恋とキスは背伸びして

葉月 まい

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突然の涙

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「課長、それでは本社に行ってまいります」
「はい、気をつけて行ってらっしゃい」

契約したコンベンションセンターとの初回の打ち合わせが近づき、美怜はこの日本社で、卓やインテリアコーディネーター達と事前準備をすることになっていた。

ミュージアムの案内は他のメンバーに任せ、私服に着替えてから電車で本社に移動する。

(前に来たのは、階段から滑り落ちた日だったなあ。かれこれ一ヶ月ぶりか)

そう思いながらエレベーターで五階に上がり、会議室に向かう。

ドアは開いており、コの字に並んだテーブルの端で資料を並べている卓の姿が見えた。

コンコンとノックしてから声をかける。

「卓、お疲れ様」
「お、美怜。お疲れ。悪いな、わざわざこっちに来てもらって」
「ううん、大丈夫。コーディネーターさん達はまだ?」
「ああ。もうじき来ると思う」

美怜もテーブルに資料を並べるのを手伝うと、一部もらって目を通す。

「最初の催しは、『フラワーフェスティバル』っていうのね。お花の博覧会みたいな感じかな?素敵ね」
「そうなんだ。エリアをいくつか仕切って、イベントや展示を三日間行うんだって。華道家の生け花の実演や、フラワーアーティストのトークショー、お花の販売もあるらしい」
「へえ、楽しそう。あ!ブーケの製作体験もある。やってみたいなあ」

わくわくしながら資料を読んでいると、お疲れ様です!とインテリアコーディネーター達が入って来た。

オシャレな私服をセンス良く着こなした、綺麗なお姉さんといった感じの三人組だった。

「初めまして、営業部の富樫と申します。この度はご協力いただき、ありがとうございます」

卓が丁寧に挨拶すると、自分達より少し年上らしい三人もにこやかに、こちらこそよろしくお願いしますと答える。

美怜も三人に自己紹介した。

「初めまして、広報部の結城と申します。いつもはミュージアムに勤務しております」
「ミュージアム?あ!なんかそんなのありましたね」
「は、はい。あります」

やっぱり知名度低すぎる…と、美怜は心の中で泣き顔になる。

「では早速始めましょう。資料をお渡ししますね」

卓に促されて席に着き、皆で資料を広げた。

***

「なるほど。お花がたくさん並ぶイベントですね。それなら全体的に明るい空間にしましょう。装飾は、お花の邪魔をしないように控えめに。どの場所にどんなお花が並ぶのかは、事前に把握したいですね。それによってテーブルクロスの色なども変わってきますから」

コーディネーターの言葉に卓は頷く。

「分かりました、先方に確認します。各エリアごとに使用するテーブルや椅子の数は図に記載してありますが、予備も用意します。配置も当日急な変更があるかもしれません。それからカーペットの色も、各エリアごとにご提案できればと思います。結城さんからは何かありますか?」

話を振られて、美怜は顔を上げた。

「はい。私からは、コンベンションセンターの方々をご案内した時の様子をお伝えしたいと思います。こちらのタブレットでコンベンションセンターの内部にバーチャルの画像を作り、色々なコーディネートのパターンをご覧いただきました。その時に、壁をむき出しにせず、カーテンで覆ったこちらの画像に非常に興味を持っていただきました」

美怜が差し出したタブレットに、皆は顔を寄せる。

「あら、綺麗ね。普通のカーテンにオーガンジーを重ねてあるの?」
「はい。イメージとしてはそうです」
「いいわね。ふわっと揺れるオーガンジーが、お花が揺れるイメージにも合うし」

一人がそう言うと、あとの二人も頷く。

「色合いを少し変えて重ねても良さそうね。グラデーションにしてもいいかも」
「そうね。お花の背景にもなる訳だから、カーテンは重点的に考えましょう」

そして三人は分厚いサンプルファイルを開き、布を選び始めた。

「柄は無地で、色はナチュラルカラーで統一しましょう。明るさもここから上にして」

しばらく顔を寄せ合って話し合った後、三人は顔を上げて卓と美怜を見た。

「おおよそのイメージは固まりました。あとは実際の備品を手配して、打ち合わせの際に先方に見ていただけるよう持参しますね」
「はい。どうぞよろしくお願いいたします」

卓と美怜は深々とお辞儀をし、話し合いは和やかに終了した。

***

「じゃあな、美怜。今日はありがとう」

会議室を片づけてから、卓は美怜をエレベーターホールまで見送った。

「こちらこそ。打ち合わせ当日もよろしくね」
「ああ。気をつけて帰れよ」
「うん。ありがとう」

手を振って別れると、美怜はエレベーターで一階まで下りる。

(えーっと、今から帰るとミュージアムに着くのは十二時半頃か。お昼ご飯買って行こうかな)

