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野中と伊沢
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「あーもう、なんだってこうも遠いんだよー。歩くのやだー」
「何言ってるんですか、キャプテン。子どもじゃないんだから、これくらい歩いてくださいよ」
鹿児島往復のフライトを終えて羽田に戻って来た野中と伊沢は、飛行機を降りたあと長く続くターミナルの通路を歩いていた。
指定されたスポットが端の方だった為、歩く距離が長い。
愚痴をこぼす野中をなだめながら歩いていた伊沢は、前方から駆け寄ってくる乗客らしき女性に気づいた。
「あれ?どうしたんだろう」
野中と二人で足を止め、近くまで来た女性に声をかける。
「お客様、どうかなさいましたか?」
オフホワイトのフレアスカートに水色のカーディガンを羽織った30歳くらいの女性は、右手にバッグと搭乗券を持ち、息を切らしていた。
「あ、はい、あの。私、さっき鹿児島からの便に乗っていたんですけど、機内に忘れ物をしてしまって…」
取りに行こうとしているようだが、既に機内は整備士や清掃スタッフが乗り込んでいる頃だ。
伊沢は、少々お待ち頂けますか?と言って、グランドスタッフを呼びに行った。
残された野中は、まだ肩で息をしている女性に声をかける。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい。すみません、ご迷惑をおかけして」
「いえ、とんでもない。何か大事なものなのですね?」
「はい。母の形見の指輪なんです。いつも肌身離さず着けていて…。さっき着陸のアナウンスを聞いた時に目にしていたんですが、そのあと座席ポケットに機内誌を戻した時に外れてしまったみたいで」
野中は、女性が手にしていた搭乗券に目をやった。
「失礼。座席番号を拝見しても?」
「はい、どうぞ」
(12Aか。搭乗口のすぐ近くだな)
「このままここでお待ち頂けますか?」
そう言い残し、野中は急いで機内へ引き返した。
慌ただしく機内を清掃していたスタッフが、戻って来た機長を見て驚いたように目を丸くする。
「あ、そのまま。どうぞお気になさらず」
断りながら12Aの座席に行き、前のシートポケットに手を入れる。
ゴソゴソと探っていると、小さな丸いものに手が触れた。
(あった!これだ)
取り出してみると、小さなダイヤモンドが並んだきれいな指輪だった。
大事に手のひらに握りしめ、急いで女性のもとへ戻る。
「お待たせしました。こちらでしょうか?」
「あ!そうです、これです!良かった…」
女性は涙ぐみながら野中から指輪を受け取り、そっと右手の薬指にはめる。
「本当にありがとうございました。お疲れのところ、パイロットの方にお手数をおかけして、申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げる女性に、野中は笑いかける。
「いえ、そんな。大切な指輪を無事にお返し出来て良かったです。ぜひまたご搭乗くださいね。お待ちしております」
「はい、あの…。失礼ですが、野中さんでいらっしゃいますか?」
突然名前を呼ばれて、え!と野中は驚く。
「はい、そうですが…」
「やっぱり!あ、不躾に申し訳ありません。実は私、仕事でしょっちゅう飛行機に乗るんです。いつも日本ウイングさんを利用させて頂くのですが、時々面白いアナウンスをされる、良い声の機長さんがいらっしゃるなあって、お名前を覚えていたんです。そしたら今日もその方のアナウンスが聞こえてきて、あ、野中さんだ!って」
女性は、ふふっと柔らかい笑みを浮かべてから言葉を続ける。
「どんな方なのかしら?って思っていましたけど、想像通り優しくてダンディーな方で嬉しかったです。お声も、マイクで聞くよりも素敵ですし」
「は、いや、その」
思いがけない話の展開に、野中は慌てふためく。
「あ、申し遅れました。私はこういう者です」
女性は名刺を取り出して野中に手渡すと、本当にありがとうございました、ともう一度丁寧にお辞儀してから、では失礼しますと去っていった。
◇
「すみません!お待たせ致しました!あれ?キャプテン、お客様は?」
