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口説かれてない?
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「美怜、お疲れ!いやー、まさかの大みそかまで仕事ってな」
年末の休みに入ってから三日後の大みそか。
美怜はスーツを着て本社に出社した。
これからまた三人で、ルミエール ホテルの正月の飾りつけに向かうことになっている。
クリスマスの夜にあんなふうに別れて以来、成瀬と初めて会う美怜は、重い気持ちを引きずってなんとか執務室の前まで来た。
どうやって入ろう、どんな顔をすればいいのだろうとノックをためらっていると、エレベーターから降りた卓が近づいて来てホッとする。
「お疲れ様、卓」
「ん?なんか元気ないな。どうかしたか?」
「ううん。ちょっと休みボケかも。丸二日間、部屋にこもって誰ともしゃべってなかったから」
「ええ?!なんか不健康だな。じゃあ今日は元気に身体動かして、モリモリ働こう!」
「あはは!ポジティブでいいね、卓」
あの日から一人で悶々としていた暗い気持ちが、ふわっと軽くなる。
ようやく笑顔を作れたことに安心して、美怜は卓の後ろに控えた。
「お疲れ様でーす。富樫、参上いたしました!」
ノックのあとに大きな声を上げる卓に、「どうぞ」と中から返事が返ってくる。
「失礼いたします!」
まるで敬礼でもしそうな口調の卓に続き、美怜も「失礼いたします」と頭を下げて部屋に入った。
「大みそかまで悪いね。なるべく早く終わらせよう。早速行こうか」
成瀬はジャケットを手に立ち上がる。
うつむいたまま「はい」と返事をする美怜の横で、「では張り切ってまいりましょう!」と卓が意気揚々と言う。
「相変わらず車目当てなんだな、富樫」
「あ、バレました?」
「隠してもいないのに何を言う」
そしていつものごとくハイテンションの卓を後ろに、助手席に美怜を乗せて、成瀬はルミエール ホテルまで車を走らせた。
***
「いやー、こんな日まですみません」
出迎えてくれた倉本は、恐縮して三人に頭を下げる。
「いいえ、どうぞお気遣いなく。本日もよろしくお願いいたします」
挨拶を済ませると、早速トラックでやって来た作業スタッフと合流して飾りつけを始めた。
既にホテル側が門松やしめ飾り、鏡餅などを用意している為、美怜はそれに合う背景や小物、紅白の幕などを用意してきた。
フォトスポットには鮮やかな扇や手毬を並べ、それを自由に手に取って撮影できるよう、SNS用の撮影パネルも設置する。
宴会場では獅子舞が舞うイベントや書道パフォーマンス、縁日などが開かれるらしく、その装飾にも取りかかった。
昼過ぎから始めた作業は、夕方の五時に無事終了する。
「以上で本日の作業は全て終了です。次回は一月八日にお正月飾りの撤収と、その翌週からいよいよ客室のリニューアルに着手いたします。どうぞよろしくお願いいたします」
美怜が倉本に説明すると、倉本も丁寧にお辞儀した。
「ありがとうございました。お三方には大変お世話になりました。来年もどうぞよろしくお願いいたします」
「こちらこそ大変お世話になり、ありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いいたします」
互いに年末の挨拶を述べて、三人は倉本と別れた。
「やっと終わったー!これでようやく仕事納めー!」
駐車場に向かいながら、卓が両手を上げて伸びをする。
「美怜、正月は山梨の実家に帰るのか?」
「うん。今日はもう遅いから、明日移動しようと思ってるの」
「じゃあ今夜は一人で年越し?」
「まあ、そうなるね」
すると二人の前を歩いていた成瀬が振り返った。
「すまない。大みそかまで仕事をさせてしまったばかりに」
いえ!と慌てて美怜は首を横に振る。
「お仕事ですから当然です。それにお正月の飾りつけも、とても楽しかったですし。初詣には着物を着て行こうかなって気分になりました」
取り繕うように饒舌になってしまう。
今日は一度も成瀬と目を合わせていない。
常に卓の近くにいるように意識した為、成瀬と二人で会話することもなかった。
(きちんと謝らなきゃ。でもなんて?それに本部長は蒸し返したくないのかも。このまま時間と共にだんだん以前のように戻ればいいって思ってらっしゃるとしたら。ううん、それでもやっぱり謝らなきゃ。なんて言えば本部長に伝わるかな。どうすれば本部長は許してくださる?)
