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ただ素直に
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「あー、えーっと、瑛。今度、優と一緒に遊園地行かない?」
「あー、いいや。ごめん」
「そっかそっか!ううん、いいの」
雅は、やたらと明るく笑って言う。
「んー、お、そうだ!瑛、今度イギリスに出張に行くけど、お前も行くか?」
「あなたっ!だめよ!」
「お父様!イギリスは…」
「あっ!そうか、しまった…」
瑛は食事の手を止め、ふっと笑って皆を見る。
「そんな腫れ物扱いしないでくれ。俺、別に平気だから」
「えっでも…。やっぱりなんか元気ないし、落ち込んでるみたいだから」
「大丈夫だって!ただちょっと、自分が情けなくてさ」
そう言うと、ごちそうさまと立ち上がって2階の部屋へ戻った。
ベッドに寝転んで天井を見上げる。
聖美の側から正式に破談が伝えられてから2週間。
家族は自分を心配して、なんとか気を紛らわせようとしてくれる。
そんなふうに気を遣わせてしまうのも、心苦しかった。
「ほんと、情けないな、俺」
桐生家の長男として、持ちかけられた見合いの話を受け入れ、朱里への未練を断つ為に友達関係を解消した。
精一杯努力したつもりだった。
朱里から遠ざかり、聖美に丁寧に接し…。
過去の思い出を封印し、これからの聖美との生活をしっかり守ろうと思っていた。
だが、何一つうまくいかなかったのだ。
自分は誰も幸せに出来なかった。
それどころか、傷つけてしまった。
聖美を、そして朱里も。
「最低だな、俺」
立ち直る自信もなかった。
*****
「うわー、これもだ。かれこれ10件目かな?」
田畑のパソコンを、川辺と朱里が覗き込む。
「今回はどこからのメールですか?」
「んーと、鹿児島だって」
「こりゃまた遠いなー。朱里ちゃん、どうする?」
朱里は口元に手をやって、うーんと考え込む。
「依頼をいただくのは有り難いので、片っ端からお受けしたいと思います。ただ、一度には無理なので、長期的にお待ちいただくことになりますが」
「うん、それは先方も理解してくれるだろう」
「はい。とにかく社長に報告し、どこから手を付けるか相談してみますね」
了解、と田畑と川辺は頷く。
「部長。これから社長室に相談に伺いたいと思いますが…。部長、部長?!」
「うわっ!!」
突然朱里に顔を覗き込まれて、瑛はガタガタと椅子から落ちそうになる。
「部長、話聞いてましたか?」
「え、は、話?何の?」
はあーと朱里は大きなため息をつく。
「もういいですから、とにかくついて来てください」
「え、どこへ?」
「だから、社長室!!」
仁王立ちでそう言うと、朱里は書類を手にスタスタと部屋を出て行った。
*****
「それで、こちらがわくわくコンサート後に当社に届いたメールです。どれも、うちの地域でも開催して欲しいという、ご依頼のメールです。現時点で10件届きました。新東京フィルさんの所にも5件ほど届いたようです。その5件は関東近郊なのですが、当社に届いたメールは、北は秋田、南は鹿児島と、とても離れています。いずれも過疎地域のようです」
「なるほど。どうやら宣伝効果はあったようだね」
社長が、朱里の差し出した書類に目を通しながら言う。
「はい。プレスリリースやホームページでご覧になったという方もいらっしゃいますね。桐生ホールディングスが東京だけでなく、今後は過疎地域でコンサートを開催し、地域の活性化や音楽の普及を手助けしたいという趣旨は広く伝えられたようです」
「うん。まずは順調な滑り出しだな」
「はい。それで今後ですが、ご依頼いただいた件は全てお引き受けする方向でいきたいのですが、なにせ件数が多いので、どこから手を付けるか迷っていまして…」
うーん、と社長は書類を並べる。
「どこからでもいいと思うけど、朱里ちゃんとしては、どういうやり方がやりやすい?」
「そうですね。まずは全てのメールにお電話でお返事しようと思います。ヒヤリングをして、互いに趣旨が食い違っていないかを確認し、あとは依頼する楽団と開催するホール、招待するお客様についてうかがってみます。スムーズに進んだら現地の下見をして、大丈夫そうなら具体的な日程などの話をする。そんな感じで、いくつかを同時進行してみようかなと」
頷きながら聞いていた社長は、顔を上げた。
「そのやり方で構わないけど、朱里ちゃんの時間が取れるかい?大学もあるだろうし」