そんなことを考えながらエントランスに向かって歩いていると、ふと忘れ物に気がついた。

(あ、大変!タブレットを会議室に置いてきちゃったかも)

急いでエレベーターホールに戻ったが、ちょうど昼休みに入ったせいか、エレベーターは各階ごとに止まってなかなか下りてこない。

(あーもう、急いでるのに)

会社の機密事項が入ったタブレットを紛失すれば、大変なことになる。

美怜はエレベーターを待つのは諦めて、五階まで階段を使うことにした。

脇目も振らずにひたすら駆け上がっていると、三階までたどり着いたところで足がもつれて段差につまずく。

「わっ!」

転ぶのを覚悟して思わず目をつぶった時、危ない!と声がして誰かの大きな腕に抱き留められた。

え…?と、美怜は恐る恐る目を開ける。

「大丈夫か?」
「あ、はい!大丈夫です。ありがとうございました」

我に返って慌てて身体を起こすと、あれ?と怪訝そうな声がした。

相手の顔を見上げた美怜は、あっ!と目を見開く。

「ほ、本部長!」
「やっぱり君か。いつもと格好が違うから、誰だか分からなかった」
「あ、すみません。本社に用事があったので、制服じゃなくて。髪も、お団子を下ろしっぱなしで…」
「いや、別に謝ることじゃない」
「はい、すみません」

身を固くして謝る美怜に、成瀬はため息をつく。

「だから謝らないでいいって」
「はい、すみま…。あ、その、はい」

どうしていいか分からず、泣きべそをかいた子どものようになる美怜に、成瀬はふっと笑みをこぼす。

「君、階段を下りる時だけじゃなくて、上がる時にも転ぶんだね」
「はい、すみま…、いえ、その」
「そんなに怯えられると困るんだけど」
「はい、すみま…す」
「すみます?ははは!」

思わず笑っても、美怜はうつむいたままだ。

成瀬は笑いを収めてから声のトーンを落とした。

「困らせてごめん。もう行くから。気をつけてね」
「はい、ありがとうございました」

お辞儀をする美怜に背を向けて、成瀬は階段を下り始める。

ふと足を止めて振り返ると、再びタタッと階段を駆け上がっていく美怜の後ろ姿が見えた。

ゆるくウェーブした肩下まである髪をふわりと揺らし、スカートを翻して軽やかに階段を上がっていく美怜を、成瀬は何とも言えない表情で見送っていた。

***

「あ、美怜!良かった、今連絡しようと思ってたんだ」

五階まで上がり、会議室へ向かおうとすると、前方から卓が歩いて来た。

「タブレット忘れていっただろ?次に会議室に入った人が、予約表見て内線くれたんだ。はい、これ」
「ありがとう!良かった…」

タブレットを受け取った途端、美怜の目に涙が込み上げてきた。

「え!美怜?ちょっと、どうしたんだよ?」
「分かんない。なんか、ホッとしたら急に…。ごめんね」
「いや、そんな。謝らなくていいから」
「うん、ごめん」
「そんなにタブレットが心配だったのか?悪かったな、俺も気づかなくて」
「違うの、そうじゃなくて。ほんとにごめんなさい」
「美怜…」

