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泣いて懇願されましても。最初に婚約破棄なさったのは、そちらでしょう?

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「フリージア、お前との婚約を破棄させてもらう!」

 王国の貴族が集まる夜会でハイネル公爵家の嫡男であり、侯爵令嬢のフリージア・レメルスの婚約者でもあるライアンが声高に宣言する。人々がざわつく中、フリージアは臆することなく訊ねた。

「ライアン様、ご理由をお聞かせいただけますか?」
「そんなの決まっているだろう! お前が地味だからだ!」

 フリージアは黒目黒髪。物静かな性格で趣味は読書に編み物、花の世話。おまけにライアンとの婚約が決まった頃から、なぜか分厚い黒縁眼鏡を掛けている。化粧っ気もない。そのため、陰で『地味令嬢』と呼ばれ貴族令嬢たちに見下されていた。

(俺の婚約者が『地味令嬢』などあり得ない!)

 美美びびしい社交界でフリージアは完全に浮いていた。自分がエスコートする相手として相応しくないと、プライドの高いライアンの苛立ちは募るばかり。ついに我慢ならなくなった彼は、男爵令嬢のアマリリス・モローと新たに婚約することを勝手に決断してしまう。

 アマリリスはフリージアとは対照的な金髪碧眼。スタイルも良く、流行に敏感でいつも派手な化粧とドレスで華やかに着飾っていた。自分好みの女を連れて歩くのは気分がいい。ライアンはますますフリージアを邪険に扱う。

「ああ、ライアン様……」

 アマリリスは子猫のように甘えた声で、ライアンにしなだれかかる。とりわけ今夜は胸元の大きく開いたドレス姿をしている彼女に、ライアンはだらしなく鼻の下を伸ばす。そんな彼の様子を気にも留めず、フリージアは朗らかに微笑んだ。

「そうでございますか。どうぞアマリリス様とお幸せに、ライアン様」

(はぁっ!?)

 取り乱すことなく言祝ぐフリージアの態度に、ライアンはひどく腹を立てた。てっきり婚約破棄を取り消してくれるよう、泣いて懇願するとばかり思っていたのだ。

「フンッ! もう少し――」
「では彼女の身は私が預かるとしよう」

 ライアンの言葉を遮って会場に現れたのは、ローレンリヒ公爵家の嫡男、エリオットだった。夜空の星々のように輝く銀髪、宝石のように煌めく翠眼すいがん、ハンサムでありながら蕩けるような甘いマスク。それでいてエリオットにはまだ婚約者がいない。何かしら思惑があって、彼が縁談を拒んでいるとの噂だ。

「きゃあっ! エリオット様よ!」
「まさかお会いできるなんて……!」

 エリオットを射止めようと狙う貴族令嬢は多かったが、社交界を嫌う彼は滅多に人前へ姿を見せることがなかった。これはまたとないチャンスとばかりに、貴族令嬢たちが我先に近づこうとした瞬間、彼の口からとんでもない台詞が発せられる。

「フリージア、ずっと前から君のことを愛していた」
「……っ!!」

 いきなりの告白に、貴族令嬢たちから悲鳴が上がる。なぜ自分ではなく、よりによってあの『地味令嬢』に? 嫉妬と侮蔑のこもった視線からフリージアを守るように、エリオットは彼女を逞しい胸元へと抱き寄せた。またしても上がる悲鳴。

(ああ、エリオット様……)

 フリージアの心臓が早鐘を打つ。彼女とエリオットは幼馴染。その事は社交界でも有名だったが、二人が互いに淡い恋心を抱いていたことまでは知られていない。

(エリオット・ローレンリヒ!)

 同じ公爵家でも、ローレンリヒは筆頭公爵家。この国で王家に次ぐ権力を持っている。対するハイネル公爵家は由緒正しい家柄ではあるものの、このところ財政状況が芳しくない。自分よりも地位と名声を持ち合わせているエリオットに、ライアンは少なからず劣等感を抱いていた。彼はここぞとばかりに、嘲笑しながら吐き捨てる。

「ハッ! そんな地味令嬢のどこがいいのだ?」
「君のような下劣な男にフリージアは渡さない」

 ライアンもなかなかの美丈夫であったが、エリオットの圧倒的な美しさの前では霞んで見えた。アマリリスもエリオットの醸し出す色香と気品に、すっかり心を奪われていた。頭に血が上ったライアンは、それにまだ気づいていない。

