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ホテルの部屋で
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「じゃあ、実際の部屋を見に行くか」
「はい」
三人で食事を済ませると、成瀬が押さえておいた高層階のダブルベッドの部屋へ行くことにした。
フロントで手続きを済ませてから、エレベーターで二十二階まで上がる。
ドアを開けると、正面に広がる夜景が目に飛び込んできた。
「わあ、素敵!」
美怜は思わず呟いて、早速窓の近くへ行く。
すぐ脇には二人掛けのソファが置いてあった。
「このソファに座ると、せっかくの夜景が見えにくくなりますね」
「そうだな。やはりカウンターチェアの方がいいだろう」
「はい」
成瀬に頷いてから、美怜はカバンからメジャーを取り出して寸法を測り始める。
「うーん、この部屋の広さから見て、うちの製品では一番コンパクトなカウンターにした方が良さそうですね」
「確かに。ソファを置かなければ長いカウンターでもいいが、やはりソファもあった方がいいだろうな」
すると卓も、うんうんと頷く。
「カップルですからね。やっぱりソファに並んで座りたいですよ」
「そうだな」
淡々と話す成瀬と卓だったが、美怜はまたもや何かのスイッチが入ったように胸がドキドキし始める。
「ベッドもキングサイズがいいけど、うちのキングは大きさが三段階ありますよね。幅が百八十と百九十と二百。どれがいいかな?」
「二百だと圧迫感があるな。部屋が狭く感じる」
「そうですね。この部屋の広さなら、百九十がいいかな?美怜、ちょっとメジャー貸して」
「ははははい!どうぞ」
ん?と訝しげに卓と成瀬は振り返る。
「どうかしたか?美怜」
「い、いえ!なんでもありません。メジャーをどうぞ」
「サンキュー」
受け取った卓は、置いてあるダブルベッドにメジャーを当てる。
「うちの百九十のキングだと、この辺りまで来ますね」
「うん、やっぱり二百は無理だな」
「ええ。今このダブルは百四十だから、百九十でもかなり広くなりますね。ちょっと寝てみよ」
そう言って卓は靴を脱ぎ、ベッドにごろんと横になる。
「成瀬さん、ちょっと隣に寝てみてください」
「いいけど。襲うなよ?」
「襲いませんよ!」
警戒しながら成瀬は少し卓から離れて寝転んだ。
「やっぱり近いな。身の危険を感じる」
「成瀬さん!どういう意味ですか?」
「うわ!だからこっちに寄って来るなってば」
「カップルが並んで寝た時の感覚を確かめてるだけですよ」
「カップル言うな!」
並んで横たわったまま小競り合いをする成瀬と卓に、美怜は完全に妄想スイッチが入り顔を赤くする。
(もうだめ。ラブラブなシーンが浮かんできちゃう)
くるりと二人に背を向けると、その場を取り繕うように声をかけた。
「あの、私、バスルーム見て来ますね」
美怜はそのままそそくさと立ち去った。
***
(ふう、私って何を想像してるのやら)
手でぱたぱたと顔を扇ぎながら、美怜は一人バスルームの鏡の前で気持ちを落ち着かせる。
(なんかこう、フランクな本部長に慣れないわ。キリッとした顔つきでお仕事している時は平気だけど、卓とじゃれ合うみたいな会話をしている本部長は、プライベートが垣間見えちゃう)
またもやホワンと妄想が膨らみ、だめだめ!と首を振って邪念を払う。
