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幸せはどこに

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 「まあ!朱里さん、ようこそ!」
 「こんにちは、聖美さん。お招きありがとう」
 「こちらこそ。来てくださって嬉しいです。さあ、どうぞ中へ」
 「お邪魔します」

 夏休みもそろそろ終わる頃、朱里は聖美に招かれて屋敷に遊びに来た。

 瑛は仕事があり都合がつかなかったが、聖美はそれでも構わないと朱里に声をかけてくれ、朱里は菊川に車で送ってもらった。

 帰りは都築家の運転手が送ってくれるとのことで、菊川とは別れる。

 「それでは朱里さん、どうぞ楽しいひとときを」
 「ありがとうございます。菊川さんも帰り道、お気をつけて」

 朱里は菊川に微笑むと、聖美に続いて屋敷に入った。

 「わあー、素敵なお部屋ね」

 広いリビングに通され、朱里は感激して部屋を見渡す。

 綺麗な花の刺繍のクッションやカーテン、ふかふかの絨毯に明るい照明。

 これぞまさにお嬢様のお住い、といった雰囲気だった。

 「朱里さん、どうぞそちらのソファにお座りくださいね」
 「ありがとう!」

 聖美に促されて腰を下ろした時だった。

 反対側の壁のドアが開き、上品な女性がにこやかに現れた。

 「まあまあ、ようこそお越しくださいましたわ。聖美の母でございます」

 えっ!と朱里は慌てて立ち上がる。

 「お邪魔しております。栗田 朱里と申します」
 「あなたが朱里さんね。いつも聖美がお世話になっております。まあ、本当に素敵なお嬢さんね。聖美があなたのことばかり話すので、私も今日お会いするのをとても楽しみにしておりましたの。さ、どうぞお掛けになって」
 「はい、失礼します」

 三人でソファに向き合って座ると、家政婦らしき人が、三段のプレートに載せたお菓子と紅茶を運んできてくれる。

 「わー、これ、アフターヌーンティーですよね?素敵!ホテルみたい」

 朱里は目を輝かせる。

 「お気に召していただけたかしら?朱里さん、ケーキはお好き?」
 「大好きです!」
 「良かったわ。さあ、どうぞ召し上がれ」
 「はい、いただきます!」

 美味しそうにケーキを頬張る朱里に笑いかけてから、聖美の母はしみじみと言う。

 「聖美がお友達を連れてくるなんて初めてで。もう本当に嬉しいわ。朱里さん、聖美と仲良くしてくださって本当にありがとう」
 「いえいえ、こちらこそ!私なんて、およそこちらのお家柄とは不釣り合いな庶民ですのに、聖美さんは気さくに話してくださって。そう!コンサートにも誘ってくださったんです」
 「ええ、聞きましたわ。聖美ったら、興奮して話すんですもの。朱里さんと一緒に感想を話して、とても楽しかったって」

 すると聖美が、恥ずかしそうに口を挟む。

 「もうお母様。私が朱里さんとお話したくてお招きしたのに。お母様ばかりがお話しして…」
 「あら、いいじゃない。私も朱里さんにお聞きしたいことがたくさんあるんだもの。朱里さん、ヴァイオリンがお上手なんですってね」

 朱里は慌てて首を振る。

 「いえ、そんな。趣味で少し弾くくらいです」
 「聖美から聞きましたわ。なんでも、カルテットの演奏会をされたとか?聖美が興奮して帰ってきましたのよ。客席も一体となって皆さん笑顔で楽しまれて、それはそれは素敵な演奏会だったと。次回は私も呼んでくださらない?」

 ええー?!と朱里は仰け反る。

 「そ、そんな。私達アマチュアですし、きっと奥様をガッカリさせてしまいます」
 「まあ、そんなことないわ。ね?どうか私もお招きくださいね」

 前のめりに懇願され、朱里は勢いに負けて頷いた。

*****

 「もう本当にお母様ったら。私を差し置いてずーっと朱里さんとおしゃべりして…」

 自分の部屋に朱里を招き、二人きりになると聖美は口をとがらせた。

 「ふふ、素敵なお母様ね」
 「私がひとりっ子なので、とにかく何でも干渉してくるのが困りもので…」
 「それは聖美さんが可愛くて仕方ないのよ。でもお母様、聖美さんがお嫁に行ったらきっと寂しがるわね」

