異世界恋愛短編集 〜婚約破棄〜

凛音@りんね

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公爵令嬢でしたが聖女の母親になりました 〜王太子殿下に婚約破棄された妹に代わって結婚させようとしないでください〜

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「ローザンテ、お前は何を考えているんだ!」

 父親がローザンテを叱責する。無理もない。
 今、ローザンテのお腹に宿る子どもの父親が一体誰なのか、きちんと説明することができないのだ。

 彼女はローザンテ・オッドリア。
 由緒正しいオッドリア公爵家の長女。
 今年で十八になる。 
 
 婚約者はダリアント侯爵家の嫡男、エルヴィン。
 もちろん彼がお腹の子どもの父親ではない。
 そうであったならば、淑女にあるまじき婚前交渉だとしても、厳格な父親もここまで怒らないだろう。
 
「まぁ! お姉様ったら、澄ました顔をしてちゃっかり遊んでいらっしゃったのねぇ」
「ミーティア、あなたは黙っていなさい」
「はぁい、お母様」

 母親によく似た青色の目を細めながら、妹のミーティアは猫が鳴くように返事をした。
 亜麻色の髪とマホガニー色の瞳をしたローザンテとは対照的な、金髪碧眼の美しい容姿。
 顔立ちも人形のように愛らしい。

「お父様、私、ダイヤモンドのネックレスが欲しいですわ」

 それでいてミーティアはとても甘え上手だった。
 ローザンテには無いものを全て持っている。
 
「お父様、お母様――申し訳ございません」
「今すぐ病院へ行って腹の子どもを堕ろすのだ!」
「あなた」
「……それはできません」

 ローザンテは、まだ膨らみのない下腹部に手をやる。
 
「なぜだ!? 今ならばダリアント侯爵家にも知られずに済むというのに!」
「私はこの子を心より愛しているからです」
「――ローザンテ、あなたの気持ちはよく分かります。ですが産み育てるということは、生半可な覚悟では無理ですよ」
「はい、お母様。ですから私、この家を――オッドリア家を出ます」
「なっ!?」
「あらぁ!」

 父親は大きく目を見開き、ミーティアは好奇心を隠そうともせずに口角を釣り上げた。
 母親だけが取り乱すことなく、ローザンテを真っ直ぐに見つめていた。

「ローザンテ、本気ですか?」
「はい、それが私の覚悟ですわ、お母様」
「ええいっ!! お前のような娘はもう知らん!! さっさと出ていけ!!」
「私、お姉様がいなくなって寂しいですわぁ」
「お父様、お母様、今日まで育ててくださりありがとうございました。ミーティア、どうかお元気で――さようなら」

 ローザンテは重苦しい雰囲気の部屋を抜け出し、二階の自室へと足早に向かう。 
 トランクに必要最低限の衣類をさっと詰めて階段を降り、玄関の扉を開けたところで母親が声を掛けてきた。

「ローザンテ、これをお持ちなさい」
「これは――」

 そっと手渡されたのは紙幣の束と、母親が午前中に焼いていたスコーンを入れた紙袋だった。

「ありがとうございます。でも、お金は必要ありませんわ」
「何を言っているのですか。お腹の子を守れるのはあなたしかいないのですよ。もし使うつもりがなくても、お守りとして持っていなさい」
「――分かりました。愛していますわ、お母様」
「――ああ、私の可愛いローザンテ」

 ローザンテはしばし母親と抱き合った。
 互いに目頭が熱くなる。
 
「侍女のサイラーによろしくお伝えください」
「ええ、辛くなったらいつでも帰ってきていいのですよ」
「ありがとうございます――それでは」

 トランクに紙幣の束とスコーンの入った紙袋をしまうと、ローザンテはオッドリア家を後にした。


 ♢♢♢


「お姉様がいなくなった今、この家は私のもの同然!」

 ミーティアは天蓋付きのベッドで横になりながら、一人ほくそ笑む。
 前々から品行方正な姉の存在が鬱陶しかった。
 自身の方が見た目がいいはずなのに、いつもみんな姉ばかりを褒めていた。
 
(思い出しただけでも腹立たしいわ!)

 その姉がまさか妊娠するとは。
 しかも子どもの父親は、どうやらエルヴィンではなさそうだった。
 
(言い出せなかったってことは、きっと相手は身分の低い者に違いないわね)

 名高いオッドリア公爵家の娘で、特に父親から蝶よ花よと育てられたミーティアは幼い頃から他人を見下す癖があった。 
 結果として非常に傲慢で自己中心的な性格になってしまったが、当の本人は少しも気に留めていない。
 母親は何かと口うるさかったので、ミーティアは嫌っていた。

(お母様ったらいつもお姉様の味方ばかりするんだもの。でも――)

 いよいよ自分が注目される時が来たのだと、ミーティアは嬉々とした。
 姉がいなくなった悲しみなど、微塵も感じていない。

(私なら地味なお姉様と違って、フィリクス王太子との婚約も夢じゃないわ!)

