天国のばあさんや、聞いておくれ。北斗ときたら…」
「あー、もう!分かったから!見てくりゃいいんだろ?外を」

北斗は、話を遮るように立ち上がった。

(うわ、凄い雨だな)

傘を差しながら、北斗は仕方なく玄関を出る。

絶対に何もないと思うが、祖父にあんなふうに言われた手前、見てこない訳にはいかない。

早くも出来始めた水溜りを避けながら、屋敷の横に広がる林の中へと入って行く。

(大体ザーッて何の音を聞いたんだ?どうせ斜面の土砂が崩れたとか、そんなんじゃ…)

そこまで考えた時、北斗はピタリと足を止めた。

降りしきる雨の中、木のそばにうずくまっている女性を見つける。

「おい、大丈夫かっ?!」

慌てて駆け寄ると、びっしょりと濡れた身体を抱き起こした。

「しっかりしろ!」

傘を放り出して耳元で声をかけると、若い女性はゆっくりと目を開いた。

「良かった…」

安堵した北斗は、もう一度女性の顔を覗き込み、ハッと息を呑んだ。

(…さくら)

思考回路が止まったように、北斗は腕にさくらを抱いたまま、しばらく雨に打たれていた。



「おい、おじい!タオルを、早く!」

玄関に入るなり、北斗は奥のリビングに向かって叫ぶ。

「なにごとじゃ?やっぱり何か…」

そう言いながら玄関に現れた祖父は、北斗が玄関に座らせた女性を見て目を見開く。

「も、もしかして…」

北斗はそんな祖父に、真剣な表情で頷いてみせた。

「やはりそうか。でもなぜ…」
「いいから、早くタオルを!」

祖父の思考を遮るように北斗が言った。

「大丈夫か?どこか怪我は?」

バスタオルで身体を包みながら北斗が声をかけると、さくらは首を横に振る。

「そうか。だがこのままだと風邪を引く。おじい、風呂沸いてるか?」
「ああ。さっき沸かしたところじゃ」
「良かった。じゃあ、ゆっくり身体を温めるといい」

そう言って肩を抱き、立たせようとすると、さくらは、あの…と不安げに顔を上げた。

「ん?どうした」
「あの…。私は、どうしたんでしょうか?なぜあそこに…。それに、ここはどこですか?」

北斗は思わず祖父と顔を見合せる。

「あ…、その。とにかくまずは、ゆっくり風呂に浸かるといい。話はそれからにしよう」

やや強引にさくらを立たせると、北斗はバスルームに連れて行った。

「タオルはこれを使って。濡れた服は洗濯機に入れて、このボタンを押せば乾燥まで出来るから」

さくらは、コクリと頷く。

「それとこれ、君の荷物だと思う。着替えも入ってるんじゃないかな?」

木のそばにうずくまっていた時に、さくらの横にあったスポーツバッグだった。

さくらは、ぼんやりとした表情で受け取る。

じゃあ、ごゆっくり、と言ってから、北斗はバスルームを出た。

そして小さくため息をつく。

(…どういうことだ?なぜさくらはここに?それに記憶も…)

「北斗、こっちへ」

どうやら同じ疑問を持ったらしい祖父に呼ばれて、リビングに入る。

「あの子は、さくらちゃんで間違いないんじゃな?」

北斗が頷くと、祖父は大きく息を吐いた。

「一体なぜ?どうしてまたここに?」
「分からない」
「それに、彼女の記憶もどうなっているんじゃ?お前のことも、ここの記憶もないようじゃったが…」
「多分、あの木に触れていないからだ」
「じゃあ今は、普段の記憶もここでの記憶も、両方ないということか?」
「おそらく…」
「…それでお前、これからどうするんじゃ?」

北斗は、机の上に両手を載せてじっと考え込む。

(俺の記憶がないなら、このまま別れた方がいい。出来るだけ早く、彼女があの木に触れてしまう前に)

そう結論を出すと、明日の朝、病院に連れて行く、と祖父に告げた。

(そうすれば、さくらの普段の記憶は戻るだろう。そして、ここでのことは忘れるはずだ。5年前と同じように…)