美怜は頭の中で同じことをグルグルと何度も考える。
すると成瀬が立ち止まって二人を振り返った。
「また貴重な時間を奪って恐縮なんだが、よかったら夕食をごちそうさせてくれないか?」
え?!と美怜と卓も立ち止まる。
「いいんですか?成瀬さん」
「ああ。行きつけの旨いお寿司をごちそうするよ」
やったー!高級お寿司ー!と、卓は両手を上げて天井を仰ぐ。
「なんて贅沢な一年の締めくくり。成瀬さん、ありがとうございます!」
「ははは。たらふく食べそうだな、富樫」
「いいんですか?たらふく食べて」
「もちろん。結城さんも、いいかな?」
視線を向けられて、美怜はシャキッと背筋を伸ばす。
「は、はい!よろしくお願いいたします」
「ああ。じゃあ、行こう」
再び成瀬が歩き出すと、美怜は片手を胸に当てて、ふう、と大きく息を吐いた。
***
「うわっ、こんなお寿司初めて見た!もはやシャリが全く見えない。新鮮で分厚いネタが輝いて見える。神々しいまでの輝き!」
銀座の一等地に暖簾を掲げたカウンターだけの小さなお店に入ると、四十代くらいのいかにも職人といった雰囲気の大将が一人で切り盛りしていた。
目の前で握ってくれる大きなネタのお寿司に、卓は目を輝かせる。
「富樫、食べる前から盛り上がり過ぎ。ほら、早く食べな」
「はい!いただきます!って、これどうやって食べればいいですか?高級お寿司の食べ方ってあるんですか?」
「別にないよ。気にせず美味しく食べればいい」
成瀬の言葉に、それでは遠慮なく、と卓は早速ひと口で頬張る。
「んー、美味しい!あっという間にとろけましたよ。トロだけに」
「富樫、それだけはやめろ。せっかくの美味しさが台無しになる。大いなるマナー違反だ」
真剣に釘を刺す成瀬に、大将が真顔のまま話しかける。
「成瀬様、今夜はまた楽しいご友人をお連れですね」
「いえ。寒いギャグをすみません」
「とんでもない。喜んでいただけて何よりです」
そして大将は美怜に声をかけた。
「お口に合いますか?」
「はい、とても美味しいです。ネタはもちろんですが、シャリもお酢の酸味と甘みがちょうど良くて」
「ありがとうございます。辛さは大丈夫ですか?なみだ抜きで握りましょうか?」
「いいえ、大丈夫です。むらさきをもう少しいただけますか?」
「承知しました。お酒はいかがですか?」
「上司に運転してもらう身ですから、今夜はあがりでお願いします」
「かしこまりました」
小声でやり取りする二人の横で、卓は成瀬とひたすら舌鼓を打ちながら美味しい!と感激している。
大将は美怜の前にお茶を置くと、またもや小声で話しかける。
「お客様、とても所作が上品ですね」
「え?いえ、そんな」
「ここには名家のご婦人も多くいらっしゃいますが、これほど綺麗な召し上がり方をされるお客様は初めてです」
「とんでもない。祖母が昔ながらのしつけに厳しい人で、それが染みついてしまっただけなんです。ひとり暮らしの部屋では、それはもうだらしない食べ方をしています」
「そうなんですか?想像つきませんが」
「とてもお見せできるものではありません。今は猫をかぶって、どころか、狐に化けて、澄ました顔でいただいております」
あはは!と大将は楽しそうに笑う。
美怜も大将との会話を楽しみながら、美味しいお寿司を堪能した。
「この赤だしも本当に美味しいです。一年の最後にこんなに贅沢をさせていただけるなんて。ありがとうございました」
「こちらこそ。美しい所作で召し上がっていただき、寿司職人として大変光栄です。ありがとうございました」
***
卓がお手洗いに席を立つと、成瀬が声を潜めて美怜に話しかけてきた。