「あ、もう四年生なので、講義はほぼないです。それに現地へ下見に行く際も、私の都合で先方に提案させていただこうと思っています」
「分かった。じゃあ朱里ちゃんに任せるよ。出張には、瑛もついて行かせるから」
ソファの端でボンヤリとしていた瑛は、急に二人に振り向かれ、ハッと我に返って慌てる。
「あ、あの、何か?」
はあー、やれやれと社長はため息をついた。
「すまないね、朱里ちゃん。瑛は使い物にはならないけど、まあ、荷物持ちでもさせてやって」
朱里は頷く訳にもいかず、苦笑いでごまかした。
*****
「はい、はい、承知しました。とても興味深いお話ですので、一度そちらに伺って詳しくお話させていただいてもよろしいでしょうか?はい、こちらこそ、よろしくお願いいたします」
朱里は電話を切ると、早速皆に報告する。
「私、来週現地に下見に行ってきます。先方のお話では、近々取り壊しが決まった市民会館で最後のコンサートを開きたいと。地元の楽団もないので、近郊から呼び寄せが必要かもしれません。その地域の中学と高校の吹奏楽部員が合わせて10名ほどいるらしく、出来れば一緒に舞台に乗せてあげたいと思っています」
「ほーい、了解。取り壊しが決まってるなら、そんなに待ってられないもんね。優先的に進めよう。で、どこの地域?」
「兵庫県の山側の地域です」
「あー、確か3件目のメールだったな。じゃあ俺、アクセスとか宿とか調べるよ」
「ありがとうございます。私、社長に報告してきますね」
そうして次の週。
朱里は瑛と一緒に出張に行くことになった。
*****
「うわー、綺麗ねー」
朱里は外の景色を眺める。
羽田空港から大阪の伊丹空港へ飛び、そこからまた小さな空港へ乗り継いで向かっていた。
小さな飛行機の窓から、緑の山々が連なっているのが見える。
「絶対空気が美味しいわよね」
そう言って朱里は深呼吸する。
「いや、まだ飛行機の中だし」
瑛は苦笑いした。
「あー、旅行なんて久しぶり過ぎてわくわくしちゃう!お土産、何買おうかなー」
「朱里、一応出張だからな」
「あ、そっか。あはは!」
今回、朱里は菊川の同伴を断り、瑛と二人だけで行くことにした。
それにはもちろん訳がある。
聖美との縁談が破談となり、朱里の所にも聖美から連絡があった。
瑛と結婚しても自分は幸せになれそうにない。
結婚する前から既にあれこれ悩んでしまい、自信がなくなったと、素直な気持ちを話してくれた。
そして、ずっと憧れていたイギリスに留学出来ることになった!と嬉しそうにしていた。
今まで、心配だからだめだと両親に反対されていたが、今回の破談で聖美がどうしても気持ちを新たにしたいと頼んだところ、全寮制の所ならと認めてもらえたらしい。
ドキドキするけど、色んな経験して成長してきます!そしてまたいつか、朱里さんに必ず会いに行きます!と話してくれた。
そんなふうに、前に進み始めている聖美と対照的に、瑛はずっと殻に閉じこもっているようだった。
朱里は、瑛がどんなに真剣にこの結婚に向き合っていたか良く知っている。
聖美に対しても、優しく紳士的に接して大事に守っていこうとしていた。
それが結納直前に、突然破談を申し入れられたのだ。
すぐに気持ちの切り替えなど出来ないだろう。
雅からも、家でもずっと元気がなくて心配だと聞かされていた。
(菊川さんがいなければ、私と話すしかなくなる。何か少しでも心のわだかまりを吐き出してくれたら。出張とはいえ、綺麗な自然に囲まれた場所で、瑛の心が癒やされればいいな)
そんな事を願いながら、朱里は窓の外を眺めていた。
*****
「これはこれは、こんな田舎へようこそお越しくださいました!町役場の長島と申します」
小さな空港に降り立ち、ゲートを通り抜けた途端、30代くらいの小柄な男性ににこにこと声をかけられた。
「あ、初めまして。栗田と申します。隣は桐生です。あの、良くお分かりになりましたね、私どものこと」
「はい、それはもう!東京の都会のオーラが出てらっしゃいますもん。こんな田舎にそんなオーラを出す者はおりません。ははは!」
どんなオーラだ?と思いながらも、朱里はとりあえず笑って頷く。
「長旅でお疲れでしょう?そやけど、ここからまだ車で1時間かかるんです。すみません」
「いえいえ!迎えに来てくださって、こちらこそありがとうございます。景色の綺麗な所なので、見ていて飽きません」
「そう言うていただけたら助かります。さ、ただのワゴン車ですけど、どうぞ」
「はい、ありがとうございます」
朱里は瑛と、後部座席に並んで座る。
「ほんなら安全運転で参ります。信号もめったにありませんし、渋滞なんてまったくありません。時々、イノシシが飛び出してくるので、その時だけは急ブレーキにご注意ください」