グランドスタッフを連れて急いで戻って来た伊沢が、ポカーンと前方を見つめている野中に声をかける。
「キャプテン?ちょっと、野中さん!」
「ん?お、なんだ?」
「なんだじゃないですよ。お客様は?って、それ何ですか?」
伊沢は、野中が手にしている名刺を覗き込む。
「セレクトショップのバイヤー?森下 彩乃さん…って、さっきの方ですか?」
「おい、勝手に見るなよ」
野中は伊沢に背を向けて、まじまじと名刺を見る。
(彩乃さん、か…)
ほわわーんと野中が宙に目をやるのを見て、伊沢は大きなため息をつき、グランドスタッフに謝って持ち場に戻ってもらった。
◇
「やっほー!伊沢。お疲れー」
帰宅した伊沢がのんびりテレビを見ていると、航空大学校時代の同期のこずえから電話がかかってきた。
相変わらず元気そうだ。
「ねえ、今日さ、空港で面白いもの見ちゃったんだー」
「ん?何だよ、面白いものって」
「あのね…」
こずえは、くくっと笑いを噛み殺す。
「羽田でさ、迷子になってるコーパイがいたの!キョロキョロしながら右往左往してて、よく見たらおたくの会社の制服着ててね」
「へえー、新米のコーパイなのかな?」
「くくくっ、そうかもね。一緒にいたうちのキャプテンも、天下のJWAさんのパイロットでも迷子になるんだなって妙に感心してたわよ」
「いやいや、お恥ずかしい。でも空港で迷子になるって、パイロット以前の問題だなあ」
そう言うと、もう限界とばかりにこずえは吹き出した。
「あっははは!確かにねー。しかも迷子になってる自覚もないんだもん。大丈夫なのかしらねー?あのコーパイくん」
ん?と伊沢は首をひねる。
こずえがこういう口調になる時は、皮肉を言う時だった。
「こずえ、もしかしてそのコーパイって…」
「あ、ようやく気づいた?迷子のコーパイくん!」
「はあ?俺が迷子?そんな訳ない…」
そこまで言って、伊沢は思い出した。
忘れ物をしたお客様の為に、グランドスタッフを探し回った事を。
長い通路を行ったり来たりしながら、手の空いているスタッフを見つけるのに走り回っていたっけ。
「ちょ、違うって!あれはだな」
「まあ、必死な感じだったから、敢えて声はかけなかったけど。何か事情があったんでしょ?でもどう見ても迷子にしか見えなかったわよ」
そう言ってまた笑い出す。
はあ、やれやれと伊沢はため息をついた。
こずえには、口では勝てない。
それに明るいこずえの声を聞いているだけで、自分まで元気になる。
話の内容は、もはやどうでも良かった。
迷子だと思われても、楽しく笑ってくれるのならそれでいい。
「そう言えば恵真が今日、何かの撮影でスカーフ着けるって言ってたけど、上手く結べたのかなー?」
話を変えたこずえに、伊沢はまた、ん?と首をひねる。
「撮影?恵真が?」
「そう。会社のSNSに載せるとかで、キャプテンと一緒にコックピットで撮ったらしいよ」
「キャプテンと一緒に?ってことは…」
伊沢は今朝の様子を思い出す。
(あのモテキャプテンと一緒に撮ったのか)
うーん、と思わず声に出してしまい、こずえに怪訝そうに聞き返された。
「なーに?何か心配な事でもあるの?」
「いや、まあ、そこまでじゃないけどさ」
「ふーん。ね、伊沢。次のオフいつよ?」
「オフ?明後日から2連休だけど?」
「お!私も明後日オフなんだ。久しぶりに会うか!色々聞きたい事あるしさ」
「そうだな、分かった」
じゃあ、また連絡するねとこずえが言って、通話を終える。
(オフに予定が入るのも久しぶりだな)
良い気分転換が出来そうで、伊沢は楽しみになった。
◇
次の日。
伊沢が社員食堂で早めの昼食を取っていると、目の前にコーヒーを手にした野中が現れた。
「野中さん、お疲れ様です。休憩ですか?」
「うん、あの…。伊沢ちゃん、ちょっといいかな?」
ヒィ!と伊沢は思わず引きつる。
(なんだよ?!伊沢ちゃんって。それになんか妙にモジモジしてるし。こ、怖い。不気味だ…)
野中はそんな伊沢の様子は気に留めず、向かいの椅子に腰を下ろした。
そしてまたモジモジとためらっている。
「あ、あの…。野中さん?何かありましたか?」
いつまで経っても口を開かない野中に耐え切れなくなり、伊沢が恐る恐る尋ねる。
「うん、あのさ。どうしたらいいと思う?これ…」
そう言って野中が差し出したのは『森下 彩乃』と書かれた昨日の名刺だった。
「どうしたらって…。それは…」
