花咲くように 微笑んで 【書籍化】

葉月 まい

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同棲生活

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 「菜乃花ちゃん。気分はどう?」
 「先生!もうすっかり元気です」 

 朝になり、診察を受けた菜乃花は無事に一般病棟に移った。

 勤務の合間に三浦が病室まで様子を見に来てくれたのだが、妙に暗い表情なのが菜乃花は気になる。

 「先生?どうかしましたか?」
 「あ、うん。菜乃花ちゃん、改めて謝罪するよ。君にこんな大怪我を負わせてしまって本当に申し訳ない。守れなくて悪かった」
 「そんな。先生のせいじゃないですってば」
 「いや、俺はあの時君を一人にするべきじゃなかった。ずっと君のそばについていなければいけなかったんだ」

 彼みたいに…と小さく呟いた言葉が聞き取れず、菜乃花は首を傾げる。

 「誰…ですか?」

 だが菜乃花の問いには答えず、三浦は思い詰めたようにうつむいたままだった。

 「先生?なんだかいつもの元気な先生とは別人みたいです。本当にどうしたんですか?どこか具合でも?」
 「俺は大丈夫だ。それより菜乃花ちゃんこそ、本当にもう平気?」
 「はい。明日か明後日には退院出来るそうです」
 「そうなんだ。退院って、ひとり暮らしのマンションに帰るの?実家ではなくて?」
 「もちろんです。仕事もありますし、実家は遠方なので」
 「え、もう仕事に復帰するつもり?ひとり暮らししながら?」

 何をそんなに驚くことがあるのだろうと思いながら、菜乃花は、はいと頷いた。

 「その話、塚本先生にはしたの?」
 「え?いえ、特には。でも、退院してもいいってことは、普段の生活に戻っても大丈夫ってことでしょう?それに体調も、すっかり元に戻ったし」

 それを聞いて、三浦はじっと何かを考え込む。

 「先生?」
 「あ、ごめん。とにかく今はまだゆっくり休んでね。また来るよ」
 「はい」

 菜乃花に優しく笑いかけてから、三浦は病室を出た足でERに向かった。



 「宮瀬先生」
 「はい」

 呼ばれて振り返った颯真は、三浦の姿を見て驚く。

 「仕事中にごめん。ちょっと話せるかな?」
 「はい、大丈夫です」

 人気のない廊下の端まで来ると、三浦は少しためらってから口を開いた。

 「実は菜乃…、鈴原さんのことなんだけど」
 「彼女がどうかしましたか?」
 「うん。退院後の生活については説明してあるのかな?」
 「まだです。退院がきちんと決まってから、塚本先生からお話があると思いますけど」

 それはそうだろう。
 分かっているが、どうしても颯真に言っておきたいことがあった。

 「彼女、退院したらひとり暮らしのマンションから仕事に通うと言っていた。俺としては、せめて最低でも1ヶ月は誰かがそばにいた方がいいと思う。セカンドインパクトシンドロームにも充分警戒しなければいけないし、ひとり暮らしでは何かあった時に危険だ」
 「ええ。塚本先生もそういったお話はされると思います」
 「うん。それで宮瀬先生に聞いておきたいんだけど。もし君さえ良ければ、彼女をしばらくうちに泊めてもいいかな?」
 「…は?」

 颯真は思わず目をしばたかせて聞き返す。

 「あの、どうして私にそんなことを?」
 「いや、その…。君からしたら、俺は彼女を守るに値しない男かもしれないと思って…」
 「はい?あの、おっしゃる意味が…。三浦先生がフィアンセの方とどう過ごされようと、私には関係ないことですが?」
 「じゃあ、しばらく彼女を預かってもいいかな?」
 「もちろんです。私に聞く必要もありません」
 「そうか、分かった。ありがとう。それじゃあ」

