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息子を拾って
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「都。改めて話をしてもいい?」
その夜、岳が寝つくと、樹は都をソファに促した。
「都。俺の気持ちはいつだって変わらない。どんな時も都と岳のそばにいて、二人を生涯守り抜く。ただそれだけを心に決めていた。だけど、もし……」
少し言い淀んでから、樹は思い切って顔を上げた。
「もし許されるのなら、俺は都と結婚したい。岳をきちんと俺の息子にしたい。心から愛する都と岳と一緒に暮らしていきたい。さっき岳に言われて、そう願ってしまった。俺にはそんな資格はないと分かっている。これまで都と岳に何もしてやれなかったんだ。今頃いきなり現れて、そんなことを言い出すなんて、やっぱり許される訳ない……」
樹、と都が樹の言葉を止める。
「それは樹の本音?私と結婚して、岳と3人で暮らしていきたいって」
「ああ、俺の本音だ。心からそう願ってしまう。ごめん、勝手だよな」
「ううん、そんなことない。でも樹、私の本音はね、……怖いの」
え?と、意外な言葉に樹は顔を上げて都を見た。
「怖い?って、何が?」
「私の幸せは、ずっと岳と一緒に楽しく暮らしていくこと。そこにあなたがいてくれたら、もっと嬉しい。だけどもしそれ以上望めば、後悔するかもしれない。一番大切な存在まで奪われるかもしれない。それなら、今のままでいた方がいいの」
「都?何を言って……」
それ以上を望む?結婚のことか?
一番大切な存在まで奪われるって、まさか岳を?
それって、つまり……
そこまで考えて、樹はハッとする。
「都、もしかして三原の家のことを言ってるのか?」
都はうつむいたまま黙っている。
それが何よりの肯定だった。
「まさか!都、そんなことは絶対にない。岳はずっと都と一緒だ。誰が引き離したりするもんか。それに両親も、あの時の行いを都に侘びていた。悪かったと謝りたいって。岳がいることを知って喜んで、会いたいと言っていた。引き離そうとするなんて、そんなことは」
「どうして?!なぜ言い切れるの?だって一度私は切り捨てられたのよ?また拒絶されるに決まってる。それに岳は、三原の家にとっては紛れもなく跡取り息子。奪われるに決まってるじゃない!私からあの子を……。私の大切な岳を取られたりしたら、もう私はっ……」
「都!」
樹は胸に都をかき抱いた。
「都、絶対にそんなことはさせない。俺の命にかけて、都と岳を守る。誰にも手出しはさせない。俺を信じてくれ、都」
樹の腕の中で、都は身体を震わせて泣き続ける。
「都、よく聞いて。俺は三原の家を出て縁を切る。そして五十嵐の家に婿入りするよ」
ハッと都は身体を固くした。
「嘘でしょ?まさか、そんな……」
「どうして嘘なんだ?俺は本気だ」
「だってそんなこと、許される訳が……」
「許される必要はない。俺が勝手にそうするだけだ」
「そんな!仕事はどうするの?三原ホールディングスは?」
「辞める。また新たな道を探すよ」
「何を言って……」
都はもはや言葉が出て来ない。
「都、それが一番いい。そうすれば結婚しても、岳と都は五十嵐のままでいられるし、俺が五十嵐になって三原と親子の縁を切れば、両親ももう口出し出来ない」
「そ、そんなこと、させられないわ」
「いや、もう決めた。そうする。これ以上都を不安にさせたままではいられないから」
「樹!待って、ねえ」
その時、ガチャリとリビングのドアが開いて、目をこすりながら岳が入って来た。
「どうしたのー?ママとおとうさんのこえで、めがさめちゃった」
樹が笑顔で立ち上がる。
「ごめんな、岳。よし、おとうさんとベッドに戻ろうか」
「うん」