「あの…」

小さく呼びかける声が聞こえてきて、北斗と祖父は顔を上げる。

リビングのドアのすき間から、さくらがこちらの様子を見ていた。

「あの、お風呂ありがとうございました」
「ああ、いや。温まったか?」
「はい」

さくらは、先程とは違ってトレーナー姿だった。

「バッグの中の着替えは、濡れてなかったか?」
「あ、一番上の服は少し濡れてましたが、他は大丈夫でした」
「そうか。あ、髪は?ドライヤーまだなのか」

さくらの黒髪が濡れているのを見て、北斗はパウダールームに案内する。

「はい、ここに座って。ドライヤーはこれ」
「すみません、ありがとうございます」

スイッチを入れて髪を乾かし始めたさくらを、北斗は鏡越しに何気なく見る。

(あどけなさがなくなって、大人っぽくなったなあ。でも綺麗な黒髪と大きな瞳は、あの時のままだ)

すると、ふと鏡の中のさくらと目が合い、慌てて視線を逸らす。

「じゃあ、終わったら声かけて」

そう言い残し、そそくさと出ていった。

「美味しい!」

シチューをひと口食べて、パッと笑顔になったさくらに、祖父はにこにこと笑いかける。

「そうかそうか、そりゃ良かった。シチューは、わしの得意料理でな」
「とっても美味しいです!身体も温まるし、なんだかホッとしました」

そう言って微笑むさくらに、祖父は、うんうんと頷く。

「今夜はここでゆっくりしなさいね。何も心配しないでいいからね」
「ありがとうございます」

さくらは、改まって頭を下げた。

食事のあと、北斗は2階へさくらを連れて行く。

「この部屋を使って。トイレと洗面所は、この廊下を真っ直ぐ行って右側にあるから」
「あ、はい。ありがとうございます」

そう言いながら、さくらはキョロキョロと不安そうに辺りを見回している。

「どうかした?」
「あ、いえ、あの。おうちの中がとても広くて、その、どっちから来たのか分からなくなっちゃって…」
「この廊下を戻って、左に曲がった所の階段を上がって来たんだけど…」
「え?!左から来ました?私、右に曲がったような気がしたんですけど…」
「そうだよ。来る時は右に曲がったから、帰る時は左に曲がるだろ?」
「ええー?!どうしてそうなるんですか?」

どうしてって…と、北斗は面食らう。
そして、ぷっと小さく吹き出した。

(そうだった、さくらってこういう感じの子だったな)

懐かしさに、ふと笑みがこぼれる。

さくらは、まだ辺りを不安そうに眺めながら、恐る恐る声をかけてきた。

「あの、すみません。出来ればお二人と近いお部屋にして頂いてもいいでしょうか?なんだか凄く、怖くて…ごめんなさい、わがままで」

本当に怖いらしく、自分の両腕をギュッと掴んでいる。

(そうか。今は何も記憶がない状態だもんな)

北斗は頷くと、さくらを別の部屋に案内した。

「ここは、俺の部屋の隣だ。それに、小さいがバスルームやトイレも部屋の中にある。夜中に廊下に出る必要もない。それと、何かあったらベッドの横のこのドアをノックしてくれ。俺の部屋に繋がっているから。あ、内側から鍵も掛けられるからな」

さくらは、ホッとしたように頷いた。



深夜になっても、北斗は自分の部屋のデスクで1人、物思いにふけっていた。

ベッドの横の、隣の部屋に繋がるドアを見る。

このドアの向こうで、今、さくらが眠っている。

信じられないという思い、なぜ?という疑問、そしてこれからどうなるのかという不安…

色々なことが頭を駆け巡る。

だが、そのわずかな隙間に、もう一度会えたことの喜びが込み上げてきそうになり、北斗は強く頭を振った。

(明日、彼女を病院に連れて行く。俺のやるべきことはそれだけだ。大丈夫、5年前のような、辛い別れにはならないはずだ。今なら、まだ…)

あの時の、胸が張り裂けそうな気持ちと、泣いてすがるさくらの顔を思い出し、北斗はギュッと唇を噛みしめた。
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