「地味令嬢などこちらから願い下げだ!」
「あの、ちょっとよろしいでしょうか?」

 いつもは寡黙で穏やかなフリージアが、真剣な面持ちでライアンを真っ直ぐ見据える。ライアンは妙な胸騒ぎを覚えつつも、ふんぞり返りながら口を開いた。

「なんだ?」
「わたくしからライアン様に大切なお話がございます」
「この俺に大切な話だと?」
「はい。実を申しますと、ライアン様にはよくないものが取り憑いていらっしゃいます」
「……は?」
「死霊、生霊、怪物、悪魔。どうにもライアン様はよくないものを引き寄せる体質のようでございまして」

 いきなり突拍子もないことを告げられ、ライアンは混乱する。よくないもの? 引き寄せる体質? まるで意味が分からなかった。フリージアは言葉を続ける。

「わたくしがいつも掛けているこの眼鏡は魔道具です。父方の従兄弟が特別に作ってくれたものでして、これを掛けているとよくないものが視えなくなるのです」

 フリージアはそう言い、眼鏡を外してみせた。途端に会場が水を打ったように静まり返る。普段の地味で目立たない彼女からは到底、想像もできないほど見目麗しく蠱惑的こわくてきだったからだ。

 フリージアを『地味令嬢』と蔑んでいた貴族令嬢たちは、夜会のために目一杯お洒落をした自分の容姿が、ありのままの彼女に敵わないと判るなり、悔しそうに唇を噛み締めた。

「なっ……! フリージア……?」

 ライアンもフリージアの変容に思わず目を見張る。分厚い黒縁眼鏡を掛けていた時とはまるで別人だ。もっさりとして見えた黒髪は艶やかな濡羽色ぬればいろで、ぼんやりして見えた黒い瞳は生き生きと光り輝いている。何より均整の取れた顔立ちは、女神かと見間違うほどに美麗だった。

「幼い頃は視えるのが本当に怖かった――いつも怯えて泣いてばかりでした。そんな時、エリオット様はわたくしが泣き止むまで優しく寄り添ってくださったのです」
「愛するフリージアのためなら、私はなんだってするさ」
「ありがとうございます、エリオット様――ある日、わたくしはよくないものを浄化する能力に目覚めました。それによりしばらくは平穏な日々を送っていましたが、ライアン様との婚約が決まり初顔合わせの時、わたくしは愕然としました」

 フリージアは一旦、言葉を切ると小さく息を吐き目を閉じた。その姿はまさしく可憐で、黒曜石のような目を縁取る長いまつ毛が震える様子は神秘的ですらあった。

「ライアン様の体には、おびただしい数のよくないものが取り憑いていたのです。その瞬間、わたくしは悟りました。この御方は引き寄せる体質でいらっしゃるのだと」

 視えないはずのアマリリスも、フリージアの話を聞くうちにライアンから身を離す。なんとなくではあるが、肩が重くなった気がしたのだ。

「ライアン様、最近の体調はいかがですか?」
「えっ?」

 ライアンはドキリとした。近頃、あまり体調が優れなかったのだ。季節の変わり目だからと気に留めていなかったが、フリージアの言う通りならば、今の自分にはよくないものが取り憑いている……それもたくさん……。背筋に冷たいものが走る。

(なんなんだ、一体!?)

 ライアンは肩や背中を無我夢中で振り払う。その姿は、はたから見れば滑稽だった。

「能力を持たれないライアン様に浄化することは無理ですわ。ライアン様は子どもの頃、病弱だったとお聞きしています」

 ――そうだ。自分は生まれつき体が丈夫ではなかった。すぐに風邪をひいたり体調を崩しがちだった。ベッドで横になる中、楽しそうに外で遊び回る歳の近い子どもたちを眺めては羨んでいた。

 十二歳になり、少しだけ体調のいい日が増えた。成長するにつれ、体力と免疫がついたのだろうと医者は見解を示す。フリージアとの婚約が決まったのもちょうどその頃だ。

「初めまして、僕はライアン。よろしく」
「は、はい……」
「……? フリージア、どうかした?」
「いえ、お気になさらないでください」

 十歳になったばかりのフリージアは、人形のように可愛らしい顔立ちをしていた。こちらは何もしていないのに、ひどく驚いた表情を浮かべていたのを今でもよく覚えている。

「ま、まさか……」

 そこでようやくライアンは気づき、戦慄する。フリージアと婚約してから、体調がすこぶる良くなったことを。体が重く感じた時も、フリージアと会えば不思議と軽くなっていたことを。

「はい。お察しの通り、お茶会や舞踏会でライアン様とお会いする度にわたくしはよくないものを浄化してきました。この眼鏡を掛けていたのは、多くのよくないものから自分自身を守るため。視える者は時として、この世ならざるところへ引き込まれそうになるのです。そう、亡者がひしめく地獄へと――」
「ひっ!」

 アマリリスが小さな悲鳴を上げる。ライアンも事態の重大さに顔を真っ青にしていた。

「ですが、もうこの眼鏡も必要ありませんね。ライアン様はわたくしとの婚約を解消なさったのですから」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! フリージア、先ほどの婚約破棄は取り消させてほしい」

