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突然のプロポーズ
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「鈴原さん、こんにちは」
「三浦先生!こんにちは」
図書ボランティアで訪れたみなと医療センターの小児科病棟。
いつものように本を並べ替えていると、三浦が現れた。
時間が合う時はおはなし会に参加してくれる三浦と、菜乃花はすっかり打ち解けていた。
子ども達も、三浦が参加する日は王子様とお姫様の話をリクエストして、「先生、がんばれ!」と応援しながら楽しんでいた。
「いつもありがとう、鈴原さん」
「いいえ、こちらこそ」
「あのね、実はこれを預かっていたんだ。りょうかちゃんから、なのかおねえさんへって」
「りょうかちゃんから、ですか?」
首を傾げながら、三浦が差し出したピンクの封筒を受け取る。
可愛らしい文字で『なのかおねえさんへ』と書かれ、ハートや星のマークもたくさん散りばめられていた。
菜乃花は封筒から取り出した手紙を読む。
『なのかおねえさんへ
いままでたくさん本をよんでくれて ありがとう
ずっとびょういんにいて まいにちげんきがでなかったけど
なのかおねえさんがきてくれる日は すごくうれしかったよ
いろんなおはなしをおしえてくれて ありがとう
こんどは としょかんにあいにいくね
たのしみにまっててね
りょうかより』
読み終わった菜乃花は、思わず三浦の顔を見る。
「あの、これって、りょうかちゃんは…」
「ああ。無事に先週、退院したんだ」
「そうなんですね!良かった…」
菜乃花は手紙を胸に当てて微笑む。
りょうかは大人しく控えめな女の子で、おはなし会でもいつも一番後ろに座っていた。
自分から話しかけてくれることはなかったが、菜乃花が「楽しかった?」と声をかけると、「うん」とはにかんだように頷いてくれる、笑顔が可愛い子だった。
「りょうかちゃん、元気になっておうちに帰れたんですね。良かったなあ。それにこんなに嬉しいお手紙を書いてくれたなんて。私、宝物にします」
菜乃花が満面の笑みを向けると、三浦は驚いたような表情をしてからうつむいた。
「先生?どうかしましたか?」
「いや、ちょっと感動してしまって」
ん?と菜乃花は首をひねる。
「だって君は医師でも看護師でもない。それなのに、こんなにもりょうかちゃんの退院を喜んでくれるなんて。それにりょうかちゃんも、君のおかげで元気になったんだ。おはなし会を本当に楽しみにして、だんだん笑顔も増えてね。主治医として、心からお礼を言うよ。本当にありがとう」
「いえ、そんな。私なんかが少しでもお役に立てたのなら、こんなに嬉しいことはありません。私の方こそ、いつも子ども達に幸せな気持ちにしてもらっています。ありがとうございます」
「まったく。君はどこまで純真なんだろう」
三浦はしばらくじっと足元に視線を落としていたかと思うと、急に意を決したように顔を上げて菜乃花を見つめた。
「鈴原さん。僕と結婚してもらえませんか?」
「…は?」
菜乃花は、ぱちぱちと瞬きをくり返す。
「結婚?って、あの結婚ですか?」
「そう。その結婚」
「えっと、恋人同士が婚姻届を提出して一緒に暮らすっていう、あの結婚ですよね?」
「うん。その結婚」
「でも私と三浦先生は恋人同士ではないですから、結婚はおかしくないですか?」
「そうかな?」
「はい、多分」
二人で冷静に結婚について議論する。
「俺は、恋人については想像出来ないんだ。誰かにつき合って欲しいと言われても断ってしまう。でも、君と結婚するのは想像出来る。というより、君と結婚したい。子ども達に優しく接する君を見て、自分の子どもが欲しくなってしまった。君と一緒に大切に子どもを育てていきたい。そんな未来を望んでしまった。これって、君に対して失礼な話だろうか?」
真顔で聞かれて、菜乃花も真剣に考え込む。
「いえ、私は失礼だとは思いませんけど」
「じゃあ、結婚してくれる?」
「そう言われると、ちょっと考え込んでしまいます」
「そうか、そうだよね。もちろんゆっくり時間をかけて考えてくれて構わない。あ、履歴書とか作って渡そうか?俺の素性が心配だったら」
「履歴書…は大丈夫です。先生はちゃんとした方だと分かっていますし」
「そう?じゃあ、他にも何か知りたいことあったら、いつでも聞いてね」
「はい、ありがとうございます」
「それじゃあ、また」
「はい。失礼します」
菜乃花はお辞儀をして見送った。
◇
「菜乃花ちゃーん!」
「有希さん!お久しぶりです」
「本当にね。やっと会えたわ」
4月のある日。
ようやく体調が安定した有希と一緒に、菜乃花はカフェに来ていた。
「赤ちゃんの様子はいかがですか?」
「うん、順調だって。仕事も復帰していいって言われたんだけど、春樹がダメって言うの」
「ふふ、心配なんですよ、先輩」
「まあね。でも私は毎日退屈で…。菜乃花ちゃんに会えるの、とっても楽しみにしてたの。今日はいっぱいおしゃべりにつき合ってくれる?」
