恋とキスは背伸びして

葉月 まい

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その笑顔はプライスレス

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「もう、信じられない!」

カーディーラーをあとにすると、車の中で美怜の小言が始まった。

「あんなに簡単に車買う人います?じゃあこれで、なんて、スーパーで大根選ぶんじゃないんですよ?」
「仕方ないだろ?美怜があんまり可愛くて。あの笑顔はプライスレスだ」
「プライスレス過ぎます!私の笑顔なんてワンコインで充分ですよ」
「え、五百円であの笑顔が見られるの?」
「いえ、十円です」
「安っ!」

賑やかに言い合いながら、都内の一等地にある、緑に囲まれた老舗ホテルに到着した。

駐車場の入り口で丁寧にお辞儀をしたガードマンに誘導される。

「おもてなしも一流ですね。自然が一杯で素敵!」

美怜は早くも窓の外の景色に釘づけになった。

駐車場に車を停めると、成瀬は車を降りる美怜の手を取り、そのまま自分の左腕に掴まらせて歩き出す。

流れるようなスムーズな動きに、美怜はしばらく意識がいかなかった。

なんだか妙に歩きやすいな、と思ってハッと気づく。

「ほ、本部長?」
「ん?なに」
「て、手が。あの、ちょっと恥ずかしくて」
「可愛いな」
「そうではなくて」

すると成瀬は更に、自分の右手を美怜の右手の上に重ねた。

まるで、離さない、とでも言うように。

仕方なく美怜は、成瀬の腕に掴まったまま寄り添って歩く。

恥ずかしくて顔を上げられない美怜に、クスッと成瀬は笑いをこらえていた。

***

「すごいですね、このホテル。歴史の重みをひしひしと感じます。敷地面積もどれだけ広いのかしら」

ロビーに足を踏み入れると、正面の壁一面の窓から鮮やかな緑の木々が目に飛び込んできた。 

「ここは明治時代に、とある政治家が私財を投げうって購入した土地なんだ。この見事な日本庭園は、当時の有名な庭師が施工している。総敷地面積は、確か五万坪だったかな?」

ご、五万?!と美怜は目を丸くする。

「ああ。隅々まで見て回るには数時間じゃ足りない。今日は夜までゆっくりここで過ごそうか」
「はい。お庭もじっくり見てみたいです」
「先に昼食にしてから庭園に行こうか。と言っても、レストランだけでもロビーラウンジやバーも含めて十店舗ある。迷うな」
「そんなにたくさん?!」

昼食は目の前のロビーラウンジで取ることにし、夜は和食の料亭を予約した。

「都心とは思えない程、緑が豊かで落ち着きますね」

ラウンジの窓際の席に着くと、まずは高くて大きな窓から一望できる景色に目を奪われた。

「そうだな。ここは都内のホテルで初めてアフターヌーンティーを取り入れた所らしい」
「そうなんですね!家具もヨーロッパのエレガントな雰囲気でとっても素敵」
「次回はアフターヌーンティーを食べに来ようか」
「はい!」

嬉しそうな美怜の笑顔に、成瀬は頬を緩める。

「美怜といると、ありふれた日常が輝いて見える。自分がいかに心の薄汚れた人間だったかを思い知らされるな」

小さく呟く声は、美怜には聞こえなかったらしい。

ん?と可愛らしく首を傾げている。

「何でもないよ。ほら、メニューは決まった?」
「はい。この長い名前のなんちゃらかんちゃらパニーニプレートにします」

なんちゃらかんちゃら?と美怜の指差す先を見ると、
『チキンブレストのコンフィとチェダーチーズのパニーニ
キャラウェイブレッドとマスカルポーネのディップ レモンのコンフィチュールを添えて
海老と小柱のマリネ マイクロリーフとハーブのミモザ仕立てとご一緒に』
とある。

オーダーを取りに来たスタッフに、そのパニーニとローストビーフサンドイッチ、アイスティーとアイスコーヒーを頼んだ。

「ソファ席もあるから、夜の雰囲気も良さそうですね」
「ああ。庭園がライトアップされて、夜景も綺麗だろうな」
「本部長は、以前にここに来たことあるんですか?」
「何度か企業の懇親会でバンケット棟にだけ行ったことはある。だからずっと気になってて。一度ゆっくり来てみたいと思ってたんだ」

