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突然の別れ
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大学の長い夏休みが終わり、朱里はまたキャンパスに通う毎日を送っていた。
季節は秋へと移り変わり、夏が大好きな朱里はなんだか物哀しくなる。
「香澄ちゃん、夏休みどうだった?」
食堂でランチを食べながら、朱里は久しぶりに会う香澄に尋ねた。
「んー?彼と旅行に行ったりして、まあまあ楽しかったよ。朱里は?」
「私は、そうねえ。特にこれと言って何も」
すると香澄は、ええー?と呆れたように言う。
「またそんなこと言って。せっかくの大学生活、もっと楽しまなきゃだめよ。彼氏は?出来たの?」
「出来てたら夏休みは充実してましたよー」
「はは、確かに。もう誰か紹介しようか?合コンとかセッティングしてもいいよ?」
んー、と朱里は考え込む。
「香澄ちゃん。彼氏が出来ると幸せになれるの?」
は?と香澄は面食らう。
「何言ってんの?朱里」
「いや、最近ずっと考えてるの。恋人が出来たら幸せな日々を過ごすのかと思ってたけど、そうでもないのかなって。ねえ、幸せって何?」
香澄はもはや返す言葉もなく、ポカーンとしている。
「あ、朱里?それ、夏休みボケなの?」
「ううん。いたって真面目。大真面目」
香澄は、いよいよ理解不能とばかりに眉を寄せる。
「朱里。こうなったら荒療治よ。もう誰でもいいからつき合ったら?」
「えー?そこに幸せはあるの?」
「少なくともそんな変なセリフは言わなくなると思うわよ。ね?とにかく誰かとつき合ってみなよ」
身を乗り出す香澄に、朱里は、うーんと渋ってみせた。
*****
「おはようございまーす!」
「お!朱里、久しぶりだな」
「はい!奏先輩もお元気でしたか?」
「おうよ!」
放課後、朱里はヴァイオリンを持って部室に顔を出した。
学校も始まり、練習もしやすくなる為、桐生グループのマンションへの訪問演奏をまた何件か引き受けることにしたのだった。
今日はそのミーティングで、四人が久しぶりに集まることになっていた。
美園と光一はまだ姿が見えない。
二人とも理系の為、おそらく実験が長引いているのだろう。
奏はいくつか持参した楽譜を見ながら、選曲について考えているようだった。
「奏先輩」
朱里は、弓に松脂を付けながら奏に声をかける。
「んー?なんだ」
「奏先輩の幸せって何ですか?」
はっ?と奏は素っ頓狂な声を出して朱里を見る。
「お前、どした?え、何かの曲のアナリーゼか?」
「いえ、そういう訳では。単純に聞きたくて。人は恋人が出来ると幸せになれるのですか?」
「それ、今彼女がいない俺に聞くか?」
「えっ!奏先輩、彼女いないんですか?」
はあー?と奏は眉間にシワを寄せる。
「お前の頭の中どうなってるんだ?さっきから訳わからん」
「ですよね、すみません」
ははっと朱里は笑ってごまかす。
「まあ、でも。お前が本当の恋をしたことがないのは知ってる」
えっ!と朱里は驚いて奏を見る。
「ど、どうしてですか?」
「お前の演奏を聴けば分かる。明るい曲は得意だし、綺麗なメロディもまあ、そこそこ上手い。けど、誰かを恋い焦がれるような艶やかさや、想いが叶わない切なさは表現出来てない。そんな恋をしたことないんだろ?」
朱里は半ば感心したように頷いた。
「確かにそうです。そうか、だから奏先輩みたいな、聴いていると胸がキュッと切なくなるような音が出せないんですね、私」
「そうだな。俺はそりゃもう、酸いも甘いも噛み分けた大人の男だからな」
「おー、すごーい!恋愛マスター!」
「やめろ。別に集めてない」
「あっはは!たくさん彼女ゲットしたんでしょ?」