パタンとドアが閉まり、一人取り残された都は大きなため息をついた。
◇
それから数日後。
仕事を半休にして、都は一人、大きなお屋敷の前に佇んでいた。
ここに来るのは6年ぶり。
あの時の辛い記憶が蘇ってきて、心が折れそうになる。
だがグッと拳を握りしめてインターフォンを押した。
「はい、どちら様でしょう?」
おそらくお手伝いの人だろう。
年配の女性の声で返事があった。
「お約束もせず突然申し訳ありません。わたくし、五十嵐 都と申します。もしご在宅でしたら、ご主人にお目通り願えませんでしょうか?」
「旦那様にですか?かしこまりました。えっと、いがらし、みやこさんですね?少々お待ちくださいませ」
品の良いおばあさん、といった口調で言われて、都は「はい」とその場で待った。
樹の父親はもう70歳手前で、仕事の第一線からも退いているらしい。
(今日もお休みだといいんだけど)
そう思って待っていると、しばらくして大きな門扉の向こうの玄関が開き、エプロン姿で髪をまとめたおばあさんがゆっくりと歩いて来た。
都のいる門まで来るのに、3分はかかっただろう。
「お待たせいたしました。中へどうぞ」
「はい、ありがとうございます」
おばあさんについて、都は玄関へと向かった。
長いアプローチを通り抜けながらふと目をやると、広い駐車場に黒塗りの高級車が停まっている。
(6年前、夢中であの車に飛び乗って、運転手さんに早く出して!と叫んだなあ)
当時のことを思い出しながらゆっくりと歩き、ようやく玄関に着いた。
「こちらへどうぞ。和室で旦那様と奥様がお待ちでいらっしゃいます」
「はい、失礼いたします」
靴を脱いで上がり、おばあさんに先導されてたどり着いたのは、6年前と同じ和室だった。
「失礼いたします。五十嵐 都様をお連れしました」
「どうぞ」
おばあさんに返事をした低い声に、都の緊張は一気に高まる。
だがここでひるむ訳にはいかない。
今日は固く決意してやって来たのだから。
「失礼いたします」
都は、おばあさんに続いて和室の中に入った。
「突然このように押しかけまして、大変申し訳ありません。どうしてもお二人にお願いしたいことがございまして、参りました」
座布団には上がらず、手前で正座した都は両手をついて頭を下げる。
視線を落としたままなのでよく見えなかったが、正面に並んで座っている樹の両親は、6年前とは見違えるほど年を重ねて寂しげに見えた。
「ご存知かと思いますが、昨年の12月に、私は樹さんと再会しました。そして樹さんに、息子の存在を知られてしまいました。私はこれまで一切、樹さんには知られずに息子を育てて来ましたし、この先知らせるつもりもございませんでした。しかしこのように息子の存在が明らかになった今、お二人にお願いがございます。どうか、息子を私から取り上げないでください。息子が、ここ三原家の血を引く子だということは認めます。ですが、どうか私からあの子を奪わないでください。そしてもう一つ、樹さんを止めてください。樹さんは、私と息子の為に己の地位を捨てようとしています。私も息子も、そんなことは望んでいません。私のお願いはこの二つです。どうか聞き届けていただけますよう、お願いいたします」
視線を落としたまま一気に話し終え、都はまた深々と頭を下げた。
沈黙が長く続く。
やがて小さく息を吐く気配がして、低い声が響いた。
「都さん、お顔を上げてください」
「はい」
ゆっくりと顔を上げると、まるで入れ違うように樹の父親が頭を下げる。
えっ!と都は驚いて目を見開いた。
「何よりもまず、謝罪をさせてください。都さん。6年前は大変失礼なことをしました。あの時、我が三原ホールディングスは窮地に立たされ、社員とその家族の生活を守ろうと必死だった私は、なりふり構わず会社の為に樹を政略結婚させようとしました。この家に生まれた宿命だ、と樹を脅すようにして……。そしてあなたのことを、何も知ろうともせずに拒絶してしまいました。本当にすまなかった。申し訳ない」