 すると聖美は頬をほんのり赤らめてうつむく。

 朱里はふふっと笑って話を続けた。

 「結婚の準備は順調なの?」
 「あ、いえ、その。まだすぐにではなくて、瑛さんが大学を卒業して仕事が落ち着いた頃にと…」
 「え、そんな先なの?もう、さっさと結婚しちゃえばいいのに。ねえ?」
 「いえ、そんな。あの、朱里さん」
 「ん?なあに?」

 聖美は、言うべきか迷ったように言葉を止めた。

 「何か心配なことでもあるの?」

 朱里が顔を覗き込む。

 「いえ、あの…。朱里さん、私は本当に瑛さんと結婚してもいいのでしょうか?」

 え?と、朱里は首をかしげる。

 「当たり前じゃない!どうしてそんなこと言うの?」
 「その…。瑛さんは、私と一緒にいても楽しそうには見えないのです。にこやかにお話してくださるし、スマートにエスコートもしてくださいます。私を大切に扱ってくださっているのは良く分かります。でも、瑛さんはそれで幸せなのでしょうか?」

 朱里は視線を外して考えてから、聖美に向き合った。

 「聖美さん、あき…桐生さんは、ちゃんと聖美さんとのことを考えていると私は思います。桐生のおじ様から最初に聖美さんのお話を聞いたあとも、お会いするかどうか真剣に考えていました。今は、聖美さんの人生を自分が担う覚悟を持って、聖美さんに接していると思います。だから単純に楽しさが前面に出ている訳ではないのかもしれません。だけど、どうか信じてあげてください。彼はきちんと聖美さんに向き合っています」

 聖美はじっと朱里の言葉に耳を傾け、しっかりと頷いた。

*****

 「それでは、お邪魔しました」

 広い玄関で靴を履いた朱里は、聖美の母に頭を下げる。

 「またどうぞ、いつでもいらしてくださいね」
 「はい、ありがとうございます。それに自宅まで送っていただけるそうで…。お気遣いありがとうございます」
 「いいのよ。こちらこそ楽しい時間をありがとう」

 それでは失礼しますとお辞儀をして、朱里は聖美と一緒に玄関を出た。

 大きな黒いセダンがすぐ目の前に停まっており、運転手が後部座席のドアを開けて待ってくれている。

 「聖美さん、今日はありがとう!楽しかったわ」
 「こちらこそ。またぜひ遊びに来てくださいね」
 「ええ」

 にっこり笑ってから、朱里は車に乗り込んだ。

 運転手がリモコンで大きな門扉を開け、ゆっくりと車を進ませる。

 朱里が後ろを振り返り、窓越しに聖美に手を振った時だった。
 聖美の背後の垣根に、何かがサッと動くのが見えた。

 (え、なんだろう…)

 そう思いつつ、とっさに朱里は運転手に、止めてください!と叫んでいた。

 ドアを開けて外に飛び出した時、聖美の背後からいきなり男が現れて、後ろから聖美の口を塞いだ。

 んー!と聖美が声にならない悲鳴を上げる。

 「何するのよ!離しなさい!」

 朱里は男の腕に飛びつき、バランスを崩した男に力いっぱいビンタを食らわせた。

 「いって!この女…」
 「聖美さん、早く逃げて!」

 運転手が聖美をかばって男から遠ざけ、ホッとした瞬間、朱里はみぞおちに衝撃を感じた。

 うっ…と身体が硬くなり、意識がスッと遠のく。

 「朱里さんっ!!」

 悲鳴のような聖美の声を聞きながら、朱里は意識を失った。

*****

 「朱里、朱里?」

 誰かの心配そうな声が聞こえてきて、朱里はゆっくり目を開ける。

 ぼんやりとした視界の中に、じっとこちらを覗き込む瑛の顔が見えた。

 「…瑛」
 「良かった、朱里…」

 瑛は涙目になりながら、ホッとしたように呟いた。

 「私、どうしたの?ここはどこ?」
 「うちの和室だ。さっきうちの主治医に往診に来てもらった。意識が戻れば心配いらないが、みぞおちに打撲のあとがある。しばらくは安静にって」
 「あー、そっか。あの時の」