「してないっつーの!それよりお前こそ、いい加減いい恋愛しろよ。恋人同士になれなくてもいい。誰かを心から好きになれば、それだけで人生は豊かになる。振られたらどうしようとか、両想いになれないとか、そんなことも考えられないくらい誰かに夢中になれれば、それだけでも幸せなんだぞ」
「えっ…」
朱里は奏のセリフを頭の中で反復して考える。
「たとえその人に彼女がいても?絶対告白出来ないと分かっていても?片思いなんて、辛くなるだけなのに?」
「それでも好きになってしまうのが恋だろ?もちろん相手から奪おうなんて思わない。けど、好きって気持ちは抑えきれないんだ。そして、その気持ちを自分で持て余して切なくなる。それも人間らしさのうちの一つだ」
最後に奏は、ポンと朱里の頭に手を置いて顔を覗き込んだ。
「お前も色んな経験をしろ。人間らしさをさらけ出して、自分の気持ちに正直に、心のままに生きてみろ。そしてその感情を全て音に乗せるんだ。それはきっと、聴く人の心を揺さぶる魂のこもった音になる」
朱里はじっと考えてから頷いた。
*****
「次回も今までと同じく、幅広い年代の方向けのコンサートだ。どんな曲がいいかな?」
やがてやって来た光一と美園も交えて、四人で選曲する。
「お子様向けには、いつものレパートリーから歌える曲をいくつか。ご年配の方には鉄道唱歌のメドレーを、車掌さんのナレーションつきでやるのはどう?」
光一が言い、皆は感心する。
「へえー、そんなの出来るんですか?」
美園の言葉に光一は頷いた。
「ダテに鉄道オタクじゃないからな、俺。新幹線の到着メロディとナレーション入れて、ご当地の唱歌をメドレーでアレンジしておくよ」
すごーい!と朱里は目を輝かせる。
「それはとっても喜ばれると思います」
「よい!じゃあ光一にそれは任せる。あとさ、俺がアレンジした一曲、やってもいいか?」
「おお、もちろん。奏のアレンジなら絶対いいやつだからな」
朱里と美園も、うんうんと頷く。
奏は皆を見回した。
「じゃあ、プログラムは概ね決まりだな。光一、アレンジ出来次第PDFで送ってくれ。俺も次の練習までに仕上げておく」
「はいよー」
そして既に楽譜の揃っている曲を四人で通して、その日の練習は終了となった。
*****
「うーん…、ストップ!」
奏が弓を軽く振り、三人は一斉に動きを止めた。
演奏会に向けてのカルテットの練習日。
光一と奏がアレンジした二曲が完成し、早速合わせていた。
光一アレンジの鉄道メドレーはとてもおもしろく、光一の車掌さながらのナレーションを聞きながら、楽しく演奏出来た。
これはお客様にも喜ばれると皆は頷いたが、問題は奏アレンジのクラシック曲だった。
奏が選んだのは、リストの『愛の夢』第3番。
『愛の夢』はフランツ・リストが作曲した3曲からなるピアノ曲で、「3つの夜想曲」という副題を持っている。
第3番はその中でも有名な一曲で、1845年、リストが34歳の時に作曲した歌曲「おお、愛しうる限り愛せ」が元になっている。
どこまでも甘く美しいメロディで、朱里ももちろん大好きな曲だが、実際に弾きこなすのは今の朱里には難しかった。
「朱里、同じ3つの音を単純にそのまま並べるな。一つ一つに表情をつけるんだ」
「はい」
朱里は頷くものの、なかなか音には表せない。
「最初のアウフタクト、もっと響かせて入って。その一音、大事だぞ」
「はい」
奏の指導を受けながら、何度も朱里は出だしの部分をくり返す。
「テンポを刻みすぎるな。もっとたっぷり間を取って」
「はい」
何度やっても上手くいかない。
朱里は美園や光一に謝った。
「ごめんなさい。私がつかめないばっかりに…」
「気にするなって!朱里が弾きたいように弾けばいいからな」
「そうよ、ちゃんと朱里に合わせるから。気にせずたっぷり歌って」
「ありがとう」
朱里は半分泣きそうになりながら頭を下げた。