「はい、もちろん」
「ありがとう!」
美味しいランチを食べながら、しばらく赤ちゃんの話を聞いていた菜乃花は、逆に有希に質問される。
「菜乃花ちゃんは?最近どう?」
「特に変わりないですよ」
「春樹が、颯真先生の病院に菜乃花ちゃんがボランティアに行ってるらしいって言ってたけど」
「あ、ええ。そうなんです。仕事が休みの日に、子ども達に絵本の読み聞かせをしたり、本を貸し出したりしています」
「へえ。ってことは菜乃花ちゃん、颯真先生といい感じにおつき合いしてるってこと?」
「いい感じのおつき合い?はあ、まあそう言われるとそうですね」
「えっ、そうなんだ!きゃー、素敵!結婚の話はまだ?」
「結婚の話ですか?別の先生との結婚の話を今ちょうど考えているところでして」
「は?!」
有希は、素っ頓狂な声を出したまま動かなくなる。
「有希さん?どうしました?大変!どこか体調が?!」
「い、いいえ。大丈夫よ。大丈夫だけど、いや、やっぱり大丈夫じゃないわね。菜乃花ちゃん、一体何がどうなってるの?私もう、頭の中がフリーズしちゃって…」
「何がどうとは?」
「だって菜乃花ちゃん、どう見たって純情一途なタイプでしょ?それなのにまさか、別の先生との結婚を考えてるなんて。私の後輩の、マンスリー彼氏の子だったら分かるわよ?でも菜乃花ちゃんが、どうしてそんな…」
「どうしてと言われましても、考えて欲しいって頼まれたので…」
「は?!頼まれた?」
またしても有希はうわずった声で聞く。
「ちょ、ちょっと菜乃花ちゃん。詳しく教えてくれる?結婚を考えて欲しいって言われたの?誰に?」
「ボランティア先の小児科の三浦先生って方です」
「ヒーー!ライバル出現じゃないの!ど、どんなふうに言われたの?そもそも、菜乃花ちゃんはその先生とつき合ってたの?告白はいつ?」
「ゆ、有希さん。落ち着いて。赤ちゃんに障ります」
「落ち着いていられないわ。お願い、菜乃花ちゃん。詳しく教えて!」
「分かりました。分かりましたから、とにかく一旦落ち着きましょう」
「そ、そうね」
有希はグラスの水を飲んでから、ふうと大きく息をつく。
菜乃花は、三浦とのいきさつを有希に話した。
「はあー、信じられない。そんなプロポーズってあるんだ」
「プロポーズ?!これってプロポーズなんですか?」
今度は菜乃花が驚きの声を上げる。
「どこからどう聞いてもプロポーズでしょう?結婚して欲しいって言われたんだから」
「そうなんですね。私、プロポーズって恋人からされるものだと思ってました」
「いや、うん。私もそう思ってた。でもそんなこともあるのねえ。そっか、小児科のドクターだもん。きっと子ども好きなんでしょうね。誰かに告白されてもつき合うのが想像出来ずに断っていたけど、菜乃花ちゃんを見ていたら、一緒に子どもを育てたいと将来を夢見るようになった、って訳ね。なるほど、それはかなり本気ね。履歴書渡そうか?なんて、おいおいバイトの面接かよって思ったけど、それだけ真面目な先生なのかもね」
うんうんと有希は腕を組んで頷く。
「それで、どうするの?菜乃花ちゃん」
「えっと、実はまだ考え中でして。結婚とか考えたことなかったので、どうしたものかなと」
「え?ってことは、イエスって答えも想定してるの?」
「それは、まあ。考えて欲しいと言われましたので、お引き受けしたらどうなるのかなって」
「嘘でしょう?!大変!あー、もう、どうしたらいいの?」
「そんな、有希さんのお手を煩わせることはしませんので」
「そういう問題じゃないの。菜乃花ちゃん、いつ頃お返事するつもりなの?」
「うーん、特に締め切りは言われてなかったと思うんですよね」
「締め切りってそんな、あはは!いや、笑ってる場合じゃないわ。菜乃花ちゃん。ちょっと、とにかくもうちょっとお返事は待って。ね?ね?」
「はあ…」
有希に前のめりに念を押され、菜乃花は取り敢えず頷いた。
◇
「あーもう、どうしよう。春樹、早く帰って来ないかな」
菜乃花と別れて自宅に戻ると、有希はうろうろと落ち着きなくリビングを歩き回る。
「菜乃花ちゃんが他の先生と結婚するなんて。颯真先生はどうなるの?颯真先生には菜乃花ちゃんしかいないと思うのに。いや、でも、菜乃花ちゃんにとったら、その別の先生と結婚するのもアリなのかも?なんだか妙な真面目具合は二人とも似てる気がするし。いや、でも!やっぱり私は、菜乃花ちゃんにも颯真先生しかいないと思う。春樹だってそう思ってるはず。あー、いつ帰って来るのよ、春樹ったら」
クマのように行ったり来たりしたあと、ハッと思い立ってスマートフォンを手に取る。
みなと医療センターに勤める友人に「お仕事終わったら電話していい?どうしても聞きたいことがあって」と手短にメッセージを送った。
その時、玄関から「ただいまー」と春樹の声がした。
「あ、帰って来た!春樹!」
ぱたぱたと出迎えに行くと、春樹が目を見開く。
「有希!そんなに急ぐな!転んでお腹でも打ったらどうする?」
「ごめんなさい。でも、とにかく早く話したくて…」