 朱里が聖美の屋敷でのことを思い出していると、瑛はたまらないというように顔を歪めた。

 「朱里、ごめん。本当にごめんな。朱里をこんな目に遭わせて、本当に申し訳ない。打撲のあとが残るなんて、女の子なのに…」

 朱里はわざと明るく笑った。

 「どうして瑛が謝るのよ?それに打撲のあとなんてすぐ消えるって。それより聖美さんは?無事なの?」
 「ああ、何ともない。でも朱里を心配して、泣き叫んで大変な状態だった。彼女はご両親に任せて、とにかく朱里をうちに運んだんだ」
 「そう。あの、聖美さんはなぜ襲われたの?」

 瑛は少し言い淀む。

 「まだはっきりしないけど。恐らく誘拐されそうになった」

 えっ!と思わず身体を起こすと、ズキッと胸が痛んで顔をしかめた。

 「大丈夫か?動くな、朱里」
 「う、うん。大丈夫」

 身体を横たえ、朱里はふうと息をつく。

 「きっと運転手さんが門扉を開けた時ね。その隙を見て入って来たんだわ」
 「ああ、そうらしい」
 「聖美さんを一人で見送りに立たせるんじゃなかったわ。私が玄関で別れていたら良かったのに…」
 「お前のせいじゃない!逆に、お前がいたから彼女は助かったんだ」
 「でも…」

 朱里、と瑛は真剣な表情になる。

 「もう俺に関わるな」
 「え?どういう意味?」
 「朱里には穏やかで安全な世界がある。毎日のびのびと安心して暮らすことが出来る。大切な人のそばで、幸せに暮らして欲しい。朱里には、そうして欲しいんだ。俺の分まで」

 朱里は瞬きを繰り返し、瑛を見つめる。

 「瑛…」

 手を伸ばして瑛の髪に触れると、瑛はビクッと身体をこわばらせた。

 「瑛、何をそんなに背負い込んでるの?どうしてそんなに自分を追い詰めてるの?一体、何に立ち向かってるの?あなたの…瑛の幸せはどこにあるの?」

 ハッとしたように瑛は目を見開く。 
 だが、すぐさま視線を落とした。 

 「これが俺の人生なんだ。朱里とは違う」

 顔をキュッと引き締めてそう言うと立ち上がる。

 「何か少しでも食べた方がいい。今用意するから」

 そう言って瑛は部屋を出ていった。

 しばらくして、瑛の母や菊川、千代が様子を見に来てくれた。

 心配する皆に、朱里は大丈夫ですと笑ってみせる。

 千代が用意してくれた夕食をぺろっと平らげると、ようやく皆は少し安心したようだった。

 「でも朱里ちゃん。しばらくはうちで安静にしてね」
 「ええ?おば様そんな。大丈夫ですよ、私」
 「いいえ、だめよ!お医者様にも、安静にするように言われたの。それに主人も話を聞いてとても心配してね。朱里ちゃんのそばに必ず誰かついているようにと言われてるのよ」

 そうですか、すみませんと朱里は小さく謝る。

 「朱里さん。このようなことになったのは私にも責任があります。あなたのお帰りを都築家に任せたりせず、私がきちんとお迎えに上がるべきでした。本当に申し訳ありません」

 菊川が深々と頭を下げる。

 「いいえ!菊川さんは何も悪くありません。もちろん都築家の皆様だって。私は本当に大丈夫ですから、どうかこれ以上心配しないでくださいね」
 「朱里さん…。ありがとうございます。せめてもの罪滅ぼしに、朱里さんが回復されるまでは私がつきっきりで看病いたします。隣の和室に寝泊まりしますので、真夜中でもすぐに叩き起してくださいね」

 えっ!と朱里は驚く。

 「き、菊川さん。隣の部屋に寝るの?」
 「はい。いつでもお声かけください」

 嘘でしょ?と思いつつ、瑛の母や千代を見るも、二人とも真剣に頷いている。

 (え、ちょっと待って。寝言とか聞かれたらどうしよう。イビキは?私って、イビキかく?どうだろう…)

 一人で考え込んでいると、千代が心配そうに顔を覗き込んできた。

 「まあ、朱里お嬢様。お元気がなくなりましたわ。どこか痛みますか?」

 ええ?!と、菊川や母も覗き込んでくる。

 「だ、大丈夫よ!なんともないです!あはは!」

 (はあー、やだわー、菊川さんが隣で寝るなんて)