そんな話をしていると、やがて料理が運ばれてきた。

見た目も豪華で美しいパニーニにナイフを入れながら、美怜は時折ちらりと成瀬に目をやる。

伏し目がちにナイフとフォークをスッと使うその姿は、自分よりもはるかに大人で遠い存在に思えた。

(私は本部長の隣にふさわしくないよね、きっと。田舎者でこんな高級なランチもしたことないし)

だいたいこのホテルの雰囲気さえ壊しているかもしれないと心配になってくる。

(一応ドレスコードは大丈夫だと思うけど)

周りに目を向けてみても、セレブなご婦人方や、いかにも仕事ができそうなスーツ姿のおじさまが多い。

浮いてないかな、私、と思いながらパニーニを口に入れた途端、美怜は美味しさの余り驚いた。

「す、すごく、美味しい…」

すると成瀬が声を上げて笑い出す。

「美怜、感動的な口調だな。未知との遭遇だった?」
「はい、もう、頭の中にパーッと花が咲いた感じ」
「まさに今そんな顔してるよ。ほんとに美怜の笑顔はプライスレスだな」

成瀬は料理よりも美怜の笑顔に満足しながら食事を楽しんだ。

***

そのあとは夕食の時間までゆっくりと、館内や庭園を見て回ることにした。

フロントでパンフレットをもらうと、その種類は、総合案内、客室、レストラン、ウェディング、宴会、スパやヘアサロン、ショップやイベントなど、数えきれない程あった。
更には庭園散策の為のマップもある。

「わあ、なんて豪華な客室!もうセレブのお住まいにしか見えません。スイートルーム宿泊者限定のエブゼクティブフロアも、大人の雰囲気で素敵ですね。結婚式場なんて五つもある!光のチャペルとガーデンチャペル、神前式の神殿が三つですって。エステサロンも二つあるし、え、プール!なんて素敵なの、このプール。もう海外のリゾートに来たみたい。はあ、うっとり」

思わず胸にパンフレットを抱きしめると、限界だとばかりに成瀬が吹き出した。

「あはは!ミュージカル女優顔負けだな、美怜」
「え、何ですか?それ」
「だって目をキラキラさせながら感激してさ。なかなか面白かったけど、パンフレットの写真だけで盛り上がってないで、実際に見て回ろう。ほら、おいで」

そう言って成瀬は美怜の肩を抱いて歩き出す。

緩やかな曲線を描く大階段を上がるのにも、美怜はあちこちに目をやりながら、ほわーんと夢見心地になっていた。

成瀬はちょっと考えてから手をスッと下ろし、ほっそりとくびれた美怜のウエストに腕を回して抱き寄せる。

美怜は周りを眺めるのに夢中で気づいていないらしい。

「転ばないようにね」

真面目な口調でそう言いつつ、美怜の身体を間近に感じ、成瀬は頬を緩めっぱなしだった。

三階まで上がると、空中庭園と名づけられた大きなガーデンが広がっている。

「素敵…。天空の花園みたい」

呟きながらゆっくり花を眺めていると、ふいにリーンゴーンと大きな鐘の音が響き渡った。

え?と振り返ると、シックなブラウンの木が印象的なクラシカルなチャペルから、まさに式を挙げたばかりの新郎新婦が姿を現した。

ひゃあ…と美怜は声にならない声を上げて、思わず両手で口元を覆う。

ウェディングドレスとタキシード姿の二人は、列席者からのフラワーシャワーを浴びて幸せ一杯に微笑んでいる。

(はあ、なんて輝きに満ち溢れてるのかしら)

美怜は目尻に涙を浮かべながら、祝福の拍手を送った。

***

ホテルの館内は、ただ歩いているだけでも装飾や絵画を楽しめる。

そして至る所にショップやギャラリーなど、ふらりと立ち寄れる場所があった。

「季節のイベントやアクティビティもたくさん開催されているんですね。茶道や華道、書道の体験に、水引やつまみ細工やてまり作りの講座。和菓子の練り切りもある!やっぱり和のテイストのホテルだからでしょうね。外国人のお客様にも喜ばれそう。ルミエール ホテルにも和室の宴会場があるし、家具や装飾を工夫すればもっと日本ならではの雰囲気を出せそうですよね」
「そうだな。うちの和モダンシリーズの家具をご提案してみてもいいかもしれない」
「ええ」