隣で母親も深々と頭を下げる。
「あのあと樹は縁談を突っぱね、自力で経営を立て直しました。私も、当時会長だった私の父も、そこでようやく目が覚めた。あなたに酷いことをしたと、やっと気づきました。けれど遅かった。樹に聞いても、あなたの行方は分からないと言われ、年老いた父はあなたに謝罪出来ないまま、3年前に亡くなりました。父の分までお詫びします。都さん、本当に申し訳なかった」
「いえ、あの、どうかもうお顔を上げてください。私はどなたも恨んではいません。ただ、どうか、私と息子が静かに暮らしていくのをお許しください。こちらには何もご迷惑はおかけしません。ですので、どうか……。お願いいたします」
都が再び頭を下げようとすると、慌てて父親はそれを遮った。
「都さん、その点はお約束します。私達はあなたと息子さんに一切手出しはしません。ましてや、あなたから息子さんを奪おうなどとは、決してしない。約束します。これについては早急に弁護士に書類を作らせて、あなたのもとへお届けします」
「はい、ありがとうございます」
都はホッと胸をなで下ろす。
「他には何かあるかな?こちらからあなたに接触はしないとか、何メートル以内に近寄らないとか……」
都は思わず笑みをもらした。
「いえ、そんなに細かいことまでは大丈夫です」
「そうかい?でも何かあれば、いつでも教えてください」
「はい、分かりました。それから、樹さんのことなのですが……」
「樹が、なんだね?」
「はい。先程も申し上げましたが、樹さんは私と息子の為に、今は冷静な判断が出来なくなっています。そのうち本当に、三原ホールディングスを辞めてこの家を出る、と言い出すかもしれません。その時はどうか、思い留まるようにと説得していただけませんか?」
すると意外にも、うーん、と父親はそれを渋った。
「まあ、樹がそれを望むなら仕方ないのかもしれないなあ」
「ええ?!そんな、だって、会社も家も出るなんて、そんなこと」
「あいつは闇雲にそんなことを言い出すやつじゃない。きっとあなたと息子さんの為に自分がそうしたいと思ったんだろう。それなら私はそれを止める資格はないよ。だがもしあいつが会社を辞めるならそれ相応の退職金は支払うし、たとえこの家を出ても遺産相続はさせるように書面に起こしておく。都さん、どうか金銭的なことはご心配なく」
「いえ、私が申し上げているのはそんなことではなく……」
「もちろん承知していますよ。だってあなたは一度も自ら三原の家に連絡してこなかった。ご自身の手でこれまで息子さんを一人で立派に育てられ、この先もずっとそうするおつもりだったのでしょう?そんなあなたに、自分の地位も家柄も何もかもを捨てて、これからは自分がそばで支えていく、そう決めた樹は正しいと私は思います」
都は何も言葉が出て来ない。
6年前にここを飛び出した時とは全く違う雰囲気。
今ここには穏やかで、温かい時間が流れていた。
「あの……」
「何かな?」
優しく聞き返す口調が樹に似ている、と都はぼんやり思いながら口を開いた。
「息子の名前は、岳といいます」
「まあ、がくくん?」
これまでずっと黙っていた母親が身を乗り出してきた。
「はい、山岳の岳です。どんなに険しい山にも立ち向かい、乗り越える強さを持った子に、との願いを込めてつけました。樹さんと同じように、漢字一文字で」
「そうなのね、なんて素敵なお名前かしら。岳くん……」
「目元が樹さんとそっくりな子です」
そう言って都はスマートフォンを取り出し、画面を操作してから二人に差し出した。
「まあ!」
食い入るように画面を見つめた二人の目から、みるみるうちに涙が溢れる。
それは樹が岳を抱いている笑顔の写真。