「何を?」
「あのね、菜乃花ちゃんがプロポーズされたらしいの!」
「ええー?!そっか、ついに颯真が。ほらな、俺の言った通りだろ?心配しなくても、あいつは決める時には決めるって…」
「それが違うのよ!」
そう言った時、有希が手にしていたスマートフォンが鳴った。
「あ、美奈だ。春樹、ちょっとごめん。もしもし、美奈?あのね、美奈のとこの小児科に三浦先生ってドクターいる?」
有希は会話しながら奥のリビングへと消える。
残された春樹が、そうか、ついに颯真が…と感慨にふけっていると、春樹のスマートフォンにも着信があった。
「おっ、噂をすれば。もしもし、颯真?お前、やったなー!ついにプロポーズしたんだって?」
そう言いながらリビングに入る。
すると有希が、ギョッとしたように振り返った。
スマートフォンから耳を離し、春樹をまじまじと見る。
「春樹、誰と話してるの?」
「ん?颯真だよ。タイムリーだろ?良かったなー、颯真。で?いつ結婚するんだ?」
「春樹!」
「ん?」
有希の反応と、電話の向こうで絶句している颯真に、春樹はただ首をひねるばかりだった。
◇
「すまん!本当に悪かった」
みなと医療センターの食堂で、春樹と有希は颯真に謝る。
とにかく事情を説明しようと、多忙な颯真に合わせて二人は颯真の昼休みに会いに来ていた。
「本当にごめんなさい、颯真先生」
「いや、いいんだ。俺が謝られることなんて何もないよ」
そう言いつつ、颯真は動揺を隠し切れない。
マンションで会った切りの菜乃花が、最近元気にやっているかどうか気になり、ふと思い立って春樹に聞いてみようと電話をかけた。
そして思わぬ形で菜乃花の近況を知ることになったのだ。
(なんだって?三浦先生が、彼女にプロポーズを?いつの間にそんな…)
「あの、颯真先生?やっぱり…ショック?」
恐る恐る聞いてくる有希に、「いや、全然」と思わず首を振る。
「だって、ほら、彼女がプロポーズされたからって、俺は別に。ねえ?」
「ねえって言われても。ねえ?」
有希にパスを回されて春樹はたじろぐ。
「そ、そうだよな。菜乃花がどうなっても、颯真には関係ない…」
「春樹!」
有希が思わず春樹を咎める。
「いや、春樹の言う通りだよ。俺はあの二人にとって部外者だ」
「でも、本当にそれでいいの?颯真先生」
「もちろん。あ、ごめん。そろそろ戻らないと」
「え、もう?」
「うん。ちょっと様子が気になる患者さんがいてさ。ごめんな。二人はどうぞごゆっくり」
そう言うと、颯真は食器を手に席を立つ。
去って行く後ろ姿が妙にしょんぼりとして見え、有希は小声で春樹に話しかけた。
「ね、やっぱり颯真先生、なんだかヨロヨロしてるわよね?」
「ああ、そうだな。仕事に支障ないといいんだけど」
「まあ、そこはプロだから大丈夫だと思うけど。仕事終わった途端、またヨロヨロし始めそう」
「そうだな。悪いことしたなあ」
「うん。それに菜乃花ちゃんにも。夕べすぐに電話して謝ったんだけどね。拍子抜けするくらい、別にいいですよーって言うの」
「それってつまり、菜乃花は颯真のこと、何とも思ってないってことか?」
うーん、と有希は考え込む。
「確かに今は自覚ないのかもしれない。でも私は、菜乃花ちゃんも颯真先生も、お互い密かに惹かれ合ってる気がするのよね」
「どうして分かるんだ?」
「んー、女の直感」
はあ?と春樹は呆れ気味に言う。
「何だよ、それ。当てにならないな」
「むっ!これでも結構当たるんだからね」
「おいおい。仮にもナースなんだから、もっと事実とか根拠に基づいた話をしてくれよ」
「恋の病は理屈じゃないの!」
「やれやれ。じゃあ、つける薬もないってことか」
「だけど私はどうしても二人には結ばれて欲しいの。菜乃花ちゃんはとってもいい子だし、颯真先生の悩みに寄り添えるのも彼女だけだと思うのよ。颯真先生の見た目のかっこ良さとか肩書に寄って来る子じゃなくてね」
「確かに颯真の仕事にどっぷり浸かり過ぎるところは、傍から見てても危なかしい。けど、菜乃花だって似たようなところあるし、颯真を支えられるかって言ったらそれ程強くないと思うぞ?」
「だからよ。菜乃花ちゃんも繊細だからこそ、颯真先生の気持ちが理解出来るの。それに春樹が思ってるよりもずっと、菜乃花ちゃんは強い子だと思うわ。でなければ、ナースでもないのに倒れたおじいさんに冷静にCPRなんて出来ないもの」
「なるほど。それもそうか」
春樹は腕を組んで考え込む。
が、食堂が混み合ってきたのに気づいて、二人は立ち上がった。
「ねえ、コンビニ寄ってもいい?」
「ああ。俺も飲み物買いたい」
帰る前に1階のコンビニに立ち寄ると、有希はスポーツドリンクに手を伸ばした。
すると、同じようにドリンクを取ろうとした近くの男性と手が触れ合う。
「あっ、失礼」
「いえ、こちらこそ」
どうぞと手で促す男性に会釈して、有希はドリンクを手に取った。
「ありがとうございました」
礼を言って場所を譲ると、男性はにこりと笑いかけてきた。
(わー、優しいイケメン。白衣着てるからドクターかな。ん?)