*****
家に帰ってからも、朱里は何度も『愛の夢』をさらっていた。
奏やみんなに言われたことは、分かっているのに表現出来ない。
(どうしよう…。演奏会は来月なのに)
朱里はため息をつくと、気持ちを入れ替えようと窓を開けた。
美しい満月が、朱里の部屋にも綺麗な光を届けてくれる。
(なんて素敵な月の光なの。神秘的で心が洗われるよう…)
部屋の電気を消し、しばらく窓の外を見ていると、ふいに向かい側の部屋の窓が開いた。
「朱里さん、こんばんは」
「菊川さん!あ、もしかしてまた?」
「はい、耳を傾けておりました」
ふふっと菊川は笑う。
「今回も美しい曲ですね」
「ええ、でも…。今の私には弾きこなせません」
朱里がうつむくと、菊川はふと真剣な表情になる。
「…朱里さんは、悩んでいるのですか?」
「え?ああ、そうですね。どうやって弾けばいいのかと…」
「誰を想って弾けばいいのか…ではなくて?」
え…、と朱里は視線を上げて菊川を見る。
「先程の朱里さんの演奏は、とても迷っているようでした。誰かに聴いて欲しい、でも誰に向けて弾けばいいのかと。自分の感情を持て余しているようにも感じました」
朱里は菊川の言葉にじっと耳を傾ける。
「朱里さん自身が自分の気持ちに気づき、この想いをこの人に届けたいと思って演奏されるヴァイオリンを、私はいつか聴いてみたいです」
「私の気持ちを、誰かに…?」
呟く朱里に菊川が頷く。
「はい。朱里さんの演奏なら、言葉に出来ない想いもきっと相手に届くでしょう」
朱里はじっと考え込む。
そして、菊川が以前似たようなことを話していたのを思い出した。
(何の話だったっけ?自分自身の正直な気持ちに気づけなければ、本当の幸せは手に入らないって)
あれは確か…そう!瑛の話だった。
瑛と同じように、自分も正直な気持ちと向き合っていないのだろうか。
そんな事はない。
私はいつだって自分の気持ちを押し殺したりしていない。
どんな感情も、素直に相手に伝えてきたはず。
…それならどうしてこんなにも、この曲をどう弾こうかと悩んでいるのか?
「朱里さん」
悩む朱里に菊川が声をかける。
「大人になればなる程、物事を難しく考えてしまいます。幼い頃の朱里さんは、とても真っ直ぐで素直な心の持ち主でしたよ」
「幼い頃の、私?」
「はい。あなたは真っ直ぐに相手を見つめて、大好き!と笑っていました」
え?と朱里は首をかしげる。
いったいどの時の事だろう?
「きっとまだ、あなたはあの時の気持ちを持ち続けていると私は思います。それでは、おやすみなさい」
そう言って菊川は窓を閉めた。
朱里はしばらく立ち尽くし、何度も菊川の言葉を思い返していた。
*****
ある日の夜。
実家に遊びに来ていた雅に誘われて、朱里は桐生家で夕食をご馳走になっていた。
「朱里ちゃん。次回の演奏会のプログラムはもう決まったのかい?」
瑛の父に尋ねられ、朱里は頷く。
「はい、ほぼ決まりました。秋の演奏会で、時間も夕暮れ時なので、しっとりした曲も入れる予定です」
「へえ、例えば?」
「えっと、リストの『愛の夢』とか…」
「おおー、それはいいね!楽しみだ」
すると雅も身を乗り出す。
「えー、ほんと?私、あの曲大好きなの。絶対聴きに行くからね、朱里ちゃん」
「あ、はい…」
(うう…、プレッシャーが…)
朱里が思わず下を向いた時、瑛が口を開いた。
「そんなに有名な曲なのか?それ」
「ええ?瑛ったら、知らないの?」
雅が呆れたようにため息をつく。
「瑛、あなた少しは音楽にも詳しくないと、パーティーで会話に困るわよ」
「そうだぞ、瑛。有名な曲くらいは教養として覚えておいた方がいい。朱里ちゃんに教わったらどうた?」
両親がそう言った時、雅が付け加えた。
「あ、でも瑛。『愛の夢』は下調べして聴いたりしないで」