イノシシー?と思いながら、はいと返事をする。
長島の言葉通り、のどかな田園風景の一本道をひたすら真っ直ぐに進む。
朱里は運転の邪魔にならないように、控え目に声をかけた。
「長島さん。今回私どもに依頼してくださったのは、何かきっかけがあったんですか?」
「あー、それなんですけどね。うちの町の中学生が、ネット配信?でしたっけ?何とかっていう動画で見たらしくて、そちらのコンサートの様子を。調べてみたら、なんか田舎にも来てくれるらしいって分かって、私に頼んできたんです。呼んでくれって」
へえー、動画?と朱里は考え込む。
桐生ホールディングスが発信しているSNSに投稿した、コンサートのダイジェスト版のことだろうか。
いずれにしても、中学生が動画で見つけてくれるなんて、今どきだなあと感心する。
「その中学生達、吹奏楽部なんです。一度でいいから大勢でステージの上で演奏してみたいって言うんで、私がそちらにメール送らせていただいたんですよ。まさかお返事もらえるなんて思ってなくて、びっくりしましたよー」
「え、そうなんですか?」
「そりゃだって、桐生ホールディングスなんて大きな会社の人が、こんな田舎のこと気にかけてくれるなんて。もう町中ひっくり返るくらいの騒ぎになりましたよ。今日も、芸能人がやって来るーって大騒ぎです。あはは!」
げ、芸能人ー?!と朱里は仰け反る。
「あの、私達、一般ピープルです。皆さんと何も変わりませんよ」
「そやけど、東京から来はったでしょ?そしたら芸能人ですわ。『未来のために、桐生ホールディングス!』ってCMでもやってますしね」
どんな理屈ー?と朱里は眉をひそめる。
「ほら!着きました。ここが市民会館です」
え!と朱里は身を乗り出して外を見る。
車がゆっくり停まり、朱里は降りて建物を見上げた。
古い造りだが大きくてしっかりした建物だった。
「老朽化は進むし維持費もかかるし、何よりニーズがなくて。半年後に取り壊しが決まったんですわ。さ、どうぞ。みんなソワソワしてお二人を待ってます」
ん?みんな待ってる?と、またもや首をひねりながら、朱里は瑛とホールの中に足を踏み入れた。
「ウェルカーム!!」
「…は?」
扉から中に入った瞬間クラッカーが鳴り、頭の上にパラパラと金色の紙吹雪が降ってきた。
朱里と瑛が呆然としていると、ステージの上で大きなうちわを持った女の子達が、せーの!と声を揃えた。
「桐生さん!栗田さん!いらっしゃいませー!」
イエーイ!と揺らしているうちわには、桐生
瑛さん、栗田 朱里さん、とまるでアイドルのコンサートのように書かれている。
「どうぞ!真ん中の席にお座りくださーい!」
「あ、は、はい」
勢いに負けて、二人で大人しく言われた席に座る。
「ではまず、歓迎の演奏から始めまーす」
「はあ…」
女の子達はステージの真ん中に集まると、クラリネットやフルート、トランペットやサックスで、流行りの曲を演奏する。
その周りを数人が、ポンポンを持って歌いながら踊り出した。
客席に座っている大人達も拍手で盛り上げる。
朱里もいつしか笑顔で手拍子していた。
キュートで元気な女の子達が歌い終わると、続いて町内婦人会のおばさま方が登場し、盆踊りのような踊りを披露してくれる。
(うおー、いきなりの別世界)
朱里はテンポに合わせて、ゆっくりと手拍子する。
「ではここで、町長より、歓迎の言葉です」
(ここでー?この流れでー?)
朱里は心の中で突っ込む。
「えー、こんな田舎にようこそ!ここに来たならもう我々の仲間です。ではご一緒に歌いましょう。長島くん、カラオケ流して。いつものあの曲ね」
カセットデッキから演歌が流れ、町長が得意げに歌い始めた。
「ねえ、瑛。ここってニーズがないとか言ってたけど、めちゃくちゃあるよね」
「ああ。取り壊されると困るんじゃないか?」
二人でヒソヒソと囁く。
とにかくホールの設備や音の響き具合などは充分下調べ出来た。
*****
「ではでは、かんぱーい!」
なんだか良く分からないまま、どこだか分からない広間のある家に連れて来られ、料理とお酒を振る舞われる。
ありがとうございます、と勧められるまま頂いていると、先程の中高生達がわらわらと寄ってきた。
「あの!芸能人ってほんとに街の中歩いてるんですか?」
「え?あ、テレビに出てる人?うん、たまに見かけるよ」
ひゃーー!!と女の子達は声を上げる。
「実在するんだー!」
「生身の人間なんだー!」
ひとしきり盛り上がってから、また真剣に聞いてくる。
「あの!瑛さんと朱里さんは、つき合ってるんですか?」