ショップでは、ここでしか手に入らないホテルオリジナルのポストカードやお菓子を選び、カフェで休憩してから庭園に出た。

まるで森の中にいるような、辺り一面に広がる緑。
木々の間の小路を歩きながら、新鮮な空気を胸一杯に吸い込んだ。

「ここ、本当に東京ですか?建物もビルもまったく見当たらないですけど。え、タイムスリップとかワープとか、してませんよね?」

真顔で尋ねると、成瀬は、ははは!と笑う。

「でも美怜の気持ちも分かる。ここが都内だなんて信じられない」
「本当に。どこか別の世界にさまよい込んだみたいですね」

咲き誇る紫陽花や樹齢五百年の御神木。
和の情緒溢れる朱色の橋、石造などの史蹟や歴史的建造物。

水しぶきを上げる滝は、岩の段差と苔むした岩肌が水の流れに変化をつけ、涼しげな水音に涼を感じられた。

自然の中に身を投じて心を無にしていた美怜は、ふと顔を上げてキョロキョロと辺りを見渡す。

「あれ?どっちから来たのか分からなくなっちゃった。ここどこ?」

成瀬が苦笑いしながら肩を抱く。

「俺から離れるなよ?絶対に迷子になるから」
「はい」

美怜は素直に頷き、成瀬のシャツをキュッと握って身を寄せてくる。

(可愛い…)

成瀬は顔がニヤけるのをどうにもできなかった。

しばらくすると竹でできた鞠や江戸風鈴がずらりと飾られた小路に出る。

「風情があって素敵ですね。これはぼんぼりかな?」
「ああ、竹ぼんぼりだな。夜になると灯りが入るらしい」
「じゃあ、日が暮れてからもう一度来てもいいですか?」
「もちろん。そうしよう」

二人は一旦館内に戻り、夕食を食べることにした。

***

「あ、浴衣…」

ロビーを横切っていると、さっきはなかった看板があるのに気づいて美怜は思わず呟いた。

どうやら浴衣の販売と着付けサービスを行っているらしい。

好きな柄の浴衣を選ぶとその場で着付けてもらえ、浴衣は草履や巾着、髪飾りと一緒にそのまま着て帰れると書かれてあった。

「美怜、着てみてくれる?」
「え、いいの?」
「ああ。浴衣で夕食と庭園の散策に行こう」
「本部長は?」
「俺はいいよ。車を運転するしね。美怜、どの浴衣がいい?」

成瀬は早速、ずらりと並んだ浴衣を選び始めた。

「これは?」

成瀬が手を止めたのは、白地に赤い花が鮮やかに描かれた浴衣だった。

「素敵。でも、似合うかな」
「似合うよ、美怜なら」
「じゃあ、これにします」

気恥ずかしくて仕方ない。
美怜はそそくさと浴衣を手にして、にこやかな和服姿のスタッフと一緒に奥の和室に向かった。

美怜の浴衣姿を楽しみに待つ間、成瀬はふと思い立ってフロントへ向かう。

「十二月二十日の部屋を予約できますか?一部屋二名での宿泊です」
「十二月二十日でございますね。お調べいたします。少々お待ちくださいませ」
「はい」

スタッフがカタカタと端末を操作する音を聞きながら、どうか空いていますようにと願う。

今日一日、美怜の楽しそうな顔、感激した様子を見ていて、今度はぜひ一緒に宿泊したいと成瀬は思った。

十二月二十日は美怜の誕生日。

(その時までには、美怜が俺を受け入れてくれますように)

またしても願いながらスタッフの返事を待つ。

「お待たせいたしました。その日は土曜日ですのであいにくスタンダードフロアは満室ですが、エグゼクティブフロアのガーデンスイートルームが一部屋ご用意できます。キングサイズベッドが一台、九十五平米のお部屋で一泊二十三万八千円でございます。いかがでしょうか?」
「ではそれでお願いします」
「かしこまりました」

もう少しランクが上の部屋が良かったが、空いていただけでもラッキーだ。
美怜は喜んでくれるだろうか?
いやその前に、美怜に頷いてもらわなければ。

今までこんなにも誰かを愛しいと思ったことなどなかった。
どんなに美人ともてはやされる女性とつき合っても、心が幸せで満たされたことはない。

そもそも誰かと一緒にいることで、こんなにも見るもの全てが輝き、何でもない毎日が尊いと感じられるとは知らなかった。

(美怜のあの笑顔を、必ず俺が守っていく。誰にも渡さない。人生でただ一人の愛する人を、ようやく見つけられたんだから)

