魔法のいらないシンデレラ 3

葉月 まい

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ドジった…

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15時になり、ナーサリーに次の予約の優也が母親と一緒に入って来た。

「こんにちは!優也くん、私のこと覚えてるかな?」
「うん、こゆきせんせい」
「うわー、ありがとう!うれしいな。今日も一緒に遊ぼうね」

優也は、ちょうど5日前にスポットで2時間預かったばかり。

初めての預かり保育だったが、とても機嫌良く遊んでいた。

迎えに来た母親に、これなら大丈夫そう、またお願いしますと言われたのだが、早くも2回目の予約を入れてくれたのだった。

「今日は、ネイルの予約をしたんです。もう何年ぶりか…すごく楽しみで」

嬉しそうな母親に、小雪も、良かったですね!と笑顔で言う。

「では、優也くんとお帰りをお待ちしていますね。優也くん、行ってらっしゃいしようか」

小雪は、優也の横にしゃがみ、行ってらっしゃーい!と二人で母親に手を振った。

前回は初めてとあって少し控えめだった優也は、今日は慣れた様子でのびのびと遊んでいる。

2歳半の男の子らしく、体を目一杯動かし、追いかけっこや戦いごっこに付き合う小雪も汗をかくほどだった。

16時45分になると、もう一人の保育士がナーサリーに入って来た。

「こんにちはーって…凄いわね、小雪先生」
「あ、美和先生。お疲れ様です」

ハアハアと肩で息をしながら、小雪は先輩の保育士に挨拶する。

美和は、子育ても一段落したベテランの40代の保育士で、主に0歳児や1歳児の担当をしている。

赤ちゃんの保育は小雪ももちろん出来るのだが、やはり実際に子育て経験がある保育士の方が、預ける側も安心するらしい。

それに、優也のように元気な遊びをする子には、やはり若い先生が良いという事で、小雪が担当になる。

(そ、それにしても、ほんとに元気…)

「優也くん、ちょっと休憩しようか」

もうすぐ、次の予約の若菜がやって来る。

新規のお子様で、月齢は13ヶ月。
つまり、1歳1ヶ月だ。

優也のこのパワフルさは、小さな若菜を驚かせてしまうだろう。

「優也くん、今度はお絵描きしようか」

そう声をかけても、まるで耳に入っていないようで、走り回ったままだ。

「美和先生、私、優也くんと庭園に行って来ますね」

小雪は、優也と手を繋いでナーサリーを出た。

「優也くん、お庭はたくさんのお花が咲いてるよ。どんなお花か見てみようね」

そう言いながら、小雪は優也と、ロビーとは反対方向へと通路を進む。

託児所とは言え、ここは高級ホテル。
ロビーの雰囲気を壊さないよう、小雪はいつも遠回りをしてロビーを避けていた。

小さなドアを開けて渡り廊下に出ると、そこから庭園に繋がる小道を進む。

「お外は気持ちいいね!深呼吸しようか」

気持ちを落ち着かせて、ゆっくり庭園を見て回ろうとしたが、やはり優也はまだ元気が有り余っている。

小雪は、優也が走り出さないようにしっかり手を握った。

良く手入れされた日本庭園の一角は、足元に飛び石が埋め込まれ、細い道がクネクネと続いている。

優也は、ぴょんぴょんと面白そうに飛び石を踏み、小雪は手を持ち上げるようにして手助けする。

すると、ちょうど石の角を踏んだ優也が、バランスを崩した。

「おっと、危ない」

小雪は両手で優也を支える。

「足元、石があるから気を付けてね。踏み外すと、転んでケガしちゃうからね」
「うん」

優也の返事に頷くと、小雪はまた歩き出そうと一歩踏み出した。

その足は、ちょうど飛び石の縁を踏む。

グキッ…

足首に嫌な感覚を覚えた後、小雪はズザーッとじゃり道に倒れ込んだ。

「いったーーい!!」
「せんせい、だいじょうぶ?」

優也は、ポカンとしながら小雪を見下ろしている。

「だ、大丈夫よ。優也くんは?転んでない?」
「うん。せんせい、きをつけないと、ケガするよ?」
「あはは、そう、そうよね。気を付けないとこんなふうになっちゃうからね」