 そそくさと去って行く三浦の後ろ姿を、颯真は複雑な思いで見つめていた。



 「菜乃花ちゃん!もう本当に心配したんだから」

 午後になって、有希が見舞いに現れた。

 「有希さん、わざわざすみません。体調は大丈夫ですか?」
 「それはこっちのセリフよ。もう大丈夫なの?菜乃花ちゃん」
 「はい、すっかり良くなりました」
 「そう。それなら良かった。あ、これね。お見舞いのお菓子。食べてもいいなら食べてね」
 「ありがとうございます。わあ、『ロージーローズ』だ。嬉しい!」
 「ふふ、喜んでもらえて私も嬉しいわ。あと、これも」
 「え?何ですか?」

 怪訝そうに菜乃花は紙袋を受け取る。

 「颯真先生から聞いたの。菜乃花ちゃん、怪我をした時に着ていたお洋服が血で汚れてしまったって。だから、退院する時に良かったらこれを着て。ワンピースなの」
 「ええ?!いいんですか?」
 「もちろん!菜乃花ちゃんに似合うと思うんだ」
 「ありがとうございます!とっても助かります」

 母親には、遠いし大した怪我ではないから見舞いに来なくていいと断っていた。

 入院中はパジャマをレンタル出来るが、そう言えば退院の時の服装のことはすっかり忘れていたから、有希の気遣いはありがたい。

 「それにしても、本当にびっくりしたわ。颯真先生が春樹に電話してきたんだけど、もの凄く思い詰めてて、春樹も言葉が出て来なかったって」
 「そうだったんですね」
 「うん。『菜乃花も心配だし、颯真も同じくらい心配だ』って春樹が言ってた」
 「ご心配おかけしました。先輩にもよろしくお伝えください」
 「分かったわ。颯真先生は?ここには来るの?」
 「いえ。基本的に一般病棟には来ないみたいです」
 「そうなのね。少しでも会いたかったなあ」

 そのあとは、大きくなってきた有希のお腹を触らせてもらったり、赤ちゃんの話題で楽しくおしゃべりした。



 無事に退院の日を迎え、菜乃花は病室で有希からもらったワンピースに着替える。

 (わあ、可愛い。大丈夫かな、私に似合うかな?)

 薄いクリームイエローのワンピースは、袖がふわっと柔らかく、ウエストから広がるスカートも生地をたっぷり使ってふんわりと揺れる。

 まるで春風みたいに爽やかだな、と菜乃花は思った。

 所持品のバッグから、デートだからと珍しく入れていた化粧ポーチを取り出し、軽くメイクをする。

 最後に塚本から話があった。

 「それでは鈴原さん。この先も1ヶ月は激しい運動は避けてください。転んだりしないように気をつけて。それから、めまいや吐き気など、いつもと違う症状があればすぐに連絡してください」
 「はい、分かりました」
 「まあ、三浦先生がついてるから大丈夫でしょう。何かあったら三浦先生に相談してね」
 「あ、は、はい」

 菜乃花は思わず顔を赤くしてうつむく。

 三浦から「退院したらしばらく俺のマンションで過ごして欲しい」と言われ、菜乃花は、ええ?!と驚いた。

 すぐさま断ったが、頑として三浦は譲らず、延々と説得されて仕方なくそうすることになっていた。

 「じゃあ、行こうか。菜乃花ちゃん」
 「はい」

 退院手続きを済ませて戻って来た三浦に促され、菜乃花は改めて塚本に頭を下げた。

 「塚本先生、本当にありがとうございました。お世話になりました」
 「とんでもない。男の子の命を救った君が、大事に至らなくて良かった。この先もしばらくは気をつけて生活してね」
 「はい。ありがとうございます」