強い想いを胸にフロントをあとにし、美怜のいる和室の前のソファに腰を下ろす。

もらった予約表を見返し、大切に財布にしまった時だった。

「本部長」

控えめな声で呼ばれて顔を上げ、驚いて目を見開く。

髪をアップでまとめて少しはにかんだ笑みを浮かべている美怜は、艶やかな浴衣がよく似合っていて美しかった。

「あの、変じゃないですか?」

広げた袖を見下ろしてちょっと不安そうに聞いてくる美怜に、成瀬は真顔で首を振る。

「可愛いよ、すごく似合ってる」
「ほんとに?」
「ああ。美怜って、和服美人だな」
「え?私、洋服は似合わない?それとも平安顔ってこと?」
「いや、和装が馴染んでるってこと。普段から着物を着なれてる感じがする。なんていうか、所作とか雰囲気が」

美怜は分かったような、よく分からないような、微妙な顔になった。

「とにかく、浴衣姿の美怜は想像以上に綺麗だよ。さ、食事に行こうか」
「はい」

二人は庭園に戻り、池のほとりに建つ数寄屋造りの料亭に入った。

国指定有形文化財の個室で、かすかな滝の音を聞きながら美味しい季節の和食を味わう。

成瀬は何度も顔を上げて、うつむき加減で美しく箸を使う美怜に見とれていた。

***

夕食を終えると、また庭園を散歩することにした。

浴衣の足元を気にしながら歩く美怜に、成瀬はぴたりと寄り添う。

さりげなく肩を抱き、すれ違う人から守るように歩く成瀬を見上げて、美怜は聞いてみた。

「本部長。海外にいたからそんなにジェントルマンなんですか?」
「ん?これくらい普通だけど。まあ、そうだな。欧米では、たとえ見知らぬ相手でも、男なら女性を立てるのは当たり前だ。五年ぶりに帰国した時、後ろから女性が来てるのにドアを開けておかない日本男子にびっくりしたよ」
「じゃあ向こうでは、本部長も女性にこんなふうに優しくしたんですか?」
「パーティーではね。女性を一人にはさせられないから、エスコートはするよ」
「そうなんですか」

ドレスアップした綺麗なブロンド美女を、タキシード姿の成瀬がエスコートしている様子が目に浮かぶ。

セクシーなドレスのくびれたウエストに手を回し、寄り添って歩く大人の色気をまとった成瀬。

想像した途端、美怜の顔は火がついたように真っ赤になる。

と同時に、嫌だ、と思った。

(他の誰にも触れないで欲しい)

わがままだと分かっていてもそう願ってしまい、胸がキュッと締めつけられる。

「美怜?どうかしたか?」
「え?」
「なんか…、ちょっと泣きそうに見えた」
「いえ、何でもないです」
「そうか」

成瀬はポンと軽く美怜の頭に手を置いて、そっと髪にキスをする。

そのままスルッと手を下に滑らせると、今度は美怜の手を繋いで歩き始めた。

直接触れる手の温かさに、美怜はドキドキして視線を落とす。

「手は繋いでないよ」

え?と顔を上げると、成瀬は美怜に微笑んでいた。

「エスコートはしても、手は繋いでない」
「あ…」

考えを読まれていたことの気恥ずかしさと、君は特別だよと言われているような嬉しさが入り混じる。

ますます顔を赤らめていると「美怜、見て」と声をかけられた。

「え、わあ…」

顔を上げた美怜は、思わず目を見開く。

「蛍」
「ああ」

緑に囲まれた池の周りを、たくさんの小さな光が飛び交う幻想的な光景が広がっていた。

「なんて綺麗…」

美怜は声を潜めてうっとりと見とれる。

繋がれた手をキュッと握ると、成瀬も包み込むような大きな手でしっかりと握り返してくれる。

二人は静けさの中で時間も忘れ、ただ夢とも現実ともつかない世界に浸り、心を奪われていた。

***

ようやく歩き始めると、池を通り過ぎた少し先に東屋があった。

「こちらで花火をお楽しみいただけますよ。よろしければいかがですか?」

中にいたスタッフが、にこやかに線香花火を渡してくれる。

美怜は子どものような笑顔で受け取った。

「線香花火って、日本のわび・さびが詰まってますよね。華やかだけど控えめで、美しいけどはかなげで」

パチパチとかすかな音を立てる繊細な線香花火を見つめながら、美怜が呟く。

その横顔は、まさに華やかながら控えめで、美しくもはかない。

ほのかな竹ぼんぼりの灯りの中で、成瀬は胸が痛むような切なさと愛しさを感じながら、美怜の綺麗な横顔から目を離せずにいた。
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