小雪は、情けなさに半分笑って、起き上がろうとした。

「うっ、痛い!」

どうやら右足をひねったらしく、力を入れるとズキッと痛む。

「せんせい、ちがでてる」
「え?あ、ほんとだ」

優也が指差す先を見ると、右肘から血も出ていた。

「ごめんね、優也くん。先生の方がケガしちゃったね」

なんとか不安にさせないように、優也に笑いかけたが、立ち上がる事もままならず、どうしようかと焦った時だった。

「君、大丈夫?」

誰かが走って近付いて来て、小雪のそばに跪いた。

「ちょっと見せて」
「え、あ、あの…」

戸惑う小雪に構わず、そっと右足首に触れる。

「うっ、いたっ…」

小雪が思わず顔をしかめると、ごめんとすぐに手を離した。

「かなりひねっただろ?すぐに冷した方がいい。それに肘の傷も洗わないと。立てる?」
「あ、は、はい」

肩を借りてなんとか立ち上がる。

「すみません」

そう言って顔を上げた小雪は、あっと息を呑んだ。

(こ、この人、ヘラヘラ星人じゃない?!大変!だめよ、これ以上この人の手を借りる訳には…)

「あ、あの!ありがとうございました。もう大丈夫です」
「は?何言ってんの。一人じゃ歩けないでしょ?救護室まで一緒に行くよ」
「いえ、だめです!あなたに借りを作る訳にはいかないので」
「なに訳分かんない事言ってんの?ほら、行くよ」
「だめったらだめ!それに私、保育中で」

え?と山下は小雪の顔を見る。

「優也くん、優也くんをナーサリーに…」

山下は、ようやく小雪の横にいる優也に気付いた。

「ああ、そうか。君、保育士さんだったんだ。この間も、すみれちゃんと一緒にいたもんね」

そう言うと、小雪の右腕を自分の肩に回してグッと腰を引き寄せる。

「ひえっ!あ、あの、何を…」
「ボク、一緒について来てくれる?」

山下は優也にそう言ってから、小雪を支えて歩き出した。

「あ、そっちはロビーを通ることになるから、こっちの入り口から…」
「ん?ああ、分かった」

小雪の言葉の意味が分かったらしく、山下は渡り廊下の小さなドアへと方向を変えた。

「あ、小雪先生。お帰りなさ…え?!ど、どうしたの?」

ナーサリーに戻ると、美和が驚いて立ち上がった。

傍らのベビーベッドには、小さな女の子がスヤスヤ眠っている。

「すみません、ちょっと足をひねってしまって…。美和先生、優也くんをお願いします」
「分かったわ。さ、優也くん。こっちで遊びましょう」

美和が優也の手を引いて部屋の奥に行くと、山下は小雪を、低い手洗い場の横の絨毯に座らせた。

「右腕、ちょっと伸ばして」

そう言って、水道の流水で小雪の肘をしっかり洗い流す。

「救急箱ある?」
「はい。カウンターの上です」

小雪が指を差すと、山下は頷いて取りに行く。

「えーっと、消毒液とガーゼ、サージカルテープ、おっ、テーピングテープもあるな」

山下は、妙に慣れた手つきで次々と取り出すと、手早く小雪の傷を消毒してガーゼで覆う。

「保冷剤みたいなのってある?」
「あ、はい。カウンターの後ろに冷蔵庫があるので、そこのフリーザーに…」
「オッケー」

落ち着いた様子でカウンターに向かうと、保冷剤を手に戻り、スラックスのポケットから取り出したハンカチでくるんで、小雪の足首に当てる。

ヒンヤリとした感触に思わず足首がピクリとし、それと同時にズキッと痛みもくる。

「ごめんね、ちょっと我慢して」
「は、はい」

小雪の足首をじっと見ながら、山下は黙って保冷剤を当て続けている。

(ど、どうしよう…ヘラヘラ星人なのに。こんなにお世話になってしまって…)