 そして菜乃花は、半休を取った三浦と一緒に病室をあとにした。

 三浦の運転で、まずは自分のマンションに寄ってもらい、菜乃花は身の回りの物を大きなバッグに詰める。

 それから三浦のマンションに連れて来られた。

 「わあ、綺麗なマンションですね。お庭もあって」
 「ああ。気晴らしに散歩したらいいよ。取り敢えず部屋に行こう。エレベーターはこっち」
 「はい」

 15階に上がると、廊下を少し進んだ先の部屋に案内された。

 「どうぞ、入って」
 「はい。お邪魔します」

 リビングは広くて日差しもたっぷり射し込む明るい空間だった。

 「ソファに座ってて。今、紅茶を淹れるから」
 「ありがとうございます」

 紅茶を飲みながら、三浦とこれからのことを話し合う。

 仕事は、出来るならこの先も1ヶ月は控えて欲しいと言われたが、そんなに長く休むと館長達に迷惑になるし、危険な作業はしないからと、2週間後に戻ることになった。

 「じゃあ出来るだけ身体の負担が少ない業務にしてね。通勤も気をつけて。俺が休みの日は車で送るから。それから家のことは何もしないで。食事も俺が用意する。とにかく菜乃花ちゃんはゆっくり身体を休めてね」
 「あの、泊めていただくのに何もしないのは…」
 「いいや、ダメだ。本当に何もしないで。分かった?」
 「は、はい」

 その言葉通り、三浦はテキパキと菜乃花の昼食を用意すると、ちゃんと休んでてね!と念を押してから仕事に向かった。

 「ふう。暇だなあ」

 リビングのソファで一人、菜乃花は時間を持て余す。

 職場に電話して館長に退院の報告と復帰の日を伝えると、お大事にねと労ってくれた。

 (そうだ、有希さんにも報告しよう。ワンピースのお礼も言いたいし)

 菜乃花は早速有希に電話をかける。

 「もしもし有希さん?」
 「菜乃花ちゃん!無事に退院出来た?」 
 「はい。有希さんに頂いたワンピース、とっても可愛いです。ありがとうございました」
 「いいえ。それより、何かお手伝いに行こうか?食料品の買い出しとかあるでしょ?」
 「いえ、それが…」

 菜乃花は、しばらく三浦のマンションで生活することになったと説明する。

 「ええ?!そ、それは同棲ってこと?」
 「いえ。心配だからってつき添ってもらってる感じです。経過観察の為の居候、みたいなものですかね?」
 「でも結局は同棲してるってことでしょ?あー、なんてこと。そんなに一気に進展するなんて。まさか菜乃花ちゃん、もうお返事したの?」
 「お返事?って、何の?」
 「もちろん、プロポーズよ」

 あ!と菜乃花は思い出す。

 「すっかり忘れてました」
 「じゃあ、まだなのね?」
 「はい。そんな話にもならないから、もう取り下げられたのかもしれません」
 「まさか!だったら同棲なんてしないでしょ?」
 「ですから、同棲ではなくて居候ですって」
 「同棲も居候も一緒よ。菜乃花ちゃんの気持ちは?三浦先生のこと好きなの?」
 「うーん。好きか嫌いかと聞かれたら好きです」
 「じゃあ、彼とキスしたいとか抱かれたいとか思う?」
 「ゆ、有希さん!一体何を…」  

 菜乃花は顔を真っ赤にして絶句する。

 「いい大人なんだもの。当たり前でしょ?」
 「そんな…。全然そんなことは思ってませんでした」
 「あら、そうなの?」

 有希は、うーん…と考え込む。

 「菜乃花ちゃん、もう一度よく自分の気持ちに向き合ってみてね。雰囲気に流されたりしないで、自分の気持ちを大事にして」
 「はあ…、それはどういう?」
 「いいから!とにかく自分を大事にね」