左胸のIDカードに目をやった有希は、驚いて男性の横顔をまじまじと見つめる。
(小児科医 三浦…って、この人が菜乃花ちゃんにプロポーズしたドクター?)
男性はドリンクを選ぶと、もう一度有希に微笑んでからレジへと向かった。
「は、春樹!ちょっと!」
「ん?何だよ」
「あの人よ!ほら、例のプロポーズドクター!」
「ええ?!あの人が菜乃花に?」
二人して商品の棚の影から、会計をしているドクターを覗き見る。
レジの前を離れて出口に向かったドクターは、入って来た親子に話しかけられ足を止めた。
どうやら患者の子どもとその母親らしい。
かがんで視線を合わせると、その子の頭をくしゃっと撫でながら声をかけ、にっこり笑ってから立ち上がる。
去って行く後ろ姿を、母親がうっとりと眺めていた。
「うわー、爽やか!愛想がいいイケメンって、最強だな」
妙に感心した口調で春樹が言う。
「あの人が菜乃花ちゃんにプロポーズを?嘘でしょ。颯真先生に負けず劣らずのジェントルイケメンじゃない」
「有希、お前ちょいちょい変なあだ名つけるな」
「何のんきなこと言ってるの!あの人が相手じゃ、颯真先生もおちおちしてられないわよ」
「そんなこと言ったって、俺達にはどうしようもないだろ?ほら、とにかく出よう。いい加減怪しまれる」
仕方なく、有希は春樹と会計を済ませて帰路についた。
◇
数日後。
颯真は小児科病棟でカルテを見せながら、三浦に患者の申し送りをしていた。
深夜に喘息の大発作で救急搬送された5歳の女の子が、容体が落ち着いた為、小児科病棟に移ることになったのだ。
「私からは以上です」
「了解しました。あとはこちらで引き受けます」
「よろしくお願いします」
颯真は三浦にお辞儀してから、背を向けて歩き出す。
「あ、宮瀬先生!」
呼び止められて颯真は振り返った。
「ごめん、ちょっといいかな?」
「はい、何でしょう」
「仕事の話じゃなくて恐縮なんだけど。宮瀬先生、図書ボランティアの鈴原さんとお知り合いなんだってね」
颯真は内心ぎくりとしながら頷く。
「はい。共通の友人がおりまして」
「そう。実は先日、鈴原さんに結婚を申し込んだんだ。返事はまだもらってないけど、君の耳には入れておこうと思って」
「あ、そうでしたか。お気遣いありがとうございます。ですが、私なんかに申し送りは不要です。あの、どうぞお幸せに」
「いやいや、まだ返事はもらってないってば。それに申し送りって…。真面目そうに見えて案外面白いんだね、宮瀬先生って。良かったら、今度食事でも一緒にどう?なんて、俺が鈴原さんのことを教えてもらいたいからなんだけど」
「はあ、お誘いは嬉しいですが、私は彼女のことは何も知らなくて…」
「何もってことはないでしょう?」
「いえ、本当にほとんど何も。知り合ってから5ヶ月も経ってませんし」
「そうなの?それなら、俺にも分があるかな」
「もちろんです。三浦先生を断る女の子なんて、いないと思います」
「ありがとう。でも、宮瀬先生を断る女の子もいないと思うよ」
「いえ。そう思われてるのにフラレたら、ダブルパンチです」
「あはは!俺もだよ」
おかしそうに笑うと、三浦はポンと颯真の肩に手を置く。
「彼女のこと抜きでも、今度一緒に飲みに行こうよ」
「はい、是非」
「ああ、楽しみにしてる。じゃあね」
「はい、失礼します」
三浦は爽やかな笑顔で頷くと、くるりと向きを変えて去って行った。
エレベーターの中で、颯真はぼんやり考える。
(本当にいい先生だな、三浦先生って)
誰に対しても笑顔を絶やさず、穏やかで優しいドクターだ。
(三浦先生なら、きっと彼女を幸せにしてくれるだろう)
マンションで、肩を震わせながら泣き続けた菜乃花のことを思い出す。
あの時菜乃花を抱きしめた感触が、今も手に残っていた。
何年もずっと挫折を抱えていた彼女。
春樹に対しても、先輩以上の感情を持っていただろう。
想いが叶わなかった寂しさも抱えていたに違いない。
(三浦先生となら、彼女は幸せになれる。きっと優しく包み込んでもらえる)
今は、ボランティアの日程も直接小児科のナースとやり取りしてもらっている為、自分と菜乃花の接点は何もない。
これから先も、もう菜乃花に連絡することはないだろう。
(二人ともどうかお幸せに…)
心の中で三浦と菜乃花にそう呟いてから、颯真は顔を上げてエレベーターを降りた。
「三浦先生!こんにちは」
図書ボランティアで訪れたみなと医療センターの小児科病棟。
いつものように本を並べ替えていると、三浦が現れた。
時間が合う時はおはなし会に参加してくれる三浦と、菜乃花はすっかり打ち解けていた。
子ども達も、三浦が参加する日は王子様とお姫様の話をリクエストして、「先生、がんばれ!」と応援しながら楽しんでいた。
「いつもありがとう、鈴原さん」
「いいえ、こちらこそ」