 抱きしめていた枕をベッドに投げ捨てるとミーティアは侍女を呼びつけ、自身の身だしなみを整えさせた。


 ♢♢♢


 一方、ローザンテは徒歩で生まれ育ったモンベルの街を出た。
 華やかな街の雰囲気から一転、青々と茂る木々と慎ましく咲く野花が目に優しい。頬を撫でる風も心地よかった。
 
(どこへ行こうかしら)

 この先は民家や牧場、畑が疎らにあるだけだった。
 さらに先へ行くと、トランザス王国の王都ザッハルトンが待ち構えている。
 この道はかつて公爵令嬢として、お茶会や舞踏会のために馬車で幾度となく通っていた。

(早く働き口を探さなくちゃ)

 母親から受け取ったお金を使うつもりはなかった。
 別れ際に言われたようにお守りとして、トランクに忍ばせておくつもりだ。
 
(少し休憩しましょう)

 小川が見えたので、ローザンテは川縁にゆっくりと腰掛ける。
 それから川の中を覗き見た。
 たくさんの魚が気持ちよさそうに泳いでいる。

 ローザンテは子どもの頃から、生き物が大好きだった。
 反対に妹のミーティアは生き物全般を毛嫌いしていたが、ローザンテは彼らの生態に深く興味を抱き、部屋で密かに飼って観察しては庭園へと逃していた。
 
(私もあなたたちみたいに生きたかったわ)

 以前の彼女なら純粋にそう思っただろう。 
 でも今は違う。ローザンテは下腹部をさすった。

(何としてもお腹の子を守らなくちゃ――)

 トランクからスコーンの入った紙袋を取り出すと、一つ手に取って口に運んだ。ほんのり甘い。
 喉が渇いたので食べかけのスコーンをスカートの上に乗せ、小川の水を両手で掬って飲んだ。

(美味しい)

 こうして小川の水を飲むのは、十二歳の時以来だ。
 淑女としての自覚を持つようにと侍女のサイラーに窘められてから、ローザンテは周囲から求められるままに振る舞った。
 窮屈この上ない生活。

 食べるものにも着るものにも全く困らなかったが、自由とは永遠に無縁となったことを悟り、夜な夜な部屋で泣いていた時期もあった。
 
(今の私は何もないけれど、どこまでも自由なのだわ――)

 そう思うと、心の底からえも言われぬ喜びが湧き出してきた。
 こんな気持ちになれる日が再び訪れるなど、まるで夢のようだ。
 ローザンテは野花のように微笑むと、母親に感謝しながら残りのスコーンを食べ終えた。

(さあ、行くわよ。ローザンテ)

 初夏の青空へ向かって大きく伸びをすると、ローザンテはトランクを手に持ち、再び歩き始めた。


 ♢♢♢


「え、うちで働かせてほしい?」
「はい」
「でも君、妊婦なんだろう?」
「そうですが……」
「すまんね。うちは間に合っているよ」
「――分かりました。失礼致します」

 これで五件目だった。
 ローザンテが妊婦だとわかるや否や家主は皆、難しい顔をした。

(たった五回、断られたくらいで挫けちゃだめよ。しっかりしなさい)

 自ら励まし、背筋をしゃんとさせながら緑豊かな道を行く。
 しばらくすると大きな牧場が見えてきた。
 白くてふわふわな生き物たちが、気ままに草を食んでいる。
 
(羊ね。可愛い)

 ローザンテは微笑んだ。
 牧場の中に簡素だが牧歌的な家が一軒、建っていた。
 
「こんにちは」

 ドアを遠慮がちに叩きながら、ローザンテは挨拶をした。
 だが家の中から返事はない。

「あの、こんにちは」
「おーい、こっちだよ」

 声のする方に視線を向けると、一人の青年が手を振っていた。
 青年のそばでは、茶色と白色の毛をした犬が尻尾を振っている。
 おそらく牧羊犬だろう。
 ローザンテは青年のいる方へ歩み寄った。

「初めまして、こんにちは」
「こんにちは、えっと――」
「私はローザンテ・オッドリアと申します」
「ローザンテか。いい名前だね。僕はフレック・マーシュ。こいつはジャック。見ての通り、しがない羊飼いさ」

 そう言い、フレックは屈託なく笑ってみせた。
 背丈はローザンテよりも高く、体つきは細身ながらもがっしりしているのが服の上から見て取れる。
 肌もよく日焼けしており、白い歯との対比が眩しかった。

「いきなりで不躾ですが、ここで働かせてもらえませんか?」
「ここで?」
「はい。ですが私、その……妊娠しているんです」

 フレックは顔色を変えずに返事をした。

「身重なのに一人で大変だったろう。それじゃ、僕の家で料理の支度や洗濯をしてくれるかい?」
「えっ、こんな私でもよいのですか?」

 とんとん拍子で交渉が成立したので、ローザンテは少々面食らってしまう。
 
「この牧場、叔父さんから譲り受けたはいいんだけど、僕一人だけだと家事までなかなか手が回らなくてね」
「まあ、そうでしたか。どうぞよろしくお願い致します」

 深々と頭を下げるローザンテに、フレックは言った。

「そんなにかしこまらなくてもいいよ。歳も近いだろうし」
「あの、フレックさんは成人されていらっしゃいますよね?」
「うん、先月二十一になったけどローザンテは?」
「私は今年で十八になります」
「えっ!? 落ち着いてるからもっと歳上かと思ったよ」
「よく言われます」