 そう言うと、また連絡するね!と有希は電話を切った。



 「ただいま」

 18時になり、玄関から三浦の声がして菜乃花は出迎えに行く。

 「お帰りなさい」
 「ただいま、菜乃花ちゃん。ゆっくり出来た?」
 「はい」

 本当は暇すぎて、ゆっくりどころか、がっくりしながら時間を過ごしていたのだが。

 「良かった。今、夕食の用意するから。座ってて」

 三浦はうがいと手洗いを済ませると、早速キッチンに立つ。

 菜乃花が手伝おうと近づくと、ダメ!ソファにいてと追い返された。

 仕方なくクッションを胸に抱えて、ぼんやりと三浦の様子を見ながら座って待つ。

 「出来たよ。ダイニングで食べよう」
 「はい、ありがとうございます。わあ、凄いですね。先生、お料理上手!」

 テーブルには、肉じゃがや味噌汁、鮭の塩焼きが並んでいた。
 更に冷蔵庫から、ひじきの煮物やきんぴらごぼうなどの常備菜も出してくる。

 「菜乃花ちゃんにはしっかり栄養取ってもらわないとね。さ、食べよう」
 「はい、いただきます」

 三浦の作る料理は、どれもこれも控えめな味付けでとても美味しい。

 「先生、いい奥さんになれますね」
 「はは!どうして?いい旦那さんじゃなくて?」
 「あ!そうですね。いい旦那さんです」
 「菜乃花ちゃんにそう言ってもらえると嬉しいなあ」

 楽しく食事をし、片付けを手伝おうとするとまたもや断られる。

 食後のコーヒーもソファに運んでくれ、お風呂も先に入ってと促された。

 何かあってはいけないからと、バスルームの近くで待機される。

 久しぶりの湯船にゆっくり浸かりたかったが、どうにも三浦の様子が気になって、カラスの行水になってしまう。

 「髪、ちゃんと乾かしてね。洗濯物は洗濯機に入れておいて」
 「はい」

 パウダールームでドライヤーをかけてからリビングに戻ると、三浦は明日の朝食の準備をしていた。

 「先生、私にも何かお手伝いさせてください」
 「何もしなくていいから。その為に菜乃花ちゃんにここにいてもらってるんだし」
 「でも…」
 「それより、ここは病院じゃないから、いい加減先生は変えてくれない?」
 「え?」

 何のことかと首をひねる。

 「うちにいるのに先生って呼ばれると、仕事モードになって気が抜けないんだ」
 「あ!なるほど。では、三浦さん」
 「は?それもなんか…。居心地悪いな」
 「えっと、じゃあ?」
 「信司しんじ
 「はい?」
 「俺の名前。信じるに司で信司なんだ」
 「あ、そうなんですね。信司先生」
 「ええ?だから、先生は…」
 「ああ!そうでした。じゃあ、信司さん」
 「うん。菜乃花ちゃん」

 三浦は嬉しそうに笑う。

 「じゃあ、そろそろ休んだ方がいい。菜乃花ちゃんは寝室を使って。何かあったらすぐ起こしてね。俺はリビングにいるから」 
 「ええ?!先生はリビングで寝るんですか?」
 「先生じゃないけど?」
 「あっ、信司さん」
 「うん。俺はソファで寝るから」
 「そんな。お仕事で疲れてるのに」
 「慣れてるから平気だよ。あのソファ、案外寝心地いいんだ」
 「でしたら、私がソファで…」 
 「ダーメ!ほら、早く支度して」
 「は、はい」

 半ば強引に、菜乃花は寝室へと追いやられた。



 何も出来ずにひたすらマンションで大人しく過ごす中、外来診療の予約の日がやって来た。

 病院とは言え、久しぶりの外出に菜乃花はウキウキする。

 三浦と一緒に車で病院に向かい、そのまま診察にもつき添ってくれる。

 検査の結果も異常はなく、経過も順調とのことで、引き続き今の生活で様子を見るようにと言われて診察を終えた。

 「じゃあ菜乃花ちゃん。帰りは送ってあげられなくてごめん。ちゃんとタクシーで帰ってね」

 そう言って三浦はタクシーチケットを菜乃花に手渡す。

 「いえ、そんな。これは頂けません」
 「いいから」
 「本当に大丈夫です」
 「そんなこと言って、まさか電車で帰ろうとしてる?」
 「ギクッ、いえ、あの。ちゃんとタクシーで帰ります」
 「それなら、はいこれ」
 「ですから、支払いは自分で…」