「大丈夫?ひょっとして大将にナンパされてた?」
美怜は思わず口元を押さえて笑う。
「まさかそんな。楽しくお話してくださっただけです」
「そう?それならいいけど。あの大将、いつもはお堅い職人気質なんだ。あんなにニコニコしてるなんて、初めてだよ。俺、振り返って二度見したもん」
大将の様子がよほど珍しかったのか、美怜と気まずくなっていることも忘れたように、成瀬はしきりに首をひねりながら話しかけてくる。
「何の話をしてたの?なんだか盛り上がってたけど」
「お寿司がとても美味しいですってことを」
「それだけ?それであのカタブツ大将がニコニコ大将になるかな。やっぱり口説かれたんじゃない?」
「違いますよ。本当にお寿司の話だけです」
そう?と、成瀬はまだ納得いかない素振りをしていたが、ふと思い出したようにジャケットの内ポケットに手を入れた。
「はい、これ。遅くなったけど誕生日プレゼント。受け取ってくれたら嬉しい」
差し出された小さな四角い包みに、えっ!と美怜は言葉を失う。
クリスマスの夜に成瀬の気分を害してしまい、雰囲気が悪くなったことを思い出した。
だが今目の前にいる成瀬は、ただ真っ直ぐに自分を見つめ、プレゼントを差し出してくれている。
それなら自分も素直になるだけだと、美怜は両手を伸ばして受け取った。
「ありがとうございます」
「喜んでもらえる自信はないけど」
「いえ、お気持ちがとても嬉しいです」
「良かった、受け取ってもらえて。あの、もし嫌じゃなければ、なんだけど…」
「はい、何でしょう?」
うん、その…と成瀬は少し言い淀む。
「クリスマスプレゼントを交換してもいいかな?」
「え?プレゼントの交換、ですか?クリスマスって、この間の?」
「ああ。遅くなった上に、明日はお正月だけど。年明けに会う日に渡したい。それで、もし君がまだ捨てていなければ…。あの時のプレゼントを受け取ってもいいかな?」
「あの時の…」
それはクリスマスの夜、美怜の部屋でカバンから滑り出たプレゼントのことだろう。
「それとももう捨ててしまったかな?」
成瀬が控えめに聞いてくる。
「いいえ。うちに置いてあります」
「そうか。じゃあ、受け取ってもいいかな?」
「はい、お渡しします。大したものではなくて恐縮ですけど」
「とんでもない。楽しみにしている」
その時、卓が席に戻って来て、そろそろお愛想を…と成瀬が大将に声をかけた。
クレジットカードを渡す成瀬に、「ありがとうございます。ごちそうさまでした」と、卓と美怜は頭を下げる。
「どういたしまして。二人にはいつも感謝している。今日も大みそかなのに、ありがとう」
大将にも「ごちそうさまでした」と挨拶して店をあとにすると、大将が見送りに出て来た。
「お嬢様、今夜はありがとうございました。またのお越しを心よりお待ちしております」
美怜にだけニコニコと笑顔を向ける大将に、「ねえ、本当に口説かれてない?」と、成瀬は車に乗ったあとも何度も美怜に確かめていた。
***
「それでは、ここで。本部長、ごちそうになった上に送ってくださって、ありがとうございました」
美怜のマンションに着き、車から降りた美怜は成瀬と卓に向き合う。
「こちらこそ。大みそかまで仕事させてしまって悪かったね。良いお年を」
「はい。今年も大変お世話になりました。本部長もどうぞ良いお年をお迎えください。卓も、良いお年を」
「ああ、美怜もな。来年もよろしく」
三人で微笑み合ってから別れ、美怜は部屋に戻った。
「ただいま。ふう、疲れた。お風呂に入ってからゆっくり年越ししようかな」
そこでふと、成瀬からもらった誕生日プレゼントのことを思い出す。
(そうだ、プレゼント!中身は何だろう?)