 二人はくすくすと笑い合った。

「早速で悪いんだけど、お昼ご飯を作ってくれるかい?」
「はい、分かりました」

 こうしてローザンテは、フレックの元で働くこととなった。


 ♢♢♢


「ついにやりましたわ!」

 ローザンテの妹ミーティアは、見事フィリクス王太子殿下との婚約を果たした。
 
(これで誰もが私を一番と認めるはずよ!)

 姉のローザンテがいなくなった今、ミーティアはオッドリア公爵家の身分を盾に好き放題やっていた。

 ミーティアに甘い父親は何も言わずにいた。
 それどころか目を細め、愛しそうにミーティアを見守ってすらいた。
 常識的な母親は彼女の言動を再三注意したが、ミーティアは聞く耳を持たなかった。

(あはは! こんなに楽しい気分になったのは生まれて初めて!)

 ミーティアは天蓋付きのベッドから起き上がると、姿見の前に立った。
 人形のような愛くるしい顔立ち。
 母親譲りの金糸のように艶やかな髪の毛、宝石のように青く澄んだ瞳。

 ミーティアが計算高く無邪気に微笑むと、周りの異性は骨抜きにされてしまうのだ。

(そうよ、私は世界で一番美しいの)

 人前では決して見せない冷笑を浮かべ、ミーティアはこれからやって来るであろう、煌びやかで贅沢な暮らしに思いを馳せた。


 ♢♢♢


 お腹に子を宿したローザンテが、フレックの元で働き出して一ヶ月が経つ頃。
 二人は並んで夏の夜空を眺めていた。

「あれが夏の大三角だよ」
「まあ、素敵」

 ビロードのような星空にうっとりしながら、ローザンテは小さく吐息をつく。
 フレックはとにかく星座に詳しかった。
 淑女教育では教わらずにいたため、ローザンテは幼子のように夢中になってフレックの解説に耳を傾けていた。

 星空を見上げる彼の横顔は、暗がりでも生き生きと輝いている。
 ローザンテは思わず見惚れてしまうが、直ぐに目を逸らす。

「料理は母さんに、星座は父さんに教わったんだ」
「その――フレックのご両親は?」
「僕が十五の時に事故で亡くなったよ」
「――ごめんなさい」
「いや、別に本当のことだしもう大丈夫だから。ここの牧場を経営してた叔父さん、足腰が悪くなって引退しようかとしていたところだったから僕が継いだんだ」

 そう言い、フレックは草の上で横になった。
 同じようにローザンテもゆっくりと仰向けになると、満天の星が頭上に降り注いてくるようだった。

「すごく綺麗……」
「ここは街より標高が高いし、灯りもずっと少ないからね」

 ローザンテはかつて住んでいた、モンベルの街並みを思い出した。
 王都ザッハルトンの次に大きく、整備された華やかな街。
 着飾った人々が道を行き交い、お洒落で洗練された店が軒を連ねている。

 愛すべき家族。愛すべき街。
 けれど自分はもう決して帰ることはないのだ。
 ローザンテは胸の上で両手を組み、おもむろに話し始めた。
 
「――フレック、私ね、実は公爵令嬢だったの」
「うん、ローザンテの立ち振る舞いを見ていたら何となくそんな気はしていたよ」

 どうやらフレックは鑑識眼があるようだ。

「それでね、お腹の子の父親なのだけど――私にも誰だか分からなくて」
「一体どういうことだい?」

 フレックは上半身を起こした。

「三ヶ月前の満月の晩、私は誰とも睦み合うことなくこの子をお腹に宿したの」
「処女懐胎、かい?」
「ええ、でもお父様たちには話すことができなかった。たとえ説明できていたとしてもこんなこと、きっと信じてもらえなかったわ」

 不意に流れ星が夜空に姿を現しては、直ぐに消えた。

「僕は信じるよ。ローザンテの話」
「――ありがとう、フレック」
「さあ、お腹の子のためにもそろそろ家へ戻ろう」
「そうね」

 フレックに手を引かれ、ローザンテは起き上がった。
 草に触れていた部分が夜露で少しばかり濡れていたが、気にする程度ではない。
 二人は家に帰るとあたたかなミルクを飲み、それぞれの部屋で眠りについた。


 ♢♢♢


 七ヶ月後の真冬、ローザンテは病院へ行かず、産婆も呼ばず、フレックの家で出産に挑んだ。
 フレックの父親が医者だったこともあり、それなりに知識のある彼に協力してもらい、痛みと向き合いながら約十三時間掛けて女の子を産んだ。
 おぎゃあ! おぎゃあ! と元気な産声が室内に響き渡る。
 