(さてと!仕事仕事。えーっと、バスルームと洗面所は…。うーん、なんか物足りないな。スツールとかチェストがあっても良さそう。広さも充分だし)
美怜はカバンから手帳を取り出し、熱心にメモを取り始めた。
一方でようやくベッドから起き上がった成瀬は、靴を履きながら卓に声をかけていた。
「富樫。良かったらこの部屋、このまま結城さんと一緒に泊まったらどうだ?」
「は?冗談はやめてくださいよ。そんなことしたら美怜にひっぱたかれますって」
「え?なんで?」
「なんでって。ええ?!もしかして成瀬さん、俺と美怜がつき合ってると思ってます?」
「うん。って、違うのか?」
「違いますよ、お互いフリーです」
「は?あんなに仲良さそうなのに?しかもお互いフリー?それなのになんでつき合わないんだ?」
質問攻めにされ、卓は眉間にしわを寄せる。
「なんでって、そういう話になったことないからです。俺は入社してから今まで仕事に必死で、誰かとつき合うってこと自体考えられなくて。多分、あいつも同じようなもんだと思います」
「そうなのか。でもそれなら、そろそろ考えてもいい頃なんじゃないか?俺から見るとお似合いだと思うけど。ほら、二人で食事にも行ってたし」
「まあ、気が合うのは確かです。二人で食事も行きますが、どちらかに恋人ができればやめます。そう言えば、美怜言ってたな。俺のことは親友だって。そしたらミュージアムチームの先輩が、異性の親友は成り立たないって持論を主張してましたけどね」
異性の親友は成り立たない…、と成瀬は頭の中で繰り返す。
なかなか興味深い言葉だな、と思っていると、ふいに電話の着信音が鳴り響いた。
「おっと、すみません。会社のスマホに課長からかかってきたみたいで」
そう断ってから、卓は電話に出る。
「はい、富樫です。あ、お疲れ様です。はい、え?…分かりました、これから向かいます。三十分程で着くと思います。はい、それでは後ほど」
そう言って通話を終えると、申し訳なさそうに成瀬に切り出す。
「すみません、別の営業案件で先方と飲みに行くことになりまして」
「そうか、分かった。こっちのことはいいから」
「はい、それでは失礼いたします」
「ああ、お疲れ様。大変だろうけど無理するなよ」
「ありがとうございます」
カバンを持つと、卓は急ぎ足で部屋を出て行った。
***
バスルームと洗面所の写真を何枚か撮り、気づいたことをひと通りメモした美怜は、よしと頷いてドアを出る。
ベッドルームに戻ると、成瀬はソファに座ってパソコンを開いていた。
あれ?と美怜はキョロキョロする。
「本部長、富樫さんはどこに?」
「ああ。営業課長に電話で呼び出されてね。接待に向かったよ」
「そうなんですか」
「やっぱり営業はいつの時代も大変だな。まあ、富樫なら上手くやっていけるだろうけど。人当たりがいいし、裏表がないから、誰からも好かれるだろうな」
「はい。彼は根っからのいい人です。優しくていつも思いやりに溢れていて。私も何度も彼に助けられました」
「そうか」
それでもつき合わないのはなぜだ?と、成瀬は美怜の顔をじっと見つめる。
(富樫はああ言っていたが、もしや彼女の方は富樫のことを想っているとか?それとも、口では否定していた富樫も、彼女のことを好きだったりするかも?)
最近の若い子は軽いノリでつき合うのかと思いきや、そんなふうに純粋に心に秘める子もいるかもしれない。
もしかして、互いに両想いなのに言い出せないとか?