 そう思いつつ、朱里はやたらと明るく笑ってみせた。

*****

 「ねえ、菊川さん」
 「はい、何でしょう」

 その夜、宣言通り朱里のいる和室と襖一枚隔てたところで菊川が寝ることになった。

 なかなか寝つけない朱里が話し出す。

 「菊川さん。私、どんどん瑛が遠い所に行ってしまうような気がするんです」

 天井を見上げながら、朱里は当てもなく話を続ける。

 「前はもっと、何も考えずに普通にしゃべったりふざけたり出来たのに…。最近は瑛が私に壁を作っているような気がして、なんだか寂しくて。私は、瑛と聖美さんが結婚したあとも二人と仲良くしていきたいけど、だめなのかなあ」

 菊川の返事はない。
 あまりに静まり返ったままで、もしや菊川は寝てしまったのかと朱里は声をかける。

 「菊川さん?寝ちゃいましたか?」
 「いえ、起きています」
 「え?あ、そう」
  
 だがやはりそれ以上の返事はない。

 朱里がしょんぼりとため息をついた時、ようやく菊川の声がした。

 「朱里さん。私の勝手な想像かもしれませんが…」
 「え?いえ、どうぞ」 

 先を促すと、菊川はもう一度考えてから話し出す。

 「朱里さんを遠くに感じているのは、瑛さんの方だと思います」
 「え?どうして?」
 「瑛さんにとって、普通に話が出来る親友は朱里さんだけです。でも朱里さんは違う。大学に行けば他の親友もいるし、カルテットの素晴らしい仲間もいる。皆さんと息を揃えて演奏する朱里さんの輝くような姿を見て、瑛さんは朱里さんが自分の手の届かない所にいるような気がしたのではないでしょうか。自分とは住む世界が違うと。そしてその頃、聖美さんに会うことを決められたのです」

 あっ…と朱里は思い出す。

 確かにそうだ。
 カルテットの演奏会の数日後、皆で食事をしている時に急に瑛が聖美に会うと言い出したのだった。

 「瑛さんは、自分のせいで朱里さんが危険な目に遭うことにも、とても心を痛めています。この屋敷に泥棒が入った時も、そして今日、聖美さんをかばって朱里さんが怪我をされたことも」
 「そんな…。それは瑛のせいじゃないでしょう?」
 「ですが、もし朱里さんが自分の隣人でなければ。もし朱里さんが、自分の友人でなければ。朱里さんは危険な目に遭わずに済んだのにと、己を責めていらっしゃるのだと思います」

 先ほど真剣な表情で、俺に関わるなと言った瑛の言葉を思い出す。

 朱里は、胸にやるせなさが込み上げてきた。

 「菊川さん。私、瑛を救いたい。瑛を縛りつけているものから、瑛を開放してあげたい。そして何の心配もなく、聖美さんと穏やかな日々が過ごせるようにしてあげたい。親友として、助けてあげたいんです。どうすればいいですか?」
 「難しいですね。私も同じように考えていますが、答えは出ません。ですが…」

 そして菊川は、また言うべきかどうか悩み出す。

 「なあに?」

 朱里は先を促した。

 「朱里さん、これは勝手な私の思い込みだと聞き流してくださいね」

 そう前置きしてから話し出す。

 「瑛さんは、朱里さんが誰かと結ばれることを望んでいらっしゃいます。朱里さんには、穏やかで幸せな生活を送って欲しいと。ですが私は、瑛さんが本当に望んでいることはその事ではないと思うのです。そして実際に朱里さんがそうなれば、少なからず瑛さんは苦しむことになると。瑛さんの本当の幸せは、瑛さんが自分の気持ちに正直に向き合わない限り、手に入れることは出来ません」

 ですから、と最後に菊川は付け加える。

 「どんなに私や朱里さんが助けたいと思っても、無理なのです。瑛さん自身が、自分の幸せが何かに気づかない限り」

 朱里は言葉を失う。
 瑛自身が自分の幸せに気づくには…

 「菊川さん。瑛は考えるでしょうか?自分の幸せが何かを」
 「いいえ。少なくとも今は、自分の気持ちすら考えようとしていません。本当はどうしたいのか、自分は何を望んでいるのか、本心から目を背けていらっしゃいます」
 「そんな…」