「は?なんで?」
「あなたが最初にこの曲を聴くのは、朱里ちゃんの演奏にしなさい」
ええー?と朱里は仰け反る。
「そ、そんな!私の演奏が最初なんて、リストに叱られますから」
「ううん、瑛は朱里ちゃんの演奏をまっさらな気持ちで聴くべきよ。ね?瑛。動画とか見たりしないでね」
瑛は、雅の勢いに呑まれて頷く。
「あ、まあ。うん、じゃあ」
「ひえっ、本当に?あー、責任重大」
朱里は思わず両手で頬を押さえた。
「朱里、送っていく」
皆に挨拶し、玄関で靴を履いていると瑛が声をかけてきた。
「え?いいよ、わざわざ」
「いや、ちょっと話があるんだ」
そう言って瑛は、朱里よりも先に行き玄関を開けた。
「なあに?話って」
屋敷の門を出て肩を並べながら、朱里は尋ねる。
「うん、俺さ。来年、春頃に正式に婚約することになった」
「そうなんだね!おめでとう。じゃあ、結納とかも?」
「ああ。春休みにするつもりだ」
「そっか。いよいよだね」
「うん、結婚はまだ先になるけど。それでさ、俺…」
言い淀む瑛の横顔を見ながら朱里が促す。
「どうしたの?」
「うん、その。こんなふうに朱里と話したりするのも、もうやめようと思ってる」
え…と、朱里は思わず足を止めそうになった。
「それは、会話をしたりしないってこと?」
「ああ。必要なことしか話さない」
「…それって、もう私とは…友達じゃないってこと?」
言いながら朱里は声が震えてしまう。
だが、瑛はきっぱりと頷いた。
「そうだ」
一気に涙が込み上げてくる。
だが、泣く訳にはいかない。
「そっか。分かった」
朱里は足を止めて瑛に向き合った。
「じゃあもうここで」
「ああ」
「今までありがとう、瑛。聖美さんとお幸せにね」
「こちらこそありがとう。朱里も、幸せにな」
「うん。じゃあ」
そう言うと朱里はくるりと背中を向け、足早に家に入る。
玄関の鍵をかけると2階に駆け上がり、自分の部屋のベッドに突っ伏した。
とめどなく涙が溢れてくる。
胸が張り裂けそうに辛かった。
朱里はまるで子どものように、声を上げて泣き続けた。
季節は秋へと移り変わり、夏が大好きな朱里はなんだか物哀しくなる。
「香澄ちゃん、夏休みどうだった?」
食堂でランチを食べながら、朱里は久しぶりに会う香澄に尋ねた。
「んー?彼と旅行に行ったりして、まあまあ楽しかったよ。朱里は?」
「私は、そうねえ。特にこれと言って何も」
すると香澄は、ええー?と呆れたように言う。
「またそんなこと言って。せっかくの大学生活、もっと楽しまなきゃだめよ。彼氏は?出来たの?」
「出来てたら夏休みは充実してましたよー」
「はは、確かに。もう誰か紹介しようか?合コンとかセッティングしてもいいよ?」
んー、と朱里は考え込む。
「香澄ちゃん。彼氏が出来ると幸せになれるの?」
は?と香澄は面食らう。
「何言ってんの?朱里」
「いや、最近ずっと考えてるの。恋人が出来たら幸せな日々を過ごすのかと思ってたけど、そうでもないのかなって。ねえ、幸せって何?」
香澄はもはや返す言葉もなく、ポカーンとしている。
「あ、朱里?それ、夏休みボケなの?」
「ううん。いたって真面目。大真面目」
香澄は、いよいよ理解不能とばかりに眉を寄せる。
「朱里。こうなったら荒療治よ。もう誰でもいいからつき合ったら?」
「えー?そこに幸せはあるの?」
「少なくともそんな変なセリフは言わなくなると思うわよ。ね?とにかく誰かとつき合ってみなよ」
身を乗り出す香澄に、朱里は、うーんと渋ってみせた。
*****
「おはようございまーす!」
「お!朱里、久しぶりだな」
「はい!奏先輩もお元気でしたか?」
「おうよ!」
放課後、朱里はヴァイオリンを持って部室に顔を出した。
学校も始まり、練習もしやすくなる為、桐生グループのマンションへの訪問演奏をまた何件か引き受けることにしたのだった。