(だとしたらもったいない。俺に何かしてやれることはないだろうか)
そんなことを考えながら見つめたままでいると、だんだん美怜が顔をこわばらせるのに気づいた。
「あ、あの、本部長。わたくし、何か失礼な振る舞いを…?」
「え?ああ、違う。すまない、考え事をしていて」
「そうでしたか。ですが、あの、もし何かお気に触ることがありましたら、すぐにおっしゃってください」
小さくそう言って、美怜は身を縮こまらせる。
成瀬はため息をつくと、顔を上げて正面から美怜を見た。
「結城さん」
「は、はい」
「ちょっとここに座ってくれる?話がしたい」
美怜は身体をビクッとさせてから、はい、と答えて向かい側のソファに腰を下ろす。
「結城さん。これから我々は三人でルミエール ホテルとの打ち合わせに臨む。先方に、メゾンテールと契約したいと思っていただけるように、力を合わせて取り組もう」
「はい」
「だが、今の君のその態度では、おそらく上手くいかない」
え…、と美怜は絶句する。
「私はこの件に、是非とも富樫くんと結城さんに力を借りたいと思ってお願いした。営業マンとしての富樫くんの心意気と、我が社の顔となり堂々と相手にアピールする君の度胸に惹かれてね。だけど、君は私を前にすると萎縮するようになってしまった。君が私の顔色をうかがうと、それは先方にも伝わる。上司に怯える部下というイメージしか持たれない。今の君では、本来の君らしく、自信を持ってミュージアムを案内することはできないだろう。それでは絶対に契約は取れない」
美怜は膝に載せた両手をギュッと固く握りしめた。
言われていることは、もっともだと納得できる。
(このままではいけない。本部長に対してビクビクするようでは)
けれど、そう思えば思うほど、美怜はますます緊張した。
「結城さん。先方の前では上司も部下も関係ない。同じプロジェクトに挑む同志だ。対等な立場なんだよ」
「はい」
意を決しておずおずと視線を上げると、成瀬は目が合った途端、ふっと美怜に柔らかく微笑んだ。
「おかしいな、どうしてこんなに身構えられるんだろう?俺、なんかしたっけ?」
自虐気味にそう言う成瀬に、美怜は慌てて首を振る。
「いえ、違うんです。悪いのは私です。社会人になって少し慣れてきた頃で、気が緩んでしまった私がいけないんです」
「…どうしてそう思うの?」
「それは、その…。入社したての頃なら絶対にあんなことはしなかったのに。課長や先輩達が優しくて、つい甘えてしまっていたんです。だから私、いつの間にか知らず知らずのうちに、傲慢な態度を取るようになってしまって…」
声が震え、涙が込み上げてくる。
だが泣いてはいけない。
悪いのは自分だから。
そう思いながら必死でこらえていると、結城さん、とまた名前を呼ばれた。
「はい」
顔を上げると、成瀬は優しく笑いかけてきた。
「我慢しないで、ちゃんと泣きなさい」
「え…?」
「あれからずっと泣くのを我慢してたんだろ?だからこんなにもこじらせたんだ。どうってことない事だったのに、時間が経って大げさになってしまった。結城さん、俺はね、あの日君が俺の名前を呼んで笑いかけてくれたのが、嬉しかったんだ。君とのおしゃべりが本当に楽しかった。それが俺の本音だ。君は?」
美怜の目からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちる。
「私、私は…」
「うん、なに?」
「私も楽しかったんです。ミュージアムのことを褒めてもらって嬉しくて。熱いラザニアを笑いながら食べて、お名前を教えてもらって…。あなたは雲の上の方なのに、あの時は知らなくて。気さくに話してくださるから、私もただ楽しくて、だから…」
美怜はこらえ切れずにしゃくり上げた。