伊沢がスタッフを探し回っている間に、野中が機内にお客様の忘れ物を取りに行った事は、昨日のうちに聞いていた。
その時にこの名刺を渡されたという事も。
だがいくらお客様といえど、普通ならお礼を言うだけで充分だろう。
名刺を渡した経緯がよく分からない。
「そのお客様は、どういう流れで野中さんに名刺を渡したんですか?」
「それは、その。あの方が俺の名前を知っていて。だから自分も名乗らなきゃと思ったのかも…」
「え?あのお客様、野中さんのことをご存知だったんですか?」
「いや、単に俺がPA(機内アナウンス)で名乗るから、それを覚えていたらしい。仕事で飛行機に乗る機会が多くて、以前から俺のアナウンスが面白いって思っていたらしくて…」
なるほど、と伊沢は頷いた。
「確かに。野中さんはPAでいかにウケるかに命かけてますからね」
「アホ!そんなんちゃうわい!」
急にいつもの調子に戻ったかと思いきや、またモジモジと下を向く。
「ちょっと野中さん。調子狂うんですけど…。いつもの大人の余裕はどうしたんですか?まるでラブレターを渡せない中学生みたいですよ?」
「ラ、ラブレター?!お前、何を…」
「だって迷ってるんでしょ?そこに書いてあるアドレスにメールを送るかどうか。あ、もしや、いっそのこと電話しようと?」
「ババババカ!でで、電話なんてそんな…」
漫画に描いてあるような焦り方をする野中に、思わず伊沢は苦笑いする。
「じゃあメールでいいんじゃないですか?」
「そ、そうだな。なんて書けばいい?」
「それはズバリ、好きですって」
すると野中は絶句して、ガタッと椅子を揺らしながら仰け反る。
「お、お、お前、何を…」
「あれ?図星ですか?一目惚れなんですねえ」
「ち、ち、違うって!」
こんな野中さんは初めて見るなと、伊沢はもはや冷静に観察していた。
「じゃあ『ご搭乗ありがとうございました。またのご利用をお待ちしております』ってだけ書いて送ったらどうですか?そこで返事が来るか、もし来たらなんて書いてあるか、そこからまた考えましょうよ」
すると野中は、うんうんと何度も頷いた。
「そうだな、そうするよ。ありがとな、伊沢ちゃん」
背筋に寒気を感じながら伊沢が頷くと、野中は照れ笑いを浮かべて立ち上がり、そそくさと去っていった。
「何言ってるんですか、キャプテン。子どもじゃないんだから、これくらい歩いてくださいよ」
鹿児島往復のフライトを終えて羽田に戻って来た野中と伊沢は、飛行機を降りたあと長く続くターミナルの通路を歩いていた。
指定されたスポットが端の方だった為、歩く距離が長い。
愚痴をこぼす野中をなだめながら歩いていた伊沢は、前方から駆け寄ってくる乗客らしき女性に気づいた。
「あれ?どうしたんだろう」
野中と二人で足を止め、近くまで来た女性に声をかける。
「お客様、どうかなさいましたか?」
オフホワイトのフレアスカートに水色のカーディガンを羽織った30歳くらいの女性は、右手にバッグと搭乗券を持ち、息を切らしていた。
「あ、はい、あの。私、さっき鹿児島からの便に乗っていたんですけど、機内に忘れ物をしてしまって…」
取りに行こうとしているようだが、既に機内は整備士や清掃スタッフが乗り込んでいる頃だ。
伊沢は、少々お待ち頂けますか?と言って、グランドスタッフを呼びに行った。
残された野中は、まだ肩で息をしている女性に声をかける。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい。すみません、ご迷惑をおかけして」
「いえ、とんでもない。何か大事なものなのですね?」
「はい。母の形見の指輪なんです。いつも肌身離さず着けていて…。さっき着陸のアナウンスを聞いた時に目にしていたんですが、そのあと座席ポケットに機内誌を戻した時に外れてしまったみたいで」
野中は、女性が手にしていた搭乗券に目をやった。
「失礼。座席番号を拝見しても?」
「はい、どうぞ」
(12Aか。搭乗口のすぐ近くだな)
「このままここでお待ち頂けますか?」
そう言い残し、野中は急いで機内へ引き返した。
慌ただしく機内を清掃していたスタッフが、戻って来た機長を見て驚いたように目を丸くする。
「あ、そのまま。どうぞお気になさらず」
断りながら12Aの座席に行き、前のシートポケットに手を入れる。
ゴソゴソと探っていると、小さな丸いものに手が触れた。