「ローザンテ、よく頑張ったね」
「ありがとう……」

 体力はすっかり消耗しきっていたが、臍の緒を切って服を着せられた我が子を胸に抱くと疲れなど一気に吹き飛び、ようやく会えた喜びで心が満たされた。

「初めまして、私の可愛い赤ちゃん……」

 フレックはてきぱきと片付けながら、ローザンテと赤ん坊の様子を笑顔で見守っていた。
 と、赤ん坊の小さな体から眩い光が放たれる。

「何……!?」
「まさか――」

 次の瞬間、赤ん坊はピタリと泣き止み、産まれたばかりとは思えないにこやかな笑みを浮かべながら、二人をじっと見つめた。

「もしかして――」
「ああ、この子は聖女だ」
「やっぱり。身籠った時から何となくそんな予感がしていたの。つわりも酷くなかったし、妊娠中だとは思えないくらい体が軽かったのよ」
「おそらく聖女の加護の力だろうね。ということはローザンテは聖母になるわけだ」
「私が聖母?」

 フレックの言葉に、ローザンテは目を丸くする。
 腕に抱く赤ん坊は、ラピスラズリのような瞳をぱちくりさせたかと思うと母乳を飲み始めた。

(この子が聖女だろうと、愛する娘には変わりないわ)

 慈しむように我が子を見つめるローザンテ。 
 自身が聖母であるかどうかなど、さして問題ではなかった。
 こうして無事に生まれてきてくれたことに、深く感謝する。

(ありがとうございます、神様――)
 
 ♢♢♢

 出産してからしばらくの間、ローザンテの身の回りの世話はフレックがしてくれた。
 ローザンテは自分のことは自分でやるからと言ったが、産後に無理をすると出産前の体調に戻るのが遅く、なかなか回復しなくなるからと、フレックは首を縦に振らなかった。

「ごめんなさい、雇われている身なのに」
「気にすることはないよ。それよりこの子の名前は決めたのかい?」

 フレックは、ローザンテに抱かれてすやすやと眠る赤ん坊に目をやる。

「ええ、サラにしたわ」
「サラか。素敵な名前だね」
「ありがとう、あら――おはよう、サラ」

 サラが目を覚まし、二人に微笑みかけた。
 すると花瓶に生けてあった萎れかけの花が、瑞々しさを取り戻す。

「まあ……!」
「奇跡だ……!」

 ローザンテとフレックは驚き、顔を見合わせる。
 そんな二人の間でサラは、無邪気な声を上げて笑った。


 ♢♢♢


「うむ、今日も実に良い天気じゃ」

 サラが生まれてから、トランザス王国では適度に日の光が降り注ぎ、適度に雨が大地を潤した。
 おかげで作物の収穫量が飛躍的に上がり、家畜の生育もすこぶる良好だった。

「これは神からの贈り物か、それとも――」

 ハーマン国王は勘の鋭い男である。
 どこかで新たな聖女が誕生したのかもしれない、と考えた。

「セベルよ」
「はい、国王陛下」

 ひょろりとした体格の寵臣セベルが、恭しく返事をした。

「今年、トランザス王国で産まれた女児の記録を早急に集めるのだ」
「承知致しました」

 セベルは首を垂れると、音もなく姿を消した。

「なんとしても聖女の力を手に入れねばならん。そして全世界を我が手中に収めるのだ!」

 でっぷりと肥えたハーマン国王は玉座から立ち上がり、肉付きのいい両手を広げる。
 そして不敵に高笑いをしたのだった。


 ♢♢♢


「ローザンテ、大変だ!」
「どうしたの?」

 生後六ヶ月になり、一人でおすわりができるようになったサラを抱いていたローザンテは、フレックのただならぬ物言いに訝しむ。

「ハーマン国王が今年産まれた女児を探し回っているらしい」
「それって、まさか……」

 二人はサラを見やる。
 サラがにこりと笑うと、えくぼができた。
 
「おそらくサラの――聖女の存在に気づいたに違いない」
「……っ!!」

 ローザンテは息を呑む。
 フレックの牧場は、王都ザッハルトンからそれほど離れていない。
 妊婦だったローザンテが雇われていることも、周囲に暮らす人々は知っている。
 このまま何もしなければ、サラの居場所に気づかれるのは時間の問題だろう。

「だからローザンテ、サラを連れて逃げるんだ」
「でも、どこへ――」
「東の国シータオに僕の遠縁にあたる人が住んでいる。こちらから伝書鳩で文を出しておくから、その人を頼るといい」
「シータオ……」

 東の国シータオは、トランザス王国とシリン海を挟んだ遙か先にある、とても小さな島国。
 ローザンテは子供の頃、飛行船に乗って家族旅行に出掛けた際に二日ほど立ち寄った経験がある。
 トランザス王国とは趣が異なる、オリエンタルな雰囲気が魅力の国だ。
 
「フレックはどうするの?」
「羊たちの世話を頼まなくちゃ牧場を離れられない」
「そうよね……」
「本当は直ぐ一緒に行きたいんだけど――すまない」
「ううん、謝らないで。避難先があるだけで十分過ぎるわ」

 本当は嘘だった。
 フレックと離れることが、ローザンテは不安でたまらなかった。
 用心棒がいなくて心細いからではない。
 彼を一人の男性として愛していると、ようやく気づいたからだった。

(だめよ、ローザンテ。あなたがしっかりしなくちゃ。他に誰がサラを守れるの?)