「ひっく、うぐ…。だから、あの楽しかったランチが大失態だったと分かって…。ううう…。これからは、楽しかったなって思い出すのもいけないんだって。私の中では戒めの出来事になったのが悲しくて。うぐぐ…。でもそれは、自業自得だから」
嗚咽をもらしながら子どものように泣きじゃくる美怜を、成瀬は優しく見守る。
「それで?もう全部言い尽くした?」
「まだでず!えっど、だがら…」
「すごい鼻声だな」
「ずみまぜん。あの、わだじ」
「なんか、おばあちゃんの訛りみたいだな」
「そんな!ひっく…、わだじ、まだにずうよんで…」
「うん?なんだって?マジで聞き取れない」
「だがら、わだじ…、あれ?なんだっげ?」
あはは!と、成瀬は声を上げて笑い出す。
「やっぱり君、面白いよ。うん」
「なにがでずが?ごんなに、うぐぐ、ないでるのに」
「そうだね、ごめん」
成瀬は立ち上がると、美怜の隣に座り直してポンポンと頭をなでる。
その大きな手に安心して、美怜はふうと大きく息を吐いた。
「スッキリした?もう言い残したことはない?」
「はい。何が言いたかったのか、思い出せなくなっちゃいました。きっと大したことではないです」
「そう。なら良かった」
成瀬はローテーブルの上にあったティッシュを何枚か取り、美怜の顔の涙を拭く。
「うーん…。あのさ、目、見えてる?」
「は?どういう意味ですか?」
「だって、ボロ負けしたボクサーみたいに目が腫れてるから」
「ええー?そう言えば、半分くらいしか目が開きません」
「だよな。ちょっと待ってて」
そう言うと成瀬は席を立ち、部屋を出て行く。
どうしたのかと思っていると、しばらくして何かを手にして戻って来たが、目が腫れぼったくてよく見えない。
「ちょっとベッドに横になって」
「は、はいー?」
「いいから、ほら」
成瀬は美怜の腕を取って立たせると、ベッドへと連れて行く。
「ちょちょちょっと!待ってください。私、成り行きとか、その場の雰囲気に流されてやっちゃうタイプではないんです」
「ぶっ!やっちゃうとか言うな!なんて露骨な…」
ブツブツ呟くと成瀬は美怜をベッドに座らせ、そのまま後ろに押し倒した。
「ぎゃー!だから、私、そういうんじゃないんです!」
「何を期待してるのか知らないけど、俺だってそういうんじゃないよ」
「じゃ、じゃあなんでこんなことに?」
真上に迫る整った成瀬の顔を見上げて、美怜は自分を抱きしめながら身をよじる。
「君がボクサーみたいになったからだよ。ほら、目を閉じて」
「ええー?やっぱりやろうとしてるんじゃないですか!」
「想像力たくまし過ぎ!やらないよ。ほら、目を閉じる!」
「や、やられるー!」
「やらないってば!」
詰め寄られて思わず固く目を閉じると、急に目元が冷たくなって、ひゃっ!と身をすくめる。
どうやら氷水に浸したタオルを、目の上に載せられたようだった。
「しばらくこのままじっとしてて。腫れが引くまで冷やすから」
「はい。はあ、気持ちいい…」
「…なんかちょっと、意味深なセリフだな。あんなに嫌がってたのに」
「は?ちょっ、違いますよ!普通に目元が冷えて気持ちいいだけです!」
「分かってるってば。まったく…。君と俺は、高校生と教師ほど歳が離れてるだろ?手を出す訳ないよ」
「え、そうなんですか?何歳違うんですか?」
「俺は三十三。君は確か、二十四だろ?」
「そうです。よく覚えてらっしゃいますね」
「元営業マンの記憶力をなめんなって。とにかく、俺と君とは世代が違う。君はちゃんとお似合いの人に大切にしてもらいなさい」
そう言うと成瀬は、また美怜の頭をポンとなでる。
「教師と生徒というより、お父さん?」
「おいこら。さすがにそこまで離れてない」
「ち、違います!年齢じゃなくて扱われ方が、なんだか子どもに見られてるみたいで」
「それはそうだろう。あんなにエグエグ泣いてりゃ、どう見ても子どもに見える」