 朱里はもはや絶望的な気持ちになった。

 「瑛…」

 どうしてこうなってしまったのだろう。
 どうすればいいのだろう。
 自分に出来ることはないのだろうか。

 朱里は悶々と眠れない夜を過ごした。

*****

 「朱里さん!!」

 車から降りるなり、聖美が涙目で朱里に駆け寄り抱きついた。

 「聖美さん、こんにちは」
 「朱里さん!お身体は?お怪我はもう大丈夫なのですか?」
 「ええ!もうすっかり元気よ。聖美さんは?気分は落ち着いた?」
 「そんな、私のことなんて…。朱里さんは私をかばって怪我をされたのに」
 「だからもう平気だって。ね?ピンピンしてるでしょ?」

 朱里は笑いながら聖美の顔を覗き込んだ。

 あの日から1週間が経ち、朱里は瑛と一緒に菊川の車で聖美の屋敷を訪れていた。

 みぞおちの青あざは少し残っているものの、身体は回復し、痛むこともなかった。

 とにかく朱里に謝りたいと何度も聖美や両親が連絡をくれ、瑛は無理しなくてもと言ったが、朱里はこの日の再訪を決めた。

 聖美の屋敷は警備を強化し、門の前にも警備員が二人立っている。

 リビングに入ると、聖美の両親が朱里に頭を下げた。

 「朱里さん。この度はうちの敷地内にも関わらずこのような怪我を負わせてしまい、本当に申し訳ありませんでした。そして娘を守ってくださって、本当にありがとう」

 初めて会う聖美の父は、厳しい表情で朱里に詫びる。

 「いえ、あの。どうかお気になさらず。それより聖美さんがご無事で何よりでした。私はお嬢様でも何でもないので、多少の怪我なんてどうってことありませんから」

 手をパタパタ横に振りながら笑ってみせると、聖美の母が、まあと目を潤ませる。

 「とんでもないわ。こんな素敵なお嬢さんに怪我をさせてしまうなんて、本当にごめんなさい。瑛さんも。大切なご友人をこんな目に遭わせてしまって、申し訳ありませんでした」
 「いえ、そんな」

 瑛も恐縮して首を振る。

 「朱里さんのご両親や瑛さんのお父上にも、改めて直接謝罪に伺います」

 そう言う聖美の父に、朱里はひえっと仰け反る。

 (な、なんか、私のせいで大変なことに?)

 「あの、本当に私のことはお気になさらず。両親も遠くにいますし。それより今日は聖美さんと楽しくお話したいと思って伺いました。聖美さんに少しでもお元気になってもらえたらと」

 まあ、朱里さん…と、聖美はまた目を潤ませる。

 「ほら、そんなに泣かないで。ね?」
 「ええ、ありがとうございます。朱里さん、今日は朱里さんの大好きなアフターヌーンティーをご用意しているの。どうぞ召し上がってくださいね」
 「わー、楽しみ!」
 「ふふ、せっかくですからガーデンで食べませんか?」
 「ええ、是非!」

 ようやく聖美は朱里に笑顔をみせて頷いた。

 聖美の屋敷のガーデンは、綺麗な花々が咲き乱れる花園だった。

 「素敵ねー」

 朱里はうっとりとガーデンに目をやりながら、紅茶を口に運ぶ。

 「朱里さん、良かったら今度ここでヴァイオリンを弾いて頂けません?お花を見ながら朱里さんのヴァイオリンを聴いてみたいです。とっても素敵でしょうね」
 「えええー?!いやいや、それは無理よ。私の酷い音で花がしおれたら困るわ。でもそうね、ハチ避けにはなるかも?」
 「まあ、朱里さんったら!」

 聖美はおかしそうに笑う。

 (良かった、聖美さんが元気になって。誘拐されそうになったんだもの、きっと凄く怖かっただろうな。お嬢様って本当に大変)

 そこまで考えて、朱里はハッとする。

 (やだ!私ばっかり聖美さんとしゃべって。フィアンセがいたんじゃないのよ)