 ラピスラズリのようにキラキラと輝く瞳で、母親であるローザンテを見上げるサラ。

(ああ、私の可愛いサラ)

 命に替えても守り抜かなければ。
 それほどまでに、サラは大切な存在だった。
 
(大丈夫よ、私が――)

 その時だった。
 玄関の扉を激しく叩く音が、三人の鼓膜を震わせる。

「フレック・マーシュ! お前が聖女を匿っているのは分かっているぞ!」
「っ!!」

 ローザンテとフレックは戦慄した。
 まさか、もうサラの居場所を知られてしまっていたとは。
 
「ローザンテ! 裏の戸口からサラを連れて逃げるんだ!」
「でも……」
「いいから早く!」

 ローザンテはサラを胸元にしっかり抱きしめ、裏の戸口へと急いだ。
 けれど裏側にも衛兵たちがいたため逃げることができず、ローザンテは後退る。

「その赤ん坊をこちらへ渡せ!」
「サラにはローザンテが必要なんだぞ!」
「ならば母親もろとも連れて行くまでだ!」
「そんなこと、絶対にさせるもんか!」

 フレックが衛兵の一人に体当たりする。
 だが直ぐに他の衛兵によって、取り押さえられてしまった。
 
「フレック!」
「お前は不敬罪で打ち首の刑だな!」
「くっ……!」

 衛兵が腰から剣を引き抜いた。
 窓から差し込む午後の日差しに反射して、剣身がギラリと鈍く光った。
 そしてフレックの首元へと向かって、刃先が振り下ろされる瞬間。
 
「おぎゃあ!! おぎゃあ!!」

 サラのけたたましい泣き声が、皆の耳をつんざく。
 
「ぎゃあああああああっ!!」

 剣を握っていた衛兵が両耳を押さえながらその場に倒れ込むと白目を剥き、意識を失った。
 
「ああ、サラ、いい子だから。よしよし」
「んぎゃ……あうあうー」

 平常心を保ちながらローザンテがあやすと、サラはいつもの天使かと見間違う笑顔を浮かべた。
 先ほどのあれは一体、何だったのか。

 ローザンテもフレックも被害を受けなかった衛兵たちも、サラの――聖女の怒りが爆発したのだと本能的に理解していた。
 まだ赤ん坊のため、力の加減ができないのだ。

「い、一時退却!」

 気絶している衛兵を引きずり、フレックの家から逃げるように帰ってゆく衛兵たち。
 二人はひとまず安堵する。

「サラにこんな力があったなんて……」
「これはますます奴らにサラを渡せないな」

 加護の力が絶大であればあるほど、逆の力もそれに比例する。
 聖女を血眼になって探し、赤ん坊であるにもかかわらず無慈悲に連れ去ることを命令していたハーマン国王が、サラの力をどう使うつもりなのか容易に察しがついた。

「今のうちにシータオへ逃げた方がいいかしら」
「いや、あの様子だと国境の警備も厳重にしているに違いない」
「じゃあ、どうすれば――」
「ひとまず休むといいよ。君もサラも疲れただろう」

 途端にサラが泣き出した。
 おしめを見るが汚れていない。
 だとすれば、お腹が空いているのか眠いのだ。

「奴らもサラの力に怯んで、直ぐには手出ししてこないはずだ」
「そうね……ひとまず部屋に戻るわ」
「ああ、何かあったら呼んでおくれ」
「ええ」
「ローザンテ。こんな時だけど、僕は君のこともサラのことも大切に想っている」
「フレック……」
「愛しているよ」
「えっと、その――私もフレックのことが……」

 耳まで真っ赤にしたローザンテは言葉を切ると急いで部屋へと戻り、サラに母乳を与えた。
 一生懸命、お乳を飲む姿はたまらなく愛おしい。

(私もフレックを愛してるわ)

 心優しいフレック。
 自分を顧みず、二人を助けようとしてくれた。
 彼のことを考えるだけで、心臓が早鐘を打つ。

「あうあー」
「サラ……大丈夫よ」

(何があっても絶対にあなたを守ってみせるから)