「ひどい!そんな、エグエグなんて」
「じゃあなんでこんなに目が腫れたんだ?」
「うっ、それは…」
だろ?と言って、成瀬は美怜の頭をクシャッとなでた。
「そろそろいいか。どれ?目、開けてみて」
そう言ってタオルを取ると、真上から美怜の顔を覗き込む。
目を開けた美怜は、成瀬に間近で見つめられ、思わずドキッとして息を呑んだ。
「ん、だいぶ腫れも引いたな。じゃあそろそろ帰ろう。車で送るよ」
「あ、はい」
成瀬に腕を取られて美怜は身体を起こす。
「ちょっと待ってて。今、支度するから」
そう言って成瀬は、開いたままだったパソコンを閉じ、ハンガーに掛けていたジャケットに腕を通す。
その様子をさりげなく目で追いながら、美怜はドキドキする胸に手を当てて気持ちを落ち着かせていた。
「じゃあ行こうか」
「はい」
美怜は目を伏せて成瀬のあとをついていく。
今までは成瀬に対して失礼のないようにと緊張していたが、今はまた別の緊張感に包まれていた。
「はい」
三人で食事を済ませると、成瀬が押さえておいた高層階のダブルベッドの部屋へ行くことにした。
フロントで手続きを済ませてから、エレベーターで二十二階まで上がる。
ドアを開けると、正面に広がる夜景が目に飛び込んできた。
「わあ、素敵!」
美怜は思わず呟いて、早速窓の近くへ行く。
すぐ脇には二人掛けのソファが置いてあった。
「このソファに座ると、せっかくの夜景が見えにくくなりますね」
「そうだな。やはりカウンターチェアの方がいいだろう」
「はい」
成瀬に頷いてから、美怜はカバンからメジャーを取り出して寸法を測り始める。
「うーん、この部屋の広さから見て、うちの製品では一番コンパクトなカウンターにした方が良さそうですね」
「確かに。ソファを置かなければ長いカウンターでもいいが、やはりソファもあった方がいいだろうな」
すると卓も、うんうんと頷く。
「カップルですからね。やっぱりソファに並んで座りたいですよ」
「そうだな」
淡々と話す成瀬と卓だったが、美怜はまたもや何かのスイッチが入ったように胸がドキドキし始める。
「ベッドもキングサイズがいいけど、うちのキングは大きさが三段階ありますよね。幅が百八十と百九十と二百。どれがいいかな?」
「二百だと圧迫感があるな。部屋が狭く感じる」
「そうですね。この部屋の広さなら、百九十がいいかな?美怜、ちょっとメジャー貸して」
「ははははい!どうぞ」
ん?と訝しげに卓と成瀬は振り返る。
「どうかしたか?美怜」
「い、いえ!なんでもありません。メジャーをどうぞ」
「サンキュー」
受け取った卓は、置いてあるダブルベッドにメジャーを当てる。
「うちの百九十のキングだと、この辺りまで来ますね」
「うん、やっぱり二百は無理だな」
「ええ。今このダブルは百四十だから、百九十でもかなり広くなりますね。ちょっと寝てみよ」
そう言って卓は靴を脱ぎ、ベッドにごろんと横になる。
「成瀬さん、ちょっと隣に寝てみてください」
「いいけど。襲うなよ?」
「襲いませんよ!」
警戒しながら成瀬は少し卓から離れて寝転んだ。
「やっぱり近いな。身の危険を感じる」
「成瀬さん!どういう意味ですか?」
「うわ!だからこっちに寄って来るなってば」
「カップルが並んで寝た時の感覚を確かめてるだけですよ」
「カップル言うな!」
並んで横たわったまま小競り合いをする成瀬と卓に、美怜は完全に妄想スイッチが入り顔を赤くする。
(もうだめ。ラブラブなシーンが浮かんできちゃう)
くるりと二人に背を向けると、その場を取り繕うように声をかけた。
「あの、私、バスルーム見て来ますね」
美怜はそのままそそくさと立ち去った。
***
(ふう、私って何を想像してるのやら)