 会計のあと、受け付けの横で押し問答を繰り広げていると、前方から颯真がやって来るのが見えた。

 手元の書類に目を落としながら、事務のカウンターへと向かっている、

 菜乃花は言葉を止めて、颯真に見つからないように身体を縮こまらせた。

 「はい、じゃあチケット。寄り道しないで真っ直ぐ帰るんだよ」 
 「あ、はい」

 菜乃花は小さく答えてチケットを受け取った。

 三浦が仕事に行くのを見送ると、菜乃花は出口のタクシー乗り場へと向かう。   

 その途中にカフェがあるのに気づき、菜乃花は吸い寄せられるように店内へ入った。

 (カフェなんて久しぶり!)

 ホットのキャラメルマキアートを注文し、カウンター席に座ってゆっくりと味わう。

 (ふう、落ち着くなあ)

 両手でカップを握りしめながら思わず笑顔になった時、ガラス越しにカフェの前を通り過ぎていく颯真の姿が見えた。

 マズイ、と肩をすくめると、ふとこちらを見た颯真と目が合ってしまった。

 颯真は何やらニヤリと笑うと、店内に入って来てコーヒーを注文してから、さり気なく菜乃花の隣に座る。

 「寄り道してもいいのかなー?」

 前を見たまま、誰にともなくそう言う颯真に、菜乃花はヒエッ!と身を固くした。

 「宮瀬さん、もしやさっき聞いて…?」
 「タクシーで真っ直ぐ帰らないといけないんじゃないのかなー?」

 颯真はガラスの外に目を向けながら、とぼけた顔で更に呟く。

 「あの!お願いします。三浦先生には内緒で…」

 菜乃花が両手を合わせると、ようやく颯真は真顔に戻って菜乃花を見る。

 「そんなに?カフェに寄っただけで咎められるの?」
 「はい、多分…」
 「じゃあ、毎日何して過ごしてるの?仕事もまだ復帰してないんだよね?」
 「ええ。ですので毎日何もしていません。部屋でひたすら時間を潰しています」
 「本当に?息が詰まらない?」
 「詰まっているので、こうしてカフェの誘惑に負けてしまった次第です」

 うつむいたまま答える菜乃花に、颯真はため息をつく。

 「三浦先生、よっぽど君のことが心配なんだな」
 「はい。なので、言いつけを破るのも気が引けて…」
 「うーん。確かに君はまだ無茶をしてはいけない身体だ。けど、毎日を心穏やかに楽しく過ごすことだって大切なんだ。何か、部屋で楽しめることはない?」
 「そうですね。自分の部屋ではないので…」
 「そうだろうな。んー、ちょっとここで待っててくれる?5分で戻るよ」

 そう言うと颯真はコーヒーを手にカフェを出て行く。

 言われた通り待っていると、やがて本を3冊手にした颯真が戻って来た。

 「良かったら貸すよ。これは、心理学の観点から人とのつき合い方や処世術なんかについて書かれていて、気軽に読むにはちょうどいい。あとの2冊はマニアックな話だけど、君なら楽しめると思う」
 「へえ、面白そう!」

 受け取って少しページをめくってみると、どれも興味深い内容だった。

 「いいんですか?お借りしても」
 「ああ。俺はとっくに読み終わってるから、返すのはいつでもいいよ。あ、夢中になり過ぎないようにね。脳に悪いから、休み休み読んでね」
 「はい!とっても楽しみ」

 菜乃花は本を胸に抱えて満面の笑みを浮かべた。



 タクシーでマンションに帰ると、菜乃花はソファに座って早速颯真に借りた本を読み始める。

 心理士の道を諦めてからは、心理学の本も無意識に避けるようになっていた。
 新しく出版された心理学関係の本については、全く知らない。

 (こんなに面白い本があったんだ!)