(あった!これだ)
取り出してみると、小さなダイヤモンドが並んだきれいな指輪だった。
大事に手のひらに握りしめ、急いで女性のもとへ戻る。
「お待たせしました。こちらでしょうか?」
「あ!そうです、これです!良かった…」
女性は涙ぐみながら野中から指輪を受け取り、そっと右手の薬指にはめる。
「本当にありがとうございました。お疲れのところ、パイロットの方にお手数をおかけして、申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げる女性に、野中は笑いかける。
「いえ、そんな。大切な指輪を無事にお返し出来て良かったです。ぜひまたご搭乗くださいね。お待ちしております」
「はい、あの…。失礼ですが、野中さんでいらっしゃいますか?」
突然名前を呼ばれて、え!と野中は驚く。
「はい、そうですが…」
「やっぱり!あ、不躾に申し訳ありません。実は私、仕事でしょっちゅう飛行機に乗るんです。いつも日本ウイングさんを利用させて頂くのですが、時々面白いアナウンスをされる、良い声の機長さんがいらっしゃるなあって、お名前を覚えていたんです。そしたら今日もその方のアナウンスが聞こえてきて、あ、野中さんだ!って」
女性は、ふふっと柔らかい笑みを浮かべてから言葉を続ける。
「どんな方なのかしら?って思っていましたけど、想像通り優しくてダンディーな方で嬉しかったです。お声も、マイクで聞くよりも素敵ですし」
「は、いや、その」
思いがけない話の展開に、野中は慌てふためく。
「あ、申し遅れました。私はこういう者です」
女性は名刺を取り出して野中に手渡すと、本当にありがとうございました、ともう一度丁寧にお辞儀してから、では失礼しますと去っていった。
◇
「すみません!お待たせ致しました!あれ?キャプテン、お客様は?」
グランドスタッフを連れて急いで戻って来た伊沢が、ポカーンと前方を見つめている野中に声をかける。
「キャプテン?ちょっと、野中さん!」
「ん?お、なんだ?」
「なんだじゃないですよ。お客様は?って、それ何ですか?」
伊沢は、野中が手にしている名刺を覗き込む。
「セレクトショップのバイヤー?森下 彩乃さん…って、さっきの方ですか?」
「おい、勝手に見るなよ」
野中は伊沢に背を向けて、まじまじと名刺を見る。
(彩乃さん、か…)
ほわわーんと野中が宙に目をやるのを見て、伊沢は大きなため息をつき、グランドスタッフに謝って持ち場に戻ってもらった。
◇
「やっほー!伊沢。お疲れー」
帰宅した伊沢がのんびりテレビを見ていると、航空大学校時代の同期のこずえから電話がかかってきた。
相変わらず元気そうだ。
「ねえ、今日さ、空港で面白いもの見ちゃったんだー」
「ん?何だよ、面白いものって」
「あのね…」
こずえは、くくっと笑いを噛み殺す。
「羽田でさ、迷子になってるコーパイがいたの!キョロキョロしながら右往左往してて、よく見たらおたくの会社の制服着ててね」
「へえー、新米のコーパイなのかな?」
「くくくっ、そうかもね。一緒にいたうちのキャプテンも、天下のJWAさんのパイロットでも迷子になるんだなって妙に感心してたわよ」
「いやいや、お恥ずかしい。でも空港で迷子になるって、パイロット以前の問題だなあ」
そう言うと、もう限界とばかりにこずえは吹き出した。
「あっははは!確かにねー。しかも迷子になってる自覚もないんだもん。大丈夫なのかしらねー?あのコーパイくん」
ん?と伊沢は首をひねる。
こずえがこういう口調になる時は、皮肉を言う時だった。
「こずえ、もしかしてそのコーパイって…」
「あ、ようやく気づいた?迷子のコーパイくん!」
「はあ?俺が迷子?そんな訳ない…」
そこまで言って、伊沢は思い出した。
忘れ物をしたお客様の為に、グランドスタッフを探し回った事を。
長い通路を行ったり来たりしながら、手の空いているスタッフを見つけるのに走り回っていたっけ。
「ちょ、違うって!あれはだな」
「まあ、必死な感じだったから、敢えて声はかけなかったけど。何か事情があったんでしょ?でもどう見ても迷子にしか見えなかったわよ」
そう言ってまた笑い出す。
はあ、やれやれと伊沢はため息をついた。
こずえには、口では勝てない。
それに明るいこずえの声を聞いているだけで、自分まで元気になる。