手でぱたぱたと顔を扇ぎながら、美怜は一人バスルームの鏡の前で気持ちを落ち着かせる。
(なんかこう、フランクな本部長に慣れないわ。キリッとした顔つきでお仕事している時は平気だけど、卓とじゃれ合うみたいな会話をしている本部長は、プライベートが垣間見えちゃう)
またもやホワンと妄想が膨らみ、だめだめ!と首を振って邪念を払う。
(さてと!仕事仕事。えーっと、バスルームと洗面所は…。うーん、なんか物足りないな。スツールとかチェストがあっても良さそう。広さも充分だし)
美怜はカバンから手帳を取り出し、熱心にメモを取り始めた。
一方でようやくベッドから起き上がった成瀬は、靴を履きながら卓に声をかけていた。
「富樫。良かったらこの部屋、このまま結城さんと一緒に泊まったらどうだ?」
「は?冗談はやめてくださいよ。そんなことしたら美怜にひっぱたかれますって」
「え?なんで?」
「なんでって。ええ?!もしかして成瀬さん、俺と美怜がつき合ってると思ってます?」
「うん。って、違うのか?」
「違いますよ、お互いフリーです」
「は?あんなに仲良さそうなのに?しかもお互いフリー?それなのになんでつき合わないんだ?」
質問攻めにされ、卓は眉間にしわを寄せる。
「なんでって、そういう話になったことないからです。俺は入社してから今まで仕事に必死で、誰かとつき合うってこと自体考えられなくて。多分、あいつも同じようなもんだと思います」
「そうなのか。でもそれなら、そろそろ考えてもいい頃なんじゃないか?俺から見るとお似合いだと思うけど。ほら、二人で食事にも行ってたし」
「まあ、気が合うのは確かです。二人で食事も行きますが、どちらかに恋人ができればやめます。そう言えば、美怜言ってたな。俺のことは親友だって。そしたらミュージアムチームの先輩が、異性の親友は成り立たないって持論を主張してましたけどね」
異性の親友は成り立たない…、と成瀬は頭の中で繰り返す。
なかなか興味深い言葉だな、と思っていると、ふいに電話の着信音が鳴り響いた。
「おっと、すみません。会社のスマホに課長からかかってきたみたいで」
そう断ってから、卓は電話に出る。
「はい、富樫です。あ、お疲れ様です。はい、え?…分かりました、これから向かいます。三十分程で着くと思います。はい、それでは後ほど」
そう言って通話を終えると、申し訳なさそうに成瀬に切り出す。
「すみません、別の営業案件で先方と飲みに行くことになりまして」
「そうか、分かった。こっちのことはいいから」
「はい、それでは失礼いたします」
「ああ、お疲れ様。大変だろうけど無理するなよ」
「ありがとうございます」
カバンを持つと、卓は急ぎ足で部屋を出て行った。
***
バスルームと洗面所の写真を何枚か撮り、気づいたことをひと通りメモした美怜は、よしと頷いてドアを出る。
ベッドルームに戻ると、成瀬はソファに座ってパソコンを開いていた。
あれ?と美怜はキョロキョロする。
「本部長、富樫さんはどこに?」
「ああ。営業課長に電話で呼び出されてね。接待に向かったよ」
「そうなんですか」
「やっぱり営業はいつの時代も大変だな。まあ、富樫なら上手くやっていけるだろうけど。人当たりがいいし、裏表がないから、誰からも好かれるだろうな」
「はい。彼は根っからのいい人です。優しくていつも思いやりに溢れていて。私も何度も彼に助けられました」
「そうか」
それでもつき合わないのはなぜだ?と、成瀬は美怜の顔をじっと見つめる。
(富樫はああ言っていたが、もしや彼女の方は富樫のことを想っているとか?それとも、口では否定していた富樫も、彼女のことを好きだったりするかも?)
最近の若い子は軽いノリでつき合うのかと思いきや、そんなふうに純粋に心に秘める子もいるかもしれない。
もしかして、互いに両想いなのに言い出せないとか?