「え?ううん。単なる部長と部下よ」
部長ーー!!と、また女の子達は仰け反る。
「部長って、初めて見た!」
「役場の係長より上って事だよね?」
「すごーい!」
女の子達は瑛を取り囲む。
「瑛部長!サインを頂けませんか?」
「サ、サイン?!そんなのないよ」
「ええー?あるでしょー?だって桐生 瑛って、桐生ホールディングスの芸能人って事でしょ?」
「は?ちょっと、言ってる意味が…。あ、名刺ならあるよ。ほら」
キャー!と女の子達は手を伸ばす。
「私も欲しい!」
「私もー!」
「わ、分かったから。はい、ちゃんとみんなの分あるから」
揉みくちゃにされながら、瑛は名刺を配る。
(ぷっ、なんだか笑える!瑛、冴えないおじさんみたい)
朱里はタジタジになっている瑛を見て、ふふっと笑った。
*****
そうこうしているうちに夜になり、そろそろ宿に移動しようと二人は立ち上がった。
「え?宿ってどこの?まさか、隣町の?」
「あー、車でも1時間はかかるよ。今夜はもうここに泊まりな。ここも一応宿だよ。それにここの風呂、天然の温泉だよ!」
「じゃ、あっちの宿には電話しとくよ。大丈夫、大丈夫!二人減るくらいどうってことないから」
いや、あの、と言葉を挟むこともままならず、朱里達はそのままそこで泊まることになった。
温泉に入り、借りた浴衣を着て客間に行くと、ふかふかの布団が敷いてあった。
「はあー、気持ちいい」
朱里は布団にうつ伏せに倒れ込む。
「お日様の匂いがする」
「朱里、ほら。冷たいお茶」
「ありがとう」
瑛からグラスを受け取った朱里は、ん?と眉間にシワを寄せる。
「ねえ、この布団2組敷いてあるね」
「あ、ほんとだ」
「隣にも部屋あるの?」
瑛が入り口に向かう。
「いや、廊下しかない」
「…ってことは?」
二人でじっと布団を見つめる。
「俺、廊下で寝るわ」
そう言って布団を持っていこうとする瑛を、朱里は慌てて止める。
「バカ!あんた仮にも御曹司でしょ?そんな事させられないわよ」
「別にいいよ。バカって言われる程度の御曹司だし」
「ちょ、違うって!部長!まさか部長を追い出すなんて出来ませんから!」
「なんだよもう。バカか御曹司か部長、どれか一つにしてくれよ」
「いいから、ほら!ここで寝なさい!」
朱里は瑛の布団を隣に並べた。
「寝ながら話そう。修学旅行みたいにね。先に寝ちゃった方が負けよ」
ふふっと笑うと、朱里は部屋の電気を豆電球にした。
仕方なく瑛も布団に入る。
二人はぼんやりと天井を見上げた。
「ねえ、瑛」
「なに?」
「まだ落ち込んでる?その、聖美さんとのこと」
朱里の問いに瑛は少し考え込む。
「彼女のことで落ち込んでる訳じゃない。ただ、自分が情けなくて落ち込んでる」
朱里は瑛の方を見た。
「どうして自分が情けないの?」
「…俺さ。俺なりに真剣に向き合ったんだ。精一杯尽くした。それでもだめだった。彼女を悩ませて、そして言い辛いことを彼女の口から言わせてしまった。男として本当に情けない」
朱里はしばらく考えてから口を開く。
「瑛。私は瑛が凄くがんばってたのを知ってる。いつも近くで見てたから。でも結婚ってさ、がんばってするものじゃないでしょう?」
え?と瑛が朱里を見る。
「がんばって聖美さんに向き合って、がんばって幸せにしようとして、がんばって彼女に紳士的に接して…。そんな瑛を見て、彼女は思ったんじゃないかな?自分の為にがんばらないでって」
瑛は聖美の言葉を思い出す。
彼女が笑って言ってくれた言葉。
「ご自分の幸せが何かを見つけてくださいね」
「え?」
「そう言われたんだ、彼女に」
「…そう。優しい人だね、聖美さん」
「ああ」
瑛は目頭が熱くなるのを感じた。
「瑛、これからはがんばらないで。もっと自分の心に耳を傾けて。瑛が誰かを幸せにしたいと思うなら、無理にがんばらなくていいの。その人を幸せにしたい、ただ純粋にその気持ちを大事にして。ね?」
それと、と朱里は付け加える。
「みんなが瑛に望んでいるのは『立派な桐生ホールディングスの御曹司』じゃない。『いつまでも幸せな桐生 瑛でいて欲しい』ただそれだけだと思うよ。おじ様もおば様も、お姉さんも菊川さんも。あ、もちろん私もね」
瑛の心から、凝り固まった重荷がすっと消えていく。
自分にのしかかっていた暗雲が晴れていく気がする。
やがて素直な自分の気持ちだけが込み上げてきた。
朱里と一緒にいたい。
これからも、二人で楽しく笑い合いたい。
願ってもいいのだろうか?
今ならもう、正直に自分の気持ちを認めても許されるだろうか?
そしていつか…
朱里に伝えてもいいだろうか?