「あのね、実はこれを預かっていたんだ。りょうかちゃんから、なのかおねえさんへって」
「りょうかちゃんから、ですか?」
首を傾げながら、三浦が差し出したピンクの封筒を受け取る。
可愛らしい文字で『なのかおねえさんへ』と書かれ、ハートや星のマークもたくさん散りばめられていた。
菜乃花は封筒から取り出した手紙を読む。
『なのかおねえさんへ
いままでたくさん本をよんでくれて ありがとう
ずっとびょういんにいて まいにちげんきがでなかったけど
なのかおねえさんがきてくれる日は すごくうれしかったよ
いろんなおはなしをおしえてくれて ありがとう
こんどは としょかんにあいにいくね
たのしみにまっててね
りょうかより』
読み終わった菜乃花は、思わず三浦の顔を見る。
「あの、これって、りょうかちゃんは…」
「ああ。無事に先週、退院したんだ」
「そうなんですね!良かった…」
菜乃花は手紙を胸に当てて微笑む。
りょうかは大人しく控えめな女の子で、おはなし会でもいつも一番後ろに座っていた。
自分から話しかけてくれることはなかったが、菜乃花が「楽しかった?」と声をかけると、「うん」とはにかんだように頷いてくれる、笑顔が可愛い子だった。
「りょうかちゃん、元気になっておうちに帰れたんですね。良かったなあ。それにこんなに嬉しいお手紙を書いてくれたなんて。私、宝物にします」
菜乃花が満面の笑みを向けると、三浦は驚いたような表情をしてからうつむいた。
「先生?どうかしましたか?」
「いや、ちょっと感動してしまって」
ん?と菜乃花は首をひねる。
「だって君は医師でも看護師でもない。それなのに、こんなにもりょうかちゃんの退院を喜んでくれるなんて。それにりょうかちゃんも、君のおかげで元気になったんだ。おはなし会を本当に楽しみにして、だんだん笑顔も増えてね。主治医として、心からお礼を言うよ。本当にありがとう」
「いえ、そんな。私なんかが少しでもお役に立てたのなら、こんなに嬉しいことはありません。私の方こそ、いつも子ども達に幸せな気持ちにしてもらっています。ありがとうございます」
「まったく。君はどこまで純真なんだろう」
三浦はしばらくじっと足元に視線を落としていたかと思うと、急に意を決したように顔を上げて菜乃花を見つめた。
「鈴原さん。僕と結婚してもらえませんか?」
「…は?」
菜乃花は、ぱちぱちと瞬きをくり返す。
「結婚?って、あの結婚ですか?」
「そう。その結婚」
「えっと、恋人同士が婚姻届を提出して一緒に暮らすっていう、あの結婚ですよね?」
「うん。その結婚」
「でも私と三浦先生は恋人同士ではないですから、結婚はおかしくないですか?」
「そうかな?」
「はい、多分」
二人で冷静に結婚について議論する。
「俺は、恋人については想像出来ないんだ。誰かにつき合って欲しいと言われても断ってしまう。でも、君と結婚するのは想像出来る。というより、君と結婚したい。子ども達に優しく接する君を見て、自分の子どもが欲しくなってしまった。君と一緒に大切に子どもを育てていきたい。そんな未来を望んでしまった。これって、君に対して失礼な話だろうか?」
真顔で聞かれて、菜乃花も真剣に考え込む。
「いえ、私は失礼だとは思いませんけど」
「じゃあ、結婚してくれる?」
「そう言われると、ちょっと考え込んでしまいます」
「そうか、そうだよね。もちろんゆっくり時間をかけて考えてくれて構わない。あ、履歴書とか作って渡そうか?俺の素性が心配だったら」
「履歴書…は大丈夫です。先生はちゃんとした方だと分かっていますし」
「そう?じゃあ、他にも何か知りたいことあったら、いつでも聞いてね」
「はい、ありがとうございます」
「それじゃあ、また」
「はい。失礼します」
菜乃花はお辞儀をして見送った。
◇
「菜乃花ちゃーん!」
「有希さん!お久しぶりです」
「本当にね。やっと会えたわ」
4月のある日。
ようやく体調が安定した有希と一緒に、菜乃花はカフェに来ていた。
「赤ちゃんの様子はいかがですか?」
「うん、順調だって。仕事も復帰していいって言われたんだけど、春樹がダメって言うの」
「ふふ、心配なんですよ、先輩」
「まあね。でも私は毎日退屈で…。菜乃花ちゃんに会えるの、とっても楽しみにしてたの。今日はいっぱいおしゃべりにつき合ってくれる?」
「はい、もちろん」
「ありがとう!」
美味しいランチを食べながら、しばらく赤ちゃんの話を聞いていた菜乃花は、逆に有希に質問される。
「菜乃花ちゃんは?最近どう?」
「特に変わりないですよ」
「春樹が、颯真先生の病院に菜乃花ちゃんがボランティアに行ってるらしいって言ってたけど」
「あ、ええ。そうなんです。仕事が休みの日に、子ども達に絵本の読み聞かせをしたり、本を貸し出したりしています」