小雪が心の中でそう思っていると、やがて山下が保冷剤を外した。

「うーん…やっぱり腫れてきたね。多分、捻挫だとは思うけど、念の為病院で診てもらった方がいい」

そして、クルクルとテーピングテープで小雪の足首を固定し始めた。

「大丈夫、一応やり方は習ってるから。よし、出来た。どう?立てそう?」
「あ、は、はい」

手を借りながらゆっくり立ってみる。

先ほどよりは、ずっと楽になっていた。

「あの、本当にありがとうございました」

小雪が頭を下げると、山下は首を振る。

「いや、それはいいんだけど。君、家族いる?迎えに来てもらえそう?」
「いえ、ひとり暮らしで…」
「そっか。じゃあ俺が病院まで付き添うよ」
「ええ?!そんな、大丈夫です」
「大丈夫じゃないだろ?それに無理やり歩くと悪化するよ」
「いえ、構いませんから。私、あなたにこれ以上、助けて頂く訳にはいかないので!」
「は?なんで?」

山下がキョトンとしていると、後ろから美和が声をかける。

「小雪先生、お願いしたら?これ以上酷くなると、仕事にも差し障るわよ?」
「え、仕事に…。そ、それは…困ります」

うつむいた小雪の声は、だんだん小さくなる。

「よし、じゃあ行こう」

そう言って肩を貸そうとする山下を、小雪は慌てて止める。

「ちょ、ちょっと待って下さい。優也くんを、最後まで無事にお母様に引き渡さないと」

え?と山下は眉を寄せる。

「小雪先生、それなら私がちゃんとやるから大丈夫よ。もうあと5分ほどでお迎えの時間だし」

美和がそう言っても、小雪は聞かない。

「すみません、あと5分待って下さい」

頭を下げてくる小雪に、山下は、ふうと息を吐いて頷いた。

やがて迎えに来た優也の母親に、小雪は笑顔で保育の様子を伝える。

母親の、楽しかった?の問いに、優也も、うん!と頷く。

「優也くん、また遊ぼうね!」
「うん。こゆきせんせい、またねー」

優也とハイタッチをしてから、手を振って見送る小雪を、山下は離れたところから見守っていた。

扉が閉まると、小雪はホッとして肩の力を抜く。

「さ、行こう。荷物は?」

山下は、すぐさま小雪に近付く。

「え、あ、あの…」

ためらう小雪に代わって、美和がロッカーから小雪の荷物を取り出す。

「小雪先生をよろしくお願いします」

美和から鞄を受け取ると、山下は頷いた。

「あの、大丈夫です。一人で歩けますから」

腰に手を回され、密着して歩く山下から離れようと、小雪は足に力を入れる。

「だめだ。あの男の子を見送るのに、無理してただろ?さっきより痛むはずだよ」

うっ…と小雪は言葉に詰まる。

確かにあの時、普通に歩いたりしゃがんだりしたせいで、今になってジンジンとした痛みが響いていた。

エントランスから外に出ると、停まっていたタクシーに乗り込む。

行き先を告げようとして、ふと山下は小雪を見た。

「かかりつけの病院とか、ある?」
「え?いえ、特に…」
「じゃあ俺の知ってる所でもいい?個人病院だけど、名医なのは保証するよ」
「あ、はい」

小雪が頷くと、山下はタクシーの運転手に、住所と行き方を説明し始めた。



「お?なんだ。誰かと思ったら稜じゃないか。久しぶりだな」

やがて到着した整形外科のクリニックの診察室に、小雪は山下の手を借りて入る。

40歳くらいのまだ若い先生は、小雪より先に山下に話しかけた。

「今日はどうした?またなんかドジったのか?」
「ドジったって…いつの時代の言葉だよ?今日は俺じゃなくて、この子。足をひねったみたいなんだ。診てやって」
「まさかお前、こんなうら若き乙女にケガ負わせたのか?」
「だから、違うって!なんだよ、そのいちいち古い言い回しは」
「別に古くないぞ。ナウな言葉だ」
「ナウ?!はあ…もういいから、とにかく診てやって。待合室で待ってる」