朱里を幸せにしたいと。
「…朱里。俺、これからは桐生 瑛として普通に生きていってもいいのかな?何の肩書もない、非力で無能なただの一人の男として」
返事はない。
「朱里?」
顔を向けると、朱里は気持ち良さそうにスヤスヤ眠っていた。
「え、はやっ!10秒で寝た?」
ポカンとしたあと、堪え切れなくなり笑い出す。
「はは!いいな、朱里って。自然体で素直で」
自分もそんなふうに、肩の力を抜いて生きていこう。
そう心に決めた。
「サンキュ、朱里」
もちろん返事はない。
瑛はもう一度ふっと笑ってから目を閉じた。
「あー、いいや。ごめん」
「そっかそっか!ううん、いいの」
雅は、やたらと明るく笑って言う。
「んー、お、そうだ!瑛、今度イギリスに出張に行くけど、お前も行くか?」
「あなたっ!だめよ!」
「お父様!イギリスは…」
「あっ!そうか、しまった…」
瑛は食事の手を止め、ふっと笑って皆を見る。
「そんな腫れ物扱いしないでくれ。俺、別に平気だから」
「えっでも…。やっぱりなんか元気ないし、落ち込んでるみたいだから」
「大丈夫だって!ただちょっと、自分が情けなくてさ」
そう言うと、ごちそうさまと立ち上がって2階の部屋へ戻った。
ベッドに寝転んで天井を見上げる。
聖美の側から正式に破談が伝えられてから2週間。
家族は自分を心配して、なんとか気を紛らわせようとしてくれる。
そんなふうに気を遣わせてしまうのも、心苦しかった。
「ほんと、情けないな、俺」
桐生家の長男として、持ちかけられた見合いの話を受け入れ、朱里への未練を断つ為に友達関係を解消した。
精一杯努力したつもりだった。
朱里から遠ざかり、聖美に丁寧に接し…。
過去の思い出を封印し、これからの聖美との生活をしっかり守ろうと思っていた。
だが、何一つうまくいかなかったのだ。
自分は誰も幸せに出来なかった。
それどころか、傷つけてしまった。
聖美を、そして朱里も。
「最低だな、俺」
立ち直る自信もなかった。
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「うわー、これもだ。かれこれ10件目かな?」
田畑のパソコンを、川辺と朱里が覗き込む。
「今回はどこからのメールですか?」
「んーと、鹿児島だって」
「こりゃまた遠いなー。朱里ちゃん、どうする?」
朱里は口元に手をやって、うーんと考え込む。
「依頼をいただくのは有り難いので、片っ端からお受けしたいと思います。ただ、一度には無理なので、長期的にお待ちいただくことになりますが」
「うん、それは先方も理解してくれるだろう」
「はい。とにかく社長に報告し、どこから手を付けるか相談してみますね」
了解、と田畑と川辺は頷く。
「部長。これから社長室に相談に伺いたいと思いますが…。部長、部長?!」
「うわっ!!」
突然朱里に顔を覗き込まれて、瑛はガタガタと椅子から落ちそうになる。
「部長、話聞いてましたか?」
「え、は、話?何の?」
はあーと朱里は大きなため息をつく。
「もういいですから、とにかくついて来てください」
「え、どこへ?」
「だから、社長室!!」
仁王立ちでそう言うと、朱里は書類を手にスタスタと部屋を出て行った。
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「それで、こちらがわくわくコンサート後に当社に届いたメールです。どれも、うちの地域でも開催して欲しいという、ご依頼のメールです。現時点で10件届きました。新東京フィルさんの所にも5件ほど届いたようです。その5件は関東近郊なのですが、当社に届いたメールは、北は秋田、南は鹿児島と、とても離れています。いずれも過疎地域のようです」
「なるほど。どうやら宣伝効果はあったようだね」
社長が、朱里の差し出した書類に目を通しながら言う。
「はい。プレスリリースやホームページでご覧になったという方もいらっしゃいますね。桐生ホールディングスが東京だけでなく、今後は過疎地域でコンサートを開催し、地域の活性化や音楽の普及を手助けしたいという趣旨は広く伝えられたようです」
「うん。まずは順調な滑り出しだな」
「はい。それで今後ですが、ご依頼いただいた件は全てお引き受けする方向でいきたいのですが、なにせ件数が多いので、どこから手を付けるか迷っていまして…」
うーん、と社長は書類を並べる。
「どこからでもいいと思うけど、朱里ちゃんとしては、どういうやり方がやりやすい?」
「そうですね。まずは全てのメールにお電話でお返事しようと思います。ヒヤリングをして、互いに趣旨が食い違っていないかを確認し、あとは依頼する楽団と開催するホール、招待するお客様についてうかがってみます。スムーズに進んだら現地の下見をして、大丈夫そうなら具体的な日程などの話をする。そんな感じで、いくつかを同時進行してみようかなと」
頷きながら聞いていた社長は、顔を上げた。