話の内容は、もはやどうでも良かった。
迷子だと思われても、楽しく笑ってくれるのならそれでいい。
「そう言えば恵真が今日、何かの撮影でスカーフ着けるって言ってたけど、上手く結べたのかなー?」
話を変えたこずえに、伊沢はまた、ん?と首をひねる。
「撮影?恵真が?」
「そう。会社のSNSに載せるとかで、キャプテンと一緒にコックピットで撮ったらしいよ」
「キャプテンと一緒に?ってことは…」
伊沢は今朝の様子を思い出す。
(あのモテキャプテンと一緒に撮ったのか)
うーん、と思わず声に出してしまい、こずえに怪訝そうに聞き返された。
「なーに?何か心配な事でもあるの?」
「いや、まあ、そこまでじゃないけどさ」
「ふーん。ね、伊沢。次のオフいつよ?」
「オフ?明後日から2連休だけど?」
「お!私も明後日オフなんだ。久しぶりに会うか!色々聞きたい事あるしさ」
「そうだな、分かった」
じゃあ、また連絡するねとこずえが言って、通話を終える。
(オフに予定が入るのも久しぶりだな)
良い気分転換が出来そうで、伊沢は楽しみになった。
◇
次の日。
伊沢が社員食堂で早めの昼食を取っていると、目の前にコーヒーを手にした野中が現れた。
「野中さん、お疲れ様です。休憩ですか?」
「うん、あの…。伊沢ちゃん、ちょっといいかな?」
ヒィ!と伊沢は思わず引きつる。
(なんだよ?!伊沢ちゃんって。それになんか妙にモジモジしてるし。こ、怖い。不気味だ…)
野中はそんな伊沢の様子は気に留めず、向かいの椅子に腰を下ろした。
そしてまたモジモジとためらっている。
「あ、あの…。野中さん?何かありましたか?」
いつまで経っても口を開かない野中に耐え切れなくなり、伊沢が恐る恐る尋ねる。
「うん、あのさ。どうしたらいいと思う?これ…」
そう言って野中が差し出したのは『森下 彩乃』と書かれた昨日の名刺だった。
「どうしたらって…。それは…」
伊沢がスタッフを探し回っている間に、野中が機内にお客様の忘れ物を取りに行った事は、昨日のうちに聞いていた。
その時にこの名刺を渡されたという事も。
だがいくらお客様といえど、普通ならお礼を言うだけで充分だろう。
名刺を渡した経緯がよく分からない。
「そのお客様は、どういう流れで野中さんに名刺を渡したんですか?」
「それは、その。あの方が俺の名前を知っていて。だから自分も名乗らなきゃと思ったのかも…」
「え?あのお客様、野中さんのことをご存知だったんですか?」
「いや、単に俺がPA(機内アナウンス)で名乗るから、それを覚えていたらしい。仕事で飛行機に乗る機会が多くて、以前から俺のアナウンスが面白いって思っていたらしくて…」
なるほど、と伊沢は頷いた。
「確かに。野中さんはPAでいかにウケるかに命かけてますからね」
「アホ!そんなんちゃうわい!」
急にいつもの調子に戻ったかと思いきや、またモジモジと下を向く。
「ちょっと野中さん。調子狂うんですけど…。いつもの大人の余裕はどうしたんですか?まるでラブレターを渡せない中学生みたいですよ?」
「ラ、ラブレター?!お前、何を…」
「だって迷ってるんでしょ?そこに書いてあるアドレスにメールを送るかどうか。あ、もしや、いっそのこと電話しようと?」
「ババババカ!でで、電話なんてそんな…」
漫画に描いてあるような焦り方をする野中に、思わず伊沢は苦笑いする。
「じゃあメールでいいんじゃないですか?」
「そ、そうだな。なんて書けばいい?」
「それはズバリ、好きですって」
すると野中は絶句して、ガタッと椅子を揺らしながら仰け反る。
「お、お、お前、何を…」
「あれ?図星ですか?一目惚れなんですねえ」
「ち、ち、違うって!」
こんな野中さんは初めて見るなと、伊沢はもはや冷静に観察していた。
「じゃあ『ご搭乗ありがとうございました。またのご利用をお待ちしております』ってだけ書いて送ったらどうですか?そこで返事が来るか、もし来たらなんて書いてあるか、そこからまた考えましょうよ」
すると野中は、うんうんと何度も頷いた。
「そうだな、そうするよ。ありがとな、伊沢ちゃん」
背筋に寒気を感じながら伊沢が頷くと、野中は照れ笑いを浮かべて立ち上がり、そそくさと去っていった。
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