まるで生まれた時から一緒にいるかのように、二人は仲良く見つめ合い、自然な雰囲気で笑っていた。
「樹と、岳くん……。親子だな」
「ええ、とっても幸せそう」
何度も涙を拭いながら、樹の両親は写真を見つめる。
「あの、よかったら他の写真もご覧になりますか?」
「ぜひ!いいかしら?」
「はい、ちょっと待ってくださいね」
都はアルバムを開いて二人にスマートフォンを手渡した。
「どうぞ。ご自由にご覧になってください」
「ありがとう!」
母親が受け取り、指で写真をめくるのを、父親は頬をくっつけんばかりに覗き込む。
「わあ……、おおっ!可愛いー、うんうん」
二人の息の合ったリアクションに、都は吹き出しそうになった。
「まあ!これは?」
ん?と都は画面を覗き込む。
「あ、これは私の弟の結婚式で、リングボーイをやった時の写真です」
「そうなのね、なんてかっこいいのかしら。弟さん、ご結婚なさったのね。おめでとうございます」
「ありがとうございます」
すると父親が遠慮がちに聞いてきた。
「都さんは、その……、樹とは、その予定はないのかい?」
え?と都は首を傾げる。
「つまりその、樹との結婚は、やはり考えられないかな?」
父親がそう呟くと、母親も神妙な表情になった。
「そうよね。6年前に私達が反対したばっかりに……。本当にごめんなさいね。岳くんにも申し訳なくて」
「いえ、あの、えっと」
都はどうにも調子が狂ってしまう。
ここに何をしに来たのかも思い出せなくなっていた。
「無理を承知でお願いさせて欲しい。都さん、どうか樹を拾ってやってくれないかな?」
「ええ?!拾うだなんて、そんな」
「そうだよな。岳くんにとっても、いきなり現れた樹は受け入れがたいだろう。それなら、ほら。岳くんの運動会とかに登場する、レンタル父親とかはどう?」
「レ、レンタル父親?!あの、岳は樹さんのこと、ちゃんとおとうさんと呼んでいます」
えっ!と二人は絶句する。
「ほ、本当に?岳くんは、樹を父親だと思ってくれているってことなの?」
「はい。誰も岳に、樹さんが父親だとは伝えなかったのですが、岳が自分でそう感じ取ったみたいです。パパじゃなくて、最初からおとうさんって呼んでもいい?と聞いてました」
「そんなことが……」
二人はまたハラハラと涙をこぼした。
「ありがとう、岳くん。私達、あなたを樹から引き離してしまったのに、幼いあなたが樹を受け入れてくれたなんて……。都さん、本当にごめんなさいね。どうかこれからは幸せになって。身勝手だけど、私達は心からそう願っているわ」
「そんな……。もう泣かないでください。私も岳も、もう充分幸せですから」
「ありがとう、都さん。どうして私達はこんなにも罪深いことをしてしまったのかしら。どうやって償えばいいのかも分からない。こんなにも可愛らしくて優しい岳くんから父親を奪ってしまったなんて……。ああ、もう、どんなに謝っても足りないわ」
「えっと、ですから、その……。ええい!分かりました。私が樹さんを引き受けます!」
え……と二人は顔を上げて都を見つめる。
「樹を、引き受ける?それって、都さん……?」
「はい、私が樹さんと結婚します。岳と樹さんと、3人で一緒に暮らします。もうこれ以上、息子と父親を離したりはしません。それと……。岳におじいちゃんとおばあちゃんを増やしてあげたいと思います」
都さん……と、二人は呆然と呟いた。
「ですから、お二人とももう謝らないでください。そしてご安心ください。樹さんも岳も、そして私も、これからはずっと一緒に幸せに暮らします。岳の運動会やおゆうぎ会にも、ぜひいらしてください。それから……。ふつつか者ですが、どうぞ私を三原家の嫁として、よろしくお願いいたします」
遂に二人は、声を上げて泣き始めた。
「都さん……、ありがとう。本当に、ありがとう」