「そのやり方で構わないけど、朱里ちゃんの時間が取れるかい?大学もあるだろうし」
「あ、もう四年生なので、講義はほぼないです。それに現地へ下見に行く際も、私の都合で先方に提案させていただこうと思っています」
「分かった。じゃあ朱里ちゃんに任せるよ。出張には、瑛もついて行かせるから」
ソファの端でボンヤリとしていた瑛は、急に二人に振り向かれ、ハッと我に返って慌てる。
「あ、あの、何か?」
はあー、やれやれと社長はため息をついた。
「すまないね、朱里ちゃん。瑛は使い物にはならないけど、まあ、荷物持ちでもさせてやって」
朱里は頷く訳にもいかず、苦笑いでごまかした。
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「はい、はい、承知しました。とても興味深いお話ですので、一度そちらに伺って詳しくお話させていただいてもよろしいでしょうか?はい、こちらこそ、よろしくお願いいたします」
朱里は電話を切ると、早速皆に報告する。
「私、来週現地に下見に行ってきます。先方のお話では、近々取り壊しが決まった市民会館で最後のコンサートを開きたいと。地元の楽団もないので、近郊から呼び寄せが必要かもしれません。その地域の中学と高校の吹奏楽部員が合わせて10名ほどいるらしく、出来れば一緒に舞台に乗せてあげたいと思っています」
「ほーい、了解。取り壊しが決まってるなら、そんなに待ってられないもんね。優先的に進めよう。で、どこの地域?」
「兵庫県の山側の地域です」
「あー、確か3件目のメールだったな。じゃあ俺、アクセスとか宿とか調べるよ」
「ありがとうございます。私、社長に報告してきますね」
そうして次の週。
朱里は瑛と一緒に出張に行くことになった。
*****
「うわー、綺麗ねー」
朱里は外の景色を眺める。
羽田空港から大阪の伊丹空港へ飛び、そこからまた小さな空港へ乗り継いで向かっていた。
小さな飛行機の窓から、緑の山々が連なっているのが見える。
「絶対空気が美味しいわよね」
そう言って朱里は深呼吸する。
「いや、まだ飛行機の中だし」
瑛は苦笑いした。
「あー、旅行なんて久しぶり過ぎてわくわくしちゃう!お土産、何買おうかなー」
「朱里、一応出張だからな」
「あ、そっか。あはは!」
今回、朱里は菊川の同伴を断り、瑛と二人だけで行くことにした。
それにはもちろん訳がある。
聖美との縁談が破談となり、朱里の所にも聖美から連絡があった。
瑛と結婚しても自分は幸せになれそうにない。
結婚する前から既にあれこれ悩んでしまい、自信がなくなったと、素直な気持ちを話してくれた。
そして、ずっと憧れていたイギリスに留学出来ることになった!と嬉しそうにしていた。
今まで、心配だからだめだと両親に反対されていたが、今回の破談で聖美がどうしても気持ちを新たにしたいと頼んだところ、全寮制の所ならと認めてもらえたらしい。
ドキドキするけど、色んな経験して成長してきます!そしてまたいつか、朱里さんに必ず会いに行きます!と話してくれた。
そんなふうに、前に進み始めている聖美と対照的に、瑛はずっと殻に閉じこもっているようだった。
朱里は、瑛がどんなに真剣にこの結婚に向き合っていたか良く知っている。
聖美に対しても、優しく紳士的に接して大事に守っていこうとしていた。
それが結納直前に、突然破談を申し入れられたのだ。
すぐに気持ちの切り替えなど出来ないだろう。
雅からも、家でもずっと元気がなくて心配だと聞かされていた。
(菊川さんがいなければ、私と話すしかなくなる。何か少しでも心のわだかまりを吐き出してくれたら。出張とはいえ、綺麗な自然に囲まれた場所で、瑛の心が癒やされればいいな)
そんな事を願いながら、朱里は窓の外を眺めていた。
*****
「これはこれは、こんな田舎へようこそお越しくださいました!町役場の長島と申します」
小さな空港に降り立ち、ゲートを通り抜けた途端、30代くらいの小柄な男性ににこにこと声をかけられた。
「あ、初めまして。栗田と申します。隣は桐生です。あの、良くお分かりになりましたね、私どものこと」
「はい、それはもう!東京の都会のオーラが出てらっしゃいますもん。こんな田舎にそんなオーラを出す者はおりません。ははは!」
どんなオーラだ?と思いながらも、朱里はとりあえず笑って頷く。
「長旅でお疲れでしょう?そやけど、ここからまだ車で1時間かかるんです。すみません」
「いえいえ!迎えに来てくださって、こちらこそありがとうございます。景色の綺麗な所なので、見ていて飽きません」
「そう言うていただけたら助かります。さ、ただのワゴン車ですけど、どうぞ」
「はい、ありがとうございます」
朱里は瑛と、後部座席に並んで座る。
「ほんなら安全運転で参ります。信号もめったにありませんし、渋滞なんてまったくありません。時々、イノシシが飛び出してくるので、その時だけは急ブレーキにご注意ください」