 ローザンテは聖母のような微笑の裏で、冷たく燃える焔のような想いを胸に、二つの愛に自身の全てを捧げると固く誓ったのだった。


 ♢♢♢


「婚約破棄ですって!?」

 父親から告げられた言葉に、ミーティアは声を荒げた。
 
「先日、王城で婚約パーティーまでしましたのに、いきなりどうしてですの?」
「それがだな……ハーマン国王陛下の側近から聞いたのだが、ローザンテが聖女の赤ん坊を出産したらしい」
「お姉様が?」
「だからお前との婚約はなかったことにしてほしい、とのことだ」
「なぜお姉様が聖女の子どもを産んだからと言って、フィリクス王太子から婚約破棄されなければなりませんの?」

 ミーティアはあまり地頭の良い方ではなかった。
 父親はおずおずと説明する。
 
「だからな、ミーティア。ハーマン国王陛下はその……ローザンテをフィリクス王太子殿下の王太子妃にするつもりらしい」
「お姉様が王太子妃に!? そんなのあり得ませんわ!!」
 
 やっと自分が一番だと認められるはずだったのに、その座を公爵令嬢の身分を捨てた姉に奪われてしまうなんて。

 ミーティアは辛抱たまらず激昂した。
 手にしていたカップを勢いよくソーサーに置いたため、二つとも割れてしまう。
 紅茶の残りがテーブルから床へと流れ落ち、高価な絨毯を湿らせた。
 
(口うるさいお母様もいなくなったのに、これじゃ私の快適な暮らしが台無しじゃない!)

 ミーティアは前々から母親に陰で虐められていたと嘘の噂を父親や侍女たちに吹聴し、オッドリア公爵家から追い出していた。
 今頃はどこかで、馬車馬のように働いていることだろう。
 姉の侍女だったサイラーは、母親についていった。バカな女だ。

(そうよ、あいつらと違って私は美しく賢いの)

 自惚れが強いミーティアはどうすればこの状況を変えられるか、しばらく考える。

(――いいことを思いついたわ!)

 必死に自分のご機嫌取りをする父親を無視して、ミーティアは席を立つ。
 
「ミーティア、どうしたのだね?」
「お姉様へ会いに行きますわ」
「ローザンテのところへ?」
「ええ。お父様でしたら、お姉様の居場所をご存知ですわよね?」

 ミーティアは小鳥のようにちょこんと首を傾げて微笑むが、青い双眸は笑っていなかった。


 ♢♢♢


 翌日。

「ミーティア? どうしてここが――」
「大好きなお姉様のことですもの。何でも知っていますわ!」

 父親からローザンテの居場所を突き止めたミーティアは、上等な手土産を持ってフレックの家を訪問していた。
 
「あなたがフレックさんね。姉が大変お世話になっています」

 フレックの返事を待たずに、ミーティアはローザンテに抱かれたサラを見下ろすと、わざとらしく黄色い声を上げた。
 
「なんて可愛いの! まるで天使みたい!」
「サラよ。サラ、この人は私の妹のミーティア」
「素敵な名前! ねぇ、私にも抱っこさせてくださる?」
「ええ、まだ小さいからあまり激しく揺すらないでね」

 ローザンテがミーティアにサラを抱っこさせようとすると、サラがあからさまに不機嫌そうな顔をした。

「あうー」
「大丈夫よ、サラ」
「そうよ、サラちゃん。ほら、こっちにいらっしゃい」
「うー、あうあう」

 しかしサラはミーティアに抱かれるのを拒むように、首を横に振った。
 その態度にミーティアは苛々したが、表情には出さないようぐっと堪える。
 
「ごめんなさい、もしかすると眠たいのかも」
「いいのよ、気になさらないで」

 ローザンテはサラをあやすが、サラは不機嫌なままだ。
 確かに見た目は自分とよく似て可愛らしいが、子ども嫌いのミーティアからしてみれば、容姿などはどうでもよかった。

 ミーティアの目的はただ一つ。
 聖女のサラを亡き者にすることだ。
 そうすれば、フィリクス王太子殿下との婚約を破棄せずに済む。
 
(無力な赤ん坊なんて怖くもなんともないわ)

 ミーティアは機会を窺った。
 ローザンテもフレックも、こちらの思惑には全く気づいていない。
 ふと二人の関係は雇い主と労働者のはずなのに、それ以上のものがあるとミーティアは勘付く。
 
(あらぁ! お姉様ったら、今度はこの男とお盛んなのね)

 フレックの見た目は悪くない。むしろ美丈夫だ。
 細身ながらもよく引き締まった体、オリーブ色の健康的な肌。
 艶やかに流れる黒髪に、眩しく光る白い歯、整った甘い顔立ち。
 
 これで身分が高ければ完璧だったのに。
 ミーティアは嘲笑を浮かべる。

(まぁ、奪って遊ぶくらいなら暇つぶしにちょうどいいわ)

 彼女はフィリクス王太子殿下を愛してなどいない。
 次期国王となる彼の身分と外見のみを愛しているのだ。
 やがてローザンテの腕の中で、サラが微睡み始めた。
 
「やっぱり眠たかったみたい」

 ローザンテがフレックとミーティアに、小声で話しかける。
 やがてサラがことんと眠ると、ローザンテはゆりかごにそっと寝かせた。

「お茶を淹れるわ」
「僕がやるよ」
「いいのよ。ミーティアと待っててちょうだい」
「そうかい、ありがとう。何かあったら呼んでおくれ」

(ふん、なによ。私の前でいちゃついて)