「いいえ。こちらこそ、ありがとうございます。お父さん、お母さん」
そう言うと立ち上がってそばに行き、言葉もなく泣き続ける二人の背中を、都はそっとさすっていた。
その夜、岳が寝つくと、樹は都をソファに促した。
「都。俺の気持ちはいつだって変わらない。どんな時も都と岳のそばにいて、二人を生涯守り抜く。ただそれだけを心に決めていた。だけど、もし……」
少し言い淀んでから、樹は思い切って顔を上げた。
「もし許されるのなら、俺は都と結婚したい。岳をきちんと俺の息子にしたい。心から愛する都と岳と一緒に暮らしていきたい。さっき岳に言われて、そう願ってしまった。俺にはそんな資格はないと分かっている。これまで都と岳に何もしてやれなかったんだ。今頃いきなり現れて、そんなことを言い出すなんて、やっぱり許される訳ない……」
樹、と都が樹の言葉を止める。
「それは樹の本音?私と結婚して、岳と3人で暮らしていきたいって」
「ああ、俺の本音だ。心からそう願ってしまう。ごめん、勝手だよな」
「ううん、そんなことない。でも樹、私の本音はね、……怖いの」
え?と、意外な言葉に樹は顔を上げて都を見た。
「怖い?って、何が?」
「私の幸せは、ずっと岳と一緒に楽しく暮らしていくこと。そこにあなたがいてくれたら、もっと嬉しい。だけどもしそれ以上望めば、後悔するかもしれない。一番大切な存在まで奪われるかもしれない。それなら、今のままでいた方がいいの」
「都?何を言って……」
それ以上を望む?結婚のことか?
一番大切な存在まで奪われるって、まさか岳を?
それって、つまり……
そこまで考えて、樹はハッとする。
「都、もしかして三原の家のことを言ってるのか?」
都はうつむいたまま黙っている。
それが何よりの肯定だった。
「まさか!都、そんなことは絶対にない。岳はずっと都と一緒だ。誰が引き離したりするもんか。それに両親も、あの時の行いを都に侘びていた。悪かったと謝りたいって。岳がいることを知って喜んで、会いたいと言っていた。引き離そうとするなんて、そんなことは」
「どうして?!なぜ言い切れるの?だって一度私は切り捨てられたのよ?また拒絶されるに決まってる。それに岳は、三原の家にとっては紛れもなく跡取り息子。奪われるに決まってるじゃない!私からあの子を……。私の大切な岳を取られたりしたら、もう私はっ……」
「都!」
樹は胸に都をかき抱いた。
「都、絶対にそんなことはさせない。俺の命にかけて、都と岳を守る。誰にも手出しはさせない。俺を信じてくれ、都」
樹の腕の中で、都は身体を震わせて泣き続ける。
「都、よく聞いて。俺は三原の家を出て縁を切る。そして五十嵐の家に婿入りするよ」
ハッと都は身体を固くした。
「嘘でしょ?まさか、そんな……」
「どうして嘘なんだ?俺は本気だ」
「だってそんなこと、許される訳が……」
「許される必要はない。俺が勝手にそうするだけだ」
「そんな!仕事はどうするの?三原ホールディングスは?」
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「何を言って……」
都はもはや言葉が出て来ない。
「都、それが一番いい。そうすれば結婚しても、岳と都は五十嵐のままでいられるし、俺が五十嵐になって三原と親子の縁を切れば、両親ももう口出し出来ない」
「そ、そんなこと、させられないわ」
「いや、もう決めた。そうする。これ以上都を不安にさせたままではいられないから」
「樹!待って、ねえ」
その時、ガチャリとリビングのドアが開いて、目をこすりながら岳が入って来た。
「どうしたのー?ママとおとうさんのこえで、めがさめちゃった」
樹が笑顔で立ち上がる。
「ごめんな、岳。よし、おとうさんとベッドに戻ろうか」
「うん」
パタンとドアが閉まり、一人取り残された都は大きなため息をついた。