わくわくドキドキしつつカバンから取り出し、手のひらに載せた。
小さな正方形の箱は、光沢のあるシャンパンベージュのペーパーでラッピングされ、鮮やかなピンクのリボンで結ばれていた。
(可愛い箱。開けるのがもったいないな)
ふふっと笑ってから、意を決してそっとリボンを解く。
シュルッと軽い音を立ててリボンが解け、ラッピングペーパーの下から白い箱が現れた。
フタを取ると、中にはワインレッドのビロードのケースが入っている。
(なんだろう…)
美怜のわくわくは最高潮に達し、胸を高鳴らせながらケースを開けた。
「わあっ、なんて綺麗…」
入っていたのは、ガラス細工の真っ赤なバラのチャーム。
美怜はゆっくりと手に取り、照明の明かりにかざしてみた。
一輪のバラは光を受けて、美しく真紅に色づく。
「素敵…。いつまでも見とれちゃう」
疑似デートで一緒にバラを見た時、成瀬から送られた『The Rose』の歌詞を思い出す。
美怜は小さく歌うと、もう一度チャームに目をやり、ふふっと微笑んだ。
年末の休みに入ってから三日後の大みそか。
美怜はスーツを着て本社に出社した。
これからまた三人で、ルミエール ホテルの正月の飾りつけに向かうことになっている。
クリスマスの夜にあんなふうに別れて以来、成瀬と初めて会う美怜は、重い気持ちを引きずってなんとか執務室の前まで来た。
どうやって入ろう、どんな顔をすればいいのだろうとノックをためらっていると、エレベーターから降りた卓が近づいて来てホッとする。
「お疲れ様、卓」
「ん?なんか元気ないな。どうかしたか?」
「ううん。ちょっと休みボケかも。丸二日間、部屋にこもって誰ともしゃべってなかったから」
「ええ?!なんか不健康だな。じゃあ今日は元気に身体動かして、モリモリ働こう!」
「あはは!ポジティブでいいね、卓」
あの日から一人で悶々としていた暗い気持ちが、ふわっと軽くなる。
ようやく笑顔を作れたことに安心して、美怜は卓の後ろに控えた。
「お疲れ様でーす。富樫、参上いたしました!」
ノックのあとに大きな声を上げる卓に、「どうぞ」と中から返事が返ってくる。
「失礼いたします!」
まるで敬礼でもしそうな口調の卓に続き、美怜も「失礼いたします」と頭を下げて部屋に入った。
「大みそかまで悪いね。なるべく早く終わらせよう。早速行こうか」
成瀬はジャケットを手に立ち上がる。
うつむいたまま「はい」と返事をする美怜の横で、「では張り切ってまいりましょう!」と卓が意気揚々と言う。
「相変わらず車目当てなんだな、富樫」
「あ、バレました?」
「隠してもいないのに何を言う」
そしていつものごとくハイテンションの卓を後ろに、助手席に美怜を乗せて、成瀬はルミエール ホテルまで車を走らせた。
***
「いやー、こんな日まですみません」
出迎えてくれた倉本は、恐縮して三人に頭を下げる。
「いいえ、どうぞお気遣いなく。本日もよろしくお願いいたします」
挨拶を済ませると、早速トラックでやって来た作業スタッフと合流して飾りつけを始めた。
既にホテル側が門松やしめ飾り、鏡餅などを用意している為、美怜はそれに合う背景や小物、紅白の幕などを用意してきた。
フォトスポットには鮮やかな扇や手毬を並べ、それを自由に手に取って撮影できるよう、SNS用の撮影パネルも設置する。
宴会場では獅子舞が舞うイベントや書道パフォーマンス、縁日などが開かれるらしく、その装飾にも取りかかった。
昼過ぎから始めた作業は、夕方の五時に無事終了する。
「以上で本日の作業は全て終了です。次回は一月八日にお正月飾りの撤収と、その翌週からいよいよ客室のリニューアルに着手いたします。どうぞよろしくお願いいたします」
美怜が倉本に説明すると、倉本も丁寧にお辞儀した。
「ありがとうございました。お三方には大変お世話になりました。来年もどうぞよろしくお願いいたします」
「こちらこそ大変お世話になり、ありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いいたします」
互いに年末の挨拶を述べて、三人は倉本と別れた。
「やっと終わったー!これでようやく仕事納めー!」
駐車場に向かいながら、卓が両手を上げて伸びをする。
「美怜、正月は山梨の実家に帰るのか?」
「うん。今日はもう遅いから、明日移動しようと思ってるの」
「じゃあ今夜は一人で年越し?」
「まあ、そうなるね」
すると二人の前を歩いていた成瀬が振り返った。
「すまない。大みそかまで仕事をさせてしまったばかりに」
いえ!と慌てて美怜は首を横に振る。
「お仕事ですから当然です。それにお正月の飾りつけも、とても楽しかったですし。初詣には着物を着て行こうかなって気分になりました」
取り繕うように饒舌になってしまう。
今日は一度も成瀬と目を合わせていない。
常に卓の近くにいるように意識した為、成瀬と二人で会話することもなかった。
(きちんと謝らなきゃ。でもなんて?それに本部長は蒸し返したくないのかも。このまま時間と共にだんだん以前のように戻ればいいって思ってらっしゃるとしたら。ううん、それでもやっぱり謝らなきゃ。なんて言えば本部長に伝わるかな。どうすれば本部長は許してくださる?)