 朱里は、ちょっと失礼と立ち上がると、カップとソーサーを手に、ガーデンの片隅で菊川と話している瑛の所へ行く。

 「瑛、聖美さんが呼んでるわよ」
 「ん、ああ。分かった」

 瑛はゆっくりと歩き出し、先程まで朱里がいた椅子に座る。

 聖美が急に恥じらったようにうつむき、二人は何やら話し始めた。

 (ふふ、良かった)

 朱里が微笑んで眺めていると、ふいに菊川の声がした。

 「おやおや、朱里さんはなかなかの策士ですね」
 「あら?何のことかしら」

 朱里は澄ました顔で、持っていたティーカップに口をつける。

 「これは私も気をつけませんと。朱里さんにはかないませんね」
 「ふふふ、そうよ。私、色々企んでるんだから」

 え?と驚く菊川に、朱里はグッと近づいて顔を寄せる。

 「菊川さん。私ね、あれから考えたの。瑛が自分で自分の幸せを考えないなら、私が瑛を幸せな気分にしてやろうと思って」
 「してやろう?!って、朱里さん、一体何を…」
 「むふふ。まずは瑛と聖美さんにラブラブな雰囲気になってもらいます。ね、菊川さんも協力してくださいよ?」

 は?と菊川はキョトンとする。

 「いいから、ほら。行きましょ!」

 朱里は強引に菊川の腕を取った。

 「聖美さーん。これからガーデンを一緒に回ってもらえないかしら?」

 朱里が菊川の腕に両手を絡め、ピタリと寄り添いながら聖美に声をかけると、聖美は少し驚いたような顔で答える。

 「え?あ、はい。もちろん」
 「良かったあー。じゃあ、行きましょ!菊川さん♡」
 「…は?」

 ポカンとする菊川の腕を強引に引っ張り、朱里は歩き出す。

 「ほら、ちゃんと合わせてくださいよ」

 朱里がヒソヒソと菊川に囁く。

 「合わせるとは、な、何を?」
 「ですから、ちゃんとラブラブしてください」
 「…ラ、ラブ?!」

 思わず菊川はギョッとして立ち止まる。
 朱里はすかさずグイッとその腕を引っ張った。

 「私達がラブラブしてると、つられて聖美さんと瑛もラブラブになるでしょ?」
 「は?そ、そうでしょうか」
 「そうですよ!ほら、もっとくっついて」

 そして朱里は、妙に甘ったるい声を出す。

 「うわーあ、菊川さん♡あのお花見て!とーっても綺麗!」
 「ほ、ほんとうだー。綺麗だなー」

 朱里はキッと菊川の顔を見上げて小声で咎める。

 「なんですか?その棒読み!菊川さん、お芝居下手すぎます。ほら、私を恋人だと思って」

 は、はい、と菊川は勢いに呑まれて頷いた。

 「ねえ、あのお花と私、どっちが綺麗ー?」
 「そ、それは、もちろん君だよ。あはは!」

 朱里はまた真顔になる。

 「菊川さん、寒すぎます」
 「そう言われても…。これが限界です」

 腕を組み、顔を寄せ合ってヒソヒソ話す朱里達を後ろで見ていた聖美が、隣の瑛に囁く。

 「瑛さん。菊川さんと朱里さん、なんだかこうして見るとお似合いですね」
 「聖美さんもそう思いますか?実は私、ちょっと思惑があって…」

 そう言って瑛は、いたずらっ子のような笑顔を聖美に向ける。

 初めて見る瑛のその表情に聖美がキュンとしていると、瑛は声を潜めて聖美に囁いた。

 「菊川と朱里をくっつけようと思ってるんです」
 「え?それはお二人が、その…恋人同士になるように、ということですか?」
 「ええ、そうです」

 そう言って瑛は視線を前に戻す。

 「菊川も朱里も、私の大切な人です。菊川になら、朱里を任せられる。必ず朱里を幸せにしてくれるでしょう。そして朱里も、菊川となら穏やかで温かい日々を過ごすことが出来る。私は二人のそんな幸せを心から願っています」

 二人の後ろ姿を見つめる瑛の横顔には、笑みが浮かんでいる。

 だが同時に、愛しむような眼差しや切なさ、そしてやるせなさも感じられ、そんな瑛の表情に聖美は胸が締めつけられた。
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