「へえ。ってことは菜乃花ちゃん、颯真先生といい感じにおつき合いしてるってこと?」
「いい感じのおつき合い?はあ、まあそう言われるとそうですね」
「えっ、そうなんだ!きゃー、素敵!結婚の話はまだ?」
「結婚の話ですか?別の先生との結婚の話を今ちょうど考えているところでして」
「は?!」
有希は、素っ頓狂な声を出したまま動かなくなる。
「有希さん?どうしました?大変!どこか体調が?!」
「い、いいえ。大丈夫よ。大丈夫だけど、いや、やっぱり大丈夫じゃないわね。菜乃花ちゃん、一体何がどうなってるの?私もう、頭の中がフリーズしちゃって…」
「何がどうとは?」
「だって菜乃花ちゃん、どう見たって純情一途なタイプでしょ?それなのにまさか、別の先生との結婚を考えてるなんて。私の後輩の、マンスリー彼氏の子だったら分かるわよ?でも菜乃花ちゃんが、どうしてそんな…」
「どうしてと言われましても、考えて欲しいって頼まれたので…」
「は?!頼まれた?」
またしても有希はうわずった声で聞く。
「ちょ、ちょっと菜乃花ちゃん。詳しく教えてくれる?結婚を考えて欲しいって言われたの?誰に?」
「ボランティア先の小児科の三浦先生って方です」
「ヒーー!ライバル出現じゃないの!ど、どんなふうに言われたの?そもそも、菜乃花ちゃんはその先生とつき合ってたの?告白はいつ?」
「ゆ、有希さん。落ち着いて。赤ちゃんに障ります」
「落ち着いていられないわ。お願い、菜乃花ちゃん。詳しく教えて!」
「分かりました。分かりましたから、とにかく一旦落ち着きましょう」
「そ、そうね」
有希はグラスの水を飲んでから、ふうと大きく息をつく。
菜乃花は、三浦とのいきさつを有希に話した。
「はあー、信じられない。そんなプロポーズってあるんだ」
「プロポーズ?!これってプロポーズなんですか?」
今度は菜乃花が驚きの声を上げる。
「どこからどう聞いてもプロポーズでしょう?結婚して欲しいって言われたんだから」
「そうなんですね。私、プロポーズって恋人からされるものだと思ってました」
「いや、うん。私もそう思ってた。でもそんなこともあるのねえ。そっか、小児科のドクターだもん。きっと子ども好きなんでしょうね。誰かに告白されてもつき合うのが想像出来ずに断っていたけど、菜乃花ちゃんを見ていたら、一緒に子どもを育てたいと将来を夢見るようになった、って訳ね。なるほど、それはかなり本気ね。履歴書渡そうか?なんて、おいおいバイトの面接かよって思ったけど、それだけ真面目な先生なのかもね」
うんうんと有希は腕を組んで頷く。
「それで、どうするの?菜乃花ちゃん」
「えっと、実はまだ考え中でして。結婚とか考えたことなかったので、どうしたものかなと」
「え?ってことは、イエスって答えも想定してるの?」
「それは、まあ。考えて欲しいと言われましたので、お引き受けしたらどうなるのかなって」
「嘘でしょう?!大変!あー、もう、どうしたらいいの?」
「そんな、有希さんのお手を煩わせることはしませんので」
「そういう問題じゃないの。菜乃花ちゃん、いつ頃お返事するつもりなの?」
「うーん、特に締め切りは言われてなかったと思うんですよね」
「締め切りってそんな、あはは!いや、笑ってる場合じゃないわ。菜乃花ちゃん。ちょっと、とにかくもうちょっとお返事は待って。ね?ね?」
「はあ…」
有希に前のめりに念を押され、菜乃花は取り敢えず頷いた。
◇
「あーもう、どうしよう。春樹、早く帰って来ないかな」
菜乃花と別れて自宅に戻ると、有希はうろうろと落ち着きなくリビングを歩き回る。
「菜乃花ちゃんが他の先生と結婚するなんて。颯真先生はどうなるの?颯真先生には菜乃花ちゃんしかいないと思うのに。いや、でも、菜乃花ちゃんにとったら、その別の先生と結婚するのもアリなのかも?なんだか妙な真面目具合は二人とも似てる気がするし。いや、でも!やっぱり私は、菜乃花ちゃんにも颯真先生しかいないと思う。春樹だってそう思ってるはず。あー、いつ帰って来るのよ、春樹ったら」
クマのように行ったり来たりしたあと、ハッと思い立ってスマートフォンを手に取る。
みなと医療センターに勤める友人に「お仕事終わったら電話していい?どうしても聞きたいことがあって」と手短にメッセージを送った。
その時、玄関から「ただいまー」と春樹の声がした。
「あ、帰って来た!春樹!」
ぱたぱたと出迎えに行くと、春樹が目を見開く。
「有希!そんなに急ぐな!転んでお腹でも打ったらどうする?」
「ごめんなさい。でも、とにかく早く話したくて…」
「何を?」
「あのね、菜乃花ちゃんがプロポーズされたらしいの!」
「ええー?!そっか、ついに颯真が。ほらな、俺の言った通りだろ?心配しなくても、あいつは決める時には決めるって…」
「それが違うのよ!」