 ミーティアは心の内で悪態をつく。
 サラを殺したあと、ローザンテからフレックを色仕掛けで奪い取ってやろう。
 そう考えると楽しくてしょうがなかった。
 と、玄関の扉をトントントンと叩く音がした。
 
「マーシュさん、郵便です」
「はい。ミーティアさん、ちょっと待っててもらえますか?」
「ええ、どうぞおかまいなく」

 フレックは控えめな微笑を浮かべると、玄関へと向かった。
 これはまたとないチャンスだ。
 ミーティアはゆりかごで眠るサラに近づいた。
 フレックの方を見やると郵便局員とやり取りをしており、直ぐにこちらへは戻ってこない。

(今よ!)

 ミーティアはすやすやと寝息を立てる、サラのか細い首元へと両手を伸ばす。
 柔らかな感触、温かな体温。
 普通の感性を持つ人間ならば躊躇するのだろうが、ミーティアはただただ不愉快そうに顔を歪める。

(ああやだ、気持ち悪い。さぁ、あの世へ行きなさい!)

 両手に力を込めようとした瞬間。
 サラのラピスラズリのような瞳がカッと見開かれる。
 そして赤ん坊とは思えない顔つきで、ミーティアを睨んだ。

「何よ、お前!」
「あうーっ!!」

 サラの叫びとともにキイイイイイイン! とひどい耳鳴りがして、フレックもローザンテもサラの元へと急いで駆け戻ってきた。

「サラ!!」
「何だ!?」
「ぎゃああああああああああっ!!」

 そこには目元を押さえて蹲るミーティアの姿があった。

「目がああああああああああっ!!」
「サラ!!」

 ローザンテはサラを抱き上げる。
 サラの瞳が、冬の夜空のように瞬いた。

(この女は私を締め殺そうとした)
(えっ?)
(だから相応の報いを受けた)
(ねえ、あなたはサラなの――?)
(そう、私はサラ。この器はまだ未熟だから直接、魂に語りかけている)
(ああ、サラ! 怖い思いをさせてしまってごめんなさい……!)

 ローザンテは涙を流した。

「ローザンテ、これは一体……?」
「やだぁ! 目が見えない! どうして!? ねぇったらぁ!!」
「ミーティアはサラを殺そうとした。だからサラの力によって失明してしまったの――」
「まさか、そんな……!」
「ひいいいいいいっ!!」

 二人の話を聞いていた郵便局員は、恐ろしさのあまり逃げ出した。
 
「あの郵便局員さん、普段は見かけない人ね」
「ああ、いつも来てくれるランザが風邪をひいたって言ってたけど、しきりに中の様子を窺っていたから、もしかするとハーマン国王の差し金だったかもしれない」

 ローザンテは返事をしなかった。
 郵便局員に化けたあの人物も、一歩間違えれば失明していたかもしれないのだ。

 本当にハーマン国王の差し金だったのならば、今の出来事を嘘偽りなく報告し、忠告するだろう。
 決してサラに――聖女に手を出してはならない、と。
 
「とにかくミーティアさんを医者に診せなくては」
「そうね……」

 可愛い妹のミーティア。
 自分には無いものを全て持っていたミーティア。
 それなのに、なぜ純真無垢なサラを殺そうとしたのか。
 ローザンテは悲しみと怒りで、胸が張り裂けそうだった。
 
「大丈夫かい? ローザンテ」
「ええ、大丈夫よ……」
「あうあうー」

 サラのぷくぷくとした小さな手が、ローザンテの涙を拭った。
 
「ああ、サラ……」

 ローザンテの視界が霞む。
 サラをぎゅっと抱きしめた。柔らかく、温かい。
 愛しくて嬉しくて、ローザンテは胸の奥がじんわりとした。
 

 ♢♢♢


 医者に診てもらったところ、ミーティアは視力を完全に失っていたが他は異常がなかった。
 そのため、遠く離れた修道院へと入れられることとなった。
 もちろんフィリクス王太子殿下との婚約は解消された。
 
「どうして私がこんな目にあわなきゃいけないのよ!」

 失明したにもかかわらず全く反省していないミーティアは、これから一生かけて修道院で罪を償わなければならない。
 周りの異性からちやほやされることもないし、大きく胸元の開いたドレスを着ることもないのだ。
 そのことを彼女が身をもって知るのは、もう少し経ってからのことだった。

 ミーティアによるサラ殺しの動機を知らされたローザンテは、彼女の過ちを許した。
 そうでなくとも、彼女とは二度と会うことはない。

(さようなら、ミーティア――)

 ローザンテとミーティアの父親であるオッドリア公爵は、経営していた会社が倒産し、多額の借金を背負うことになった。
 屋敷や趣味の絵画を手放したがそれでも到底足りず、鉱夫として劣悪な環境で死ぬまで働くことを余儀なくされた。
 