(だとしたらもったいない。俺に何かしてやれることはないだろうか)
そんなことを考えながら見つめたままでいると、だんだん美怜が顔をこわばらせるのに気づいた。
「あ、あの、本部長。わたくし、何か失礼な振る舞いを…?」
「え?ああ、違う。すまない、考え事をしていて」
「そうでしたか。ですが、あの、もし何かお気に触ることがありましたら、すぐにおっしゃってください」
小さくそう言って、美怜は身を縮こまらせる。
成瀬はため息をつくと、顔を上げて正面から美怜を見た。
「結城さん」
「は、はい」
「ちょっとここに座ってくれる?話がしたい」
美怜は身体をビクッとさせてから、はい、と答えて向かい側のソファに腰を下ろす。
「結城さん。これから我々は三人でルミエール ホテルとの打ち合わせに臨む。先方に、メゾンテールと契約したいと思っていただけるように、力を合わせて取り組もう」
「はい」
「だが、今の君のその態度では、おそらく上手くいかない」
え…、と美怜は絶句する。
「私はこの件に、是非とも富樫くんと結城さんに力を借りたいと思ってお願いした。営業マンとしての富樫くんの心意気と、我が社の顔となり堂々と相手にアピールする君の度胸に惹かれてね。だけど、君は私を前にすると萎縮するようになってしまった。君が私の顔色をうかがうと、それは先方にも伝わる。上司に怯える部下というイメージしか持たれない。今の君では、本来の君らしく、自信を持ってミュージアムを案内することはできないだろう。それでは絶対に契約は取れない」
美怜は膝に載せた両手をギュッと固く握りしめた。
言われていることは、もっともだと納得できる。
(このままではいけない。本部長に対してビクビクするようでは)
けれど、そう思えば思うほど、美怜はますます緊張した。
「結城さん。先方の前では上司も部下も関係ない。同じプロジェクトに挑む同志だ。対等な立場なんだよ」
「はい」
意を決しておずおずと視線を上げると、成瀬は目が合った途端、ふっと美怜に柔らかく微笑んだ。
「おかしいな、どうしてこんなに身構えられるんだろう?俺、なんかしたっけ?」
自虐気味にそう言う成瀬に、美怜は慌てて首を振る。
「いえ、違うんです。悪いのは私です。社会人になって少し慣れてきた頃で、気が緩んでしまった私がいけないんです」
「…どうしてそう思うの?」
「それは、その…。入社したての頃なら絶対にあんなことはしなかったのに。課長や先輩達が優しくて、つい甘えてしまっていたんです。だから私、いつの間にか知らず知らずのうちに、傲慢な態度を取るようになってしまって…」
声が震え、涙が込み上げてくる。
だが泣いてはいけない。
悪いのは自分だから。
そう思いながら必死でこらえていると、結城さん、とまた名前を呼ばれた。
「はい」
顔を上げると、成瀬は優しく笑いかけてきた。
「我慢しないで、ちゃんと泣きなさい」
「え…?」
「あれからずっと泣くのを我慢してたんだろ?だからこんなにもこじらせたんだ。どうってことない事だったのに、時間が経って大げさになってしまった。結城さん、俺はね、あの日君が俺の名前を呼んで笑いかけてくれたのが、嬉しかったんだ。君とのおしゃべりが本当に楽しかった。それが俺の本音だ。君は?」
美怜の目からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちる。
「私、私は…」
「うん、なに?」
「私も楽しかったんです。ミュージアムのことを褒めてもらって嬉しくて。熱いラザニアを笑いながら食べて、お名前を教えてもらって…。あなたは雲の上の方なのに、あの時は知らなくて。気さくに話してくださるから、私もただ楽しくて、だから…」
美怜はこらえ切れずにしゃくり上げた。
「ひっく、うぐ…。だから、あの楽しかったランチが大失態だったと分かって…。ううう…。これからは、楽しかったなって思い出すのもいけないんだって。私の中では戒めの出来事になったのが悲しくて。うぐぐ…。でもそれは、自業自得だから」
嗚咽をもらしながら子どものように泣きじゃくる美怜を、成瀬は優しく見守る。
「それで?もう全部言い尽くした?」
「まだでず!えっど、だがら…」
「すごい鼻声だな」
「ずみまぜん。あの、わだじ」
「なんか、おばあちゃんの訛りみたいだな」
「そんな!ひっく…、わだじ、まだにずうよんで…」