懸命に涙をこらえながら、指先で目元を拭う美怜に、卓は言葉を失う。

「一体どうしたんだ?こんな美怜、初めて見る。何かあったのか?」
「ううん、何もない。ごめん、もう行くね。ありがとう」 
「ちょっと待った!」

そそくさと立ち去ろうとする美怜の腕を、咄嗟に掴んで引き留める。

「俺、午後から外回りなんだ。昼休み終わったら直行にするから、その前にミュージアムまで送る。オフィスにカバン取りに行くからついてきて」
「え、あの…」

戸惑う美怜の手を引いて卓は営業部のオフィスまで行き、ホワイトボードの名前の横に【外回り】と書き込んでから、カバンを手に戻って来た。

「じゃ、行こうか」

二人はエレベーターでエントランスまで下りた。

「軽く飯食ってから行くか。どこがいい?」
「えっと、あんまりお腹空いてなくて」
「うわ、重症だな。美怜が腹減ってないなんて。よし、ガッツリ牛丼にしよう」
「え?だから、そんなに食べられないかも…」
「テイクアウトにして、そこの公園で食べよう。残したら持って帰ればいい」

そう言うと卓は、会社のすぐ近くにある牛丼屋で牛丼を二つ買い、公園へと向かった。

美怜もおとなしくあとをついて行く。

「はいよ。お茶もあるから」
「ありがとう」

ベンチに座り、牛丼とペットボトルのお茶を受け取る。

「いただきます」

蓋を開けてひと口食べると、美味しさに美怜はまたホッとした。

パクパク食べ始めた美怜に頬を緩めて、卓も自分の牛丼を取り出して食べる。

「なんかのどかだなー」
「ほんとだね」

オフィス街の喧騒が嘘のように、昼間の公園はのんびりとお散歩する老夫婦や、砂場で遊んでいる子ども達がいた。

時間の流れもゆっくりと感じられ、二人は何を話すでもなく牛丼を食べる。

結局ぺろりと完食した美怜に、卓は安心したように微笑んだ。

「なあ、美怜」
「なあに?」
「お前さ、仕事がんばり過ぎかもよ?知らず知らずのうちに気を張り詰めてたんじゃないか?」

やはりさっき、突然泣き出したことを気にしてくれているのだろうと、美怜は自分の気持ちを確かめるように口を開いた。

「仕事は楽しくて、悩みがある訳でも思い詰めてるつもりもなかったんだけど。でも…」
「うん、なに?」
「やっぱり私なんて、まだまだなんだよね。入社して二年ちょっとで、社会人としても色んなことが分かってきたつもりだったけど、まだまだ至らないところがたくさんある。そう思うと少し落ち込んで、がんばらなきゃって気を引き締めてたの。それがさっき卓の顔見た途端、なんだかホッとして気が緩んじゃった」

そっか、と卓は小さく呟く。

「仕事が楽しいなら何よりだ。けどそれなら余計に、上手く息抜きしながらやっていかないと。長く続けたいんだろ?この仕事」
「うん、続けたい」
「だったら手の抜き方も覚えなきゃな」
「え?卓も手を抜くことあるの?」

驚いて顔を上げると、クシャッとした笑顔を向けられる。 

「あるさ。ありまくり。だって俺、ミュージアムチームに丸投げするだろ?」
「それは私達を信頼してくれてるからでしょ?」
「もちろんそれもあるけど、要は自分じゃ力不足なんだ。美怜達みたいに、先方を納得させられる案内なんてできないし、勉強して美怜達を追い抜こうって意欲もない。すみませーん、お願いしまーす、みたいな」

そうだったの?と、美怜は目を丸くする。

「なんかちょっと、卓のブラックな一面見ちゃったかも…」
「あはは!俺にどんなイメージ持ってたのか知らないけど、まあ、そんなもんだよ。もちろん将来的には、美怜達と同等の案内ができるようにする。けど、今はしなくていい。自分を俯瞰的に見てそう決めてる。長く無理なく続ける為にな」
「そっか、そうだね。たかが二年で全て分かった気になる方がおかしいよね。私はまだまだひよこなんだ」
「そっ!ピヨピヨのぴよちゃん」
「うん」

その時、ふと美怜は先日のミーティングのことを思い出した。

「ね、ひよこと言えばね。聞いてよー。私、ゲートの不具合を確かめる為に、ちっちゃくなって通れって先輩達に言われてね。よちよちひよこみたいに歩かされたんだよ。そしたらみんな笑い出すしさ」
「へえー、それは俺も見たかった」
「太ももぷるぷる震えるし、私は真剣なのにみんなに笑われてさ」

拗ねたような口調の美怜の話を聞きながら、ようやくいつもの美怜に戻ったと、卓は笑みを浮かべながら相槌を打っていた。
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