今日はそのミーティングで、四人が久しぶりに集まることになっていた。
美園と光一はまだ姿が見えない。
二人とも理系の為、おそらく実験が長引いているのだろう。
奏はいくつか持参した楽譜を見ながら、選曲について考えているようだった。
「奏先輩」
朱里は、弓に松脂を付けながら奏に声をかける。
「んー?なんだ」
「奏先輩の幸せって何ですか?」
はっ?と奏は素っ頓狂な声を出して朱里を見る。
「お前、どした?え、何かの曲のアナリーゼか?」
「いえ、そういう訳では。単純に聞きたくて。人は恋人が出来ると幸せになれるのですか?」
「それ、今彼女がいない俺に聞くか?」
「えっ!奏先輩、彼女いないんですか?」
はあー?と奏は眉間にシワを寄せる。
「お前の頭の中どうなってるんだ?さっきから訳わからん」
「ですよね、すみません」
ははっと朱里は笑ってごまかす。
「まあ、でも。お前が本当の恋をしたことがないのは知ってる」
えっ!と朱里は驚いて奏を見る。
「ど、どうしてですか?」
「お前の演奏を聴けば分かる。明るい曲は得意だし、綺麗なメロディもまあ、そこそこ上手い。けど、誰かを恋い焦がれるような艶やかさや、想いが叶わない切なさは表現出来てない。そんな恋をしたことないんだろ?」
朱里は半ば感心したように頷いた。
「確かにそうです。そうか、だから奏先輩みたいな、聴いていると胸がキュッと切なくなるような音が出せないんですね、私」
「そうだな。俺はそりゃもう、酸いも甘いも噛み分けた大人の男だからな」
「おー、すごーい!恋愛マスター!」
「やめろ。別に集めてない」
「あっはは!たくさん彼女ゲットしたんでしょ?」
「してないっつーの!それよりお前こそ、いい加減いい恋愛しろよ。恋人同士になれなくてもいい。誰かを心から好きになれば、それだけで人生は豊かになる。振られたらどうしようとか、両想いになれないとか、そんなことも考えられないくらい誰かに夢中になれれば、それだけでも幸せなんだぞ」
「えっ…」
朱里は奏のセリフを頭の中で反復して考える。
「たとえその人に彼女がいても?絶対告白出来ないと分かっていても?片思いなんて、辛くなるだけなのに?」
「それでも好きになってしまうのが恋だろ?もちろん相手から奪おうなんて思わない。けど、好きって気持ちは抑えきれないんだ。そして、その気持ちを自分で持て余して切なくなる。それも人間らしさのうちの一つだ」
最後に奏は、ポンと朱里の頭に手を置いて顔を覗き込んだ。
「お前も色んな経験をしろ。人間らしさをさらけ出して、自分の気持ちに正直に、心のままに生きてみろ。そしてその感情を全て音に乗せるんだ。それはきっと、聴く人の心を揺さぶる魂のこもった音になる」
朱里はじっと考えてから頷いた。
*****
「次回も今までと同じく、幅広い年代の方向けのコンサートだ。どんな曲がいいかな?」
やがてやって来た光一と美園も交えて、四人で選曲する。
「お子様向けには、いつものレパートリーから歌える曲をいくつか。ご年配の方には鉄道唱歌のメドレーを、車掌さんのナレーションつきでやるのはどう?」
光一が言い、皆は感心する。
「へえー、そんなの出来るんですか?」
美園の言葉に光一は頷いた。
「ダテに鉄道オタクじゃないからな、俺。新幹線の到着メロディとナレーション入れて、ご当地の唱歌をメドレーでアレンジしておくよ」
すごーい!と朱里は目を輝かせる。
「それはとっても喜ばれると思います」
「よい!じゃあ光一にそれは任せる。あとさ、俺がアレンジした一曲、やってもいいか?」
「おお、もちろん。奏のアレンジなら絶対いいやつだからな」
朱里と美園も、うんうんと頷く。
奏は皆を見回した。
「じゃあ、プログラムは概ね決まりだな。光一、アレンジ出来次第PDFで送ってくれ。俺も次の練習までに仕上げておく」