 すがるようにフリージアを凝視するライアン。だが彼女は物柔らかながらも、はっきりとした口調で断る。

「申し訳ありませんが、それは出来かねます」
「んなっ!?」
「今日までライアン様の為に誠心誠意尽くしてきましたが、大勢の方の前で婚約破棄をなさるなど思いも寄りませんでした」
「だからそれは謝る! すまなかった!」

 ライアンはちっぽけなプライドを捨て、頭を大理石の床に押しつけ、半泣きになりながら懇願した。しかしフリージアは姿勢を正したまま、凛とした声音で諭すように話しかける。

「顔をお上げください、ライアン様。ご自身の言動には最後までしっかり責任を持っていただかなければ困ります」
「おっ、俺を見捨てないでくれ!」
「どうかお元気で――」
「フリージアッ!!」 

 豪奢で華美なシャンデリアの灯りに照らされる中、フリージアは優美な仕草で髪の毛をかき上げる。瞬間、天鵞絨ビロードのような夜空と甘く上品な香りが辺りに広がり、唖然とする会場の人々を魅了した。
 床に座り込んだまま動かないライアンを、エリオットが冷やかな眼差しで見下ろしながら追い打ちをかける。

「傲慢な君がいつかフリージアとの婚約を破棄すると踏んでいた」
「っ!!」
「だから私は他の誰とも婚約しなかったのだ。心配しなくともフリージアは私が幸せにする。君はせいぜい体調に気をつけながら生きてゆくがいい」
「くっ……!!」

 エリオットは真紅のコートを翻し、今宵一番の優雅な笑みを浮かべた。彼を諦めなければいけないと分かっていても、貴族令嬢たちは彼に見惚れずにはいられなかった。

「さあ、行こう、フリージア」
「はい、エリオット様」

 フリージアはエリオットに手を引かれ、外で待つ馬車へと乗り込む。しばらく誰も動こうとしなかったが、ライアンが居心地悪そうに立ち上がると、皆は避けるように次々と会場を後にした。


 ♢♢♢


「とてもいい天気だね」
「ええ、風が心地よいですわ」

 フリージアはエリオットと、ローレンリヒ公爵家の庭を散策していた。季節は春。色とりどりの花が咲き誇り、そこかしこから良い香りが漂ってきては鼻腔をくすぐる。

 ライアンとの婚約が正式に解消されると、フリージアはエリオットと婚約した。あれからライアンは床に臥しているという。今まで庇護ひごしてくれていたフリージアに、恩を仇で返すような仕打ちをしたのだ。自業自得だろう。彼に同情する者は誰一人としていなかった。

 アマリリスはあの後、一目散にライアンの元から逃げ出したらしい。だがライアンと濃密な時間を過ごした彼女にも、よくないものが取り憑いていた。きちんと浄化した方がいいが、放っておいても風邪をひきやすくなる程度。自身で体調管理をしっかりすれば済む話だ。

「今日は君に渡したい物があってね」
「……?」
「開けてみてくれるかい?」
「はい」

 エリオットに手渡されたのは、意匠の凝らされた小さな箱だった。蓋を開け、中身を確認したフリージアは小首を傾げる。

「眼鏡……でございますか?」
「ああ、フリージアに似合うと思って私が選んだものだ」

 あの日以来、フリージアは分厚い黒縁眼鏡を掛けていなかった。たまによくないものが視える時もあったが、かつて婚約者であったライアンに群がる数と比べれば大したことはない。もし悪さをしそうになれば、神に与えられた能力で浄化すればいいのだ。

(とても素敵な眼鏡……)

 フリージアは箱から眼鏡を取り出すと、ゆっくり掛けた。彼女の整った顔立ちによく似合う、繊細な作りの銀縁眼鏡。

「でも、こちらは伊達だて眼鏡ですよね? なぜ?」
「フリージア、眼鏡を掛けた君もすごく綺麗だ。けれど真の美しさはどうか私にだけに見せておくれ」

 エリオットが嫉妬深かったことを思い出し、フリージアは柔らかく微笑んだ。愛する人にそこまで想われ、あたたかな気持ちになる。

「……はい、エリオット様」
「フリージア、愛している」

 エリオットに見つめられ、フリージアは頬を染めながら彼の瞳を見つめ返す。木漏れ日の中、二人はそっと唇を重ね合わせた。

(わたくしもエリオット様を愛しています……)

 実ることはないと思っていた恋が叶い、フリージアはかつてない幸せに包まれる。それはエリオットも同じで、これからは何があろうと決して彼女の手を離すまいと、心に固く誓ったのだった。


 END

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