そう言って山下は診察室を出て行った。

「ごめんね、お嬢さん。あいつ、お調子者だしすぐふざけるけど、根は真面目でいいやつなんだ。見放さないでやってね」
「え、いえ、私は別に…」

慌てて手を振って否定したが、先生はあっさり聞き流して問診票に目を落とす。

「えーっと、高岡 小雪さん、24歳。右足首をひねったのね。どれどれ…。ん?このテーピング、もしかして稜がやった?」
「あ、はい」
「ふうーん、相変わらず上手いな。この分だと応急手当もバッチリだったんだろう。多分、治りも早いよ。良かったね、お嬢さん」
「は、はあ」

ニッコリ笑う先生に、小雪は戸惑って気の抜けた返事をした。

念の為、レントゲンも撮ってもらったが異常なし。

小雪に湿布を渡し、安静にね、と言ってから、先生は診察室のドアを開けて待合室に声をかけた。

「おーい、稜。終わったぞー」

はーい、と返事をした山下がやって来る。

「単なる捻挫だ。医者の出番はここまで。あとはお前が癒やしてやれ」
「はあ?よくそんなセリフ、恥ずかしげもなく言えるよな。まったくもう…」

山下に支えてもらって、小雪は立ち上がる。

ありがとうございましたと頭を下げると、先生は、いえいえと小雪に笑顔を向けた後、山下に真顔で言う。

「じゃあな、稜。頑張れよ。心が折れたら俺が診てやるぞ」
「へいへい。なんとでも言ってくれー」

山下は、振り返りもせず歩き出した。



「ゆっくりね、よいしょっと。大丈夫?」
「あ、はい。大丈夫です」

ベッドに腰を落ち着け、小雪はふうとひと息つく。

クリニックからまたタクシーに乗り、家まで送ると言う山下に、小雪は何度も、一人で平気ですと断った。

だが、アパートの2階に住んでいると話すと、階段上がれないでしょ?と、結局自宅まで付き添ってもらうことになった。

「あの、本当にありがとうございました。あ、今タクシー代お渡ししますね」

鞄から財布を取り出すと、山下は手で遮った。

「いいって、それくらい。ケガ人なんだから、遠慮しないで」
「でも…すごく高くなっちゃいましたよね?」
「だから、いいの!それに…」

そう言って山下は、わざと低い声を出す。

「人の厚意を、金で買っちゃいけないぜ?お嬢さん。ここは男にカッコつけさせてくれよ」
「……………」

小雪は、なんとも言えない表情で苦笑いする。

「やべ…俺、心折れたかも」

先生んとこ、戻ろうかな…と呟く山下に、小雪は慌てて取り繕う。

「あ、と、とにかく、ありがとうございました」
「とにかくね…ハハ」

力なく笑ってから、山下はローテーブルにレジ袋を置いた。

「あの、これは?」
「診察中に、近くのコンビニで買っておいたんだ。晩ご飯」
「ええ?そ、そんな事まで…」
「その足じゃ、作るのも買いに行くのも無理だろ?何がいいか分からないから、いくつか適当に買ってきたんだ。牛丼に親子丼、カレーとパスタと…」

次々とテーブルに並べる山下に、小雪は驚いて恐縮する。

「こ、こんなにたくさん、すみません」
「だからいいってば。どれにする?」
「え、あの、じゃあ親子丼を…」
「親子丼ね。レンジ借りるよ」

山下は、小さなキッチンにあるレンジで親子丼を温めてから、小雪の前に移動させたテーブルの上に置いた。

「はい、お箸も」
「あ、ありがとうございます」
「じゃあ俺はこれで。そうだ、ここ、オートロックじゃないよね?鍵、借りていい?外からかけて、ドアポケットに入れておくね」

そう言って、玄関の棚に置いてあった鍵を手に、ドアを開ける。

「じゃ、お大事にね」

ドアが閉まる…と思ったその時、とっさに小雪は、あの!と山下を呼び止めた。



「へえ、じゃあ営業マンなんですね」
「そう、こう見えてね」
「いえ、だからこんなにも色々と気を配って下さるんですね。もう、至れり尽くせりですよ」
「そうかな?」

山下は、照れたように笑いながら、カレーを頬張る。

こんなにたくさん食べ切れないからと、小雪は山下に、何か食べていって下さいと呼び止めたのだった。

食べながら、他愛もない話をする。

山下は、小学校から大学までずっとサッカーをやっており、しょっちゅう捻挫をしては、先ほどのクリニックに行っていたと教えてくれた。

テーピングも、あの先生に教わったらしい。

「先生が、応急手当が良かったから、私のケガの治りも早いよって仰ってました。本当にありがとうございました」
「いやいや。良かったよ、俺のドジった経験が役に立って」
「うふふ、ドジったって…。さっきは先生に古いって言ってたのに」
「あ、バレた?俺もちょいちょい使っちゃうんだよな」