◇
それから数日後。
仕事を半休にして、都は一人、大きなお屋敷の前に佇んでいた。
ここに来るのは6年ぶり。
あの時の辛い記憶が蘇ってきて、心が折れそうになる。
だがグッと拳を握りしめてインターフォンを押した。
「はい、どちら様でしょう?」
おそらくお手伝いの人だろう。
年配の女性の声で返事があった。
「お約束もせず突然申し訳ありません。わたくし、五十嵐 都と申します。もしご在宅でしたら、ご主人にお目通り願えませんでしょうか?」
「旦那様にですか?かしこまりました。えっと、いがらし、みやこさんですね?少々お待ちくださいませ」
品の良いおばあさん、といった口調で言われて、都は「はい」とその場で待った。
樹の父親はもう70歳手前で、仕事の第一線からも退いているらしい。
(今日もお休みだといいんだけど)
そう思って待っていると、しばらくして大きな門扉の向こうの玄関が開き、エプロン姿で髪をまとめたおばあさんがゆっくりと歩いて来た。
都のいる門まで来るのに、3分はかかっただろう。
「お待たせいたしました。中へどうぞ」
「はい、ありがとうございます」
おばあさんについて、都は玄関へと向かった。
長いアプローチを通り抜けながらふと目をやると、広い駐車場に黒塗りの高級車が停まっている。
(6年前、夢中であの車に飛び乗って、運転手さんに早く出して!と叫んだなあ)
当時のことを思い出しながらゆっくりと歩き、ようやく玄関に着いた。
「こちらへどうぞ。和室で旦那様と奥様がお待ちでいらっしゃいます」
「はい、失礼いたします」
靴を脱いで上がり、おばあさんに先導されてたどり着いたのは、6年前と同じ和室だった。
「失礼いたします。五十嵐 都様をお連れしました」
「どうぞ」
おばあさんに返事をした低い声に、都の緊張は一気に高まる。
だがここでひるむ訳にはいかない。
今日は固く決意してやって来たのだから。
「失礼いたします」
都は、おばあさんに続いて和室の中に入った。
「突然このように押しかけまして、大変申し訳ありません。どうしてもお二人にお願いしたいことがございまして、参りました」
座布団には上がらず、手前で正座した都は両手をついて頭を下げる。
視線を落としたままなのでよく見えなかったが、正面に並んで座っている樹の両親は、6年前とは見違えるほど年を重ねて寂しげに見えた。
「ご存知かと思いますが、昨年の12月に、私は樹さんと再会しました。そして樹さんに、息子の存在を知られてしまいました。私はこれまで一切、樹さんには知られずに息子を育てて来ましたし、この先知らせるつもりもございませんでした。しかしこのように息子の存在が明らかになった今、お二人にお願いがございます。どうか、息子を私から取り上げないでください。息子が、ここ三原家の血を引く子だということは認めます。ですが、どうか私からあの子を奪わないでください。そしてもう一つ、樹さんを止めてください。樹さんは、私と息子の為に己の地位を捨てようとしています。私も息子も、そんなことは望んでいません。私のお願いはこの二つです。どうか聞き届けていただけますよう、お願いいたします」
視線を落としたまま一気に話し終え、都はまた深々と頭を下げた。
沈黙が長く続く。
やがて小さく息を吐く気配がして、低い声が響いた。
「都さん、お顔を上げてください」
「はい」
ゆっくりと顔を上げると、まるで入れ違うように樹の父親が頭を下げる。
えっ!と都は驚いて目を見開いた。
「何よりもまず、謝罪をさせてください。都さん。6年前は大変失礼なことをしました。あの時、我が三原ホールディングスは窮地に立たされ、社員とその家族の生活を守ろうと必死だった私は、なりふり構わず会社の為に樹を政略結婚させようとしました。この家に生まれた宿命だ、と樹を脅すようにして……。そしてあなたのことを、何も知ろうともせずに拒絶してしまいました。本当にすまなかった。申し訳ない」