そう言った時、有希が手にしていたスマートフォンが鳴った。
「あ、美奈だ。春樹、ちょっとごめん。もしもし、美奈?あのね、美奈のとこの小児科に三浦先生ってドクターいる?」
有希は会話しながら奥のリビングへと消える。
残された春樹が、そうか、ついに颯真が…と感慨にふけっていると、春樹のスマートフォンにも着信があった。
「おっ、噂をすれば。もしもし、颯真?お前、やったなー!ついにプロポーズしたんだって?」
そう言いながらリビングに入る。
すると有希が、ギョッとしたように振り返った。
スマートフォンから耳を離し、春樹をまじまじと見る。
「春樹、誰と話してるの?」
「ん?颯真だよ。タイムリーだろ?良かったなー、颯真。で?いつ結婚するんだ?」
「春樹!」
「ん?」
有希の反応と、電話の向こうで絶句している颯真に、春樹はただ首をひねるばかりだった。
◇
「すまん!本当に悪かった」
みなと医療センターの食堂で、春樹と有希は颯真に謝る。
とにかく事情を説明しようと、多忙な颯真に合わせて二人は颯真の昼休みに会いに来ていた。
「本当にごめんなさい、颯真先生」
「いや、いいんだ。俺が謝られることなんて何もないよ」
そう言いつつ、颯真は動揺を隠し切れない。
マンションで会った切りの菜乃花が、最近元気にやっているかどうか気になり、ふと思い立って春樹に聞いてみようと電話をかけた。
そして思わぬ形で菜乃花の近況を知ることになったのだ。
(なんだって?三浦先生が、彼女にプロポーズを?いつの間にそんな…)
「あの、颯真先生?やっぱり…ショック?」
恐る恐る聞いてくる有希に、「いや、全然」と思わず首を振る。
「だって、ほら、彼女がプロポーズされたからって、俺は別に。ねえ?」
「ねえって言われても。ねえ?」
有希にパスを回されて春樹はたじろぐ。
「そ、そうだよな。菜乃花がどうなっても、颯真には関係ない…」
「春樹!」
有希が思わず春樹を咎める。
「いや、春樹の言う通りだよ。俺はあの二人にとって部外者だ」
「でも、本当にそれでいいの?颯真先生」
「もちろん。あ、ごめん。そろそろ戻らないと」
「え、もう?」
「うん。ちょっと様子が気になる患者さんがいてさ。ごめんな。二人はどうぞごゆっくり」
そう言うと、颯真は食器を手に席を立つ。
去って行く後ろ姿が妙にしょんぼりとして見え、有希は小声で春樹に話しかけた。
「ね、やっぱり颯真先生、なんだかヨロヨロしてるわよね?」
「ああ、そうだな。仕事に支障ないといいんだけど」
「まあ、そこはプロだから大丈夫だと思うけど。仕事終わった途端、またヨロヨロし始めそう」
「そうだな。悪いことしたなあ」
「うん。それに菜乃花ちゃんにも。夕べすぐに電話して謝ったんだけどね。拍子抜けするくらい、別にいいですよーって言うの」
「それってつまり、菜乃花は颯真のこと、何とも思ってないってことか?」
うーん、と有希は考え込む。
「確かに今は自覚ないのかもしれない。でも私は、菜乃花ちゃんも颯真先生も、お互い密かに惹かれ合ってる気がするのよね」
「どうして分かるんだ?」
「んー、女の直感」
はあ?と春樹は呆れ気味に言う。
「何だよ、それ。当てにならないな」
「むっ!これでも結構当たるんだからね」
「おいおい。仮にもナースなんだから、もっと事実とか根拠に基づいた話をしてくれよ」
「恋の病は理屈じゃないの!」
「やれやれ。じゃあ、つける薬もないってことか」
「だけど私はどうしても二人には結ばれて欲しいの。菜乃花ちゃんはとってもいい子だし、颯真先生の悩みに寄り添えるのも彼女だけだと思うのよ。颯真先生の見た目のかっこ良さとか肩書に寄って来る子じゃなくてね」
「確かに颯真の仕事にどっぷり浸かり過ぎるところは、傍から見てても危なかしい。けど、菜乃花だって似たようなところあるし、颯真を支えられるかって言ったらそれ程強くないと思うぞ?」
「だからよ。菜乃花ちゃんも繊細だからこそ、颯真先生の気持ちが理解出来るの。それに春樹が思ってるよりもずっと、菜乃花ちゃんは強い子だと思うわ。でなければ、ナースでもないのに倒れたおじいさんに冷静にCPRなんて出来ないもの」
「なるほど。それもそうか」
春樹は腕を組んで考え込む。
が、食堂が混み合ってきたのに気づいて、二人は立ち上がった。
「ねえ、コンビニ寄ってもいい?」
「ああ。俺も飲み物買いたい」
帰る前に1階のコンビニに立ち寄ると、有希はスポーツドリンクに手を伸ばした。
すると、同じようにドリンクを取ろうとした近くの男性と手が触れ合う。
「あっ、失礼」
「いえ、こちらこそ」
どうぞと手で促す男性に会釈して、有希はドリンクを手に取った。
「ありがとうございました」
礼を言って場所を譲ると、男性はにこりと笑いかけてきた。
(わー、優しいイケメン。白衣着てるからドクターかな。ん?)