「うん?なんだって?マジで聞き取れない」
「だがら、わだじ…、あれ?なんだっげ?」
あはは!と、成瀬は声を上げて笑い出す。
「やっぱり君、面白いよ。うん」
「なにがでずが?ごんなに、うぐぐ、ないでるのに」
「そうだね、ごめん」
成瀬は立ち上がると、美怜の隣に座り直してポンポンと頭をなでる。
その大きな手に安心して、美怜はふうと大きく息を吐いた。
「スッキリした?もう言い残したことはない?」
「はい。何が言いたかったのか、思い出せなくなっちゃいました。きっと大したことではないです」
「そう。なら良かった」
成瀬はローテーブルの上にあったティッシュを何枚か取り、美怜の顔の涙を拭く。
「うーん…。あのさ、目、見えてる?」
「は?どういう意味ですか?」
「だって、ボロ負けしたボクサーみたいに目が腫れてるから」
「ええー?そう言えば、半分くらいしか目が開きません」
「だよな。ちょっと待ってて」
そう言うと成瀬は席を立ち、部屋を出て行く。
どうしたのかと思っていると、しばらくして何かを手にして戻って来たが、目が腫れぼったくてよく見えない。
「ちょっとベッドに横になって」
「は、はいー?」
「いいから、ほら」
成瀬は美怜の腕を取って立たせると、ベッドへと連れて行く。
「ちょちょちょっと!待ってください。私、成り行きとか、その場の雰囲気に流されてやっちゃうタイプではないんです」
「ぶっ!やっちゃうとか言うな!なんて露骨な…」
ブツブツ呟くと成瀬は美怜をベッドに座らせ、そのまま後ろに押し倒した。
「ぎゃー!だから、私、そういうんじゃないんです!」
「何を期待してるのか知らないけど、俺だってそういうんじゃないよ」
「じゃ、じゃあなんでこんなことに?」
真上に迫る整った成瀬の顔を見上げて、美怜は自分を抱きしめながら身をよじる。
「君がボクサーみたいになったからだよ。ほら、目を閉じて」
「ええー?やっぱりやろうとしてるんじゃないですか!」
「想像力たくまし過ぎ!やらないよ。ほら、目を閉じる!」
「や、やられるー!」
「やらないってば!」
詰め寄られて思わず固く目を閉じると、急に目元が冷たくなって、ひゃっ!と身をすくめる。
どうやら氷水に浸したタオルを、目の上に載せられたようだった。
「しばらくこのままじっとしてて。腫れが引くまで冷やすから」
「はい。はあ、気持ちいい…」
「…なんかちょっと、意味深なセリフだな。あんなに嫌がってたのに」
「は?ちょっ、違いますよ!普通に目元が冷えて気持ちいいだけです!」
「分かってるってば。まったく…。君と俺は、高校生と教師ほど歳が離れてるだろ?手を出す訳ないよ」
「え、そうなんですか?何歳違うんですか?」
「俺は三十三。君は確か、二十四だろ?」
「そうです。よく覚えてらっしゃいますね」
「元営業マンの記憶力をなめんなって。とにかく、俺と君とは世代が違う。君はちゃんとお似合いの人に大切にしてもらいなさい」
そう言うと成瀬は、また美怜の頭をポンとなでる。
「教師と生徒というより、お父さん?」
「おいこら。さすがにそこまで離れてない」
「ち、違います!年齢じゃなくて扱われ方が、なんだか子どもに見られてるみたいで」
「それはそうだろう。あんなにエグエグ泣いてりゃ、どう見ても子どもに見える」
「ひどい!そんな、エグエグなんて」
「じゃあなんでこんなに目が腫れたんだ?」
「うっ、それは…」
だろ?と言って、成瀬は美怜の頭をクシャッとなでた。
「そろそろいいか。どれ?目、開けてみて」
そう言ってタオルを取ると、真上から美怜の顔を覗き込む。
目を開けた美怜は、成瀬に間近で見つめられ、思わずドキッとして息を呑んだ。
「ん、だいぶ腫れも引いたな。じゃあそろそろ帰ろう。車で送るよ」
「あ、はい」
成瀬に腕を取られて美怜は身体を起こす。
「ちょっと待ってて。今、支度するから」
そう言って成瀬は、開いたままだったパソコンを閉じ、ハンガーに掛けていたジャケットに腕を通す。
その様子をさりげなく目で追いながら、美怜はドキドキする胸に手を当てて気持ちを落ち着かせていた。
「じゃあ行こうか」
「はい」
美怜は目を伏せて成瀬のあとをついていく。
今までは成瀬に対して失礼のないようにと緊張していたが、今はまた別の緊張感に包まれていた。
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