隣で母親も深々と頭を下げる。
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「いえ、あの、どうかもうお顔を上げてください。私はどなたも恨んではいません。ただ、どうか、私と息子が静かに暮らしていくのをお許しください。こちらには何もご迷惑はおかけしません。ですので、どうか……。お願いいたします」
都が再び頭を下げようとすると、慌てて父親はそれを遮った。
「都さん、その点はお約束します。私達はあなたと息子さんに一切手出しはしません。ましてや、あなたから息子さんを奪おうなどとは、決してしない。約束します。これについては早急に弁護士に書類を作らせて、あなたのもとへお届けします」
「はい、ありがとうございます」
都はホッと胸をなで下ろす。
「他には何かあるかな?こちらからあなたに接触はしないとか、何メートル以内に近寄らないとか……」
都は思わず笑みをもらした。
「いえ、そんなに細かいことまでは大丈夫です」
「そうかい?でも何かあれば、いつでも教えてください」
「はい、分かりました。それから、樹さんのことなのですが……」
「樹が、なんだね?」
「はい。先程も申し上げましたが、樹さんは私と息子の為に、今は冷静な判断が出来なくなっています。そのうち本当に、三原ホールディングスを辞めてこの家を出る、と言い出すかもしれません。その時はどうか、思い留まるようにと説得していただけませんか?」
すると意外にも、うーん、と父親はそれを渋った。
「まあ、樹がそれを望むなら仕方ないのかもしれないなあ」
「ええ?!そんな、だって、会社も家も出るなんて、そんなこと」
「あいつは闇雲にそんなことを言い出すやつじゃない。きっとあなたと息子さんの為に自分がそうしたいと思ったんだろう。それなら私はそれを止める資格はないよ。だがもしあいつが会社を辞めるならそれ相応の退職金は支払うし、たとえこの家を出ても遺産相続はさせるように書面に起こしておく。都さん、どうか金銭的なことはご心配なく」
「いえ、私が申し上げているのはそんなことではなく……」
「もちろん承知していますよ。だってあなたは一度も自ら三原の家に連絡してこなかった。ご自身の手でこれまで息子さんを一人で立派に育てられ、この先もずっとそうするおつもりだったのでしょう?そんなあなたに、自分の地位も家柄も何もかもを捨てて、これからは自分がそばで支えていく、そう決めた樹は正しいと私は思います」
都は何も言葉が出て来ない。
6年前にここを飛び出した時とは全く違う雰囲気。
今ここには穏やかで、温かい時間が流れていた。
「あの……」
「何かな?」
優しく聞き返す口調が樹に似ている、と都はぼんやり思いながら口を開いた。
「息子の名前は、岳といいます」
「まあ、がくくん?」
これまでずっと黙っていた母親が身を乗り出してきた。
「はい、山岳の岳です。どんなに険しい山にも立ち向かい、乗り越える強さを持った子に、との願いを込めてつけました。樹さんと同じように、漢字一文字で」
「そうなのね、なんて素敵なお名前かしら。岳くん……」
「目元が樹さんとそっくりな子です」
そう言って都はスマートフォンを取り出し、画面を操作してから二人に差し出した。
「まあ!」
食い入るように画面を見つめた二人の目から、みるみるうちに涙が溢れる。
それは樹が岳を抱いている笑顔の写真。
まるで生まれた時から一緒にいるかのように、二人は仲良く見つめ合い、自然な雰囲気で笑っていた。
「樹と、岳くん……。親子だな」
「ええ、とっても幸せそう」
何度も涙を拭いながら、樹の両親は写真を見つめる。
「あの、よかったら他の写真もご覧になりますか?」