左胸のIDカードに目をやった有希は、驚いて男性の横顔をまじまじと見つめる。
(小児科医 三浦…って、この人が菜乃花ちゃんにプロポーズしたドクター?)
男性はドリンクを選ぶと、もう一度有希に微笑んでからレジへと向かった。
「は、春樹!ちょっと!」
「ん?何だよ」
「あの人よ!ほら、例のプロポーズドクター!」
「ええ?!あの人が菜乃花に?」
二人して商品の棚の影から、会計をしているドクターを覗き見る。
レジの前を離れて出口に向かったドクターは、入って来た親子に話しかけられ足を止めた。
どうやら患者の子どもとその母親らしい。
かがんで視線を合わせると、その子の頭をくしゃっと撫でながら声をかけ、にっこり笑ってから立ち上がる。
去って行く後ろ姿を、母親がうっとりと眺めていた。
「うわー、爽やか!愛想がいいイケメンって、最強だな」
妙に感心した口調で春樹が言う。
「あの人が菜乃花ちゃんにプロポーズを?嘘でしょ。颯真先生に負けず劣らずのジェントルイケメンじゃない」
「有希、お前ちょいちょい変なあだ名つけるな」
「何のんきなこと言ってるの!あの人が相手じゃ、颯真先生もおちおちしてられないわよ」
「そんなこと言ったって、俺達にはどうしようもないだろ?ほら、とにかく出よう。いい加減怪しまれる」
仕方なく、有希は春樹と会計を済ませて帰路についた。
◇
数日後。
颯真は小児科病棟でカルテを見せながら、三浦に患者の申し送りをしていた。
深夜に喘息の大発作で救急搬送された5歳の女の子が、容体が落ち着いた為、小児科病棟に移ることになったのだ。
「私からは以上です」
「了解しました。あとはこちらで引き受けます」
「よろしくお願いします」
颯真は三浦にお辞儀してから、背を向けて歩き出す。
「あ、宮瀬先生!」
呼び止められて颯真は振り返った。
「ごめん、ちょっといいかな?」
「はい、何でしょう」
「仕事の話じゃなくて恐縮なんだけど。宮瀬先生、図書ボランティアの鈴原さんとお知り合いなんだってね」
颯真は内心ぎくりとしながら頷く。
「はい。共通の友人がおりまして」
「そう。実は先日、鈴原さんに結婚を申し込んだんだ。返事はまだもらってないけど、君の耳には入れておこうと思って」
「あ、そうでしたか。お気遣いありがとうございます。ですが、私なんかに申し送りは不要です。あの、どうぞお幸せに」
「いやいや、まだ返事はもらってないってば。それに申し送りって…。真面目そうに見えて案外面白いんだね、宮瀬先生って。良かったら、今度食事でも一緒にどう?なんて、俺が鈴原さんのことを教えてもらいたいからなんだけど」
「はあ、お誘いは嬉しいですが、私は彼女のことは何も知らなくて…」
「何もってことはないでしょう?」
「いえ、本当にほとんど何も。知り合ってから5ヶ月も経ってませんし」
「そうなの?それなら、俺にも分があるかな」
「もちろんです。三浦先生を断る女の子なんて、いないと思います」
「ありがとう。でも、宮瀬先生を断る女の子もいないと思うよ」
「いえ。そう思われてるのにフラレたら、ダブルパンチです」
「あはは!俺もだよ」
おかしそうに笑うと、三浦はポンと颯真の肩に手を置く。
「彼女のこと抜きでも、今度一緒に飲みに行こうよ」
「はい、是非」
「ああ、楽しみにしてる。じゃあね」
「はい、失礼します」
三浦は爽やかな笑顔で頷くと、くるりと向きを変えて去って行った。
エレベーターの中で、颯真はぼんやり考える。
(本当にいい先生だな、三浦先生って)
誰に対しても笑顔を絶やさず、穏やかで優しいドクターだ。
(三浦先生なら、きっと彼女を幸せにしてくれるだろう)
マンションで、肩を震わせながら泣き続けた菜乃花のことを思い出す。
あの時菜乃花を抱きしめた感触が、今も手に残っていた。
何年もずっと挫折を抱えていた彼女。
春樹に対しても、先輩以上の感情を持っていただろう。
想いが叶わなかった寂しさも抱えていたに違いない。
(三浦先生となら、彼女は幸せになれる。きっと優しく包み込んでもらえる)
今は、ボランティアの日程も直接小児科のナースとやり取りしてもらっている為、自分と菜乃花の接点は何もない。
これから先も、もう菜乃花に連絡することはないだろう。
(二人ともどうかお幸せに…)
心の中で三浦と菜乃花にそう呟いてから、颯真は顔を上げてエレベーターを降りた。
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