イノシシー?と思いながら、はいと返事をする。
長島の言葉通り、のどかな田園風景の一本道をひたすら真っ直ぐに進む。
朱里は運転の邪魔にならないように、控え目に声をかけた。
「長島さん。今回私どもに依頼してくださったのは、何かきっかけがあったんですか?」
「あー、それなんですけどね。うちの町の中学生が、ネット配信?でしたっけ?何とかっていう動画で見たらしくて、そちらのコンサートの様子を。調べてみたら、なんか田舎にも来てくれるらしいって分かって、私に頼んできたんです。呼んでくれって」
へえー、動画?と朱里は考え込む。
桐生ホールディングスが発信しているSNSに投稿した、コンサートのダイジェスト版のことだろうか。
いずれにしても、中学生が動画で見つけてくれるなんて、今どきだなあと感心する。
「その中学生達、吹奏楽部なんです。一度でいいから大勢でステージの上で演奏してみたいって言うんで、私がそちらにメール送らせていただいたんですよ。まさかお返事もらえるなんて思ってなくて、びっくりしましたよー」
「え、そうなんですか?」
「そりゃだって、桐生ホールディングスなんて大きな会社の人が、こんな田舎のこと気にかけてくれるなんて。もう町中ひっくり返るくらいの騒ぎになりましたよ。今日も、芸能人がやって来るーって大騒ぎです。あはは!」
げ、芸能人ー?!と朱里は仰け反る。
「あの、私達、一般ピープルです。皆さんと何も変わりませんよ」
「そやけど、東京から来はったでしょ?そしたら芸能人ですわ。『未来のために、桐生ホールディングス!』ってCMでもやってますしね」
どんな理屈ー?と朱里は眉をひそめる。
「ほら!着きました。ここが市民会館です」
え!と朱里は身を乗り出して外を見る。
車がゆっくり停まり、朱里は降りて建物を見上げた。
古い造りだが大きくてしっかりした建物だった。
「老朽化は進むし維持費もかかるし、何よりニーズがなくて。半年後に取り壊しが決まったんですわ。さ、どうぞ。みんなソワソワしてお二人を待ってます」
ん?みんな待ってる?と、またもや首をひねりながら、朱里は瑛とホールの中に足を踏み入れた。
「ウェルカーム!!」
「…は?」
扉から中に入った瞬間クラッカーが鳴り、頭の上にパラパラと金色の紙吹雪が降ってきた。
朱里と瑛が呆然としていると、ステージの上で大きなうちわを持った女の子達が、せーの!と声を揃えた。
「桐生さん!栗田さん!いらっしゃいませー!」
イエーイ!と揺らしているうちわには、桐生
瑛さん、栗田 朱里さん、とまるでアイドルのコンサートのように書かれている。
「どうぞ!真ん中の席にお座りくださーい!」
「あ、は、はい」
勢いに負けて、二人で大人しく言われた席に座る。
「ではまず、歓迎の演奏から始めまーす」
「はあ…」
女の子達はステージの真ん中に集まると、クラリネットやフルート、トランペットやサックスで、流行りの曲を演奏する。
その周りを数人が、ポンポンを持って歌いながら踊り出した。
客席に座っている大人達も拍手で盛り上げる。
朱里もいつしか笑顔で手拍子していた。
キュートで元気な女の子達が歌い終わると、続いて町内婦人会のおばさま方が登場し、盆踊りのような踊りを披露してくれる。
(うおー、いきなりの別世界)
朱里はテンポに合わせて、ゆっくりと手拍子する。
「ではここで、町長より、歓迎の言葉です」
(ここでー?この流れでー?)
朱里は心の中で突っ込む。
「えー、こんな田舎にようこそ!ここに来たならもう我々の仲間です。ではご一緒に歌いましょう。長島くん、カラオケ流して。いつものあの曲ね」
カセットデッキから演歌が流れ、町長が得意げに歌い始めた。
「ねえ、瑛。ここってニーズがないとか言ってたけど、めちゃくちゃあるよね」
「ああ。取り壊されると困るんじゃないか?」
二人でヒソヒソと囁く。
とにかくホールの設備や音の響き具合などは充分下調べ出来た。
*****
「ではでは、かんぱーい!」
なんだか良く分からないまま、どこだか分からない広間のある家に連れて来られ、料理とお酒を振る舞われる。
ありがとうございます、と勧められるまま頂いていると、先程の中高生達がわらわらと寄ってきた。
「あの!芸能人ってほんとに街の中歩いてるんですか?」
「え?あ、テレビに出てる人?うん、たまに見かけるよ」
ひゃーー!!と女の子達は声を上げる。
「実在するんだー!」
「生身の人間なんだー!」
ひとしきり盛り上がってから、また真剣に聞いてくる。
「あの!瑛さんと朱里さんは、つき合ってるんですか?」
「え?ううん。単なる部長と部下よ」
部長ーー!!と、また女の子達は仰け反る。
「部長って、初めて見た!」
「役場の係長より上って事だよね?」
「すごーい!」
女の子達は瑛を取り囲む。
「瑛部長!サインを頂けませんか?」
「サ、サイン?!そんなのないよ」
「ええー?あるでしょー?だって桐生 瑛って、桐生ホールディングスの芸能人って事でしょ?」