「ぜひ!いいかしら?」
「はい、ちょっと待ってくださいね」
都はアルバムを開いて二人にスマートフォンを手渡した。
「どうぞ。ご自由にご覧になってください」
「ありがとう!」
母親が受け取り、指で写真をめくるのを、父親は頬をくっつけんばかりに覗き込む。
「わあ……、おおっ!可愛いー、うんうん」
二人の息の合ったリアクションに、都は吹き出しそうになった。
「まあ!これは?」
ん?と都は画面を覗き込む。
「あ、これは私の弟の結婚式で、リングボーイをやった時の写真です」
「そうなのね、なんてかっこいいのかしら。弟さん、ご結婚なさったのね。おめでとうございます」
「ありがとうございます」
すると父親が遠慮がちに聞いてきた。
「都さんは、その……、樹とは、その予定はないのかい?」
え?と都は首を傾げる。
「つまりその、樹との結婚は、やはり考えられないかな?」
父親がそう呟くと、母親も神妙な表情になった。
「そうよね。6年前に私達が反対したばっかりに……。本当にごめんなさいね。岳くんにも申し訳なくて」
「いえ、あの、えっと」
都はどうにも調子が狂ってしまう。
ここに何をしに来たのかも思い出せなくなっていた。
「無理を承知でお願いさせて欲しい。都さん、どうか樹を拾ってやってくれないかな?」
「ええ?!拾うだなんて、そんな」
「そうだよな。岳くんにとっても、いきなり現れた樹は受け入れがたいだろう。それなら、ほら。岳くんの運動会とかに登場する、レンタル父親とかはどう?」
「レ、レンタル父親?!あの、岳は樹さんのこと、ちゃんとおとうさんと呼んでいます」
えっ!と二人は絶句する。
「ほ、本当に?岳くんは、樹を父親だと思ってくれているってことなの?」
「はい。誰も岳に、樹さんが父親だとは伝えなかったのですが、岳が自分でそう感じ取ったみたいです。パパじゃなくて、最初からおとうさんって呼んでもいい?と聞いてました」
「そんなことが……」
二人はまたハラハラと涙をこぼした。
「ありがとう、岳くん。私達、あなたを樹から引き離してしまったのに、幼いあなたが樹を受け入れてくれたなんて……。都さん、本当にごめんなさいね。どうかこれからは幸せになって。身勝手だけど、私達は心からそう願っているわ」
「そんな……。もう泣かないでください。私も岳も、もう充分幸せですから」
「ありがとう、都さん。どうして私達はこんなにも罪深いことをしてしまったのかしら。どうやって償えばいいのかも分からない。こんなにも可愛らしくて優しい岳くんから父親を奪ってしまったなんて……。ああ、もう、どんなに謝っても足りないわ」
「えっと、ですから、その……。ええい!分かりました。私が樹さんを引き受けます!」
え……と二人は顔を上げて都を見つめる。
「樹を、引き受ける?それって、都さん……?」
「はい、私が樹さんと結婚します。岳と樹さんと、3人で一緒に暮らします。もうこれ以上、息子と父親を離したりはしません。それと……。岳におじいちゃんとおばあちゃんを増やしてあげたいと思います」
都さん……と、二人は呆然と呟いた。
「ですから、お二人とももう謝らないでください。そしてご安心ください。樹さんも岳も、そして私も、これからはずっと一緒に幸せに暮らします。岳の運動会やおゆうぎ会にも、ぜひいらしてください。それから……。ふつつか者ですが、どうぞ私を三原家の嫁として、よろしくお願いいたします」
遂に二人は、声を上げて泣き始めた。
「都さん……、ありがとう。本当に、ありがとう」
「いいえ。こちらこそ、ありがとうございます。お父さん、お母さん」
そう言うと立ち上がってそばに行き、言葉もなく泣き続ける二人の背中を、都はそっとさすっていた。
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