「はいよー」
そして既に楽譜の揃っている曲を四人で通して、その日の練習は終了となった。
*****
「うーん…、ストップ!」
奏が弓を軽く振り、三人は一斉に動きを止めた。
演奏会に向けてのカルテットの練習日。
光一と奏がアレンジした二曲が完成し、早速合わせていた。
光一アレンジの鉄道メドレーはとてもおもしろく、光一の車掌さながらのナレーションを聞きながら、楽しく演奏出来た。
これはお客様にも喜ばれると皆は頷いたが、問題は奏アレンジのクラシック曲だった。
奏が選んだのは、リストの『愛の夢』第3番。
『愛の夢』はフランツ・リストが作曲した3曲からなるピアノ曲で、「3つの夜想曲」という副題を持っている。
第3番はその中でも有名な一曲で、1845年、リストが34歳の時に作曲した歌曲「おお、愛しうる限り愛せ」が元になっている。
どこまでも甘く美しいメロディで、朱里ももちろん大好きな曲だが、実際に弾きこなすのは今の朱里には難しかった。
「朱里、同じ3つの音を単純にそのまま並べるな。一つ一つに表情をつけるんだ」
「はい」
朱里は頷くものの、なかなか音には表せない。
「最初のアウフタクト、もっと響かせて入って。その一音、大事だぞ」
「はい」
奏の指導を受けながら、何度も朱里は出だしの部分をくり返す。
「テンポを刻みすぎるな。もっとたっぷり間を取って」
「はい」
何度やっても上手くいかない。
朱里は美園や光一に謝った。
「ごめんなさい。私がつかめないばっかりに…」
「気にするなって!朱里が弾きたいように弾けばいいからな」
「そうよ、ちゃんと朱里に合わせるから。気にせずたっぷり歌って」
「ありがとう」
朱里は半分泣きそうになりながら頭を下げた。
*****
家に帰ってからも、朱里は何度も『愛の夢』をさらっていた。
奏やみんなに言われたことは、分かっているのに表現出来ない。
(どうしよう…。演奏会は来月なのに)
朱里はため息をつくと、気持ちを入れ替えようと窓を開けた。
美しい満月が、朱里の部屋にも綺麗な光を届けてくれる。
(なんて素敵な月の光なの。神秘的で心が洗われるよう…)
部屋の電気を消し、しばらく窓の外を見ていると、ふいに向かい側の部屋の窓が開いた。
「朱里さん、こんばんは」
「菊川さん!あ、もしかしてまた?」
「はい、耳を傾けておりました」
ふふっと菊川は笑う。
「今回も美しい曲ですね」
「ええ、でも…。今の私には弾きこなせません」
朱里がうつむくと、菊川はふと真剣な表情になる。
「…朱里さんは、悩んでいるのですか?」
「え?ああ、そうですね。どうやって弾けばいいのかと…」
「誰を想って弾けばいいのか…ではなくて?」
え…、と朱里は視線を上げて菊川を見る。
「先程の朱里さんの演奏は、とても迷っているようでした。誰かに聴いて欲しい、でも誰に向けて弾けばいいのかと。自分の感情を持て余しているようにも感じました」
朱里は菊川の言葉にじっと耳を傾ける。
「朱里さん自身が自分の気持ちに気づき、この想いをこの人に届けたいと思って演奏されるヴァイオリンを、私はいつか聴いてみたいです」
「私の気持ちを、誰かに…?」
呟く朱里に菊川が頷く。
「はい。朱里さんの演奏なら、言葉に出来ない想いもきっと相手に届くでしょう」
朱里はじっと考え込む。
そして、菊川が以前似たようなことを話していたのを思い出した。
(何の話だったっけ?自分自身の正直な気持ちに気づけなければ、本当の幸せは手に入らないって)
あれは確か…そう!瑛の話だった。
瑛と同じように、自分も正直な気持ちと向き合っていないのだろうか。
そんな事はない。
私はいつだって自分の気持ちを押し殺したりしていない。
どんな感情も、素直に相手に伝えてきたはず。
…それならどうしてこんなにも、この曲をどう弾こうかと悩んでいるのか?