「は?ちょっと、言ってる意味が…。あ、名刺ならあるよ。ほら」
キャー!と女の子達は手を伸ばす。
「私も欲しい!」
「私もー!」
「わ、分かったから。はい、ちゃんとみんなの分あるから」
揉みくちゃにされながら、瑛は名刺を配る。
(ぷっ、なんだか笑える!瑛、冴えないおじさんみたい)
朱里はタジタジになっている瑛を見て、ふふっと笑った。
*****
そうこうしているうちに夜になり、そろそろ宿に移動しようと二人は立ち上がった。
「え?宿ってどこの?まさか、隣町の?」
「あー、車でも1時間はかかるよ。今夜はもうここに泊まりな。ここも一応宿だよ。それにここの風呂、天然の温泉だよ!」
「じゃ、あっちの宿には電話しとくよ。大丈夫、大丈夫!二人減るくらいどうってことないから」
いや、あの、と言葉を挟むこともままならず、朱里達はそのままそこで泊まることになった。
温泉に入り、借りた浴衣を着て客間に行くと、ふかふかの布団が敷いてあった。
「はあー、気持ちいい」
朱里は布団にうつ伏せに倒れ込む。
「お日様の匂いがする」
「朱里、ほら。冷たいお茶」
「ありがとう」
瑛からグラスを受け取った朱里は、ん?と眉間にシワを寄せる。
「ねえ、この布団2組敷いてあるね」
「あ、ほんとだ」
「隣にも部屋あるの?」
瑛が入り口に向かう。
「いや、廊下しかない」
「…ってことは?」
二人でじっと布団を見つめる。
「俺、廊下で寝るわ」
そう言って布団を持っていこうとする瑛を、朱里は慌てて止める。
「バカ!あんた仮にも御曹司でしょ?そんな事させられないわよ」
「別にいいよ。バカって言われる程度の御曹司だし」
「ちょ、違うって!部長!まさか部長を追い出すなんて出来ませんから!」
「なんだよもう。バカか御曹司か部長、どれか一つにしてくれよ」
「いいから、ほら!ここで寝なさい!」
朱里は瑛の布団を隣に並べた。
「寝ながら話そう。修学旅行みたいにね。先に寝ちゃった方が負けよ」
ふふっと笑うと、朱里は部屋の電気を豆電球にした。
仕方なく瑛も布団に入る。
二人はぼんやりと天井を見上げた。
「ねえ、瑛」
「なに?」
「まだ落ち込んでる?その、聖美さんとのこと」
朱里の問いに瑛は少し考え込む。
「彼女のことで落ち込んでる訳じゃない。ただ、自分が情けなくて落ち込んでる」
朱里は瑛の方を見た。
「どうして自分が情けないの?」
「…俺さ。俺なりに真剣に向き合ったんだ。精一杯尽くした。それでもだめだった。彼女を悩ませて、そして言い辛いことを彼女の口から言わせてしまった。男として本当に情けない」
朱里はしばらく考えてから口を開く。
「瑛。私は瑛が凄くがんばってたのを知ってる。いつも近くで見てたから。でも結婚ってさ、がんばってするものじゃないでしょう?」
え?と瑛が朱里を見る。
「がんばって聖美さんに向き合って、がんばって幸せにしようとして、がんばって彼女に紳士的に接して…。そんな瑛を見て、彼女は思ったんじゃないかな?自分の為にがんばらないでって」
瑛は聖美の言葉を思い出す。
彼女が笑って言ってくれた言葉。
「ご自分の幸せが何かを見つけてくださいね」
「え?」
「そう言われたんだ、彼女に」
「…そう。優しい人だね、聖美さん」
「ああ」
瑛は目頭が熱くなるのを感じた。
「瑛、これからはがんばらないで。もっと自分の心に耳を傾けて。瑛が誰かを幸せにしたいと思うなら、無理にがんばらなくていいの。その人を幸せにしたい、ただ純粋にその気持ちを大事にして。ね?」
それと、と朱里は付け加える。
「みんなが瑛に望んでいるのは『立派な桐生ホールディングスの御曹司』じゃない。『いつまでも幸せな桐生 瑛でいて欲しい』ただそれだけだと思うよ。おじ様もおば様も、お姉さんも菊川さんも。あ、もちろん私もね」
瑛の心から、凝り固まった重荷がすっと消えていく。
自分にのしかかっていた暗雲が晴れていく気がする。
やがて素直な自分の気持ちだけが込み上げてきた。
朱里と一緒にいたい。
これからも、二人で楽しく笑い合いたい。
願ってもいいのだろうか?
今ならもう、正直に自分の気持ちを認めても許されるだろうか?
そしていつか…
朱里に伝えてもいいだろうか?
朱里を幸せにしたいと。
「…朱里。俺、これからは桐生 瑛として普通に生きていってもいいのかな?何の肩書もない、非力で無能なただの一人の男として」
返事はない。
「朱里?」
顔を向けると、朱里は気持ち良さそうにスヤスヤ眠っていた。
「え、はやっ!10秒で寝た?」
ポカンとしたあと、堪え切れなくなり笑い出す。
「はは!いいな、朱里って。自然体で素直で」
自分もそんなふうに、肩の力を抜いて生きていこう。
そう心に決めた。
「サンキュ、朱里」
もちろん返事はない。
瑛はもう一度ふっと笑ってから目を閉じた。
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