 サラの力を狙っていたハーマン国王は心不全で崩御し、次期国王としてフィリクス王太子殿下が就くことになった。
 妃探しはこれからだという。
 そのためトランザス王国中の年頃の娘たちが競うように着飾り、どこの街も村もちょっとしたお祭り騒ぎだった。

 ハーマン国王に仕えていた寵臣セベルは、ハーマン国王の崩御とともに音もなく姿をくらました。
 セベルは立ち回りの巧い男だ。
 どこへ行っても、のらりくらりとかわしながら生きていくだろう。


 ♢♢♢

 
「サラ、たかいたかーい」
「きゃははははははっ!」

 サラは三歳になっていた。
 今も母親のローザンテとともに、フレックの家で暮らしている。
 
「あら、パパに高い高いしてもらっていいわね」
「体調はどうだい? ローザンテ」
「ええ、平気よ」
「そうか、良かった」

 ローザンテのお腹には、新たな命が宿っていた。
 愛するフレックとの子だ。
 性別はまだ判明していない。
 
「ワンワンッ!」
「ジャック!」

 牧羊犬のジャックが、サラの元へと走って来た。
 サラは人々だけでなく動物たちからも好かれていた。
 誰かが怪我をしていたり病気を患っていたら、聖女の力で治癒することも少しずつではあるができるようになっていた。

 ミーティアの件以来、サラの怒りが爆発したことはない。
 サラも幼いなりに、感情のままに力を使うのは危険であると気づき始めているようだ。
 
「こんにちは、サラちゃん」
「あっ! おばあちゃん! サイラー!」

 ミーティアにオッドリア家を追い出された母親と、母親について行った侍女のサイラーが来訪する。

 二人が隣街の宿屋で働いていたところをサラが見つけ出し、ローザンテの魂に語りかけてくれたのだ。
 まさか再会できるなど思ってもみなかった三人は、泣きながら熱い抱擁を交わした。

 あの日、母親がお守りとして持たせてくれた紙幣のお陰で、ローザンテは牧場の近くの空き家を購入することができた。
 母親とサイラーはその家に住みながら、フレックの牧場の手伝いをして生計を立てている。

(ありがとう、サラ)
(おばあちゃんもサイラーもいいひと)
(そうね、二人ともとても優しくて尊敬すべき人よ)
(パパもママもいいひと)
(ふふ、パパもママもサラを愛しているわ)
(ママのおなかにいるあかちゃんも?)
(え?)

 懐妊をいち早く知ったのは月のものが来ないからではなく、サラの聖女としての力によってだった。
 きっとサラはお腹の子の性別も分かっているのだろう。
 けれどサラなりに気を利かせてか、それ以上は喋ろうとしなかった。
 
「今日もね、サラちゃんの大好きなスコーンを焼いてきたのよ」
「サラ、スコーンすき!」
「お嬢様、フレック様、キッチンをお借りしてもよろしいですか?」
「サイラー、私はもう公爵令嬢じゃないのよ」
「ですが私にとって大切なお嬢様には変わりありません」

 いつもと同じ受け答えが終わると、サイラーは恭しく礼をしてからお茶の用意をするために、フレックの家のキッチンへと規則正しい足取りで向かった。

 どこまでも澄み渡る青空。芽吹く新緑が眩しい。
 小鳥たちの歌うような囀りが、皆の気持ちを和ませる。

「ことりさんたち、とってもたのしいって!」
「あら、そうなの? サラちゃんは小鳥さんの言葉が分かってすごいわね」
「えへへー!」

 母親もサイラーもサラが聖女だと知らされても、サラへの態度を変えなかった。
 二人にとってサラは目に入れても痛くない孫、大切なローザンテの愛娘であるのだ。
 しばらくすると、銀のトレイを手に載せたサイラーが戻って来た。

「こちらはペパーミントティーでございます。サラお嬢様にはアップルジュースをお持ち致しました」
「わーい!」

 フレックとローザンテの二人が手作りしたバルコニーに置かれた木製のテーブルを囲み、気ままに草を食む羊たちや流れゆく雲を眺めながら、五人はペパーミントティーとスコーンをいただいた。

「おいしい!」
「まあ、良かった。今度はバナナ味のスコーンを作ってくるわね」
「やったー!」

 サラは嬉しさのあまり、大きくバンザイをした。
 するとまだ蕾だった野花が一斉に咲き、色とりどりの蝶が牧場の周囲をひらひらと舞った。

「ちょうちょさん、はなのみつがすきだって!」
「そう、私もみんなもサラちゃんのことが大好きよ」
「サラもパパやママやおばあちゃん、サイラーやおなかのあかちゃんやジャックのこと、みーんなだいすき!」

 スコーンのかけらを口元につけたサラがにこりと笑うと、お腹の子がポコッと動くのを初めて感じ、ローザンテは下腹部を優しく撫でながら聖母のように微笑んだ。


 END

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