小雪はまたふふっと笑ったが、急にハッと思い出す。

「営業マンってことは、もしかしてさっきは、どこかに営業に行かれるところでしたか?大変!」

思わず身を乗り出し、足に体重がかかって、痛っ!と顔をしかめる。

「ほらほら、気を付けてね。大丈夫、仕事はもう終わってたから」
「え?だってあの時まだ、5時過ぎとかだったと…」
「うん。俺の部署、定時が5時なんだ」
「そうなんですか?会社の定時って、どこも5時とかなんですか?」

会社勤めの経験がない小雪には、その辺りの事が良く分からなかった。

「いや、定時が5時って早いと思うよ。昔は俺達も6時半とかだったんだけど、今の総支配人に代わった時に、5時になったんだ。おまけに残業も基本的に禁止。おかげで凄く働きやすいよ」
「そうだったんですか。今の総支配人…」

小雪は視線を落として考え込む。

(それって、瑠璃さんの旦那様よね?じゃあやっぱり、このヘラヘラ星人さんは、瑠璃さんと総支配人がご夫婦だってことを知ってるはず…)

お世話になった負い目からか、知らないうちに、ヘラヘラ星人に『さん』を付けてしまっている。

(言ってみようかな、ズバッと。瑠璃さんのこと、どう思ってるんですかって。手を出したらだめですからねって)

口を開こうとした時、逆に質問されてしまった。

「知ってる?総支配人ってどんな人か」
「あ、はい。ロビーを颯爽と歩いていらっしゃるのを何度かお見かけしました。背の高い方ですよね?イケメンの下僕を連れていらして…」

思わず山下は、飲んでいたお茶を吹き出しそうになる。

「ゴホッゴホッ、イケメンの下僕って!ゴホッ、あはは!」

むせ返りながら、笑い転げる。

「え、あの、何かおかしいですか?」
「おかしいよ、おかしすぎるよ。イケメンの下僕…上げといて落とす!みたいな。あはは、かわいそう早瀬さん」

涙を滲ませながらひとしきり笑った後、山下はようやく落ち着いた。

「あの人はね、秘書だよ。総支配人付きの優秀な秘書。早瀬さんっていうんだ」
「あ、秘書。なるほど、そうですよね。下僕な訳ないですよね。私、会社で働いた事がないから、部長とか課長とか、そういうカタギの世界を知らなくて…」

山下は、再び喉を詰まらせる。

「ゴホッ、カタギって、君、ゴホッゴホッ」
「だ、大丈夫ですか?」

小雪の差し出したペットボトルのお茶を、山下はゴクゴクと飲む。

「はー、マジで苦しかった…」

ふうと息を吐き出すと、しみじみと小雪に言う。

「保育士さんって、みんなそんなにおもしろいの?それとも君だけ変わってるの?」
「え?私、変わってませんよ。みんなこんな感じです」

ふうん…?と、山下は疑わしそうな返事をする。

「それを言うなら、営業マンの方だって、みんなそんなにヘラ…」

思わず、ヘラヘラ星人かと聞きそうになって、慌てて口をつぐむ。

「ん?なに?」
「いえ、何でもないです」

山下は少し首をかしげてから、さてと、と立ち上がった。

「じゃあ、俺はそろそろ帰るね。あ、明日の仕事は?入ってるの?」
「あ、それが、さっき会社からメールが来て。美和先生から聞きました、明日のシフトは外しましたのでお大事にって」
「さっきの先生、連絡してくれたんだ。良かったね。じゃあ、残りのお弁当は冷蔵庫に入れておいたから、明日はゆっくりしてね」

そう言って今度こそ、玄関を出て行く。

外からカチャリと鍵をかけると、ドアポケットのすき間から、お大事にねーと声をかけながら鍵をポトッと入れて帰って行った。
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