「朱里さん」
悩む朱里に菊川が声をかける。
「大人になればなる程、物事を難しく考えてしまいます。幼い頃の朱里さんは、とても真っ直ぐで素直な心の持ち主でしたよ」
「幼い頃の、私?」
「はい。あなたは真っ直ぐに相手を見つめて、大好き!と笑っていました」
え?と朱里は首をかしげる。
いったいどの時の事だろう?
「きっとまだ、あなたはあの時の気持ちを持ち続けていると私は思います。それでは、おやすみなさい」
そう言って菊川は窓を閉めた。
朱里はしばらく立ち尽くし、何度も菊川の言葉を思い返していた。
*****
ある日の夜。
実家に遊びに来ていた雅に誘われて、朱里は桐生家で夕食をご馳走になっていた。
「朱里ちゃん。次回の演奏会のプログラムはもう決まったのかい?」
瑛の父に尋ねられ、朱里は頷く。
「はい、ほぼ決まりました。秋の演奏会で、時間も夕暮れ時なので、しっとりした曲も入れる予定です」
「へえ、例えば?」
「えっと、リストの『愛の夢』とか…」
「おおー、それはいいね!楽しみだ」
すると雅も身を乗り出す。
「えー、ほんと?私、あの曲大好きなの。絶対聴きに行くからね、朱里ちゃん」
「あ、はい…」
(うう…、プレッシャーが…)
朱里が思わず下を向いた時、瑛が口を開いた。
「そんなに有名な曲なのか?それ」
「ええ?瑛ったら、知らないの?」
雅が呆れたようにため息をつく。
「瑛、あなた少しは音楽にも詳しくないと、パーティーで会話に困るわよ」
「そうだぞ、瑛。有名な曲くらいは教養として覚えておいた方がいい。朱里ちゃんに教わったらどうた?」
両親がそう言った時、雅が付け加えた。
「あ、でも瑛。『愛の夢』は下調べして聴いたりしないで」
「は?なんで?」
「あなたが最初にこの曲を聴くのは、朱里ちゃんの演奏にしなさい」
ええー?と朱里は仰け反る。
「そ、そんな!私の演奏が最初なんて、リストに叱られますから」
「ううん、瑛は朱里ちゃんの演奏をまっさらな気持ちで聴くべきよ。ね?瑛。動画とか見たりしないでね」
瑛は、雅の勢いに呑まれて頷く。
「あ、まあ。うん、じゃあ」
「ひえっ、本当に?あー、責任重大」
朱里は思わず両手で頬を押さえた。
「朱里、送っていく」
皆に挨拶し、玄関で靴を履いていると瑛が声をかけてきた。
「え?いいよ、わざわざ」
「いや、ちょっと話があるんだ」
そう言って瑛は、朱里よりも先に行き玄関を開けた。
「なあに?話って」
屋敷の門を出て肩を並べながら、朱里は尋ねる。
「うん、俺さ。来年、春頃に正式に婚約することになった」
「そうなんだね!おめでとう。じゃあ、結納とかも?」
「ああ。春休みにするつもりだ」
「そっか。いよいよだね」
「うん、結婚はまだ先になるけど。それでさ、俺…」
言い淀む瑛の横顔を見ながら朱里が促す。
「どうしたの?」
「うん、その。こんなふうに朱里と話したりするのも、もうやめようと思ってる」
え…と、朱里は思わず足を止めそうになった。
「それは、会話をしたりしないってこと?」
「ああ。必要なことしか話さない」
「…それって、もう私とは…友達じゃないってこと?」
言いながら朱里は声が震えてしまう。
だが、瑛はきっぱりと頷いた。
「そうだ」
一気に涙が込み上げてくる。
だが、泣く訳にはいかない。
「そっか。分かった」
朱里は足を止めて瑛に向き合った。
「じゃあもうここで」
「ああ」
「今までありがとう、瑛。聖美さんとお幸せにね」
「こちらこそありがとう。朱里も、幸せにな」
「うん。じゃあ」
そう言うと朱里はくるりと背中を向け、足早に家に入る。
玄関の鍵をかけると2階に駆け上がり、自分の部屋のベッドに突っ伏した。
とめどなく涙が溢れてくる。
胸が張り裂けそうに辛かった。
朱里はまるで子どものように、声を上げて泣き続けた。
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