美怜は頭の中で同じことをグルグルと何度も考える。
すると成瀬が立ち止まって二人を振り返った。
「また貴重な時間を奪って恐縮なんだが、よかったら夕食をごちそうさせてくれないか?」
え?!と美怜と卓も立ち止まる。
「いいんですか?成瀬さん」
「ああ。行きつけの旨いお寿司をごちそうするよ」
やったー!高級お寿司ー!と、卓は両手を上げて天井を仰ぐ。
「なんて贅沢な一年の締めくくり。成瀬さん、ありがとうございます!」
「ははは。たらふく食べそうだな、富樫」
「いいんですか?たらふく食べて」
「もちろん。結城さんも、いいかな?」
視線を向けられて、美怜はシャキッと背筋を伸ばす。
「は、はい!よろしくお願いいたします」
「ああ。じゃあ、行こう」
再び成瀬が歩き出すと、美怜は片手を胸に当てて、ふう、と大きく息を吐いた。
***
「うわっ、こんなお寿司初めて見た!もはやシャリが全く見えない。新鮮で分厚いネタが輝いて見える。神々しいまでの輝き!」
銀座の一等地に暖簾を掲げたカウンターだけの小さなお店に入ると、四十代くらいのいかにも職人といった雰囲気の大将が一人で切り盛りしていた。
目の前で握ってくれる大きなネタのお寿司に、卓は目を輝かせる。
「富樫、食べる前から盛り上がり過ぎ。ほら、早く食べな」
「はい!いただきます!って、これどうやって食べればいいですか?高級お寿司の食べ方ってあるんですか?」
「別にないよ。気にせず美味しく食べればいい」
成瀬の言葉に、それでは遠慮なく、と卓は早速ひと口で頬張る。
「んー、美味しい!あっという間にとろけましたよ。トロだけに」
「富樫、それだけはやめろ。せっかくの美味しさが台無しになる。大いなるマナー違反だ」
真剣に釘を刺す成瀬に、大将が真顔のまま話しかける。
「成瀬様、今夜はまた楽しいご友人をお連れですね」
「いえ。寒いギャグをすみません」
「とんでもない。喜んでいただけて何よりです」
そして大将は美怜に声をかけた。
「お口に合いますか?」
「はい、とても美味しいです。ネタはもちろんですが、シャリもお酢の酸味と甘みがちょうど良くて」
「ありがとうございます。辛さは大丈夫ですか?なみだ抜きで握りましょうか?」
「いいえ、大丈夫です。むらさきをもう少しいただけますか?」
「承知しました。お酒はいかがですか?」
「上司に運転してもらう身ですから、今夜はあがりでお願いします」
「かしこまりました」
小声でやり取りする二人の横で、卓は成瀬とひたすら舌鼓を打ちながら美味しい!と感激している。
大将は美怜の前にお茶を置くと、またもや小声で話しかける。
「お客様、とても所作が上品ですね」
「え?いえ、そんな」
「ここには名家のご婦人も多くいらっしゃいますが、これほど綺麗な召し上がり方をされるお客様は初めてです」
「とんでもない。祖母が昔ながらのしつけに厳しい人で、それが染みついてしまっただけなんです。ひとり暮らしの部屋では、それはもうだらしない食べ方をしています」
「そうなんですか?想像つきませんが」
「とてもお見せできるものではありません。今は猫をかぶって、どころか、狐に化けて、澄ました顔でいただいております」
あはは!と大将は楽しそうに笑う。
美怜も大将との会話を楽しみながら、美味しいお寿司を堪能した。
「この赤だしも本当に美味しいです。一年の最後にこんなに贅沢をさせていただけるなんて。ありがとうございました」
「こちらこそ。美しい所作で召し上がっていただき、寿司職人として大変光栄です。ありがとうございました」
***
卓がお手洗いに席を立つと、成瀬が声を潜めて美怜に話しかけてきた。
「大丈夫?ひょっとして大将にナンパされてた?」
美怜は思わず口元を押さえて笑う。
「まさかそんな。楽しくお話してくださっただけです」
「そう?それならいいけど。あの大将、いつもはお堅い職人気質なんだ。あんなにニコニコしてるなんて、初めてだよ。俺、振り返って二度見したもん」
大将の様子がよほど珍しかったのか、美怜と気まずくなっていることも忘れたように、成瀬はしきりに首をひねりながら話しかけてくる。
「何の話をしてたの?なんだか盛り上がってたけど」
「お寿司がとても美味しいですってことを」