 菜乃花は時間も忘れて読みふける。
 気づくと1冊読み終えてしまい、菜乃花は満足そうに本を閉じたあと、時計を見て、しまった!と顔をしかめた。

 (2時間も熱中しちゃった。少し休憩しないと)

 本を胸に抱えて、ふうと深呼吸する。
 そして、ん?と本に目を落とした。

 (宮瀬さんのおうちの匂いがする…)

 1度しか行ったことがないのに、なぜだか身体が覚えていた。

 (どこか爽やかで心地良くて、懐かしいような…。そう、図書館の匂いに似てる)

 菜乃花はもう一度本を胸に抱いて大きく息を吸い込み、ふふっと微笑んだ。



 待ちに待った仕事復帰の日を迎えた。

 菜乃花は朝からウキウキと支度をし、三浦の車で図書館まで送ってもらった。

 「くれぐれも無理しないように。帰りはタクシーを使ってね」
 「はい、ありがとうございます」

 車を見送ってから、菜乃花は足取りも軽く館内へと向かう。

 「おはようございます!」
 「鈴原さん!」「菜乃花ちゃん!」

 館長と谷川が笑顔で近づいてきた。

 「久しぶり!あーもう、本当に心配したのよ。身体は大丈夫?」 
 「はい、すっかり元気になりました」  
 「そうか。でもまだ無理はしないで。重い本は運ばないでね。カウンターに座って作業してくれていいから」

 谷川と館長の気遣いに礼を言って、菜乃花は久しぶりの仕事を楽しんだ。

 水曜日になると、長らくお休みしていたおはなし会を再開する。

 子ども達は、なのかおねえさん!と笑顔で声をかけてくれ、母親達は、大丈夫だったの?と心配してくれた。

 そんな日々に菜乃花の心は明るくなり、復帰後1週間が経ったのを機に、菜乃花は三浦に話を切り出した。

 「え?帰るって、どこに?」
 「私のワンルームマンションです。もうすっかり元の生活に戻りましたし、いつまでも信司さんをソファで寝かせる訳にはいきませんから」
 「そんな、俺のことは気にしなくていいから」
 「いえ、これ以上ご迷惑はかけられません」
 「迷惑だなんて、そんなこと」

 三浦は寂しそうに視線を落とすと、しばらく何かを思案してから顔を上げた。

 「菜乃花ちゃん。怪我のこととは関係なく、このまま俺とここで暮らしてくれないか?」
 「え?」
 「正式に君と婚約したい。プロポーズの返事を聞かせてもらえる?」
 「そ、それは…」

 今度は菜乃花がうつむいて言葉に詰まる。

 プロポーズされたことを、なんとなくなかったことにしていた。
 入院の騒動に紛れて話もうやむやになったような気がして、こんなふうに改めて返事を迫られるとは思っていなかった。

 「あの、お返事についてはまだ…。一度自宅に戻って、もう一度一人でゆっくり考えさせていただけませんか?散々お世話になっておいて、恐縮ですが…」
 「そんなことは気にしないで。分かった。じゃあ、もう少し考えてみて」
 「はい。ありがとうございます」

 次の日。
 菜乃花は三浦にマンションまで送ってもらった。

 「それじゃあ、また連絡するね」
 「はい。今まで長い間お世話になりました」
 「またそんな他人行儀な…。菜乃花ちゃん。俺は君のことが大好きだ。誰よりも大切な人だよ。これからも、ずっと君と暮らしていきたい。そして必ず幸せにする。二度と君を危険な目に遭わせないと誓うよ。俺の一生をかけて、君を守っていく。だから結婚して欲しい。どうか、俺との将来を考えてみてくれないか?」
 「はい。分かりました」
 「良い返事を期待してる。じゃあね」

 笑顔を残して去って行く三浦を、菜乃花は複雑な気持ちで見送っていた。
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