「それだけ?それであのカタブツ大将がニコニコ大将になるかな。やっぱり口説かれたんじゃない?」
「違いますよ。本当にお寿司の話だけです」
そう?と、成瀬はまだ納得いかない素振りをしていたが、ふと思い出したようにジャケットの内ポケットに手を入れた。
「はい、これ。遅くなったけど誕生日プレゼント。受け取ってくれたら嬉しい」
差し出された小さな四角い包みに、えっ!と美怜は言葉を失う。
クリスマスの夜に成瀬の気分を害してしまい、雰囲気が悪くなったことを思い出した。
だが今目の前にいる成瀬は、ただ真っ直ぐに自分を見つめ、プレゼントを差し出してくれている。
それなら自分も素直になるだけだと、美怜は両手を伸ばして受け取った。
「ありがとうございます」
「喜んでもらえる自信はないけど」
「いえ、お気持ちがとても嬉しいです」
「良かった、受け取ってもらえて。あの、もし嫌じゃなければ、なんだけど…」
「はい、何でしょう?」
うん、その…と成瀬は少し言い淀む。
「クリスマスプレゼントを交換してもいいかな?」
「え?プレゼントの交換、ですか?クリスマスって、この間の?」
「ああ。遅くなった上に、明日はお正月だけど。年明けに会う日に渡したい。それで、もし君がまだ捨てていなければ…。あの時のプレゼントを受け取ってもいいかな?」
「あの時の…」
それはクリスマスの夜、美怜の部屋でカバンから滑り出たプレゼントのことだろう。
「それとももう捨ててしまったかな?」
成瀬が控えめに聞いてくる。
「いいえ。うちに置いてあります」
「そうか。じゃあ、受け取ってもいいかな?」
「はい、お渡しします。大したものではなくて恐縮ですけど」
「とんでもない。楽しみにしている」
その時、卓が席に戻って来て、そろそろお愛想を…と成瀬が大将に声をかけた。
クレジットカードを渡す成瀬に、「ありがとうございます。ごちそうさまでした」と、卓と美怜は頭を下げる。
「どういたしまして。二人にはいつも感謝している。今日も大みそかなのに、ありがとう」
大将にも「ごちそうさまでした」と挨拶して店をあとにすると、大将が見送りに出て来た。
「お嬢様、今夜はありがとうございました。またのお越しを心よりお待ちしております」
美怜にだけニコニコと笑顔を向ける大将に、「ねえ、本当に口説かれてない?」と、成瀬は車に乗ったあとも何度も美怜に確かめていた。
***
「それでは、ここで。本部長、ごちそうになった上に送ってくださって、ありがとうございました」
美怜のマンションに着き、車から降りた美怜は成瀬と卓に向き合う。
「こちらこそ。大みそかまで仕事させてしまって悪かったね。良いお年を」
「はい。今年も大変お世話になりました。本部長もどうぞ良いお年をお迎えください。卓も、良いお年を」
「ああ、美怜もな。来年もよろしく」
三人で微笑み合ってから別れ、美怜は部屋に戻った。
「ただいま。ふう、疲れた。お風呂に入ってからゆっくり年越ししようかな」
そこでふと、成瀬からもらった誕生日プレゼントのことを思い出す。
(そうだ、プレゼント!中身は何だろう?)
わくわくドキドキしつつカバンから取り出し、手のひらに載せた。
小さな正方形の箱は、光沢のあるシャンパンベージュのペーパーでラッピングされ、鮮やかなピンクのリボンで結ばれていた。
(可愛い箱。開けるのがもったいないな)
ふふっと笑ってから、意を決してそっとリボンを解く。
シュルッと軽い音を立ててリボンが解け、ラッピングペーパーの下から白い箱が現れた。
フタを取ると、中にはワインレッドのビロードのケースが入っている。
(なんだろう…)
美怜のわくわくは最高潮に達し、胸を高鳴らせながらケースを開けた。
「わあっ、なんて綺麗…」
入っていたのは、ガラス細工の真っ赤なバラのチャーム。
美怜はゆっくりと手に取り、照明の明かりにかざしてみた。
一輪のバラは光を受けて、美しく真紅に色づく。
「素敵…。いつまでも見とれちゃう」
疑似デートで一緒にバラを見た時、成瀬から送られた『The Rose』の歌詞を思い出す。
美怜は小さく歌うと、もう一度チャームに目をやり、ふふっと微笑んだ。
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